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三十七品菩提分法 四正断 Ⅱ

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 更に、こんな事も道元禅師が言うのですかね。「不生といふは、昨日説定法、今日説不定法なり。簡単な事を言えば、昨日は、はいそれで結構ですよって言ってですね、今日になったら、いやあれは違ってるよって、そう言う事ですね。そうすると聞いてる人はですね、だって昨日は良いって言ったじゃない、何で今日は悪いって言うんだって、そう言う風になるんでしょうね、一般の人は常識的に。
 だけども、皆さん方の持ってる自分の耳に聞いてみると、昨日は良い、今日は駄目だと言った時に、ただそう言う風に聞こえるだけであって、皆さんの問題にするような事は起きません。どこで問題が起きるかって言ったら、昨日良いって言ったのに、今日なんで悪いって言うんだって言う風に聞くからです。これは先程の言葉で言えばですね、未来来たりて現在となると言う事です。そう言う事は無いんでしょう。
 昨日は良いって今日は悪いって言った時に、昨日は良いって言ったのに、何で今日は悪いって言うんだって言って、昨日良いって言ったんだ今日も良いって言う筈じゃないかって言う風にしたら、未来来たりて現在となるのでしょう。これ、もっとリアルな事云えば、昨日借りたお金ですね、返さんでも良いってことになるわけですね。その位ひどい事になるのでしょう。そんな事あってはならないのでしょう。
 眼だってそうでしょ。昨日咲いてた桜、今日咲いてる桜、見て御覧なさい。皆さんの眼はどうなるかって、昨日見た桜は昨日見た桜、今日見た桜は今日見た桜ですよ。絶対にそれが混乱してですね、入れ替わったりする事も無し、ね。良いじゃないですか。そう言う風に出来てますよ。昨日は咲いていなかったのに今日咲いてるって言うかもしれないけど。別に昨日の事を今日持ってくる訳じゃない。眼は今咲いてる様子、今触れてる様子しか絶対に見ない、人間の眼って。これだけ長い人生生きてきてもですね、人間の眼はどういう風にものを見てるかったら、今向かったものだけが見える。他のものは一切、目に映らない。不思議でしょう。
 この前取って来た写真だってどうやって見るかと言ったら、今此処にあるから、それに触れるとそのことが見える。考え方の上ではこの前取った写真だと言うのがわかるから、この前取った写真を見てるって思うだけの話であって、実際に見てるのは、今ここにある写真を見てるだけなんですけども、そう言う風に人間は誤解する点があるね。
 一般的には、この話は通用するんでしょ。「これ、この前取った写真です」って言って、ああそうだって、皆通用している。内容はこの前の写真を見てるんじゃないんです。今、この前取った写真を、今此処で見てるんですね。面倒くさいね、説明すると。説明すると物凄い面倒臭いんだけど。そう言う風にして、何処からも余分な枝葉が分かれて来ない様になってる、未生です。ただその事がその事として本当にあるだけで、一切そこから枝葉が出て来ない。根も葉も。根も葉もないと言われますよね。根も葉もつけるのは皆さんです。無いのに。
 二つには、「『已生悪令滅』といふは、已生は尽生なり、尽生なりとは半生なり、半生なりとは此生なり。」まあ少しずつ読んでみます。今すでにあると言う事、已生。抜き差しならない、今既にあることを已生と言います。私達が生きてるって言う事は、例えば人生50年としたら、その中の今生きてるのは、これ位の処って理解する人も居る。50年の人生の中で何時間て言う風に、その中の何時間の中の今、そういう風に短い時間だって言う風に、理解する人もいるけどもね。
 已生は尽生なりってあるけども、今こうやって生きてる事が人の様子としては全部です。だから皆さん方が生活してる時、今触れた時、今触れてる事によって、その人が全部評価される。何時でもそうです。今触れた処で勝負される。この前まではいい人であろうがですね、今やってる事が悪いと、一気にそういう評価になる。そりゃこういう事があるからでしょう。生きてるって事は、今生きてる事が全部なんです。他には無いんです。だけども、24時間のうちのわずかな時間、円通寺で過ごしてるって、そう言う風に人間は理解しやすいもんですね。
 そんな事はない。次にもある様に、「尽生なりとは半生なり」全てっていうのは、今こうしてる事だって言うんです。では、そう言うのを理解するために、お月さまの様子をこうやって眺めると、満月の時は月が全部見えるのかって言うと、三日月の日は三日月で全て、半月の日は半月で全部なんですね。それでいいでしょう。丸く見えると、全部見たって思うんですよね、人間て。不思議ですね。だけど、半分しか見えてない時、半月がみえるのか、全部でしょう。違いますか。見えている月と、頭に描いている丸い月を比べて、半分しか見えてないと言うのでしょう。
 (手をこうやって見せて)裏側もあるでしょうって、こうやって。半分しか見えないんだけど。で、これで全部でしょう、今見えてるのは。こうやってても、これで全部でしょう、と言う事を言ってるんですね。手には裏と表があると理解してますから、中々承知出来ないのです。
 さらに、道元禅師は「半生なりとは此生なり。」と言っている様に、やっぱり最終的には、これしかないじゃないかって言ってるんです。今ここやってる事しか。全部全部って言うけど。他に何があるかって言ってます。自分の生きる様子。ここでこうやってる以外に無いのでしょう、今。
 「此生は被生礙なり、」何か邪魔されるものが有るかって言うと、無い。今の様子って言いますけど、今の時間帯の中に他の時間帯が一切入って来ない。どんな事をしても、今の時間帯の中に他の時間帯は、これから先も入って来ない。時間てそう言う風に出来てますね。ものってそう言う風に出来てます。
 頭の中は違いますよ。頭の中は色んなものが、過去のものも入れられるし、未来のものもつぎ込まれるから、何がなんだかわからなくなる位、この中に有ると思い込ませる。だけど、眼をちゃんと開いて、自分の今の在り様に、こうやって目を向けてみると、コンコン、こうやって音を一つ聞いてたって、他のものがこの音の所に、この音以外のものなんて、コン、この音の中に入って来れないんですね。
 こうやって指一本見せた時に、こうやった時に、他の物が見える様にはならないのですね。不思議ですね。これ、皆が毎日生活してる自分の在り様ですよ。だから、こう言う道元禅師の様な方が出て、こう言う事をきちっと、こう示されているものを、文章を通して、もう一回こうやって触れてみる事によって、私達が自分の事に気づくんでしょう。言われてはじめて気づく。それ位、自分のことに関して無関心ですね。本当にはどう言う風になってるか知らない。だから知らないために、見たものや聞いたもので腹が立つんですね。問題が起きるんですね。
 見たものや聞いたものが幾らあっても、その時そういう活動するだけで、後にも先にも絶対尾を引かない。全身そうですよ。全身、そう言う活動をするんですね。コロコロ、コロコロ色んなものに触れると、色んな変化をしながら、どこにも留まらない程自由に活動してます。だから、あんな苦しかった生活の中に居ても、たちどころにこうやって、すっきりして生きられるんでしょう。それ、皆さん方の底抜け凄い力です。
 「跳出生之頂寧なり。」人間の頭で考えてる様な事と事実は、これ位差があると言う事でしょう。実物の方はこんなに、皆さんが予想だにもしないほど素晴らしい活動してる。それを知らないで、頭の中でつまらない事を取上げて、問題にして生きてる。いつも話の途中で一言位言ってるんですけど、人が悩んだり苦しんだりするのは、もう本当に、いつにですよ、その人が自分の中で色んな事を思ってるだけですよ。事実と言うものはね、人を苦しめないんだよ、本当に。
 手術をして腹を切って痛いと言う事があってもですね。痛いと言う事が人を苦しめないんですね。痛いだけです。皆さんその痛いのは人が苦しんでると思うかもしれないけど、苦しむって言う事はそう言う事じゃないですね。ああじゃないか、こうじゃないかって言う様な事で、人が苦しんでるんですね。お腹が痛くても、痛いなーって思う様なのは、こうやってお隣のものが見える。いいじゃない、腹が痛くても、音が、鶯が鳴くとちゃーんと聞こえる。一つも苦しまない様に出来てる。面白いですよ。病気をした人に、何人か会って、この前も会って、そう言う話が沢山された。それちょっと紹介して休憩しますか。
 胆管癌になった方が居てですね、まあそれが発見されて、こう言う癌ですよ、これは非常に今手術が難しい癌だから、かかるとですね大体何割位の人が亡くなる、手術して3年位で何割位亡くなるって、そう言う話ずーっと、この人に説明するわけですね。手術前に。凄いですね。手術中にも終わるかも知れないって話をもうリアルに、どんどん、医者って凄いですね。家族を呼んで聞かせて。じゃやりますかって、はいお願いしますって、中々言われない位、厳しい話なんでしょうね。
 それでもその方、それを聞いて、お願いしますって言って、手術して、もう3年経った。その3年の間に、又3回位手術をしてます。で病院に居て手術をした後、入院してるんだけど、その間でもですね、つくづく言ってましたね。事実と言うのは、本当におっしゃる通り、自分を苦しめないもんですね。実感ですね。ただ今の在り様があるだけ。今の在り様があるって事は、眼には物が見え、耳には音が聞こえ、口には味がするという事でしょう。身体には色んな感触があると言う事でしょう。普段と何も変わらない。そう言う、豊かな生活が今出来ている、って言う様な事ですね。
 病気をすると、この身体が自分のものでないって言うのがよくわかる。要は、自分の思いでどうする事も出来ない。そう言う体験が無いと、これを自分のものだと思って、自分の思い通りに動かそうとして、動かないとイライラするんですね。ところが、自分のものでない、自分の思い通りにならないものなんだという事を、理解できる様になると、人は変わる。大きくなりますね。度量が一変に変わるんです。許せる人にもなる、色んな事が。受け入れられる。だから出来たら、ちょっと位病気をしたらいいかもしれない。一病息災っていいますから。別に身体をいじめなくても、病気しますからね。色んな病気がある。まあ病気した人と触れると、色んなそう言う面白い体験談が聞けますね。
 で、その方の奥さんは、ご主人が入院してる間、毎日病院に通ってくるんだけども、戸をあけてニコッとして入ってくる、ニコッとして。でどんな話をするかって言ったら、いつもと全く変わりが無い、普段の取りとめもない話をして、それで帰っていく。面白い奥さんですね。凄い楽になるって言ってますよ、ご主人。説明を聞いたから、何時どうなるかわからない様な病気ですよ、手術しても。それで入院してるんだけど、そうやって毎日来る時に、そんなこと一切苦にしないで、体が、こういう事を実践してるんでしょう。思いが一杯の人は戸を開けられないんです。どんな顔をしているかって、何て声をかけて良いかって、本当に大変です。毎日行くのに。帰る時だって、さっと帰れないじゃないですか。まあそう言うな事が身近なとこにある事です。
 そこでですね「これをして滅ならしむるといふは、調達生身入地獄なり、調達生身得授記なり。」これは故事があって、お釈迦様の在世の頃に、提婆達多と言う、従兄弟位になる人ですかね、その方がお釈迦様の事を妬ましく思って、殺すまでは行かないんだけども、例えば通りかかった所を上から石を落として怪我をさせたどか、まあ色んな故事が残されてます。その罪によって、地獄に落ちたって言う話があるんですよね。まあ地獄って、苦しんだという事でしょうか。そう言う事がこう引き合いに出されてるんだけども。
 一言で言うと、滅ぼすと言う時にですね、どういう風にしたら滅ぶかって言うと、一緒になるとですね、不思議なんですね、争う気持ちがなくなるんですね。病気でもそうです。治りたい一心で、早く何とかしようと思うよりも、病気と仲良くすることがですね、絶妙な過ごし方なんですね。悪人と言われる人を救うのにですよ、どうやったら救えるかったら、その人の所に近づいて行って一緒に生活をしない限りはですね、その人を救ってあげること出来ませんねえ。溺れてる人だってそうでしょ。手を差し伸べて初めて救えるんですね。離れていては無理なんですね。そう言う処にも生身ですよ。生身ってあります、なまみです。なまみでその中に入っていく。
 身近な事でもそうでしょ。人が苦しんでいる時に、所謂同情するというのとは、もうちょっと意味が違うと思います。兎に角一緒になる時間持たないと、心開いてくる事は恐らく無い。心が開ける、相手の心が開けて全部さらけ出せる様になれば、大概の問題は解消できますね。不思議ですね。これ信頼感が沸くからでしょう。そう言うためには一緒にならないと無理です。
 此の食べ物の味はどんな味がするって言った時に、食べずに味わいを知る事は無理です。食べないと、此の食べ物がどんな味がするか、やっぱりわからないです。腐るとどういう風になるかも、食べて皆、体験したんだ。これ位、これ食べると、下痢をするとか、腹痛が起きるとか言う様なことを、皆体験したんだよね。ひどい時には、それによって亡くなった人も実際に居るでしょう。で、これは猛毒だって言う事になったのでしょう。兎に角そうやって悪を滅ばすって言うのに、一緒にならないと、その悪い事を本当に根絶やしにする力が出て来ない。遠くの方でこっちの方から色々言ってるだけじゃ無理。犬の遠吠えみたいなもんです。
 「調達生身得授記なり。」必ず自分の本質的な事が、どんな状況の中でも失われていないから、気づけばその場で人は救われる様になってる。教材が、材料が悪いから、環境、そう言うものが悪いから救われないのじゃないのですね。貧乏であろうが豊かであろうが関係ない。学問があろうが無かろうが関係ない。若かろうが年行っていようが、必ず自分自身の内容ですから、気がつきさえすれば、そこで救われる様になってることがこの授記といわれます。あなたも間違いなく悟れますよ、仏様になれますよ、幸せな人になれますよって言う事を、釈迦が皆さんに授けたって言うんですね、授記。
 で、何故そう言う事が言えるかって言うと、今話してる様に最初から人の本質は、そう言う風に飛びぬけて素晴らしい出来栄えをしてるんです。ただ自分の事でありながら、気づかない。気づかないとですね、あっても無い様なものなんですね。自分の家にお薬があってもですね、気がつかなければ、飲むことは無いでしょう。それを飲んだら治るって言われてるんだけれども、自分の家に有っても気がつかないと。だから仏道の修行って言われますけど。だから必ず仏道の修行というのは、別に専門の人に用があるんじゃなくて、自分自身の事だから、自分自身が自分自身の本質に目覚めるって言う事が、自分を救う唯一の道ですからね、生きているうちに。やってほしいですね。
 次に「生身入驢胎」ってありますが、どんな所でもこの生身で入って行くと言う事でしょう。人間以外のとこですね。驢胎って。ロバとか言う様な時に使うんですか。自分の子供だから救う、他所の子だから見てみぬ振りって言う様なこともあるのでしょうけど、そう言う時にこうやって、生身で何処へでも入っていける力ほしいですね。此の頭の中が自分で一線を引いてですね、不自由にさせるんですね。本当は救えるのに。それ、色んな事であると思います。
 「生身作仏なり。」この身体、生きてるこの身体で、本当にそうやって素晴らしい働きをする。「かくのごとく道理を拈来して、」こう言う在り方を取上げてですよ、「『令滅』の宗旨を参学すべきなり。」既にそこに出てきた悪を滅ばすという時に、どう言う風にして、その悪を滅ぼすかって言う様な事を、こうやって勉強してほしい。


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