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三十七品菩提分法 四念住 観受是苦 Ⅱ

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三十七品 四念住 観受是苦 Ⅱ_01
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三十七品 四念住 観受是苦 Ⅱ_04


「これ一上の神通修証なり」苦しみもですよ、例えばですね。徹底痛い時、他の事を一切考える余地が無い。ただ痛いだけで居るから救われますね。病気をしたり手術をしたり、いろんな経験のある人はよく知ってる。貧乏だってそうです。もう捨てるものの無い程貧乏になった時、人は救われるようになってる。そういうものを俗の言葉では、窮鼠猫を噛むとかって言うでしょう。追い込まれた鼠がですね、猫を噛む。逆です。普通はね、猫が鼠を取るんだけど、常識外の事が出てくる。力が出て来る。少しでも、貧乏でまだ豊かになろうという気持ちがある間は苦しむけど、徹底貧乏になると、何も失うものが無い。いいでしょう。そういう世界がある。貧乏になると人は救われる。

だから、追い込まれて、追い込まれた時、自己破産するのでしょう。そういう制度が社会にあるでしょう。全部捨てるんですね、自己破産て、持ってる物。そうでしょ。そうすると、それ以上はいじめない様になってるでしょ。借金地獄とか。その代わりお金は多分貸してもらえませんね、銀行行っても。ブラックリストに載っちゃうから。だけども、この身一つあれば生きて行かれる。そういう制度がありますね。神通修証面白い世界があるね。

「徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり」縛られている、繋がっている、不自由なって言う様なことが無いと言う事でいいでしょうか。人間を不自由にするのは、ひとえに自分の考え方です。自分の考え方が自分を不自由にするのですね、縛って。繋がっているとか切れないとか、中々断ち切れないとか、皆そう。実際はそんなことありません。見事にそういうものから離れきった生活をしてます。

嘘だと思うなら、簡単に、こうやって、ここに涅槃図が掛けてありますが、こうやって涅槃図をご覧になって、ストーブを見て、壁の様子を見てる時に、どういう風に人はなってるかって言うと、そのものをひとつずつちゃんとこう受け入れるからですね、前のものは全部自由に離れ切って、そのものをキチンとこうやって見れるように出来てる。前に見たものが邪魔をしてですね、次に見る時中々見えない、そう言う事は一切無い。でもここの中にチラとでも、ああ、あれはって、そう言う物が思い浮かぶと、見てるはずなのに見えない。

人の話でもそうです。何言ってるんだろうって、人の話を聞いた中の話を理解しようと思って、いろんなことやって聞いてるとですね、話は聞けないものです。話を本当に聞くんだったら無条件です。相手が何を言ってるかなんて探らなくていい。聞こえてるだけに居てごらん。そしたらものはわかる。間違いないですよ。それだとわからないを思うから、聞きながらそれ何言ってるんだと言う事だろうって、頭をひねくりながら聞いてるから、喋ってるのに追いつかないじゃないですか。ここで喋っていたこと、ずーっと問題にして、私はどんどんどんどん喋ってるんだけど、ここだけを問題にしてる。喋り終わった時、どうでしたと言うと、何喋ったかわかんない。文脈が繋がらない。それが日常の会話でも殆どそうです。

折角喋ってるんだから、黙ってそのまま居れば。其の通りに全部ここに聞こえる様に出来てる。それに自分の考えや思いや、色んなものをつけて聞いたら、滅茶苦茶になっちゃうんですよ。人の言ってることとは違うんですよ。私なりの受け取り方、私なりの理解の仕方に換えて、それさっきの甘い果物を苦い果物に換えているということです。そやって人は苦しむんですね。自分の考え方に縛られて。もっと自由に出来ます。

こういう前を通るなって、横向いて通っても言い訳でしょ。常識じゃない、人の前を通る時はとか、人の前を横切るんじゃないと、そんなことはない。常識に縛られる。何で子供だと、チョロチョロちょろちょろ、ニコニコしながらこうやって通らせる。大人が通ると。お菓子がこう置いてある。子供が来て、こうチョッとと食べると、ああって、大人が食べると、どういうあの人は育ち方してるんだって、そこまで言われる。育てた人の顔が、親の顔が見たいってまで言われる。面白いな。

だけどこうやって人が並んでる時に、何処に坐るかによって問題が起きる、ひょっとすると。他の所に呼ばれた時にですよ、披露宴とか、そこへテーブルがあるから、何処でも坐って良いかって言って、変な処坐るとえらい事になる。本当は決まりが無いんですよ。決まりは誰かが持っていて、その頭の中に決めたものが不自由にさせる。一度そういうものから離れてみると面白い。そう言う様な事が神通力です、人の持ってる。誰もが持ってます。特別な事じゃない。

医者の資格が無ければ施術をしてはいけないか、今は問われる。昔、まだ医療が発達していない頃は、そこで何かが有ったら、親が出来るだけのことをしたりしている。例えそれで一命を失ったにしても。そんなことがありますね、挙げれば。今は決りが沢山出来て、その決りが沢山出きたことによって不自由でしょうがない、色んな施設でも。

介護の施設だって聞いてみると本当に大変。利用される人が、ちょっと食べたい物があるんだけど買ってきて欲しいって言っても、出来ません。出来ない訳じゃないんだけども、約束で、私は出来るけど、私がやっちゃうと、所に帰ってから報告したら、何でそんなことしたって言われるって言ってる、出来ないって言ってる。不自由な世界になったね。掃除も出来ない。汚れてるから掃除してって、そういう約束になってないって。一時間居る間、どの様なことをして貰ってもいいはずなんだけど、賃金払って。約束の無いことはしない。面白いね。そう言う様に、神通力のある人はそう言う事からこう外れてですね、自由に人が喜ぶことやって上げる。そういう力持ってますね。まあそう言うものが本当の意味の神通力なんですね。富士山の上をこっから飛び越えるって言う様なことじゃないです。

「このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり」って読むんですかね。衆生っていうのは、生きとし生けるものですね。その中に私達も皆入るわけでしょう。ものを本当によく知らないと、そういう生活の中で、ほんとわずかな事で人は苦しむ様になってる。

「衆生は自にあらず、衆生は他にあらず」隣のひとは自分とは関係が無いかって、そんなことは無い。もう既に一緒にここでこうやって生きてるんですね。自分の血肉の中の様子なんです、これ。一人一人見て御覧なさい。此処の頭はですね、これだけは私、他のは皆他所のことだって言う風に理解してるね。もう一回見てみると、此処にこれだけの人が居るって事は誰がやってるか。

ものすごく平易に言えば、皆さんの眼がこれだけのものをこうやって今、見てるんです。他の人の眼の様子ではないですね。それ位、これ全部自分の生きてる内容なんです、これが。眼が、自分の眼が活動してる様子なんで、此処にこれだけの人が居るってことが見えるってことは。自分の眼が今、活き活きとして活動してることなんです、これが。

どうでもいいなんて言うことじゃないですよ。これが全部自分の内容だから、これに学んで行く訳でしょう。ね、そこで転んだりすると、ふっとその転んだ様子に触れると、このものが対応する様になってる。何処で学んだかは知らないんだね。知らん顔しては行かないんですね。

自動車を運転してる人が多いと思うんだけども、此処に横断歩道がこうある。ここに年老いたおばあちゃんが立ってる。此処を車でずーっと走ってる。何気なく走ったんだけど、横断歩道の所一応見える。人が居る。走ってる間、この隣の人と話をしたんだけど、あのおばあちゃんは渡るのか渡らないのか、よくわからないって言うんです。運転してます。運転してる時に、非常に気になるって。渡るなら渡る、渡らないなら渡らない、意志表示がきちっとできれば良いんだけど、わからない。わからないから凄い気になって怖いって言ってました。

私はその時に、ちゃんとわかってるじゃん、そんなにはっきりしてるじゃん。あなたがあのおばあちゃんが躊躇してる事までちゃんとわかる。自分の考え方が強いから、あの人ちゃんと合図しないからって言って、ぶつかった時にきっと何か言うんだよね。そうじゃない。こっちの方がちゃんとわかってるんですよ。危ないってのがわかったら、危ないってのが分かったら、気をつけて行きゃいいんだけど、あっちがって言うんですね。

で、こちらに垣根がある。なんとなく影がチラチラって動いたって、見えてるんです。知ってるんです。だけども、よく分からなかったって言うんです、それを。おかしいでしょう。これ誰がいたか、何が有るか分からないけど、ちょっと何か動いた様子がちゃんと分かってる。だけども、はっきりしないって言うんです。分からないって言うんです。だから急に飛び出してきたって言うんですよ。そんなことは無い。わかってるんですよ。物凄い能力でしょ。だけど自分の方がって言うもんだから、時々大変なことが起こる。

前の車が止まった。前の車が止まるって事は何かあるに違いない。止まったもんだから、右が抜けられるってすっと抜けると、ドーンて歩いてる人ぶつけたり、自転車ぶつけたりする。知ってるんですよね、前の車止まった、こうやって前の車止まったら、自分の目には入らないにしてもですよ、その前の車の向こうのことは入らないにしても、一番は前の車が止まったってことは、はっきりしてる。急に止まったって。そりゃ急にはとまるんですよね。兎に角自分の思ってる通りになるってことは殆ど無い。だけども自分の思ってる通りで無い事が、この身体でですね、全部分かるように出来てる。

いろんな仕事をしてるけど、そこに相手になる人が居たら、ここに自分がいるとその人の動きをこうやって触れてると、全部分かるようになってる。全部分かるんだけども、自分の思いと違う動きをしてると、素直にそれに沿って行きたくないって人は沢山いる。問題じゃないですか。こういう処はそう言う事ですね。「自にあらず、他にあらず、更有苦衆生」あるいは「将謂衆生苦、更有苦衆生」

その後に「つひに瞞他不得なり」とある。これが今話したことですね。人に騙されるって言うの事は無い。どんなことでもちゃーんとしてるのですね。あの人が言ってる事嫌になっちゃうって言う事は、その前にその人の言う事をちゃんと聞いてる様子があるから、そういう風な判断が出きたって事でもあるでしょう。きっと聞いてる時には、あんなこと聞きたくないって聞いていませんから、ちゃんと聞ける。聞いた後に、そうやって自分の考え方でそれを処理しようとするから、いろんなことが起きてくる。他の瞞を得ずというんですかね。騙されないと言う意味でしょうかね。

パン! 音一つ聞かしてもですね、パン! 如何いう風に聞こえましたかって言って、人があーだこーだって色々なことを言う人が居てもですね、自分のパン! こうやって今、耳で聞いてる音はですね、一切人に騙されませんね。物凄いはっきりしてる。誰の力を借りなくても、ちゃーんとしてるじゃん。えっ、そんな風に聞こえたのって、人が色んな話、そんな風に聞こえるの?って言うかも知れないけど、こうやってパン! 聞いてる時に、一切人のことに騙されませんよ。そういう風に出来てる。その通りにきちっと聞こえる様に出来てるんですね。これが私達が見ていく処なんですね、修行の上で。

四つの四念住って、四つの思いですね。そのうち今、二つ目。「受はこれ苦なりと観ず」というところやってる訳です。甘いものは徹底甘い、苦いものは徹底苦いって言うのが次のとこですね。だけども「苦これたやすく模索著すべきにあらず」皆さん方は自分の生活の中で、悩みや苦しみや色々のもの抱えてる時に、本当にどうなってるか、何が問題で如何いう風になってるか、それを修行の上で教材として扱っていく必要があるでしょう。

「自己に問著すべし」自分に問いなさいという事でしょう。 相手がこう言う事言ったパン!相手がこう言う事言ったら、その通りに聞こえる。それが先ず最初でしょう。そっから先はどういう事が展開されるかって言ったら、それに対して、自分の見方や考え方や色んなものがおきて来て、手をつけて、自分を悩ますのでしょう。向こうが言ったパン! この事が皆さんを苦しめるのじゃないんでしょう。如何ですか。

まして耳は振動が有る間だけ聞こえるんです。聞こえてないものを問題にしてるのは誰ですか。聞いた後、それを留めて、問題にしてるのは。こうやって叩いたら、痛いかも知らんけど、その後痛みがちゃんととれる様になってるね。だけど、叩かれた事が思い出に残ってるから、その人を見ると、この前酷いことをしたって、まあちょっと一言位言いたくなる。じゃ今その叩かれた痛みがこの身体に有るのかって聞かれたら、問題にする場所だってどこにも無いです。自問すべし。

「自己に問著すべし」 一体苦しみって何だって言ってるんですね。「作麼生是苦。」苦しむ、苦しむって言うけど、一体何だろう、苦しむって。その苦しんで居る時に、色々考えている事を全部止めてしまって生活しても、何も失うものは無い。あれを考えてなかったら生活が滅茶苦茶になって、失われたものが一杯出てくるって、そんなことは一切ない。皆さん方余分な事考えてない時楽でしょう。ずーっと抱えてた方が楽しいんですか、苦しみを。それを相手にしてる方が生き甲斐のある人生なんですか。そのために長い時間を使うんですか。そのこと手をつけて気に入る様に直すんですか。そう言うの修行とは言わないね。


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