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三十七品菩提分法 四念住 観受是苦 Ⅰ

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三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_01
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_02
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_03
三十七品 四念住 観受是苦 Ⅰ_04

 「『観受是苦』といふは、苦これ受なり。自受にあらず、他受にあらず、有受にあらず、無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。甜熟苽を苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髄に苦きなり。有心無心に苦きなり。これ一上の神通修証なり。徹蔕より跳出し、連根より跳出する神通なり。このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず、更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜苽徹蔕甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく模索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦。」
 「『観心無常』は、曹谿古仏いはく、『無常者即仏性也』。しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり。永嘉真覚大師云、『諸行無常一切空、即是如来大円覚』。今の『観心無常』すなわち『如来大円覚』なり、大円覚如来なり。心もし不観ならんとするにも、随他己するがゆゑに、心もしあれば観もあるなり。おほよ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり、観心なり。心かならずしも常にあらす、離四句、絶百非なるがゆゑに、牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり。」
 「『観法無我』は、長者長法身、短者短法身なり。現成活計なるがゆゑに無我なり。狗子仏性無なり、狗子仏性有なり。一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生無衆生なり。かくのごとくなるがゆゑに、一切法無一切法を『観法無我』と参学するなり。しるべし、跳出渾身自葛藤なり」
 「釈迦牟尼仏言、『一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也』しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。すでに『一切諸仏菩薩』とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、ただ四念住のみなり。」

 「受はこれ苦なりと観ず」と読むのでしょうね。まああの平易なことから少し話してみたいんだけど、受は是苦なりと観ず。人の話を耳にした故に問題が起きる、って云う様なことが皆さん方普段やってることです。
 この自分の身体に人の喋ってる事が聞こえて来なければ、その人が何を言っていても問題は多分起きない。聞くと起きるんですね。それは物でもそうです。その人がやってるのに、こうやって触れると、やっている様子が自分に見えると、それから問題が起きる。口に物をいれて味がすると、其の味を相手に問題おこす。触れれば触れたものが問題になる。匂いがすれば匂いがしたものが問題になる、言う様なことが、此処で一般的に言う、観受是苦ですね。それは皆さんよくご承知でしょう。生活の中で毎日っやってることですから。何で問題が起きるのか。苦しくなるのか。本当はですよ、本当はその受け入れた事で人が苦しむ様な風にはなってないと言う事を学ぶということです。これで。
 ちょっと逸脱するかも知れません、話が。皆さんがこうやって物があるあるって、こうやって見てるんだけども、頭の良い方たちは良くわかってる様です。見えると言う事を説明するのにですね、テレビを見ていて、あの画面の中に人が居たり物が在ったり、色んな物が本当に在る様に見えるでしょう。だけども一枚のガラスの様なものに映ってる映像でしかない、本当に。何も無いんですね、中に。人らしいものも触れるものは無い。美味しそうに食べてる映像が出て来ても、物を持ってる映像が出て来ても、そこに茶碗が在ったりするわけではない。家が建ってるものが在っても、そこに別に箱が、家らしい箱がある訳じゃない、ただ映像なんですね。これは皆さんが今、現に物を見てるのと同じ内容なんです。皆さんがあの様に見てるんですね。テレビを見てる様にものが見えてるだけです。
 あの、私あんまり、科学者じゃないし勉強してないから、詳しい事は知りませんが、全ての物から光が反射されてですよ、吸収しないものが反射されてる。それが光波ですよね、光の波。その波が長い波があったり、短い波があったりする光。長い方は赤い色に近い、紫の方が短いっていう風になっていて、虹を見るとどういう風になるかわかるでしょう、色が。人間の目を通すと、その波が人間の目に入って来る時に、長いものと短いものの違いに拠って、こっから目に入ると屈折をして色が分かれてくる、と言うのが大体、私達が学んでいることですね。そしてそれが皆さんの網膜にダッダッダッダッダッダッッダッーーーとくっ付くと、赤いとこがこう沢山あると、それが丸く赤いところが出来れば丸くみえる。四角にこうダッダッーとなると四角に見える、こう言う様なことですね。それで物があるって言う風に認識してる。実際にはそういう活動してるだけですね、眼って。
 で、言ってるんです、仏教ではだから、そういうものに対して、ものの本当の姿は形が無いといってます。実相は無相、本当の姿というものは形の無いものだと言うんです。信じきれないでしょう。で、こちらから向かって物をみるってことは、だから一切ないのですね。見えるって言う事は全部向こうから入って来るんです。向こうの発した光がこっちへこう来て行われているだけで、こっちから幾らやっても無理なんです。でも人間はそうは思って無いからこうやって向かうと見えると思ってます。こっちから向かうと見えると思ってる。常に向こうから光がこうやって発射されると、物がただこうやってると、その通りこう出会うだけです。こんな仕組みなってる。
 だから、こうやって、目の前に紙一枚でもこうやってやると、たちまちに映像が消えるでしょう。それは光の波が目に届かないからです。今まで届いてたものが、これによって遮られるから、映像が消えるんです。どういう映像が出てくるかと言うと、ここに出されたこのものから出されてる光が入ってくるだけだから、これだけが見える。そんな風になってますね。
 これが何で仏教と関係があるかって思うかも知れないけども、仏様の教えって言うのは、そういう風にして、私達自分自身がどの様に本当になってるかって事をきちんと見極めた教えです。これがわからないと必ず何か見た物が残ってるっていう風に人は思います。観って言うのは見るんですね、どうなってるか。
 受はこれ苦なり。苦はこれ受なり。読んでいきますね。苦は是受なり。必ず、そのものと一緒になりながら、活動する様にできてる。自分の好きでも嫌いでも、そこに行けばそこへ行った処のものと必ず一緒に生活する様になる。一方から言えば、それ厄介なことかも知れないけど、裏を返してみれば、それだから生きられるのですね。こうやってものに向かった時にですよ、向かった時に好きなものだけ見えて、嫌いなものは見えないって言う様な、もし人が居たらですね、大変ですよ。好きでも嫌いでも必ず其の通りにこうやって全部受け入れられる様に出来てる。
 その内容を見ると「自受にあらず、他受にあらず、有受にあらず、無受にあらず」と説明してある。向こうの物をこっちへ受け入れるとか、あっちの物をこっちに入れるとか、自分のものをとかって言う風な事ではない、と言う事がここに書いてある。有るとか無いとか。これは簡単に言えば最初から受け入れると言う様な構図になってないと言う事です。向こうに物があって、こっちに人が居て物を見るって言う様な構図に成ってないんですね。どうでしょう、理解いくかしら。
 皆さんが物を見る時に、そこに物があるって気づく前に、見えてるって言う事があるから気づくのでしょう。気づいてから見える訳じゃないでしょう。えっ?どっちが先だと思いますか。有る有るって気づいたから、そこに物が出て来るのかしら。見えるのかしら。じゃないでしょう。有るものに気づくだけなんでしょう。有る物に気づいた時に私たちは見えたって思ってるのでしょう。本当は違うでしょう。本当はそんな事する前に、ちゃーんとその通りになってるでしょう。
 こう見えてるって、こうパッとやった時にもう既に全部あるでしょう。要するに有るってことは見えてるでしょう。見ようと思わないのに、こう目をむけたら全部出て来るでしょう、一気に。そしてその見えてる中で、こうやって人が何人いる、あの人がいる、この人がいる、初めての人だって、こうやってやり始めるのでしょう。そういうな事を此処で言っております。
 基本的には皆さんが考えている様な在り方でないと言う事です。もっと平易な言葉を言えば、最初から全部ちゃんと備わっていると言う事です。何一つ欠ける事の無いほど完璧になってると言う事です、最初に。もしそう言う事が皆さんが理解できたら、是でいっぺんに楽になるでしょう。私たちは何か、どうかしないと本物になれない、どっか欠けてるんじゃないか、足りないんじゃないか、そう思うからそこをこう手をつけて、自分の理想の様な形にしようとしてるでしょう。ところがよく見てみると、そうじゃないんですね。手をつけなくても、完璧にそれで出来てるんですね。
 「生身受なり」これ生身って読むとよく分かるでしょう。生身に受ける、この一人一人の今生きてる自分の有り様です。ここの部屋に是だけの事がこうやって見えるって言う事だって、これだけ沢山の人が集まったって、やってる事は一人一人自分自身の有り様だけですね。他の人の見てる気配なんて何処にも入って来ないでしょ。生身のこの身ものの受けてる有り様だけです。だけども色んな考え方があるから、隣の人はどう言う風に見えるんだろう、あの人はどんな風に見てるんだろうって、そう言う思う力があるから、人のことが気になる。人のことが気になると、自分が本当には見ている、触れている様子の方には用が無くなる。それは愚かなことですよね。自分のやってる事見ないで、人のやってる事ばかり気にして生きてるって愚かでしょう。
 「生身苦なり」って言うんですね。苦しみの中で、最初に仏教で挙げてあるのは生老病死って、それを四苦、四つの苦しみと言ってます。その最初は、生まれると言う事が苦しみの最初に挙げられてある。生まれる事が苦しみなのかって、それはそうでしょ。生まれたから死ぬるのです。生まれたから老いていくのです。老いの苦しみ。生まれて来たから、病にかかったりして、傷を負ったり色々するのです。もっと別の事を言えば、生まれて来たから生きていくために、皆さん、遮二無二苦しんで生きて、生活して、生きるために苦しんでるんでしょう。自分だけならまだしも、家族が居たりすると、尚そう言う事が出て来る。まあ一般にはそうやって苦しむんですね、それで。楽しむ方法、勉強しないとだから駄目でしょう。
 「甜熟苽を」甘く熟した瓜、何だろ、スイカでも良いかね。「苦葫蘆に換却するをいふ」下にも脚注がありますが、折角素晴らしい出来栄えなのに、人はその事を知らないで、滅茶苦茶な取り扱いをして苦しむ様に生きてる、と言う事です、この言葉は。甘い瓜をわざわざ苦いものに換えてしまう。それはものを知らないからでしょう。ものをよく知ってたら、そんな馬鹿なことはしないでしょう。甘いものは甘いまま食べるでしょう。じゃ、どうして甘い瓜を苦いものに変えてるか。実例を皆さん御自分の生活の中で見て御覧なさい。頬っぺたを一つイキナリ叩かれた。それだけの事なのに、「何をお前やるんだ」って言う風にしてすぐ換えるでしょう。これ問題が起きますよね。実際はパン!これだけの事なのに、「何だお前は」ってそう言う風に取り扱う。
 ちょっと年が行って物覚えが悪くなって、同じ事を何回も何回も繰り返す様になると、聞いてる人が「又」って。全部こう言う事ですよ。換えてるんですよ。よく見てください。その時にその通りのことがこう喋られているだけで、他に何もないですよ。又喋ってるとか同じことをとか、一切そう言う事はないんですよ。そういうの知ってますか、皆さん。頭の中で操作した話なんですよ。実際の耳は、音っていうのは空気の振動ですが、言葉がある訳じゃない。空気の振動が耳に、鼓膜にこう触れると、振動が起こったら伝わるだけなんです。音ってそうなってる。それを皆さん勉強したことがあるから多分知ってる。だから振動が止まると音は何処にも聞こえない。そうなってるんです。
 ところが人間は言葉を学んだから、振動してる音を聞くんじゃなくて、其れを言葉に換えるんですね。音を聞いてると思ってるんですね。カラスはカーカーって言うんだけど、カラスに聞いてごらん、カーカーって言ってない。猫はニャーニャーって言う、ニャーニャーってそんな風には言ってない。人間が作った擬音です。既成の概念を作って、大体猫ってたらそういう風に鳴く、犬ってワンて鳴く、そう言う風にもう決めちゃった。そうすると、犬の鳴き声は?って聞くと、ワンって。それが本当に犬が鳴いている声だと思ってる。それ聞いてごらん、違うから。
 それはその振動した時だけ音が出るんですね。その他の時、一切音してない。ああ言うものでもそう。(音がする)ほら、あるんですね、なのにここが優秀なもんだから、さっと捉まえて、さっきああ言う音がした。又ああ言う音がしたって、そうやって。それは聞いてるんじゃ無いんですよ。これは頭の中の話。
 こういう音をここで甘い瓜を苦い瓜に換えるとこう言うんですね。折角それで済んでるのに、問題なくその時その事だけで済んでるのに、それが問題になるように生きてる。こんな難しい言葉で書かなくたっていいのにって思うんだけど、道元禅師という方は優秀な方なんでしょうね。こんな言葉を持ってきて私たちに頭へ、どうかなりそう。
 「これ皮肉骨髄ににがきなり」一旦そうなると、じっとしてられない位苦しむのですね。自分で勝手に思い違いをしただけなのに、身体全身。ひどい時には、だから自滅してしまう。してるじゃないですか、現実。自分を自分で苦しめて、追い込んで。心らしいものがあろうが無かろうが、信仰心があろうが無かろうが、苦しむ時にはその様にして苦しむのですね。徹底苦いですよ。


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