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三十七品菩提分法 四念住 観心無常

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三十七品 四念住 観心無常_01
三十七品 四念住 観心無常_02
三十七品 四念住 観心無常_03

 「観心無常」心無常を観ず。ここで心と言う字が使われているけども、皆さんが常識的に、心って何かものを思うって、そういう風な意味合いの文字ではありません。心と言うのは一切のものを指すんですね。全てのものを指す代名詞です、心て。無常というのも皆さん良く知ってると思うけど、常なし。生活自体をよく見てもらえば、もう明白ですね。先ほどの事をやってる人は一人も無い。全部身体中、何処を見たって、先程の事やってる人は一人もいない。そういう風に出来てるのですね。
 何処にこだわるのでしょうかねえ。何処に捉まって悩むんでしょうかねえ。悩むものが無い、残って無いよ。問題にするものが無いんだよ。それが無常の様子なんですよ。皆さん、そんな風に無常って観てないでしょう。常が無いって、その程度のものじゃ、詰まらない。本当に観て御覧なさい。きれいな言い方をすれば、一度も経験したことの無いことばかりを、人はするって言うことです、生きてるということは。
 今、こうやって見る時にしたって初めてです、これ見たのは。さっきの見たのとは違います。さっき見たら、さっきやったことです。今やったのは初めてです、初めて。一度も今までやったこと無い。それなのに、此処の頭は、又って、又々って、そうやってます。そんな見方はしてません。先程のもの一切無いのです、こういう時にそれは身体全部です。人間の身体だけじゃなくて、此処に心と挙げてある様に、全ての物がそう言う風な活動をしてるんです。こういうのは心無常を観ずるというんです。勉強の仕方として、ここまでやったら、必ずすっきりするでしょう。
 「曹谿古仏いはく、『無常者即仏性也』」そう言う事があるから、本当にこの無常の様子がわかってみると、仏様がどういうことを本当に気づかれたかって言う事が、よーくわかると言っておられる。
 「しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり」 ありとあらゆる物が無常無常だって言う風に言うんでしょうけど、その内容はこの様にですね、出来ているのですね。こんな簡単なことだけど、人間が、中々先程のものが出て来たり、何年も前のものがでて来たりする様に思ってる。私が喋ってる様に思ってるんですよ。本当にそういうことがあるんじゃなくて思ってる。ただ思ってるんです。そう言う事、そういう風に、そう言う見方をもって。実際はそんな事はない。そこ迄皆さん方が、心というものを見ることが出来るか、ものの有り様って言うものを正しく観ることが出来るか。そう言う行です。四念住の中の観心無常っていうのは。
 永嘉真覚大師と言う人が居ますが、中国に。その人が残された言葉にこういうものがある。『諸行無常一切空」あらゆる活動、諸行、本当に今活動している様子が、今あるだけだ、後にも先にもどこにも、その事が、活動したにも拘らず、残ってないと言うのですね。空。「即是如来大円覚』仏様のお悟りになった内容はそう言う風に素晴らしいよ、ってこう言ってます。「今の『観心無常』すなわち『如来大円覚』なり」本当に今の様子が、今展開してるだけだって言うことに気が付いたら、必ず救われるんですね。有り様を手をつけて直すなんて言う事は出来ない。良いですか。
 パン! この音を聞きなおすなんて事出来ない。パン! 済んじゃった。パン! 何もしないのに。パン! 其の通り聞こえるんだから良いじゃないですか。どっか半分のみしかパン! 聞こえない様なことは無い。全部そっくりそのまま、ちゃ-んと大円覚と言われる様にですね、何不足無い。そう言う風な様子がある。そう言うことがはっきりしている。
 覚は悟るでしょう。自覚でしょう。用が無いよね、直すなんて必要が無い様に出来てるでしょう。もし、皆さんが仮にですね、間違ってる事気がついた時に、直しちゃったら、どうするんですか。物凄く修正能力のある人が居てですよ、ここにこうやって間違ってるものが見えたら、すぐ直しちゃったらどうですか。見た途端に直しちゃったら、気づくって事はなくなるでしょう。
 これ、身体のことでですよ、自分が痛いのに、痛くないっていう風にする人がもしいたら、痛い時に痛くないっていう風にする人がいたら、自分の身体を、病気を気づくって事が出来ませんよ。良さそうなんだけど、痛い時、痛くない方が良さそうなんだけども、痛い時本当に痛いんで、それを手をつけて直す様なことしたら、わからなくなる。お医者さん行っても。此処が痛いのに、ここら辺が痛いのに変えて言ったら、此処痛いんですけどって、えっ?なんとも無いですよって帰される。実際は此処が痛かった。
 だけど人間、そういう動物なのね。何か悪い事があると、正しくしようとするんですね。そうじゃない。間違ったことが間違ったことだってはっきりする事が、ものをただす唯一の道なんでしょ。過ちを過ちと知れるは聖人です。凡人は過ちを誤魔化す。それは凡人なの。こういうな事がこう言う処に皆出て来るね。
 「心もし不観ならんとするにも」 見ない様に、そう云うものを見ない様にしようとする。でも、「随他己するがゆゑに」 て言って、必ず、全ての動きと一緒にこうやって生活してますから、本当に自分だけ此処に居るなんてことは出来ないんですよね。見て御覧なさい。今、此処にいる様子を見て御覧なさい。
 全ての物を自分の内容として生きてるでしょ。畳を抜きに生きてる訳じゃない。部屋を抜きに生きてる訳じゃない。この空気全部払って生きてる訳ではない。そう、本当に、全部何処までが自分の様子か分からない位、随他己ですよ。境目がないんです。此処までが自分のことだって。ここは物凄い明確だから、この身体の見える辺だけ自分だと思って、後は人の事と思ってるんだけど。そんなことはない。
 で、こういうもの(相手-境-としてのもの)が、もし無かったら、眼は育たない。眼のこれ皆栄養ですからね。これ食べて生きてる、眼は。こう言う風に見えるって事が、眼を育てるんです。真っ暗闇の中に眼を置いてみる。ものが見えなくなるんですね。働きを失ってしまう。一切音の無い部屋の中にずーっと何年も過ごさせると、聴力がなくなる。寝たきりにして置くと歩けなくなる。全部それ、随他己だから。身の周りのことが皆この身体の栄養素にもなってる。別のものじゃないよね。
 「心もしあれば観もあるなり」およそ、この身体があってですね、心の無い人は居ません。身体だけあって心の働きの一切無い人は居ません。植物の様になった状況に置かれるとか、脳死の様な状況に置かれると言ってもですよ、それでも触わったら、必ず触った様に身体は反応します。本人の認識が無いかも知れないけども。そう言う風にできてますね。
 「おほよ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり」 最高の境地って言われる様な事が言われてもですね、その内容は何かって言ったら、ただこの真実なんだと言う事です。無常と言われる真実は、本当に後にも先にも無い、今の在り方だけで貫かれてるんですね。昨日のこと思い出すことは出来るけど、昨日の事は今日やれない。明日の事を思う事はあるけれど、明日の事は今出来ない。本当に今やってることが、今やってる所で今あるだけですよ。これ最高の境地なんですよ。それで何も言う事ないでしょう。それ以上何か欲しいですか、まだ。何か足りないものがありますか。
今やる事してると、生活はちゃんと成り立つんでしょう、色んな職業についてる人は。その職業その職業、その場その場、その時その時の在り様をきちっとその様に過ごしたら、いい仕事が皆出来るのでしょう。そう言うものが心を本当に観ると言う事なんですね、観心。
 [心かならずしも常にあらず」 何か心らしいものが、いつもあるかって、そんなものは無いですね。その心らしいものが無い働きを、暫く心と言うのです。向かったら、赤い薔薇に向かうと赤く見える。白い薔薇に向かうと白く見えるって言う働きがあるということです。何にもこういう風に見なければいけない、って言う決められたものは何も無い。何にも無いんだけれども、その触れたものによって、その通りの色に見事に変わって行くんですね。変わったからって言って、それが何処に留まるかって、くっついてるかって言うと、次のものにこうやって触れると、コロコロと皆そのものから離れ切って生活してる。だから心必ずしも常にあらずと言う事でしょうかね。
 「離四句、百非を絶する」って言うんですけど、四句って言うのは、有句無句ですかね。有るとか無いとか言う様なこと、代表的に言われるでしょう。沢山のものが、そうじゃない、そうじゃない、そうじゃないって言って挙げられるんですね。向かったものの見方は、固定的な観念を持ってみる癖があるもんだから。でも不思議ですよ。人と話してみるとよーくわかる。自分の中にはね、そんな固まったものの見方なんか絶対してないと思う位の人でもですね、いつの間にか自分の考え方を持ってますね。いろんな処に顔を出す、それが。多分そう言う事ですね。
 生活して何か触れた時、気になる時は、必ず自分の中、知らずにこうあるんじゃないかってものを持ってますね。だからそれにこうやって触れると反応するんですね。何であんなんなんだろう、なんであんなことするんだろう、あんな言い方するんだろう、とか言う様なことが気になるって事は、ちゃんと自分の中にこれらしい、こうあるべきらしいもの持ってるんですよね。だから自分をつまらなくしてるって事、気づくべきですね。
 この前も言ったんだけど、坐禅は無になるんでしょう。無心になるんでしょう。何処で学んだの? 如何いう風に、無心になるって、如何いうことか知ってますか?って言うと、皆、この頭の中でちゃんと持ってるんですね。ああじゃないか、こうじゃないか。だから、此方から幾ら話をしても素直に受け入れない。自分の勉強したものの見方と違う話をすると、あの人変じゃない、何であんなこと言ってるんだろうって言って、私そんなこと学びに来たんじゃないって言って、受け入れない。それ位自分の中にものを掴むということはですね、不思議な状況が起きるんですね。
 ですから、本当に素直になる時には、何にもこれ(自分を指す)が持ってない時に、人の話したことさっと入って来て、ものがわかる。修行に時間がかかる人は必ずそういうもの(持ち物)が、沢山自分にある。溜め込んでるね。そういうもの全部離れたり、断ち切ったりする様子が四句を離れ、百非を絶するって言う様な事になるんでしょうね。そうすると、此処に有る様に、牆壁瓦礫って言う、そこら辺にある、皆さんが大事にしない様な石ころとか壁とか壊れた様な塀だとか言う様なものに触れた時に、気づくんですね。いつもだと、そんなもん何んだって言う風に見てるんですね。求めてるものと違うと思ってるんですね。石ころなんか見て、これが仏道の勉強か、仏教の勉強かって、石ころ見てごらんて言われて、そんなの仏教の勉強だと思わないでしょうが。壁あそこにあるから、壁見てごらん、何、それ?それが何だって、そう言う風になるね。勉強にならないですね。
 此処にもある。「石頭大小」 てある。石頭って石の頭って書くんだけど、石頭山という所に行くと、石が、大きな石やら小さな石が一杯あるよって言う話しが有って、それが挙げられているわけです。それが勉強になるんです。向かえば、皆さん方が使ってるありのままに、って言うものの見方がある。その通りにそれを頂くって言う力ですね。それをすると変わって来るんですね。
 私達の見方の中には、先ず好き嫌いとか、善し悪しとか、是非とか、大まかな事言えば、そう言うもの、必ず見た瞬間起こってる。そう言う見方位しかしない。ありのままになんか見る人は殆ど居ない。ものを見るって言う時に、他のものと比べて見るって言う事は無いですよ。これを見てごらんと言う時に他のものと比べて見ることはないですよ。それだのに、ちゃっとこうやってこれだけ見ても、大きいとか小さいとか、美しいとか、何ですか、それ、出て来るのは。何かと比べてるのでしょう。知らずにやってるんですよね。そのままその事を、本当にそのままありのまま見てるんじゃ無いんですね。気が付かないでしょう。
 皆さん。簡単なことだけど。本当に言葉は、ありのままって良い言葉があるんだけど、ありのまま見るって、本当に出来るかしら。やってるかしら。だから此処では、「牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり」 ってこう言う風に出てくるんですね。
 修行するって特別な何かものがあるんじゃない。今やってる、触れてるそのものでやるんですね。そのものでやるんだけど、その時にこう言う風な事が気をつけないと出来てない。まあ、難しいって言わせるのは、そう言う処かも知れないね。で、これで、一応、観心無常って言うのが終わる。


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