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三十七品菩提分法・七等覚支 Ⅰ

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択法覚支
択法・精進覚支
精進覚支
喜覚支
喜覚支2



一者、拓法覚支 
二者、精進覚支
三者、喜覚支
四者、除覚支   
五者、捨覚支
六者、定覚支
七者、念覚支


「択法覚支」は毫釐有差、天地懸隔なり。このゆえに、至道不難易、唯要自揀択《唯自ら揀択せんことを要す》のみなり。「毫釐有差」一番目の択法覚支。これはこの言葉は、普勧坐禅儀などにも引かれているのでしょう。
「毫釐有差、天地懸隔なり。このゆえに、至道不難易、唯要自揀択《唯自ら揀択せんことを要す》のみなり」好き嫌い、えり好みするな、と言っております。これ三祖様の言葉ですか。

修行をして行く、お悟りを開く。等覚。七つの等覚。七等覚。どの位の事を、毫釐も差有ればって言う様な事、言うのかしら。教えられて分かると言う事がま先ず挙げられますね。教えられてわかるって言う事でしょ。隔たりが出来たって言う事でしょう。もともとそう言う生活をちゃんとしているにも拘らず、教えられたからああなるほどそうだって思って、気が付く。気がついただけ隔たりがあるのでしょう。

気がついたもんだから、喜ぶでしょう。喜ぶって言う事はよさそうなんだけども、本来はそんな喜憂、喜びや憂いって言うもの、持たないものでしょう。それが一番穏やかなんでしょう。天地はるかに隔たりますよ。だから、悟りと言う様な事も取上げられるは、悟るとなんか人が変わった様になる。本来ちゃんとしていたものに気がついただけですよね。だから穏やかであって当たり前なんですよね。だけど、今迄気がつかなかったもんだから、気がつくと、喜ぶんだよね。それを披けらしたりして騒ぐもんだから、何か凄いように思うんだけど、本当はもっとおとなしいものでしょうね。道に至るのに難しい事はない。難易、易しいとか難しいとかって言う事は無い。

こういう事を示されても、わかりにくいんだろうけど、こうやって、バシン!(机を打つ)こうやって見ると,よくわかるでしょう。バシン!(机を打つ)これを聞くのにですよ、易しいとか難しいとかバシン!(机を打つ)言わないんですよね。ただ音が響いている通り、こうやって居てみるとですよ。揀択、選り好みをせずに、バシン!(机を打つ)こうやって居てみると、この通りになるんじゃないですか。バシン!(机を打つ)これが、日常生活の、人間のあらゆる会話です。バシン!(机を打つ)

ところが、人間の会話はこの音と少し、皆さん方受け取り方が違うようです。バシン!(机を打つ)会話になるとですね、ただ聞いてるだけじゃ役に立たないって、皆思うじゃないですか。バシン!(机を打つ)何を言わんとしてるのか、内容がわからなきゃ聞いても意味が無いって思ってる。ところが、バシン!(机を打つ)ただ聞いてると何を言ってるのかわかる様になってるんですね。

何故ただ聞いてると分かる様になるかって言うと、余分なものを一切そこにつけずに、相手が言ってる通りに入って来るからです。あれがレコードする時にですよ、相手が喋ってるのをレコードする時に、私達が聞くようにですね、あの人、あんな事言ってるけど、こうじゃないかとか、ああじゃないかとかって言う様なものが一緒に録音されてテープが出来たらですね、今度かけて聞いた時に、なんだろうと思うんでしょう。そんな風には入らないんですよ、録音て。本当に自分の考え方(見解をつけず)はもう一切無しに、相手が喋ってる通りの事だけが、その通り録音できる様になってる。

この様に皆さんも聞いたら、何回聞いてもはっきりするんでしょう。ところが、こう言う聞き方を殆どしてないんだよね。それはもう体験上、皆さんよく分かるでしょう。それは人を見たりするのですよね。過去に出遭った事のあるその人達の思いを、そこに皆引き出して、そう言うものを並べて聞くから。そう言う事を兎に角しないんです。揀択、選り好み、選り嫌いをしない。これが達磨さんから三代目の鑑智僧燦禅師の残されたお悟りの境涯を唱ったお言葉の冒頭にある。仏法の真髄なんです、これ。

これが一番目の終わりだもんね、道元禅師。択法覚支。こうやって選り好みを離れてみると、真実の様子がよーく分かるって言ってるんですね。好き嫌いをしないって大変な事でしょう、皆さん、生活の中で。目が皆さんの持ってる目が、物を見る時好き嫌いをしたら、如何いう事になるんですかね。あのへんで、転ぶ人がたくさん出て来る。耳も好き嫌いをしないからいいんですよね。本当にこの身体は好き嫌いをしない様に生活してるんですよ。考えも好き嫌いをしていないのに、考えが考えに騙されるんです。自分を中心にして自分の気に入る様な事を考えるもんだから。

「精進覚支」は、不曾攙奪行市なり。自買自売、ともに定価あり、知貴あり。屈己推人《己を屈して人を推す》に相似なりといへども通身撲不砕なり。一転語を自売ることいまだやまざるに、一転心を自買する商客に相逢す。驢事未了、馬事到来なり。


二番目に行きます。「精進覚支」「不曾攙奪行市なり」って読むんですかね。奪ったり、何だろ。町を歩いている時に色んなものに出会った時に、それを自分の思いを中心にして如何こうする様な気配無しで、歩いてみるといいですね。知らない場所に行って散策をする、或いは景色を愛ずる時に、本当にただ、そこの今の有り様だけに、こうやって触れている、そう言う様なこう生活してみると、いいと思うのね。

「自買自売」本当に「自買自売」って言うけども、自ら売り自ら買うって言うけども、何回も同じ様な事を申し上げるけども、このものの活動以外にないんだものしょうがないよね。あの人があんな事言ってる、あれがあんな事やってるって言う様な事でも、皆「自買自売」でしょう。自らの様子でしょう。そう言う風に見たり、そう言う風に聞いたり思ったり、誰がやってるかったら、向こうじゃない。全部このものの今の働きですよね。

それだのに、あの人があんな事言ってるって思うと、自分がやってる事だとは思ってない。何故か向こうの人がそう言う事言ってるっていう風に聞いてるんです。本当に自分が今、その通りの音声に触れて、その通りの音声を自分が今聞いてると思わないのね。人の事の様にこう思わされると言う処に、もう一度見てみる必要があるんでしょう。

「ともに定価あり、知貴あり」どうやって値段つけるのかね。定価あり。一番はっきりしてるのは、そのことがそのことであるって言う値、値段は一番はっきりしてるでしょう。幾らだとは言わないですよ、そのことがそのことであるって言う値段は。ものすごくはっきりしてますよね。「知貴あり」その事ことがその事であるって言う事がどれ位尊い事か。かけがえの無い命って言う表現があるね。他に比べるものの無いものの在り方、それがこう言う知貴でしょう。他のものにとって変える事の出来ない、皆そのものに、そのものに価値があるのでしょう。それで十分でしょうね。

「屈己推人《己を屈して人を推す》に相似なりといへども通身撲不砕なり。」己を屈して人を推す、これも先ほど触れた様に、何か自他の関係がある様に、こう見えるんだけども、実際にはやってみるとよく分かる通り、このものの自活動だけですよねえ。一日中、各自自分、このものの自活動しているだけです。そっから一歩も出ない。だから、人に叩かれて壊れる様な気配のものは無い。本当にうまく出来てる。

「一転語を自売ることいまだやまざるに、一転心を自買する商客に相逢す。」一転語って言葉ひとつでですね、自分の迷いや苦しみや、そう言うものがすっかりこう取れて、すっきりする様な、そう言うものを一転語といいますね、言葉。翠巌と言う人は、毎日自分で、「翠巌!」って言って、「ハーイ」って言って返事をして生活した人です。いいでしょう。「しっかりしてるか」って自分で問いかけて、「ハイ」って返事して、大丈夫ですって、そうやって生活した人。そう言う人もいる。皆さん方もその位の事はやったらいいじゃん。

「驢事未了、馬事到来なり。」ものの推移って言うものはそうでしょう。例えば家なんかでも、母さんと朝の連続テレビ小説、じゃない、朝ドラ、ああいうの月曜日から土曜日まであるから見てる。時間があるとみてる。でも面白い事にですね、人が来たり、色々な用事が出来ると、そんな事にかまっていれないから対応する。何か見なれかった様に思うじゃないですか。その時間に。でも次の日見るのに何も支障も無い。エー、一回のドラマが見れなくてもですよ。

皆さんだってそうでしょ。これが全部終わらなきゃ次の仕事できないと思ってるかも知れないけど、そんな事は無いでしょ。次の仕事が始まると、途中でも、それで次の事がちゃんと出来る様になってるでしょ。だけど、人間の考え方ってのは強烈だから、一応一日の日程を組んで、何時から何時までこう言う事をしますって言って、厳格な人はその通り、こうやらないと気がすまない。で何割出きたか、盛んにやってますけど、あまり効果は無いね。要らん事だとおもう。

現実の生活の中では、そんな決めたこと中心に生活してたら、役に立たないよ。思いもよらない事が次から次へ発生するんだもん。ちゃんとそれについて行ける様になってるじゃない、その変化に。だけど、こっちがきちっとしたもの持ってると、なんか、こっちを崩されたくないもんだから、そっちの変化についていかないんだよね。これ災害の時、如何するんですか。エー、教えられたマニュアルが此処にあってですね、避難する時に、こうなったらあそこへ行くんです、と言って、目の前が大変な事になってる所、わざわざそっちへ行きますか。それは現状に従って変化するのが一番自然なんでしょう。そう言う風な事も、こうやって勉強するのでしょう。精進をするって言うんだけども、精進覚。

思いが強いと、人間は何となく二重生活してる様な気になるんですよ。今やってる事をやりながら、気になる事があるのよ。どうしても。それは絶対精進出来ませんよ。純粋に物事に向かえない。茶碗ひとつ洗いながらでも、他の事を考えてる。それは茶碗を洗うわずかな時間だけど、茶碗を本当に洗ってるだけだとすっきりするんだよ。何であんな事になるんかね。だけども茶碗洗ってる時に、考える力が有って、他の事が出来るもんだから、色々事やった方が能率がいいとか効率がいいとも思うかから、色んな事やるんだけども、心此処にあらず。ほんと面白いね。だからやり終わった時、自分が何してたか知らないじゃない。

庭で草取りさせても、面白い人が居てね、猫の様にですね、そこでくるくるくるくる回る人がいる。草取りながら、此処に並んで、こう向こうへ、取ったら前へ進めばいいだけなんだけども、ここでくるくるくるくる回って、自分の足の下に草を踏みつけて見えない様にしている、草取って。だから終わったと思って前へ進むと取り残しがある。面白いね。こういうのも、「驢事未了、馬事到来なり。」中々これ味のある句でしょう。

「喜覚支」は、老婆心切血滴々なり。大悲千手眼、遮莫太多端。臘雪梅花先漏泄、来春消息大家寒《大悲千手眼、さもあらばあれ、はなはだ多端なり。臘雪の梅花先づ漏泄す、来春の消息大家寒し》なり。しかもかくのごとくなりといへども、活鱍鱍、笑呵呵なり。

「喜覚支」「老婆心切血滴々なり」とあります。お年を召したお母さん方がの在り様に、老婆心と言う事が言われますね。お節介とは言いませんが、非常に色んな事を気にかけてくれる。今、そう言う人も少なくなって来た。下手な事言うとうるさいと言われるものだから、中々人を心配してくれるお年寄も減ってきた。あそこにいい人がいるんだけどって言う様な事を、昔の人は人に勧めたの。それで、しり込みしてる人でも、機縁ができて結婚したりする様なこともあった。

或いは職業なんか探してる場所でも、何かこの頃家にいるけど、どうしてるの、イヤ仕事が無くて、あ、そういえばあそこで何かこの前、あんな事言ってたよ、行ってみたらって、兎に角そうやって、情報を色々知っていてですね、良かれと思う事を勧めてくれる。やるかやらないかはその人です。別に強制するわけじゃありません。老婆心切てのは。それだからいいんですよね。あれがお節介で、その通り、どうしても私の言う通りがもって、言う風になったら,うるさくてしょうがない。それはちょっと行き過ぎです。そうじゃない。本当にただ情報をそこに提供して促してくれる。そう言うのが老婆心でしょう。見て見ぬふりは出来ない言う位、いつも我が事の様に、人の事が大事にされてる。そう言うのがこの老婆心の様子でしょう。

「大悲千手眼、遮莫太多端。臘雪梅花先漏泄、来春消息大家寒《大悲千手眼、さもあらばあれ、はなはだ多端なり。臘雪の梅花先づ漏泄す、来春の消息大家寒し》なり。」こんな句があげてあります。千手千眼と言う観音様ですね。大悲千手眼。異様な観音様の様に聞こえるけれども、これが皆さん方の本来の活動を、時間をずーっと並べてその時々の目の働きを挙げれば、まあ千位じゃ終わらない。手の動きだって、千本位じゃ終わらない位、一日の中では色んな、この手がですね、活動してる。そう言う事を表した観音様なんだよ。だから観音様というのは、皆さん方の素晴らしさを表している、象徴している仏様ですよ。とりも直さず自分自身のことです。

「さもあらばあれ、はなはだ多端なり。」本当に何をどうしてるのかわからない位、色んな事、こうやってますね。その中で、十二月ですかね、「臘雪、」雪の降り積もる中で、梅の花が先ず花を開く、「漏泄す。」花が開くと咲いた事が現れる。 「来春の消息大家寒し。」まだ外気も冷えているが、もう春が近づいてくるんだなあって言う様な事でしょうね。

「しかもかくのごとくなりといへども、活鱍鱍、笑呵呵なり。」一々、もう生き生きとした働きをしてる。生活と言う熟字を見ると、生き活きと書いてあるねえ。ところが、生活、生き生きしてない生活の人結構いる。腐った鯛の様に生活してる人が居る。でも腐っても鯛だからいいかも知れない。魚が釣りあげられると、そこで、ピンピン跳ねる様な、活きのいい状況ですかね。「活鱍鱍。」採りたての様子って言うんでしょうかね、何時でも。初物って言う表現もあります。生涯の中で、一回しか出会わない初物。そういうものを味わって行くのが生活と言う事でしょう。

今日もまたご飯か、今日もまた味噌汁か。イチロー選手は毎朝カレーを食べると言うけども、今日もカレーか。そうじゃない。本当にその時初めて、そのものに触れる。これ本当にそうでしょう。昨日の事を今日やる人はいませんよ。似た様な事はやるかも知れない、それは一応言っときますが、似た様な事をやってるかも知れないけど、内容は全く違う。昨日の事をやってる訳じゃない。全部今はじめて取上げる事です。そう言う処を見ると、もう、活鱍鱍ってのがよくわかる。生き生きしてる。

皆さんだって初めて出会うって言う時には、心が躍るのでしょう。予想をはるかに超えるのでしょう。それ位面白いのでしょう。だから喜ぶと言う字が書いてある。「喜覚支」喜覚支って読むのかね、喜び。又、又って言う風なものの見方になると、人間は段々つまらなくなってくるね、本当に。あれは人を台無しにすることばですよね。又、又、段々しょげてくる、力が出ない。ほら初めてでしょうって言って出されたら、驚きと感動と、ねえ年を取らない。そういうものの触れ方があるじゃないですか。目を輝かしていれるような触れ方が出来るじゃないですか。

子供を見るにしてもそう。家の子、またーあんな事をしてる、そういう見方しかしてない様な育て方したら、子供はのびのび育たないよね。芽を摘んじゃうよね、子供の伸び行く新芽を。無限に伸びていく能力を、皆そうやって摘んでしまうじゃないですか、それじゃ。

「笑呵呵、」声を上げて、大きな声をあげて、腹の底から笑いが出て来る。腹の底から笑える様な生き方っていいですね。今まで生きて来た中で、腹を抱えて、本当に笑う様な事に、どれ位人は出会っているのでしょうか。一度も、もし無いとしたら、淋しいですよ。エー。一度も。本当に腹を抱えて笑う。そんな出会いは無いですか。自分のこの素晴らしさにもし出会ったら、そりゃ人は腹を抱えて笑うでしょうねえ。何-んだ今迄一緒にずーっと過ごして来たのに、自分のこんな素晴らしさがある事を知らなくてって、自分の愚かさに腹を抱えて笑うかも知れないね。まあ色々ありますね。じゃ丁度いいところですね。この辺で。

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