FC2ブログ

正法眼蔵を学ぶ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

三十七品菩提分法 四正断 Ⅰ

音声はこちら ↓

三十七品 四正断__01_01
三十七品 四正断__01_02
三十七品 四正断__01_03
三十七品 四正断__01_04
三十七品 四正断__01_05






四正断 あるいは四正勤と称ず

一者、未生悪令不生(未生の悪をば不生ならしむ)

二者、已生悪令滅(已生の悪をば滅ならしむ)

三者、未生善令生(未生の善をば生ぜしむ)

四者、已生善令増長(已生の善をば増長せしむ)


「未生悪令不生」といふは、悪の称、かならずしも定まれる形段なし。たゞ地にしたがひ、界によりて立称しきたれり。

しかあれども、未生をして不生ならしむるを仏法と称じ、正伝しきたれり。外道の解には、これ未萌我を根本とせりといふ。

仏法はかくのごとくなるべからず。しばらく問取すべし、悪未生のとき、いづれのところにかある。

もし未来にありといはば、ながくこれ断滅見の外道なり。もし未来きたりて現在となるといはば、仏法の談にあらず、

三世混乱しぬべし。三世混乱せば諸法混乱すべし、諸法混乱せば実相混乱すべし、実相混乱せば唯仏与仏混乱すべし。

かるがゆゑに、未来はのちに現在となるといはざるなり。

さらに問取すべし、「未生悪」とは、なにを称ずべきぞ、たれかこれを知取免見取せる。

もし知取見取することあらば、未生時あり、非未生時あらん。もししかあらば、未生法と称ずべからず、已滅の法と称じつべし。

外道および小乗声聞等に学せずして、「未生悪令不生」の参学すべきなり。弥天の積悪、これを未生悪と称ず、不生悪なり。

不生といふは、昨日説定法、今日説不定法なり。



未だ生ぜざる時、悪と言う表現自体が、限定されてこうだって言う様なものは中々見当たらないと言うのですね。

それは皆さんも知っている様にですね、時によっては、時代によっては、それが悪いと言われていた事でも、時が変わって、

時代が替わったりすると、それが見直されて、良い事になる事もある。逆の事もあります。

中々善悪と言う物は、決め難いと言う事でしょう。それはそれで、その通りだと思います。


「ただ地に従い界によりて立称すべきなり、」とありますから、その土地柄とか、その場所とか、習慣とか、

色んな人間の世界の中で、標準になってるものを以って、それは良いとか悪いとか、一応定めてあると、こういう事ですね。

食事なんかでも、お隣の大陸の方には、お腹が一杯になったら、そこら辺に、ピッピッってやって、吐き出すような国があります。

汚いな、と日本では思うけど、その国では、もうこれ以上食べられない位沢山頂きました、って言うご挨拶の様ですね。

そういう国もある。だから、エッっと思うかも知れませんね。そう言うの身近な事で色々あります。


ま、それ等はそれとしてですね、「未生をして不生ならしむるを仏法と称じ、正伝しきたれり。」

これについて色々述べて行く訳ですね。

音が聞こえない時、音が未生、生まれない時、音が聞こえない時、そう言う一例を以って、こう触れていくとよく分かると思う。

音がしてない時に、人間は問題にするものが無い。もう少し事を具体的化して喋れば、相手から入って来る言葉が無い時に、

その人の言葉が入って来ない時に、何を言ってるんだって言う様な事には、ならないのでしょうね。

入って来ない、喋ってないから入って来ない。

その時はどういう風になるかったら、そのままで、此処にある様に「未生悪令不生」とありますが、

相手から、相手が喋ってないから、相手が喋る事で問題が起きる事はない、良いでしょう。


質問あり。

被害者にとっては?

被害者にとってって言うんだけど、被害者って言う感覚だって、決められないでしょ。

自分の中に何か設定してるものがあって、それに違反する様な行為があると、不条理だと言って、

皆さん腹を立てたり色々するのでしょう。

自分の中に設定の無い時に、ゴーンってぶつかった時、ただ痛いってそう言う事があるだけで、済んでしまうでしょう。

不思議ですね。普通だったら腹が立つかもしれないけれど、自分の中に相手を認めていないで、現象だけがおきた場合には、

それだけで済む力を持ってる。そう言うのも面白いでしょ。


だけど、嫌な人から言われるのと、好きな人から言われるのでは、同じ事でもどうして結果が変わるかって言う事を見た時に、

悪って言うのは決めづらいんですね。皆さんだって、嫌だなあって言うんだけど、好きな人から言われるとそうでもない。

嫌な人から言われると、凄い抵抗がある。じゃ、その好きだとか嫌いだとか言う事をどう言う風に決めたかって言ったら、

自分の中に何かあるのでしょうね、決める標準が。

だからその自分が決める、人に対しての、この人いい人だとか、悪い人だとかって決めてるんだけど、他の人に聞いてみると、

私が決めてるのと違う評価になっている。これ位難しいんですね、善悪って。だからそれ以上ここでは言及しない。

それでもっと本質的な事を、道元禅師が話してるんですね。


質問あり。音が、「未生をして、不生ならしむる、」と言うのは?

まだ生じないんでしょう。不生だから出て来ないんでしょう。音がしない時音が出ないんでしょう。聞こえないでしょう。

それを言うんです。

聞こえないから問題が発生しないことが?

発生しないでしょう。それでいいでしょう。

聞けばする?

そう。


もう少し具体的な、皆さん方の日常の生活の中で取り上げてみるとですね、朝でがけに、何か一言言われた事が、

気に入らない言葉をかけられた時にですね、どういう風に皆さん生活してるかと言うと、此処にある様に、喋った時には

聞こえるんですよね、音だから。喋ってない時には聞こえないんですよね。それが本来なんです。

だけど、今喋ってないのに、朝喋られた事が、一日中問題になるって、これは間違ってないかと、こういってるんです。

おかしいんじゃないか。具体的にはそう言う事ですね。


仏法ってそう言う風に出来てる。喋っている時にだけ喋っている事が聞こえ、喋り終わると聞こえなくなる。

そう言う風な様子、在り方を誰しもが本当に、基本的にやってるんだけども、自分のそう言う過ごし方をしている事に、

気がついてない。殆どの人は、頭にカチンと来たら、その言葉がどっかに残ってる様にして生きてる。

そして、それを相手にして一日中、仕事しながらでも、暇があると思い出しては、何かぐずぐず言ってるのが、

道からかなり逸れてると言う事でしょう。こうした正しい在り方をずーっと伝えてきたのが仏法です。。


音がした時に聞こえるだけじゃ詰まらないじゃない、と思うかもしれないけど、音がした時だけ聞こえるからいいんでしょう。

これが次の音を聞く時に、前の音が残ってたら、「コン!コン!コン!コン!」厄介でしょうがない。

そんな人誰も居ないんだよね。


いつでも「コン!」音がしたら、その通りスパーっと入ってくれる、聞こえる。

音がしてないものは一切入って来ないよ。この身体、この通りです。そう言う風に生活してれば、本当に問題ないでしょう。

それだけと言うんだけども、今、ガラガラって音がしたら、あれは何だとかって、そう言う風にして自分の中で、

音がしてない事を問題にするんです。


そこでですね、外道と言われる、道から外れてる人の理解の仕方が述べてあって、これによって、

今話してる様な事がどれ位正しいかって言う事を、きちっと道元禅師が述べられてますね。


道から外れてる人達の理解の仕方の一つにはですよ、「これ未萌我を根本とせりといふ」

どう言う事を言ってるかと言うと、音がした時に、喋った時に聞こえたんだけども、喋り終わってからも、聞こえてないんだけども、

さっき喋ったことはある、ってそう言う風に言うんですね。

さっき見たものは、今見えないけれどもあるって、そう言う風に理解するんですね。自分の上で、こうやって涅槃図がこうある、

触れると涅槃図が見える。障子の方に向かうと障子が見えるって言う風になってるので、

障子を見てる時、涅槃図は見えないんだけども、涅槃図はある。そう言う風に理解するんですね。


それは目の上から言ったら間違いでしょう。見えてないんでしょう。実際に見えてないのに、

さっき見えた物が無くなってないって言う風に理解してるんですね。じゃ目に聞いたら、さっき見た涅槃図なんか何処にも無い。

だけど間違ったものの理解をする人達は、まだ見たものが目に焼きついていると、理解をするって言うんです。

これが一つ目です。どっちが、皆さん方は正しいと理解できるでしょうか。


こっちへ来る時も、ちょっと勉強会があって寄って来たんだけど、人って面白いですよね。見たもの聞いたもので、

苦しむ人と苦しまない人がいる。苦しむ人はどう言う風にして苦しむのかって言うと、無くなっているにも拘らず、

問題にするんですね。さっき、ああいうこと言ったでしょうって。さっき、ああいうことやったでしょうと。


皆この頭の中に残された残像と言われるか、記憶と言われるか、そう言うものを思い起こして、それを相手にして生きている。

そう言うの私達は、妄想と言います。或いは煩悩と言います。有りもしないものを有るように思い起こして取り扱っている。

だから、煩わしくなるし、悩ましくなる。無いものだから、取り除こうと思っても、中々取り除けない。

有ればですね、取り除くことが簡単なんだけど、思いって言うものは、実質取り除く様なもの無いんですね。

こう言うものが大体、「これ未萌我を根本とせりといふ」


「仏法にはかくのごとくなるべからず。」正しいものの在り方の中には、そう言う事はないって言うんですね。

パン!こんなにはっきり聞こえるんだけども、聞こえただけでどこにも残らない。わかりますね。

こんなにはっきり聞こえたんだけれど、どうもしないのに、聞こえただけでもう無い。パン!要するに、

これ役に立ったんですね、聞こえたんですから。音がした時にパン!聞こえれば役に立つ。

音がしない時に聞こえたら、役に立つどころじゃなくて、大変なことになる。


そこで、暫く皆さん方にお尋ねしますけど、「しばらく問取すべし」皆さんに聞いてみたい、

尋ねるけどって言うんです。「悪未生のとき、いづれのところにかある。」悪いと言う事が、

いまだ生まれない時に、悪いと言う事は一体何処にあるのか。若し未来にありと言えば、今は無いけど、

今にそう言う悪いって言うことが出て来るという受け取り方は、「ながくこれ断滅見の外道なり。」

断滅って、続くとか続かないとかって言う事ですね。どこかで断ち切れるとか、なくなるとか、言う様な事じゃないですね。

悪いって言う事が、初めっから無いですよね。有るとか無いとか問題外。

「もし未来きたりて現在となるといはば」これもよくわかるでしょう。向こうにあるものがこっちに来てって、

そう言う話になったら、それは仏法の話ではない。春が過ぎて夏が来るって言う様なことは、仏法では言わない。

後にもありますが、未来が来たって現在となるんだったら、過去現在未来と言う設定が混乱しちゃって、

滅茶苦茶になると言っておられます。それはそうでしょ。

過去は過去、現在は現在、未来は未来だから、過去現在未来というのは、きちっとしてる。

これが未来のものが来て現在になっちゃったら、どうなるの。そんな事はない。


今皆さんの生活だって、見て御覧なさい。何かと入れ替わって、現在の生活になる人なんかいませんよ。

明日の生活がこ此処に来てって言う様な人は居ない。これから先も永久にそんな事はない。考え方は、明日のものが、

計画したものが、明日になると計画通りに行ってと言う様に見るのでしょう。けど、実際はそう言うことは起きないのですね。


「三世混乱しぬべし」過去現在未来って言うものがごちゃ混ぜになって、何が何だかわからなくなる。

そうすれば今度は諸法、あらゆる物と言うものが物が滅茶苦茶になる。それ、例えて言えば、ニュースなんか見て御覧なさい、。

三日前に取ったニュースを今日流して、日付を今日の何時何分て言って映像を流すと。

そのまま信用する人は、あれ、今日こんなこと起こったって言う風になるのでしょう。これ世の中混乱するでしょう。

世界中、今ボタン一つで、その位の映像、パーっと一気に広がる位の能力が今あるから、人の頭の中、滅茶苦茶になりますよね。

株の取引してる様な人だってそうでしょ。ちょっと誰かがどこかで一言言っただけで、相場が変わるのでしょう。

中にはそれで死ぬ人も出るんでしょう。苦しんで。その位乱れるんですよ。


だけど事実は、昨日の事は今日には変えられない。絶対に変えられない。こんなに長い歴史があったって、

その時にあった事はその時、昨日3月25日、私の誕生日でもあるんですが、昨日能登の大地震があった日なんですね。

もう5年位経つのかね。そう言うメモリアルであってもですね、何年たっても変わらない。

3.11とか、あれは変わったら困るんですよね。時代がたったら入れ替わっちゃう様な事だったら。そう言う事はない。

未来が来たって現在になる様なことがあったら。そう言う事になります。だからそう言う事は無いですね。

もし仮にも、そう言う風な入れ替わりがある様な事があれば、あらゆるものが乱れる。乱れれば、真実の在り方って言うものが

はっきりしなくなる。真実の様子がはっきりしなければ、唯仏与仏って言うんだけども、本当にお互いがですね、

信頼し合える世界は無くなるんですね。こんなに丁寧に書いてある。


「かるがゆゑに」だから「未来はのちに現在となるといはざるなり。」

未来はのちに現在になると言わざるなり。いいでしょう。道元禅師の頭の、明晰な頭って言うのがよく理解出来ますね。

こんなに丁寧にものをちゃんと示している。


もう一つお尋ねします。「さらに問取すべし」未生悪とはどう言う事を言うのか。

「未生悪とは、なにを称ずべきぞ、だれかこれを知取見取せる。」

もし、少しでも悪が生まれてないって言う様なものを知ったり見たりするって言う様な事があるんだったら、

違うじゃないかって言ってるんですね。


これよく読んでほしい。いいですか。もし知るとか見るとかって言う事があればですね、気がつくとかつかないとかって言う事が

起きてくる。そうしたら、ないとは言われないじゃないか。

本当に音がしない時に、音がするとかしないとかって言う事が一切問題にならないのでしょう。

今音がしてないって言う様な事はないのでしょう。わかりますか。


修行の上で言えば、例えば無心とかって言う様な事を、或いは無我とかって、何か認めるものが何も無くなる、

或いは自分らしいものが無くなるって言う表現でしょうけれど、もしそう言うものが本当に無くなったって言う様な事が、

皆さん方が、無くなったって言う様な事が、もし言われる様だったら、それは見てる人がいるという事でしょう。

無いのじゃなくて、無くなった事を見てる人がいる。自分が居なくなったってものを見てる人がいる。本当に無い時には、

そう言う事が起きないとこう書いてあるんですね。


だから修行してる人の仲間で問題になるのは、そう言う事です。私は気がつきましたって、気がつく何かが残ってる。

もしお釈迦様が悟った時に、何か気がつくものがあったら、今日の様にはならない。本当に知る人が居ないんです。

そう言うものが基本的に体験としてあるんですね。これは皆さんも体験したらわかる。「もし、しかあらば」

だから未生の時とか非未生の時とかって言う風なものが出て来るのだったら、未生の法という事は出来ない。


じゃどういう風に言うかって言ったら、已滅の法と言いなさい、とこう言うんですね。無くなったって言って喜ぶんでしょうかね。

「外道および小乗声聞等に学せずして」それ、どう言う事を言いたいかって言うと、

正しいものを教えてる者に学びなさい、とこう言うんですね。外道とか小乗とか声問て言うのは、

そう言う意味で、ものがはっきりしていない処がある。そう言う者に学ぶと、よくわからないと言う事です。


「未生悪令不生の参学すべきなり。」だから本当にものが生まれていない時、皆さんだって、日常そうでしょう。

見たもの聞いたもの、それだけで居る時には、問題が自分の中で起きてない。それを十分に学ぶべきでしょう。

知らないと、すぐ見たもの聞いたものに自分の思いをつけて、そして問題にしてる。それだけですよね。

だから滅茶苦茶ひどい事を言われてる時でもですね、相手の言ってる事が、その通り聞こえてるだけの時には、

人間て何も傷つけられないものですよ。嘘だと思うならやってみて下さい。俺に何でそんな事言うんだって、

そう思った途端やられるんです。


じゃ誰がそう言う風にさせるか言ったら、一人自分が自分の中で詰まらない思いを起こして崩れていくだけです。

だから百人そこに居てもですね、そう思わない人は、ハァ-ハァ-って言って、人が、あいつは馬鹿じゃないかあんな事言ってて、

平気で聞いていられる。面白いでしょう。それ位、自分に対して言われてる感じがすると人は一気に変わる。

脅かされていると思って、一気にものの見方考え方が変わってとんでもない事をやり始める。

そう言う事があるから、第一にこう言うものが出てきたんです。勉強の仕方として。


「弥天の積悪、これを未生悪と称ず、不生悪なり。」今話してる通りです。

滅茶苦茶、一般から言えば、ひどい事をそこで言われてるんだけど、ただその事がその事として、こうやってあるだけだったら、

問題にならないですね。そんなにひどい言葉が飛び交ってても。それあんまり難しい事じゃないでしょ。

だって他所の人の事だと思って聞いてる時は、皆やってるでしょ。

自分のことだと思って聞いた時に、たちまちやられるだけですからね。どっちもやってるでしょ。

他人の事だと思っていようが、自分の事だと思っていようが、相手から喋ってくる言葉が二つも三つもあるわけじゃない。

その通りの事が、ただ聞こえてくるだけだけど、こっちの受け取り方が違うと、そんなにいろんな風になるんです。


で、それを暫く止めて生活してみると、こう言うに、第一、「一者、未生悪令不生(未生の悪をば不生ならしむ)」

言う、これが行です。これ、あの勉強するって言うよりも実践しなければ意味がないですよ。

こんな事を幾ら覚えたって、沢山知ってたって何の意味もない。生活の中で、これを実践してみるんです。そうするとよくわかる。
スポンサーサイト


  1. 2017/01/30(月) 14:58:40|
  2. 三十七品菩提分法 四正断 
  3. | コメント:0
<<三十七品菩提分法 四正断 Ⅱ | ホーム | 三十七品菩提分法 四念住 観法無我>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。