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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 四念住 観法無我

音声はこちら↓

三十七品 四念住 観法無我_01
三十七品 四念住 観法無我_02
三十七品 四念住 観法無我_03



もう一つ、「観法無我(法はこれ無我なりと観ず)」法はものですね、ルールでいいでしょうかね。

全てのものの成り立ち、決まり、活動法、ルール、大きなものと小さいものがあって、此処にこうやって見せるとですね、

人間てこう言う風に見えるのは、ルールですね。これはこれ、これはこれって、こう言う風に見えるんですね。

誰が決めるんじゃないんだけど、きちっとこう言う風に。これがこう言う風に(入れ替わって?)見えると言う事にはならないですね。

ルールです。犯すことの出来ない在り方なのですね。パン! こっちで叩いたのと、バシッ!

 こっちで叩いたのと、ちゃんと違って聞こえるように出来てるんですね。誰も決めたんじゃない。


大きな音、こうやって音でも、この音とこの音が同じように聞こえるなんてことは、絶対無い。必ず、パン! 

この音はこの音、パン! この音はこの音の様に聞こえる様になってる。これルールです。

人が決めたんじゃない。それを、私達は法とも言い、ダルマともいう。或いは正法、正しいものの在り方とも言うんです。

それにはですね、決まりがないとある。無我。中心になる何かものがない。

一般的に無我って言えば、私を立てないと言う事でしょうかね。俺がって言わない。私がって言うのは、我が在ると言うんですね。

俺が、俺が、俺が見てる、俺が聞いてる、俺がやってる、それが我があるって言われる。厄介ですね。

人と必ず争いが起きる、それを守ると。自分の主義主張だけで、それを通そうとしたら、必ずぶつかる。


だけど、もののルールの中には、この眼でもそうだけど、我が無いから、どれにでもその通りになる。

耳にも我が無いから必ず音がしたら、音がした通りになる。コン、コン、コン。 そう言うことがこう説かれてる。

坐った時には坐ってる。立てば立った様になる。どうして坐ってる事から立った時に、どうして離れるか知らないんだけども、

必ず、立った時には坐ってる事が一切無くなる。そう言う時に、あああの人は坐ってるとこう言うんですね。これルールです。

そう言う中に決まりが何もない。決まりが何も無いんだけども、そんなにきちっとしている。主義主張も何にもないんだけど、

そんなにずれずに、きちっとしたルールがある。不思議ですね。


で、まあ見ていきますが、「長者長法身、短者短法身なり」 長いものは長い短いものは短いと、

こう言ってるだけです。当たり前のことでしょう。これが、竹薮に連れて行った、修行する時に。どういう風に修行したらいいか。

竹薮に連れて行って、あっちの竹を見てごらん、こっちの竹を見てごらんて、こうやって教えた。

そしたら、その人はあっちの竹は長い、こっちの竹は短い、それで良いって。


「現成活計なるがゆゑに無我なり」 現成活計てのは、今の皆さん方の生活している真っ只中の様子は、

そうなってると言う事です。障子に向かった時に、私が障子を見てるって言わなくても、必ず障子を見てる様になるんでしょう。

襖の方をこうやってやると、必ず、襖の方を見てる様になるのでしょう。私がって言わなくても、誰がなったのか知らないですね。

襖のようになって、障子の様に、誰がなったのか知らないんです。ただ、その様にこうやってなるんです。

こんな事が言われてます。


狗子に仏性なし、「狗子(いぬ)仏性無なり」まあ、こんなのはあまり触らない方が良いのかも知れない、

皆さんに。面倒臭くなって仕方がない、頭の中が。

仏教を学んだ人がですね、仏性があるか無いかって話になると、凄い苦労する。

何故苦労するかって言うとですね、仏性と言う言葉、文字が指すものが、如何いう事を指すかわからないのに、

勉強するからです。誰も教えないのに、自分の中に、読んだ途端にパッと何か掴むんですね。仏性って言うものを。

不思議ですね。仏様らしい。


じゃ仏見たことがあるかって、生きた仏見たことないのに、仏って多分こう言うものだって、皆描いてるんですね。

だからそうやって、描いたものをですね、街中歩くと、あれが仏様じゃないか、これが仏様じゃないか、

自分の描いたものに近い様なものに出合うと、すぐそうやってくっついて行く。

そんなもの勝手な推理でしょう、自分の滅茶苦茶な。酷く言ったら。当てにならない。


だから勉強するのに、先ず、そう言う概念を持たないって言う事が、本当に修行は大事なんです。

兎に角知らないうちに、そうやって皆持ってますね。だから坐っても、なかなか無心になれませんって言って。

無心になれないって、無心て言う事知らないから、なれても無心じゃないと思ってるんだ。ええっ!

やれてても、無心て言う事知らないから、それが無心だと思わなければ、やれてないって言うんです。

持っててもあることに気づかないんですね。不思議ですね。


「狗子仏性無なり、狗子仏性有なり」 犬ころに仏性が有るとか無いとか言う話なんだけど、

有るとか無いとか言うものは人間にとってですね、面白いですね。無(ム)って言うと、無(な)いっていう風に読むんでしょう。

先ず卑近な話をすれば、無ムって言う音声があるのにも拘らず、ムって言ったら無(な)いって言うんです。

聞こえない様なこと言うんでしょう。えっ!ムって言ったら、聞こえてるにも拘らず、無いって。

文字を見て、ムって言ったら、書いてある字があるにも拘らず、無いって言う。


それ位可笑しなことしてるんですよ。有るって言う字が書いてあっても、無いって言う字が書いてあってもですね、

そう言う事が行われているだけなんですよ。それが心の様子なんですよ。

有という字に向かうと有、無という字向かうと無っていう風なものがちゃーんとその通りに頂ける様に、人はなっている。

それが心と言われるものの働きなんですね。知らなくても、字を知らなくても、其の通り、子供でもだからなるんです。

だから勉強出来るんです。


それが無と言う字だって、わからないと書けないって言うことはないですね。

この様に書いてごらん、この通り書いてごらんって言うと、見えてるからその通り書くんです。

それが何だかわからなくても良いんです。その通り書けるようになると、役に立つ。

言ってご覧って言って、声を出させて、あああって言って、そうやって皆さん方こうやって日本語の発音が出来る様になってる。

それが何だって知らないですよ、何も。


「一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。

一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。」 
まあざっと一杯色々書いてくれてあります。

何故こんなに似た様なことを沢山書くかって言うと、人間には癖があって、素直に中々ならない。

これ一つずつその書いて在るとおりに触れて行って御覧なさい。必ずその通りに変わって行きます、書いて有るとおり。


だけど、何だ同じ様なもの沢山並んでるな、これ一体何だって思い始めると、もうこの書いてある事を学ぶ事とは全く違うこと

やってますよね。自分の頭の中で描いてる事を相手にしてるだけであって、この文章に書かれている事を問題にはしていません。

そういうのも分かるでしょう。


色んな日常の中で現象が起きる。色んなものに触れた時に、その現象に触れた時に、現象と言う事実に触れた時に、

その事実を本当は大事にすべきなんだけども、事実に触れたらすぐ、それは何だって言う風に扱い始める、人間は。

それは何だって扱い始める時には、もう事実は抜きです。考え方で捉えたものだけが相手になってるんです。

それで考え方の中で捉えたものを相手にしてやっても、中々、解決がつかなくなる様になってるんです。

事実を抜きにして考えてるからです。本当に解決する時には、必ず事実を抜きにしてやったら駄目なの。

どんな事でも、問題が発生した事自体が、今の事実の中にあるでしょう。その事実の他に問題があるのじゃないでしょう。


時々使うんだけども、例えばこのストーブが消えた場合、どうしてこのストーブの火が消えたかって言う時に、

此処に何台かのストーブが有った時に、火の消えたストーブを放っといてですね、それ以外のストーブをこう色々開けてみて、

どうなってるんだるう、どうして火が消えたんだろうって勉強する人も中にいるよ。

だけどこっちのストーブが消えたわけじゃないから、幾らこれを研究しても、本当にどうして消えたかって言う真相は、

この(消えたストーブの)中にしかないんだよ。似た様なストーブが有ってもですよ、本当にこれが消えたら、

この中に消えた原因があるんです。そうやって勉強してるはずなんですよ、一般社会でも、利口な人たちは。

そう言う事が、こう言う風に同じ様なこと一杯並べてですね、本当に其のことでこうやって学べるかって言う事です、一つ一つ。

他のことすぐ持ってくるんですよね。


「かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を『観法無我』と参学するなり。」 一切法の中に、一切法は無い。

どういうことを言うかと言ったら、その事が本当にその事であるだけだ。その時にその時の様子が本当に有るだけ
 
この音を聞きたかったらパン! この時に聞く以外ないのです。何十年生きてても。

この音 パン! この音をパン! 聞きたかったら、今こうやって触れるしかないんです。

もう一回出してみてって、出しますけども、パン! さっきの音を聞くことは出来ないんだ。

ね、そう言う風になってますよ。


で、今、パン! こうやって出した音が、本当に一度で聞けるようになったら、それで、

今までどう言う風に聞いたら良かったんだろう、って事が全部解決する様になってます。


「しるべし、跳出渾身自葛藤なり。」 もう本当に、この一人一人自分自身の身心と言われる、

このものの在り様に学ぶ以外にないですね、ものを学ぶ時に。


そういうものの学び方が、体験をした人達が書物に残してあって、こう言う風にしたらそれが分かるとか、言う様なことが

書いてあるものが沢山ある。だから、皆さん方書物を読むんですね。だけど書物に書いてあることは煎じ詰めたら何かって

言ったら、書物を読む必要がないということです。この自分自身の有り様に目を向けられて学ぶ力があれば、それで十分。

どんな立派なものだって、書いてるものはその人が、自分の身体を通して体験した事を残しただけでしょう。

それだけじゃないですか。


釈迦牟尼仏言、「一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也(一切諸仏菩薩、長に此の法に安んずる、為聖胎なり)」 

こう言う風に生活をしていく。これ位楽なことはない。しかも聖胎ですね。ひじりの身体と言っていいのか。

聖胎長養なんて言う長い言葉があるかしら。


「しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。」 

等覚とか妙覚とかって言う、悟りの内容に52位の階段をつけて示した人がいるんですが、そういう学問研究の中に、

こう言う表現があるけども、まあ一言で言えば、どの様な状況にあろうがって言う事です。どの様な人であっても、

本当にただ、今自分自身の在り様の中で、こう言う風なことをしっかりとこうやって見届けていく。一つには、身は不浄なりと観ず、

二つには受は是苦なりと観ず、三つには、心は無常なりと観ず、四つには、法は無我なりと観ず。


これがお釈迦様がやられた修行です。だから仏教では最初に、三法印と言う表現がある。すなわち、諸行無常、諸法無我、

涅槃寂静って言う様な三法印です。ものの真理として、そう言う言い方がされてます。


「すでに『一切諸仏菩薩』とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、

妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。」 
お悟りを開いた人ばかりじゃありません。

修行している人たちも皆これによって修行して行くのです。

こう言う風なあり方を、「まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、」 悟りを開いた立派な方々の生き様って言う様な

ものは、内容を見ればこう言うことなんだって言う事です。何をしてるかって、同じように毎日生活して、

一緒にそこで生活をしてるけど、触れている処が違うんですね。ただ漫然と居るのと、

本当にその内容をきちっとこうやって頂けてるかによって、全く違う。


ものは本当に分からないと、同じ生活していて居るんだけど、全然違うんですね。で、生き様も全て変わって来るんですよ。

何してるか分からん、人の様子だから分からないかも知れないけど、何十年も付き合ってる人が周りに沢山居るので、

良くわかる。そう言う人たちが変わってくるの。全く人生が変わって来る。やってることは何かったら、別に今までと変わった生活

している訳じゃない。毎日同じことやってます。

だから、この先ず四念住ってね、四つのものの触れ方があります。一応そこで終わりにしたいと思います。


この位の箇条書きになって、タイトルが付いてると、皆さん勉強しやすいですね。(終わり)
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  1. 2017/01/12(木) 19:00:26|
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