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三十七品菩提分法 四神足 Ⅱ

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兎に角こうやって、昔の人は一杯色んな項目を作ったもんだねえ。次の処、「『進神足』は、百尺竿頭驀直歩なり。」物凄い高い竿の上ですね、百尺竿頭、その高い高い、こういう竿の上で、ここにいて、足を一歩進めろって、足が竦む、それは。こっから進んだら落ちる。そういうのが分かるから、手放せない、と言う事が一つあるんだけども、道元禅師がこれに対して、「いづれのところかこれ百尺竿頭」と言っておられる。そう言う表現をしてるんだけど、じゃあ実際に百尺竿頭って、こう言われているのは如何いう場所を言うのか。如何いう処を指してるのかって皆さんに問われてます。高い竿の上の話じゃないって言ってるんです。ね。

言葉から言えば高い100mもある様な高い竿の上に自分が今居て、そっから、オイ足を一歩出して進めって、言われている様な言葉なんだけども、道元禅師はちゃんと知っておってですね。百尺竿頭っていうのは如何いう処をいうのかって、皆さんに水を向けてます。だから皆さんが如何いう処か、それを知る必要がある。寄り付くことの誰もが出来ない程高い場所って、間違いなく今でしょう。そう言う今って言う様なものでも、そこにしがみついたら、それを捉まえたら不自由になるから、進んでご覧って言うんです。手放して。

だから次にある「いわゆる不驀直不得なり。」まっすぐに行くことは出来ません。今って言うのは進む場所が無いんですね。求めて何かして今になるって言う様な開きがない、距離が無い。ポン!音がするんだってそうでしょ。聞くっていうんだけども、ポン!何するんですかね。ポン!こうやって、ポン!音を聞くっていうけど、カチッって言うだけじゃないですか。ポン!物を見るって言うんだけど、これだけじゃないですか。どこにも進む場所なんかないですよ。イキナリこうやって、見るたってこの通りの事が、その通りすぐあるんだけじゃない。エー何って、そうまで言って見なきゃわからない様な気配がない。不思議に出来てる。思いを離れてますね。

「驀直一歩はなきにあらず」でも、そういう風に本当に進むとか進まないとかって言う事の無い確かな生き様が在るんじゃないかって、こう言ってるんです。「遮裏是甚麼処在」そう言う表現。遮裏、今って言っていいですかね。遮裏。これいずれの処にかある。言葉としては今って言う事、皆さん概念として知っているんだけども、今って何処から来るんでしょう。エー、来るとこなんか、もしあったら、それ今じゃないですよね。どうかして、これから今になるったら、今じゃないですよね。今ってそういうものなんですね。「遮裏是甚麼処在」何処から来る所も無いし、何処へも行く所も無い。そういう活動体です。影も形もない、そういうものを表すのに、今と言う言葉を使ってるんですね。

だから進むとも退くともいうんですね。「説進説退。」「正当進神足時、」正当って言うのは、今の事実に本当にぶち当たっている様子です。本に当たる。本当とかって言う言葉があります。本当には、って私はよく使うんですけど、何で本当って言う様な事を言うんですかって、この前、質問された。此処に物があると、この物を説明する時に、外からこうやって説明してるのは当たらないんですね。この物を外から見て、色々言ってるだけであって、そう言うのは本当じゃない。本当って言うのはこの事ですからね。この事になると説明が要らなくなる。説明をしている間は、本当じゃないんですよ。不思議に。正当って言うのもそうです。真っ只中。真っ只中って言うのは、ご存知の様に、ズレが無いんですね。音がしてる真っ只中ってのは、あっちで音がしてこっちで聞いてるって言う様な気配は全く無い。物が見えてる時でもそうです。あっちにあってこっちで見てるって言うような気配ではない。そういう風に出来てるんですね。何もかも尽十方界、何もかも。

「随神足到也、随神足至なり。」至れり尽くせり。何回も話しますけど、今って言うのは至れり尽くせり。人が之から何かしてその様になるって気配は全く無い。そう言う風にして皆さん、今生きてるんですよ。だけど考え方は違いますよ。これを抜きにしといて、自分の理想をこう描いて、その理想がどっかにかなうものが、あるんじゃないかって、探し始めてる。かなりの方々は、そう言うものに対して、自分が宝物を握ってるのに、これを知らないで、何処にあるんだろうって、こうやって探してる。そう言う風にしてるの、愚かだって言ってます。法華経なんかにそう言うことが沢山書いてある。それ位人間は、自分自身の素晴らしい出来栄えって言うか、内容を本当に知らない。生まれてから、ズーっと自分と親しく生きてるにも拘らず、一番自分の事知らない。

四つ目の処で、思惟。思惟は思い図るという事ですかね。いろんな事が観察できる、考える事が出来る。「『思惟神足』は、一切仏祖、業識忙々、無本可拠なり。」 本当に何処からこうやって、今の様子が出て来るんでしょうかね。不思議じゃないですか。今の在り様が何処から出てくるかわからないけども、先程の様子ではない。どう言う風になってるんでしょうかね。捨てもしないのに、全部入れ替わってしまう位、すっかり。普通に入れ替わるって言うと、前の物がどこかに行って、新しいものが来るって言う風な気配なんだけど、この今の皆さんの在り様って言うのは、入れ替わるって言う様な表現では当たらない。前のものが無くなって新しいものが来るって言う様な気配で、今の様子が在るって言う人は、一人も居ませんよね。ほんとに不思議なんだ。自分の身体の様子、それから精神活動の様子でも見てください。とことんそうです。それから認識の働きでもそうでしょ。

その後へ出て来るのは、「草鞋」草履って言うんですね。「草鞋思惟あり」靴でもいいですよ。靴履いて歩いてると、靴はいてる今の在り様がずーっとある。どうするんでも無い。靴はいてると、靴はいてる様子が、今の様子がずーっと出て来ます。で、わからない人は一人もいません、どうなってるか。人に聞かなくても、ちゃーんと自分の履いてる靴の様子がわかる様になってる。

「空劫己前自己思惟あり。」 これ如何いう事を言いたいかって言うと、理屈で如何こうしなくてもわかるって言う事です。もっと簡単な例を挙げれば、一度も体験した事の無いものに触れてもですね、困らないという事です。こうやってパン!一度も聞いた事の無い事に触れても、ちゃんと、パン!音がするとわかる。一度も見た事のないものに触れても、そのものに触れるとわかる様に出来てる。空劫己前。自分が生まれる前と言って良いのでしょう。父母未生以前と言って、両親が生まれる前の自分って言っていい、そういう、前後にはそう言う言葉が沢山使われるけど。未経験のものに触れてですよ、触れたらイキナリその事がわかる様になってる。こんな不思議な動物なんですね。何回か触れたらやっとわかるんじゃないですね。

で、それらを纏めて、ここで「これをまた四如意足といふ、無躊躇なり。」ってあるんですね。躊躇無しなり。躊躇は皆さん使うから知ってるでしょう。ちょっと何か、ちょっとこうとどまる様な気配を躊躇って言うんでしょう。何か動くんですね、躊躇するって。そこに踏み留まる様な気配があるでしょう。だけど、無いよ。

この音だって、パーン!躊躇する気配なんか無い。イキナリそうなっちゃうんだもんね。物でもこうやって見せられたら、イキナリそうなる。エエッって言う様な気配はどこにも無い。ズバッとそのまま、イキナリ。それ位、如意ですね。思い通り。自分の最高に願っている通りに、これが活動する、無条件で。否応なしにそう言う風になる。それが人の本質です。

だけど考え方がそこに出てくると、考え方の方が優先するもんだから、事実なんかどうでもいい、自分の思ってる様になる事が幸せだと思ってる。そうじゃないですよ。赤いものに触れたら必ず赤くなる、見える。白いものに触れたら必ず白く見える様に出来てる。是で大満足なんでしょう。これが心底満足な世界なんでしょう。

うちにお見えになってる方が奥さんに、家に帰ってから、向かったらその通り見えるじゃないかって、そう言う話を奥さんにしたら、それがどうしたの?って言われたって。(笑い声)あなた何それは?そんな事勉強してるの、それは何?って言われたって。それ位にしか思わないですね。それちょっと説明すりゃ、すぐわかるでしょ。

赤いものに触れた時、本当に赤くその通り見えなくなったら、世の中どうなるんでしょう。錯乱状態になりますよ。何でもない事だって言うんだけど、この当たり前とおもってることが、どの位大切なことか。例えば、信号機のことを挙げれば、あそこに三色ついてる。あれがその色の通りに、もし皆が見えなかったら、あんなものつけといたって、何の役にも立ちませんよ。てんでに自分の思いでこうやって見て、自分は赤いものに触れても青だと思って行ったら、大変な事になりますよ。これちゃんと、誰が決めたんじゃなくて、青いものに触れると必ず青く、黄色のものに触れると必ず黄色になったことがわかるように出来てる。私の勝手な思いで生活するんじゃない。それ基本なんでしょ。それが無かったら、信号機、役に立たないでしょ。自分の思い通りやったら。

帳簿に数字が書いてあっても、一つ位0が多くたっていいじゃないって、書かれて御覧なさい。十桁が十一桁になって御覧なさい。この一つ0がついただけで、大変な事になりますよ。文章だってそうでしょ。てにをはが違っただけで大変な事になりますよ。どの事に触れてみても、必ずその通りになる様に出来てるんですね。人の思いとは別に。それ位厳密にルールが行われてる。それを法と言います。仏法とか法。法というものは、人が作るんじゃない。誰でも必ずその様にしかならない。

パン!ここで鳴ったのと、パン!こっちで鳴ったのと同じ様に聞こえるたって、無理なんです。パン!こっちで鳴ったものはこっちで鳴った様に、コン!こっちで鳴ったらこっちで鳴った様にしか聞こえない様になってるんですよ。

そう言うの如意と言うんですね、如意。それにお釈迦様の言葉を、道元禅師が引いておられる。「釈迦牟尼仏言、『未運而到名如意足(未だ運らさずして到るを如意足となづく)』」これからどうかしてそうなるって言うのではない、って言ってるんですね、お釈迦様は。パン!これから、何かして、そうなるんじゃない。これ一番よくわかるでしょう。そんなに上手く生活が出来る様になってる。愚痴を言わずに。易しいとか難しいとか言う事、一切言わずに。パン!こうやってそうやって、きちっとそのことが生活が出来る様になってる。その様に生きられるようになってる。誰もそうやって生きてる。だけどそっちの方を見ないで、自分の思い通りになる事の方を探すもんだから、宝物を皆捨てるじゃん。

そりゃ、あの介護する様子なんか見てればよくわかる。自分の思いが強くなって、自分の思い通りに介護出来なかったら、皆イライラしてるでしょう。病院にいくと綺麗な若い看護婦さんが、患者さんをよく面倒見てる。皆あれで救われる。で、ああいう所で、ああ言う人と結婚したらきっと幸せだと思って、結婚して、結婚するとですね、病院に居る様に、中々看護婦さん成らない、と言った話を聞いた事がありますが、面白いでしょう。何ででしょうね。自分の思いを使わないんですね、病院に居るときは。だからあんなに上手く行くんですね。ところがイザ自分の生活になると、自分の思いを中心にして生活するから、色んな所でぶつかる様になる。出来るにゃ出来るんですね、やろうと思ったら。

同じ事に触れていて、疲れる生活するのは下手な人でしょう。どっちにしても介護しなきゃならないのにさ。あ、又、又、うるさい、あんな事言ってるって。そうやって聞きながら介護するって、本当に疲れると思う。何で鶯が何回も鳴いても、又うるさいって言わずに聞くのか、どうしてこの人が同じ事を言うと、うるせーって聞くんだろうね。同じ事何回聞いても、一方は問題にならない、一方は問題になるって、如何いう事でしょう。ちょっと考えてみる必要があるんじゃないですか。

物を見たってそうでしょう。何回も見ても、アーってこうやって新緑の景色を、こうやって眺めて、邪魔になるって気配はついてないのでしょう。だけど人間がやってる、自分の思い通りでない動きを何回も何回もすると、何回言ったら分るのって言う風に扱ってる。何処が違うんでしょう。どっか勘違いしてるんでしょうね。

実際に自分の生活している様子を見ると、ただ今の活動があるだけですよ、いつも。そんなに一杯ないですよ。又、又、又、又同じ事を、何回も何回も、それはここ(頭)で勝手に作った話ですよ。こっちの本物の体で活動してる様子には、そんな事一切なしに、今の在り様だけでいつもこう生活してる。底抜け、今の在り様だけで。邪魔にしないで。そう言うの、こう見てみると面白い。

道元禅師がそこに一言つけてある。「しかあればすなはち」今、話して来た人の在り様、「ときこと」下にもある、鋭い、抜き差しならないという事でしょう。鋭いという事は。今の在り様って言うものは、錐の先の様に鋭いですね。抜き差しならない。その事をはずして生きることが出来ない程、きちっと何時でもその事だけで、こうシャッシャッとこうやって生きてます。

四角い方は「方あること、のみのはのごとし。」鑿ってこんな風に先がこうなって、これトントンって、刃がこう付いてる。それ位切れ味がいいねえ。いつも、スカッとしてる。今の在り様に、何か余分なものがくっついてどうこうするって言う様なことは一切ない。これが自分たちの本質です。

仏様が何を皆さんにこう見せたいか。各自自分の本質がそういう風に出来てるから、それを見届けて欲しいって言ってるんです。他に差し上げるものはないんですね。自分の素晴らしさを本当に知りたかったら、他所に求めたってわかるわけが無い。それ、ものの道理です。だけど人間は苦しむと、自分に向かって目を向けるって事ないですね。一番大事な素晴らしいもの持ってる自分を捨てといて、素晴らしいもの他所に求めるから無理です。

そういうこと気が付いたのは、先人としては釈迦が代表的な人でしょう。今だって知らない人は、皆他所に求めさせますよ。行ってごらんなさい。色んな所、道場に、色んな人の所へ行ってごらん。必ず、自分の今こうやって生活している事以外の処に何か本物が有る様な話になる。嘘でしょう。生きてる事自体が他所で生きてる人なんか居ないんだもん。何時だって、今生きてる様子があるだけだって。他のどっかで生きてる場所があるわけじゃない。本当に生きてる場所はこのものがこう居る所で生きてる以外に無いから、他に求めるようなものがある話は嘘でしょう。

道元善禅師だって、そう言う事で、随分人に騙されて、暫く修行が出来ずにいたんでしょう。だけど、バン!これを聞くのに何処へ行くんですか。どっか探す所があるんですか。こうやってバン!この音聞くのに、今。そんな事はないでしょう。そう言う風に修行すべきでしょう。そう言う事が「未だ運らさずして到る」って言うんでしょう。それを普通に言うと、これから今になるのではない、言うようなことでしょう。今って言うのは、これから今になる、そんな事は一度だってない。これからも無い。じゃ何処から来るかって言って、来る場所も無い。去る場所もない。そう言う展開をしてるんですね、今って。不思議ですね。

だからポピュラーなお経の中の般若心経には、不生不滅とかああるじゃないですか。生まれもしなければ、滅びもしない。今って言うものはそう言うものでしょう。増えもしなければ減りもしない。汚れも付かなければ綺麗にもならない。と言う様なことが般若心経に書いてある。



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