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三十七品菩提分法 四正断 Ⅲ

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「滅は滅を跳出透脱するを滅とす。」不思議な表現ですね。本当にこう言う事が、人の様子としてあるんでしょう。滅は滅を跳出透脱すると言う事が。何処にもくっつかないんですね。その時その事が行われただけで、後にも先にも何処にも無い。それは振り返って見て下さい。今日まで生きて来た様子を見て下さい。何処にも、そうやってずーっと生きて来たんだけど、今のこうやって生きている様子の中に、過去何十年のものを、こうやって引っさげて生きてる人は居ない。残らない様に出来てるからでしょう。

だけど、この(頭)不思議なんですよね。ここら辺かここら辺か知りませんが、人間に記憶能力とか再生能力って言うのが有るもんだから、これが心意識と言われる、心と言われる様な表現で伝わって来ているものでしょう。摩訶不思議ですね。感情もその内の一つなんでしょう。

色んなものが混ざり合うと、そこに科学反応を起こして特殊なものが発生するって言う表現のほうが分かりやすいでしょう。単独でいる場合には何でもないんだけど、混ぜると大変な事になる。その混ぜ方もですね、同じものをこやって混ぜるにしても、どちらを先にこうやって入れるかによって、全く違う反応が起きるって言う様な事もあるでしょう。塩酸なんかもそうでしょう。台所の洗剤なんかでもそうでしょう。混ぜると大変な事になる洗剤があるでしょう。単独だったらきれいに洗えるんだけど。そう言うの情報として皆さん知ってると思う。

その一つ一つの中に問題があるんじゃないんだけども、混ぜると全く違う現象が起きるんですよね。それで取り乱すのでしょう。その時に私達に一番支えになるのは、この事実と言うものでしょう。苦しくなってどうしょうもない時はですね、此の事実に学んだらいい。

お母さん達と勉強する事があるんだけども、もう20年も昔に拒食症になって、10kgを割った様な子供を持ったお母さんがいた。どうする事もできないから、親は苦しむねえ、変わってあげたい位。それでもどうすることも出来ない。そう言う時にですね、事実というものは人を救うんですね。思いの中で生きたら人は救われないね。気がどうかなっちゃう。ふっと思いを離れて、今の事実にこうやって触れてみると、子供にさわると温かみがある。それだけで救われるのですね。面白いですね。

そうやって、今、20年位経って、もういい年になる。30位になる。この頃はお菓子を焼いたりなんかして、ピアノを弾いたりして、まだ一人で社会に出て生活費が稼げるまでにはなってないけど、まあお母さんとしては一安心ですね。一旦拒食症になると、そんなに長い年月がかからないと、元の様には戻って来ないって、大変なことですね。だけど事実というものは本当に人を救いますよ。

それから次の三つ目の処、「『未生善令生』」ここ短いね、ここちょっとしか書いてない。未生善をば生ぜしむいふは、お父さんお母さんがこの世に生まれない前の在り方に学ぶと言うんですね。それから、朕兆以前、この世が未だ姿形を現さない前に、まあ学ぶと言うんでしょうね。明挙(みんこ)って。そういう時がどうなってるか。それどっか遠い話かって言うと、今こうやって、私達が居る時に、何もしないでこうやって居てみる時です。此方の方から、自分から何も仕掛けていない。何処かへ何かを探し求める、そう言う事一切しないで、こうやって居てみる時、そうやって過ごす事が、未だ生ぜざる善を生ぜしむると言う事になる。そうやって過ごしてると、善いものがそこに必ず出て来る。不思議ですね。それ代表的なのは坐禅です。坐って何をするわけじゃない。本当にそのままこうやって居てみる。自分の方から一切何もしないで。そういう時の過ごし方です。威音王以前もそうですね。

透明な水晶の玉がそこに置いてある様なもので、何もしないんだけど、その回りで起こる諸現象が、そのまま水晶の様子を変えていく、って言ったら分かり易いかしら。色も形も、桜の花が咲くと、水晶が桜の花の色に変わる、雨が降ってくると雨にぬれた様になる。不思議です。そうやって過ごすんです。すると善い事が生まれる。まあこういうな事がここに書いてある。

それから、既に生じた、已生ですよ。已生の善をば、已に善い事が行われている。それをもっと伸ばしていく、増やしていく。「『已生善令増長』は、しるべし、已生善令生といわず、令増長するなり。」善を生ぜしむとは言わない。善を増長すると言う。増して、増す長くする。増やすと言う意味でしょう、増長。今やってる善い事をそのまま続けて行くと増えていく、とこう言う事でしょう。そりゃもう当たり前の話でしょう。

「自見明星訖、更教他見明星(自ら明星を見ること訖りて、更に他をし明星を見せしむ)なり。」私が明けの明星を見た様に、あなたもやって御覧なさい。そうすると私が見た様に同じ様にきっとなりますよって、お釈迦様がすすめたんですね、今。今日も色々話をした。見たものだけて、こやって、本当に自分の思いを添えずに、こうやって正しくその通りにこうやって見るだけで居てごらん。そうすると人は苦しまないよって、体験した者が、皆さん方にそうやって伝えてる。それを聞いた人がよしって言ってやってみると、増えていくでしょう。あ、本当だって、やってみたら、それそう言う事です。

「眼晴作明星なり。」景色をこうやって、皆さん眺める事があると思いますが。どこが違うかって言うと、同じ景色にこうやって触れているんだけど、どこか勘違いしてる処がある。それは、向こうのものを自分が今見てる、って言う風な人が多いからでしょう。見えてるって言う事は、このものの今の生きてる活動なんですよね。向こうの事じゃなくて、見えてること自体が今生きてる証拠なんです。このもの生きてる活動してる証拠なんです。

音が聞こえるって言う事は、このものが活動して生きてる証拠なんです。向こうの音を聞くんじゃないんです。ご飯たべた味が分かるって言う、このものが今生きてる証拠なんです。ご飯の味と言うんだけども、自分の生活してる外に、今ご飯の味がしているのではないね。そこら辺が皆さんががもう一つ勉強してほしい処でしょう。

それをこう眼晴の明星となるというんですね。「眼晴作明星」眼晴は眼ですね。眼が金星になると言ってます。向こうにある物をこっちの私が触れても、それが見えるとか言う様な範囲じゃないんですね。いきなり自分の血肉なんですね、その事が。桜を見てる時に、桜を外して人生は無いのですよ。その今、桜にこうやって触れて、桜が見えてる事が、皆さんの人生そのものなんです。そう言う響きですね。

その次のやつは厄介なのがあるね。「胡乱後三十年、不曾闕塩醋(胡乱後三十年、曾って塩と醋とを闕)」て言う事ですかね。悟りを開いてから後三十年、是も故事がある。馬祖と言う人との間に交わされた故事がある。後ろの方に補注に出てる。487ページ。皆さんの無いかも知れない。ちょっと読んでみる。

南嶽大慧禅師、馬大師の化を江西に開くに、師衆に問うて曰く、「道一衆の為に法を説くや否や」衆曰く「已に衆の為に法を説ける」師曰く、「総に箇の消息を通じ来ることを見ず」

南嶽大慧禅師の下に馬祖道一と言う人がお弟子さんでいて、お悟りを開いて後を継いだ一人です。南嶽慧讓さんの。その人がお悟りを継いだ後、一般の方々にその教えを広めようとして会場を設定したんですね。その時にお師匠さんの南嶽がですね、そこに来ている人達に尋ねた。あの、あなた、あそこの馬祖道一の所に行ったかって言う様な事で、「道一衆の為に法を説くや否や」あの馬祖道一っていう人は、あなた方の為に教えを説いているかどうかって聞いております。

そしたら、そこに行った事のある人は、確かにあの人は教えを説いていますって言った。そしたらその南嶽、師匠さんがですね、「総に箇の消息を通じ来ること見ず」あれが本当にどう言う事を言ってるか全体象がよくわからないから、一つ私が聞き方を教えるから実験して、あれがどう言う事を言うか聞き取って、そしてどう言う事を言ったか、私のとこへ帰ってきて伝えてくれ、とこう言う事ですね。

で、どう言う風な事をやったかって言うとですね、「一僧を遣し去りて曰く」「彼が上堂の時をまちて」、馬祖道一が説法する時を待ってですね、前にずーっと進んで行ったら、「作麼生と問うべし、伊が道底の言語記し将ち来れ」作麼生と言っただけで、相手がどんな事を返して寄こすか、どう言う事を言ったか、ちゃんと耳に聞き留めて、私の処へ来たら、どう言ったか伝えてほしいって、一人のお坊さんに試験をするのですね。

自分の弟子の道一、馬祖道一って言う人が、どう言う説法をしてるか、どういう風な境涯、心境にいるか言う事を、師匠が調べようとして、一人のお坊さんにそう言う試験の仕方を教えて、それを実行させる。そしたら、ここで引かれているような事を言われるんですね。

馬祖曰く、「胡乱後三十年、不曾闕塩醋(胡乱後三十年、曾って塩と醋とを闕)」こう言う風に言ったんですね。それを帰って来た人から聞いて、あれもしっかりした内容になってるね、って言って絶賛をしております、師匠が。内容を見たらわかりますねえ。かって塩と酢とを欠かずと言う事は何不自由なく生きております、という意味でいいでしょうか。あれから後、あなたの処で修行して悟りを開いてから、もう30年にもなるんだけども、あれ以来本当に何不自由なくこうやって居る事が出来ますって。それは凄いことでしょう。エー、それを聞いて師匠は許した。

要するに、悟りを開いた後ですね、その悟りの内容をずーっと30年片時も休まずに、ずーっと実践してるって言う事でしょう。それだから、そこに大勢の人が修行に来て、学びに来た時に、何時どの様な人が来ても正しい教えを聞くことが出来る。これが時々になるんだとですね、気に入った時だけ話をして、気に入らん時はやらないとですね、うまく折り合いが付いた人は聞くことが出来るけど、そうでない人は行っても、なんだこんな程度かって言う風になってしまうね。

お医者さんで、もし例えを上げたらですね、今日は診て貰えたけれども、明日は診て貰えないてな事になるんでしょう。ねえ。一命に関わりますよね。だけど医者は、必ず行ったらきちっと患者さんに対応して、それを所見を出して対応するのでしょう、何時でも。それだから皆さん方が信頼するのでしょう。まあ、というのに近いですね。

「たとえば増長するゆえに已生するなり」その様にやってれば、広がって行くに違いない。たった一人の力でもそうでしょう。お釈迦様さんが悟りを開いて45年、亡くなるまで説法をした。その事がこうやって三千年になんなんとする今日ですよ、日本に色んな人を通して伝わってきて、こう言う事を、今聞く事が出来る。途中で、皆放棄されたら、こう言う事は今、続きませんよ。凄いことですね。最初たった一人の人が築いた事ですよ。

今だって、広い世界中で、たった一人の人の行為が世の中を救う様な現象が起きてるでしょう。インターネットみたいなものを使うから、一気に世界中に映像が流れて、いい意味で正しいことが伝わって、国が入れ替わることもあるでしょう、間違った政治をしてる人が。昔だったら到底考えられない、抹殺されて。今は凄いですね。誰の口も塞ぐことが出来ない。だけどインターネット等は悪用すべきではない。ね。基本的にそうです。悪用すべき事ではない。善を増長するために使うのが常套手段でしょう。そう言う事だけは基本的に置かないと大変なことになるね。

この故に谷が深ければ柄杓の柄が長くなると書いてある。面白い表現でしょう。谷が深ければ、そこに谷川に流れている水を汲む時にですね、柄杓の柄が長くないと汲めないと、こう言う事でしょう。ね。まあ下まで降りていけば別でしょうけど。

「只為有所以来(只有るが為に所以に来る)なり。」その様に活動する様に出来ているでしょう。バン!音は聞こえたままで、必ずどうもしないのに無くなる様に出来てる。そうやって生きてると、善いと言う事はずーっと広がるんでしょう。それ知らないと、音が止んだ後の事を何時までも取上げて、くよくよしなきゃならない様な生活が始まる。

これ高齢の社会に段々なって行くから、看護の問題が沢山社会では取上げられますが、看護する時に相手の様子をこうやって見た時に、看護する方が参っちゃうね、殆ど。それは自分の思いが強いから、自分の思い通りにならないとイライラするんですね。何回言ったらわかるんだ、さっきも言ったじゃないか、こんなことも出来ないのかって親に言う。そりゃ元気でちゃんとしてた頃には、そう言う話をしたら一回でわかったから、それが年が行って、言ってもわからなくなると情けなくなる。自分の親なのに。何でこんな事がわからないんだって。それが年が行ったり、病気をしたって言う事なんでしょう。

だのに、そう言う風に理解が出来ないから、やっぱり自分の正当性を主張して、どうしても、そう言う風な見方や聞き方や触れ合い方しか出来ない。こうした時、正師についてやって、こう言う師匠の所で勉強すると、その今触れている様子だけで、こうやって居れるようになる。楽になります。実際に今触れてる以外に、本当は無いのでしょう。だけど、今触れている様子に、こう今触れている様子の中に、どんどんどんどん自分でつまらないもの増長するんですよ。まあ、良い事ならいいですよ。プラス思考と言うのでしょう。正直に言えばこれもあやまちを起こすのでしょう。ありもしない事をどんどんどんどん増やして、そうして苦しんでいるのでしょう。

また、あんな事をって言うんだけど、聞いてごらん、またあんな事をとはいわないんだよ。今言ってることがただ聞こえるだけです。ここ(頭)はさっきも昨日の事も皆知ってるもんだから、何回言っても本当にもう、いやんなっちゃうって。いやんなちゃうのはこっちの方です。向こうじゃない、ね。そう言う様な事がこうやってある。ただあるが為にゆえにきたるなり。活動はそう言う風に、本来持ってる活動そのまますれば、善い事が必ず増長する様になってる。

この前も100歳を超えた人の所行って話をした。元気な方ですよね、100歳の。97歳の時に、転んで脊椎をちょっと痛めて、ベットに寝たきりになって、もうこれで起きられなくなって人生終わるのかなって、本人も言ってましだけど、今年行ったらお彼岸に買い物に行って来たって。で、その娘さん(70過ぎてる)方が居て、私がお母さんはどう言う風にして、100歳を超える迄過ごして来たのかねーってって聞いたら、考えたってしょうがないもんねって、そう言ってるんですね。考えてもしょうがないって言ってですね、考えないで居れる人なんて殆ど居ない。だけどこのお祖母ちゃんはですね、考えても、考えたってどうにもならないって言う事を知ってるから、考えてもどうにもならないってのが分かったら、それ以上自分で追求しないで来た。そのうち何とかなると。

じゃどの位100年の人生で色んな事があるかったら、それは想像を絶する位色んな体験があって、人から見たら苦しいとか大変だったと思う様な事があるのに、苦もなくそれを体験しながら、今日まで生きてる。不思議ですね。考えてもどうしようもない事は考えないんです。じゃ何もしないのかって言うと、考えないで居るといろんなことが出来る様になると。

このお祖母ちゃんは日本刺繍をして殆どの人生を過ごして来た。90になってオーストラリア大使館での要請があって、刺繍の手ほどきをされた。超一流の刺繍ですよ。私も見に行ったけど、こんなとこ(手もとで)刺繍生活してるんですよね、毎日、こんな事で。トンボの羽なんかこうやって刺繍したり、蜘蛛の糸を刺繍したり、兎に角色々面白い、見ると。よくもまあこんなことが、こんなって思う位丁寧な仕事してる。一針一針縫っただけ。ねえ。大体糸を十分の一位にこう解いて、細い糸にして、それを使ってこう刺繍するんですね。一本の糸。だから一センチ位のとこ刺繍するのに、どの位時間がかかるか分からない。そんな人生ですよ。

世界旅行をするわけでもなんでもない。見る人によっては、それを見て凄い世界を見るんですね。これだけ見せられて、ワーって。そういう、人に感動を与えるだけの力持ってる、針一本で。エー、どれが大きいのですかね。どれが凄いのですかね。世界中駆け巡ってるのと。この手もとのわずかな場所で生活するのと。まあ面白いなあ。


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