FC2ブログ

正法眼蔵を学ぶ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

三十七品菩提分法 四念住 観身不浄 Ⅱ

音声はこちら↓

三十七品 四念住 観身不浄 Ⅱ ①
三十七品 四念住 観身不浄 Ⅱ ②
三十七品 四念住 観身不浄 Ⅱ ③



「まさに拈処に通路ある道理を参究すべし」って言う事は今やってるものを取り上げて、

その中に勉強する本当の道があるということを学びなさい、とこういってます。


例えばって「浣衣の法」洗濯の法ですね、着物を洗う。

「水は衣に染汚せられ、衣は水に浸却せらる」それはそうでしょ。水の中に着てる物入れればこういう風に

なるでしょ。やってみればわかる。綺麗な水の中に着てた物を入れれば、当然水がそれによって汚れるのでしょう。

で衣の方はって云うと当然水浸しになるのでしょう。


さて次のところですね。この水を用いて洗うと書いてある。「この水を換却して浣洗すといえども」

水を取り替えて、洗濯機でもそうでしょう。洗い何分とか濯ぎ何分とかって、なってるから、水を取り替えてるでしょ。

最初に入れた水のままで、最後まで濯ぎまでするってことはない。新しく綺麗な水いれて洗って行くね。そう言うな事。


「なほこれをもちゐる、これ衣をあらふなり」で一番洗い、両番洗い、一回二回洗う綺麗になったなって言う風に

なる。「見浄ならざれば」一回洗っても二回洗ってもまだ汚れが残ってるって事が見つけられたならば、

「休歇に滞累することなかれ」そこで止めるなって。でしょ。綺麗になるまで洗うのでしょう。

何の不思議は無い文章でしょう。

「水尽更用水なり」水を取り替えて更に洗う。「衣浄更浣衣なり」そうやって何回も洗っていく。


「水は諸類の水共にもちゐる」ってありますが、泥水で洗っても綺麗になるって言うの、知ってますか。

皆さん足なんか洗う時、泥水で洗っても、泥取れるでしょう。汚いもので洗ったら取れないと思ってるから、そんなことは無い。

ういうな事がある。諸類の中に、諸類の水ってありますが、雨水もあれば、水道水もあれば、川に水もあれば、

お風呂を沸きわかした使った水を使って洗う人もいるでしょう。もったいないから。一回で流しちゃうって言う様な事しないで。

兎に角共に用いる。衣を洗うのに良いと。


「水濁知有魚の道理参究すべきなり」水が濁っているって言う事はそこに魚がいると言う事。

水が綺麗でないということはまだその衣に汚れがあるということです。濯ぎをする時、濯ぎの水が綺麗になって初めて、

皆さん止めるでしょ。洗濯って。ああもう最近は人任せだから、知らないんだよね。洗った人がいないとわからん。


「衣は諸類の衣もともに浣洗あり」お袈裟も洗うし衣も洗うし内衣も洗うし、色んな物洗います。

まあ洗い方にもまた方法があるんですが、それはさて置いて、「恁麼工夫して」この様に工夫して、

「浣衣公案現成なり」衣を洗うということに拠って、ものの真相を学ぶほど、とこう言う事でしょうか。

今洗濯をしてることに拠って、本当に何をするか、この後にも又こう言う事が書いてある。いいですか。


「しかあれども浄潔を見取するなり」本当に自分自身の中の問題があって、綺麗さっぱり片付いたかどうかって、

修行って。心底手放しで安心が行くようになったか。少しでも何処かに、まだ気にかかる問題があることあるか、

と言う様な事を此処でいっているのです。それをないがしろにするようでは、修行はダメだといってるのですね。洗濯と同じように。

だから「浄潔を見取する」わけですよ。自分自身眺めて、自分の内容が本当に自分自身でどこからつついて

みても大丈夫かどうかって言う事を、そうなってるかどうかを見るわけでしょう。


足袋などは大体脱いだら裏返しにして先ず洗うでしょう。そのまま、脱いだままで外側だけ洗って良しにしない。裏返しにします。

洗う前にポケットなどは裏返しをして、そこにこうゴミが入っているかどうか見て、それをちゃんと払う。

洗濯機なら、洗濯機の中に入れて洗うのでしょう。でないと、あそこの洗濯機の中には、ゴミ取る袋の中に入るように

なってますから溜りますけど、ああいうのが皆溜まるわけでしょう。溜まるから良いって言うもんじゃないですね。

その前に綺麗にしといて洗った方が良いに決まってます。


「この宗旨、かならずしも衣を水に浸却するを本期とせず、水の衣を染却するを本期とせず」

何が本当に問題になるかって、「汚染水をもちて衣を浣洗するに、浣衣の本期あり」汚れた水を以って

衣を洗う本期あり。そこに見るべきものがある。


掃除をして雑巾を使いますが、雑巾を水の中で洗う。雑巾の汚れが取れて水が汚れる。その汚れた水の中でザブサブザブザブ

やってる。そうすると、汚れた水なのに雑巾がどんどん綺麗になっている、と言う事もあるでしょうね。

水が綺麗になった位洗った雑巾で雑巾がけをしなければ、雑巾がけの意味がない。知ってますよね、それ位。

まあああ言う須味壇とか仏様達がおられる様な大事にしている所もある。じゃあって言って床もある。六角堂もある。

どちらも同じ様に大事に扱います。上には上巾って言って、布巾が綺麗なものでなきゃ、汚れたものでなすったてしょうがない。


「さらに火風土水空を用著して衣をあらひものをあらふ法あり」まああるでしょう。いろんなものを用いて綺麗に

する方法が。「地水火地風空をもちて、地水火風空をあらひきよむる法あり」あるでしょう。

皆さんが毎日の中でやっておりますから、みて頂ければいいじゃん。


「今の観身不浄の宗旨、またかくのごとし。これによりて蓋身蓋観蓋不浄、即ち嬢生袈裟なり」

嬢生袈裟。人間は一枚の着物を、縫い目のない伝衣って言うんですけどね。羽衣、伝衣、縫い目のない着物を頂いて生まれてくる

と言うことでしょうかね。この嬢生袈裟。誰も頂いてます。さっきは皮袋と書いてあった。体皮と書いてあった。

体皮って何か肥料みたいに聞こえるかも知れませんが。皮袋、縫い目のないお袈裟。所謂皮膚ですね。そう言うもの。

身を覆い、観を覆い、衆生を覆うというのでしょうね。「蓋身蓋観蓋不浄」


不思議だね。これ(この身体を指差し)が世の中に出てくると、一緒に全部が出て来る。これ(身心)が出てこない前には、

あることさえも知らない。まさかの、あることさえも知らない。知ることが出来ない。

これ(身体)が出て来ると一緒に、全てのものがこれ(身体)と一緒にパッと出て来る。これ(身体)だけが出るんじゃないんですね。

どう言う事を言うかって言ったら、全てこのもの(身体)の上に現れるんですよ。それ普通は見えたとか、

聞こえたって言うんですね。全部この(身体)上に現われたことです。

そういうことで、この蓋の字を使ってます。蓋い尽くす。不思議ですね。これ(身体)が出て来ない限りはそう言う事起きないんです。

それが最終的にはどこかに、こう消えていく時に、さっと見事に何の問題も無く終わる。亡くなった人が何かした事は、

一度もないでしょう。亡くなった人が人に災いを起こした事有りますか。そんな事ないでしょう。何処にも無いですよ。

ただそれは、生きてる人が自分の中で亡くなった人のことを思って、気にしてるだけです。

その事が自分を苦しめたりするだけですよ。ああしといてあげれば良かった、あれを言われたんだけれどやらずに済んじゃった

とか、色々気になることが自分の中にある。そのことが問題になってるだけであって、亡くなった人が皆さん方を苦しめたり

何かした事は一切ない。そう言う事は知っといてほしい。


「袈裟もしこの嬢生袈裟にあらざれば、仏祖いまだもちゐざるなり。ひとり商那和修のみならんや」

出て来ると、兎に角このものにピタッとピタッとくっ付いて出てくるんだよね。こういう袈裟(老師の着られている)とは違うんです。

本質的なものです。誰も持ち合わせてしる。天下一品の一枚しかないお袈裟です。だから「毀傷せざるは」と言う様な教育勅語に

あるのですかね、身体をいじめて傷つける云々って言う様な事は、そう言う生き方をするのが親孝行だって言うのがあるでしょう。

まあそれは良いとして、仏祖もこういうものをもちいてるね。商那和修尊者だけではない。


「この道理よくよくこころをとどめて参学究尽すべし」まあそれでやって下さい。こういう道理がある。

洗濯の様子もある。ここで観身不浄って言うのは一応終わってるんですね。この辺でやめておきましょうか。


いずれにしても、こうやって道元禅師も、どの様に本当に取り組んで日々いるか、こう読んで良くわかる気がしますね。

今こうやってる事、洗濯なら洗濯、そこに丁寧に自分の様子を見てます。私達が洗濯って、中に入れて、自動だから時間がたつと

綺麗になってると思ったら、ただ干す位の程度です。今、そうなってる。

まあ昔ほど、そのこびりついた汚れが付くほど今の人は着ませんからね。毎日といって言い程洗ってる。凄い清潔感ですよね。

そういう意味ではいまは。だから敢えて洗剤を入れて洗わなくても、殆ど大丈夫な位綺麗なものじゃないかと思う位ですけどね。

あれ毎日洗剤を入れて洗うんで、それで水を汚している、流す時に。そっちの方が問題かも知れない。お風呂だってそうでしょ。

毎日入ってるんだったら、殆ど石鹸やシャンプーで身体を洗う必要はないと思う。ああやって折角自分の身体を守るものがある

のに、皆それを落してそして肌を傷める様にして生きてる。それはお化粧の宣伝じゃないけど、きっとやってますよ。

見てるとそう言う事言ってる。ものの本質を知らないから、何か滅茶苦茶やっちゃうんだよね。やらなくても良い様な事。

そういうな事もこう言う処に観身不浄。自分自身の身体を見ると言う事が大事だと言う事が書いてある。


観身は身観なり。身は不浄を観ずる時に、身を観ると言う事は、この身体の様子に学ぶと言う事、その他の事ではない。

「正当観」そうやって自分の本当の今の身体の様子にこうやって居るって言う事が飛び抜けて大事な修行

なんだと書いてあるでしょ。だけど私達はそういう風に多分してない。身体を観るよりも何処を観るかって言うと、

自分の中に出てきた気に入らない思い、問題にしてる思いが出てくると、そのことを問題にしてるんですね。身体なんか観ない。

そう思いませんか。身体なんか観てないですよ。思いが出てきて、その思いの中に色んなものが問題になってると、

それを問題にしてるだけですよ。それじゃ修行にならないって書いてあるんです。

その時に、そう言ういろんな出てきた思いが問題になってる時でも、そんなこと放っておいて、自分の今の身体の様子に

目を向けなさいと言う事です。これが今の第一の観身不浄のところで一番中心になることでしょう。それをやってみて下さい。

こうやって教えてくれてるんですから、実物に用があるんですよ。考え方の上の話じゃなくて、実物に。自分が生きてるこの実物、

今の実物がどういう風に生きてるか、そっちの方をよく観なさいって言ってる。


もう何も考えられないって言って、そう言う人でも、こうやって指すと何も考えられないから見えないのかって、

そんなことはないんだ。あの通り見える。話なんか聞いちゃ居られないって言っても、「美味しいケーキがある、食べる?」って

聞くと、「はい」。食べるとちゃんと味がするんだよね。そう言う風にして身を観ずるんですよ。身体の方を、考えじゃなくて。

そうすると、整理しなくてもちゃんと生きてる自分の様子がある。と言う事で終わります。
スポンサーサイト


  1. 2017/01/06(金) 18:55:32|
  2. 三十七品菩提分法 四念住
  3. | コメント:0
<<三十七品菩提分法 四念住 観受是苦 Ⅰ | ホーム | 三十七品菩提分法 四念住 観身不浄 Ⅰ>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。