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三十七品菩提分法 四神足 Ⅰ

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三十七品 四神足_01_01
三十七品 四神足_01_02
三十七品 四神足_01_03
三十七品 四神足_01_04

  四神足
   一者、欲神足
   二者、心神足
   三者、進神足
   四者、思惟神足
 「『欲神足』は、図作仏の身心なり。図睡快なり、因我礼你なり。おほよそ欲神足、さらに身心の因縁あらざるなり。莫涯空の鳥飛なり。徹底水の魚行なり。
 『心神足』は、牆壁瓦礫なり。山河大地なり。条々の三界なり、赤々の椅子竹木なり。尽使得なるがゆゑに、仏祖心あり、凡聖心あり。草木心あり、変化心あり。尽心は心神足なり。
 『進神足』は、百尺竿頭驀直歩なり。いづれのところかこれ百尺竿頭。いはゆる不驀直不得なり。驀直一歩はなきにあらず、遮裏是甚麼処在、説進説退。正当進神足時、尽十方界、随神足到也、随神足至なり。
 『思惟神足』は、一切仏祖、業識忙々、無本可拠なり。身思惟あり、心思惟あり、識思惟あり。草鞋思惟あり、空劫己前自己思惟あり。これをまた四如意足といふ、無躊躇なり。
 釈迦牟尼仏言、『未運而到名如意足(未だ運らさずして到るを如意足となづく)』しかあればすなはち、ときこと、きりのくちのごとし。方あること、のみのはのごとし。」

 三十七菩提分法って言って、三十七のお題目が、いわゆる命題があって、それについて随時述べられておられる。今日のところ、四神足。四つの神足です。終わりの方にもあった様に、如意足って書いてあるね。これを又如意足と言う。「未だ運らさずして到るを如意足となづく」 これらが大体、これ神足の処を読んだ時の、分かり易い言葉なんでしょうね。
 巡らさずして到るって、どういうことかと言ったらいつもやるんですけど、 パン! こうやって、音でも、音がしてる所までパン!思いを馳せなくても、イキナリ聞こえるということでしょうね。そういうの如意足っと言う。こうパン! 出た音を、どこも遜色なく、そのままこうやってパン! 頂ける様に出来てる。そう言う風なの如意足と言う。で、身体全体の働きを見ても、皆、そう言う風に出来てる。この様な事が、大体ここら辺の言いたいことなんですね。道元禅師特有の言い回しが出るから、かえって難しいのかも知れない。
 「ひとつには、図作仏の身心なり。」なんて言う風になってる。仏様がどういうものだろうかって言って、頭の中で描いて、そう言うものをこう求める様な気配があるのですかね。図作仏。「図睡快なり」 快く眠ると言う事ですかな。それから「因我礼你なり。」ってありますけれども、我によって汝を礼す。敬うって言う事なんかを見た場合、自分だけで敬うって言う様なことは起きて来ませんね。必ず相手が居て行われることでしょ。
 「おほよそ欲神足、さらに身心の因縁あらざるなり。」人間の考えている様な事とは違うと、こう言う事ですね。向うで蛙か何か知らんけど、鳴くと、こっちに居て聞こえるって言う、それ人間の理解なんですね。けど、そう言う事とは違うんですね。違うって事は、そう言う理解をする前に聞えるんですね。向うで鳴いて、こっちで鳴いたら聞えるって言う風な理解の前に。ギャッギャッって言ったら、そう言う風に、イキナリそうなるんですね。そう言うなことを、こういう処で、、更に身心の因縁にあらざるなりって、こういう表現をする。皆さんが考えているのとは違うって言ってる。
 人がこの世に生まれた時に、全ての環境と知らない内に一緒になった。別々に生まれて来る人はない。生まれるとイキナリその全ての環境と一緒に生活する様に出来てる。誰も教えないし、誰も作った訳じゃない。そういう処見ると、さらに身心の因縁にあらざるなりと言う事がよくわかる。
 鳴いたって言うのが理解できないと、聞こえないって言う事ではないですね。エエッ、不思議ですね。鳴いているとも何とも思わないんだけど、グワッグワッって。その様子を見ると、未だ巡らさずしてって言う事ですね。此方で何にもしないのに、そう言う事ちゃーんと行われてる、もう既に。こうやって目を開けると、全ての物がこうなるんですね。見ようと思う前に、皆見えてる。既にある。不思議ですね。そう言う所なんかでも、「莫涯空の鳥飛なり。徹底水の魚行なり。」もうこれで終わりって言う事はないですね。際限がないですね、ずーっと。だから幸せに生きられるでしょう。無限の活動が出来る様になってる。
 それがどの様な悲惨な状況の中に自分が置かれてもですよ。このものの有り様と言うものはそう言う風になってる。けども、考え方の強い人はですね、この素晴らしい働きを見失って、自分の考え方で身動きが取れなくなって、苦しむんですね。だから仏道っていうのは、今回のこう言う災害なんかの時でも、本当に役に立つと思う、自分を知ると。人はもともと、他人によってどうこうして生きてる動物じゃないですね。これ、本来自分の力で皆生きてるはずなんだけど、何か、ジーっとしちゃうんですね。一人で自由に活動が出来なくなる。そう言う時に、静かに時間を取って、余分な事がなくなるとですね、それだけでも楽になるね。
 寝れる人は幸せですね。この位狭い所だったって、何分でもいいですけど、寝れる様な力があったら、良いね、楽になる。広い所でなきゃ寝れない訳じゃない。つらいけどね、少しつらいけども。それから、外に出ればかなり広い場所が有って、自由に歩ける、ですね。こうやって本当に空を飛ぶ鳥がですね、どの位空を飛んででもですね、もう空を飛びきっちゃって、これ以上飛べないって言う様な、そう言う空間じゃないですね。
 水の中を泳いでる魚でもそう。家も最近、またメダカを飼ってるんですが、こんなちっちゃな水槽の中に入れて、卵も産んでる。我々からすれば、この小さな水鉢の中で、一日中泳ぎまわって飽きないかなって思うじゃないですか。あれらは平気でその中で、一日中尽きることなく、チョロチョロチョロチョロ、いいですね。人間も本当はそうなってるのでしょう。だけど、この考え方って言うのは、本当に不自由な身体にさせるんですね。こんな所は嫌だとか、こんなんじゃ生活できないとか。
 「『心神足』は、牆壁瓦礫なり。」 神足のことを禅定って訳しているんですね。下の方で見ると。禅定って言う訳だと、何か特殊な事だけども、心が安らぐっていう風に読むと、非常に楽でしょう。特別な事じゃない。心がどうしたら安らぐのか。ああでもない、こうでもないって言う思いが無いときは、心がかなり安らいでるんでしょう。そういうつまらない思いを離れて、今実際どうなっているかに、こうやって親しく自分が居てみると、豊かな生き方をしてるってことが、気が付くはずです。如意足って言う。思い通りと言っていい位、満足できる状況にある。
 次のでもそうですね、「心神足」。それに対し「牆壁瓦礫」 ってある。何の事かわからない位不思議な言葉を、そこにピタっとこう持ってくる。皆さんがこうやって、垣根とか壁とか瓦とか、何か土で作った瀬戸物の様な、そういうもの色んな物、そこに挙げてあるけど、一々その物に触れたら、その物に触れた様に必ずなると言う事でしょう。
 新芽に触れると、新芽に触れた様に必ずなる。だから、あそこから歩いて来て、この新緑の中を歩いて来ると、どうした訳じゃないけども、枯葉の中を歩くのとは違うんですね。不思議ですね。気分悪くなる人はほとんど居ない。あそこから歩いてきて。もうそう出来てるんですね。必ずその通りになるんですね。
 それは一般的には、向こうにある風景を見てるって思ってる位の受け取り方しかしない人が多い。本当は自分の今の活動してる様子なんです、全身が。緑に触れると、カメレオンみたいにこの身体が全部緑になる位、変わるんだよね。あやめの花に触れると、あやめの花に触れた様に、すっと変わってくんですね。
 そういうな事、此処に書いてある。山河大地もそう。普通は向こうに山があったり、川があったりって、大地があったりって、それ、そういう風にして生活してる殆どの人が。だけど、山があったり、川があったり、大地があったりするって事は、全部今の自分の在り様なんですね、皆いつでも。詳しく見てみれば、よくわかる。先ず、他の人がやってる事は無いですね。此処にこういう障子があるにしたって、障子が認識できるものは、必ず一人一人、自分の今の在り様でしょう。この身心を借りて、障子がこうやって、これ自分の眼の働きって言っていいでしょう、此処に障子があるのは。ただ単に障子がこうあるんじゃなくて、目の働きが障子をこうやってあらしめる。そういうことですね、これ。
 「条々の三界なり」 仏教用語で三界って、欲界、色界、無色界って、人の心の在り様で、一応三つ位分けるのでしょう。しつこい人とか、サラッとしてる人とか、何も持たないとかって言う位に分けるんでしょう。欲界って言うのは、しつこい人ですね。(フッフッフッ)色界って言うのは、ただその物がその物としてある位、無色界になると、その事がそんなに、あるとか無いとか問題にならずに生活出来る位、サラッとしてる。そういう風にして、欲界、色界、無色界って言うの立ててある。その位の事です。
 「赤々の椅子竹木なり。」 赤々は赤裸々で良いでしょう。真っ赤な嘘とかって使うんですね、赤いって。何も付けてない。その儘の時に、赤いと言う字使います。赤ちゃんて言うのは、生まれた儘って、一糸纏わず、汚れが一切付いてないって言う様な事。赤いって言うのは、そういう風に使う。赤々。椅子でも良いし、竹でも木でもいいんだけど、テーブルでも座布団でもいいんだけど、本当にその事がその通りある、と言う風に、そう言う風に私達は、悉く手当たり次第そのものを自分の生命として、今使ってる。
 だけど、此処の頭は、各自面白い頭でねえ、此処は円通寺さんで自分の家じゃないって決めるんですね。自分の今生きてる場所なんだけど。そう言う風に決めると、ここの道場の使い方が変わってくる。だけども本当に自分が、今ここに生きてる場所として戴いてるって言う事があると、ここを大事にしない人はいない。大事にしないとまずいです。自分の本当に生きてることを、自分で大事にしない人は最低ですよね、最悪の人ですね。何時何処にいても、この身心が有る場所が自分の生きてる場所だから。もっと言ったら、終焉の地なんだね。いつでもそこが。死に場所です。生きてると思ってるから、生きてる場だけ使うんだけど、本当に死に場所ですよ。そこに如何いう風に、最後終われるかって言う事、何時でもそう。ここ、これが自分の死に場所ですよ、何時も。
 「仏祖心あり、凡聖心あり。」 そこに、そう言う事によって人の在り様が変わるんでしょう。同じ事を使っていて、同じものに触れていて、気がつく人とつかない人では、同じ事に触れていても違うんだものしょうがないね。「草木心あり」草や木、草木の心って言うのは、人間の様に思慮分別に渡らないんだろうね。だけども、根っこがこう色んな所へ伸びていく。肥料のある所や水のある所へ伸びていく。上の方も芽がこうやって、蔓なんかこうやって巻きついて伸びていく。あたかも意志が有るが如くに、不思議なことですね。一本の木を見ると、相当な葉っぱがついているんだけど、どの葉っぱの先までもちゃんと水分が行き渡るように吸い上げている。すごいなあと思う。それが行き渡らなくなると、その葉っぱはポロッと枯れて落ちる。
 「変化心あり」変わりづめ変わってると言っていいでしょうね。滞ったためしがない。ちょっと午前中も他所にいたんだけども。事実というものは、本当に不思議なもんですね。事実っていうのは間違いなくあるんだけど、何処にも留めておくことが出来ない。不思議なものですね。事実って言うのは絶対に掴んで留めて置くことが出来ない。これだけ進んだ、技術がすすんで、ビデオとか色んな物で、こう映像が取れたり、音声が取れたりするんだけど、あれは事実を取ったんじゃないね。写真ですからね、皆。写真て本物じゃないでしょ、知ってる通り。事実は留まらないですよね、あんな風に。だからさっき会った人でも、今度会うと全然違う。
 さっきも話が出ておったんですけど、先程までは元気だったって言う様な人が、ほんの少しの間にコロッと変わってしまう、変化のもの凄く大きなことですね。だけど、自分自身のこう様子をみても、先程の生き方をしてる人は誰も居ない。先程の生き方をしてる人は誰もいない。本当に、いつも今の在り様だけですね、生きてるの。で、事実というのはなくならないんだけども、取って置けない。ね。真実と言うのは取っておっけない。風がサーっと吹いたって、その様子に触れて、そう言う事が体験出来るんだけど、その風が吹いて風に触れた様子ってのは、取っとく事が出来ない。要らん事なんですね。取っとかなくても良いように出来てる。取っといたら困るのでしょう。変化心て、そういう風に出来てる。
 「尽心は心神足なり。」尽心。全ての在り様ってのはそういう風に出来てる。もうちょっと言えば、向こうとこっちという風な境がなく、一緒にひとつの球のように動いてるって言う事です。その証拠には、今という時間を別々に生きた人は一人も居ない。これから先もそうですね。今というものと別々に生きる人は、一人も居ない。それが人が誰しもが戴いている宝物でしょう。平等に戴いている。欠ける事の無い、ちゃんと住む場所がある、今と言う。それだけで十分なんでしょう。これだけ広い世界があるんだけども、自分の住む場所は、必ずここだけですよ。これで十分です。是だけの広さがあれば、ここだけで十分。何処行ったって、ここだけで住んでるんでしょう。

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