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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 四念住 観身不浄 Ⅰ

正法眼蔵第六十     三十七品菩提分法

音声はこちら↓  

三十七品 四念住 観身不浄 Ⅰー①
三十七品 四念住 観身不浄Ⅰー②
三十七品 四念住 観身不浄Ⅰー③
三十七品 四念住 観身不浄Ⅰー④.
三十七品 四念住 観身不浄Ⅰー⑤





次のところ行きたいと思います。三十七品菩提分法。少し読みます。

「古仏の公案あり、いはゆる三十七品菩提分法の教行証なり。昇降階級の葛藤する、さらに葛藤公案なり。

換作諸仏なり、換作諸祖なり。」

四念住 四念処とも称ず。

一者、観身不浄

二者、観受是苦

三者、観心無常

四者、観法無我


「『観身不浄』といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳々する『観身不浄』なり。

不跳ならんは観不得ならん、若無身ならん。行取不得ならん、説取不得ならん、観取不得ならん。

すでに観得の現成あり、しるべし跳々得なり。いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃床なり。第幾月を挙して掃地し、

正是第二月を挙して掃地掃床するゆゑに、尽大地の恁麼なり。」



まだ続きますね。古仏の公案てありますが、公案というのは、誰しもが今、目の当たりに、公に、公の字はおおやけですね、

相手にしていることです。守らなきゃならないと言うよりも、その事を抜きに生きられないと言った方が分かりやすいでしょう、

と言うのが公案です。


その中に37の項目が一応挙げてある。それを此れからずーっと見ていくわけですが。教行証だから、教えがあって、

それを実際に体験をして経験をして、経験をするとその経験した内容がどういう風になってるか、はっきりする。

それは証ですね。悟るって言う証(あかし)。


こういうものを読んだだけで理解しているだけでは無理だって言うことが、先ずそこに出てくるでしょう。教。

聞いたら、教えがそこにあったら、それを受けて、あ、そういうことなのか、じゃそれはどういう風になってるんだろうか、

どういうことなんだろうか、やってみよう、言ってみようと言う様な事が行われる。

行われると、必ずそこに行った結果が出てきます。それに拠って、なるほど、なるほど最初に教えられた通りだな、

言う様なことが出て来る。そう言うのが教行証。


えー、そこに「昇降階級の葛藤する、さらに葛藤公案なり」浮き沈みと言っていいのかね。昇降、昇り下り。

良く分かるとか分からないとかって言う様なこともあるでしょう。そういう風にしてそのものと一緒になりながら、

生活をしてものの真相を究めていく。それどこまでもそうやって行くんでしょうね。そうやって生活をされた方々の代表が、

仏祖あるいは祖師という風に呼ばれていますね。


それで、第一番目に四念住と言う一応大きな項目があって、四念住だから四つある訳ですね。それが四つそこに出て来てます。

身は不浄なりと観ず。受は是苦なりと観ず、心は無常なりと観ず、法は無我なりと観ず。こう言う風に4つ。

無常とか無我って言うようなことは、三法印と言われるものの中にも、諸法無我、諸行無常と言う様なことが出てきますね。

だから仏教の基本的な勉強の中にいつも出て来る言葉ですね。


「観身不浄、身はこれ不浄なりと観ず」と言うは、今の観身、身体を見ればですね、全体皮で包まれている、

ずーっと。その中に肉があったり、骨があったり、血管があったり、臓物があったり、色々して出来上がってるのが、

人間の身体です。臭皮体って言い方をします。中に臭い物が一杯入ってるって言うんですね。

それが人間の身体ってそういう風に表現する。


まあ、「一袋皮は尽十方界なり」えっ!って思いませんか。是(この身心)が全てたって、中々思えないでしょう。

この部屋にこれだけの色んな物があるって言うことは、誰がやるのですか。他の人がやりますか、誰か。

必ずこの一袋皮と言われるこの身体が、こうやって感じ取ってる訳でしょう。戸を開けて、外を見ても、広い海の方も見えるし、

お正月の朝日の昇る話を聞きましたけど、海の方向まで、ダーっと皆、夜空の方もどこまでもあるけど、

尽十方界、皆、自分自身の様子でしょう。他の人の様子なんか一つも無いんですよ。ありとあらゆる色んな音がって言って、

聞いて楽しんでるんだけど、その音がこれ抜きにしては絶対聞くことが出来ない。

これ(身心を指して)に拠って音が出ると言ってもいいでしょう。


それ位この一袋皮、尽十方界なんですね。そういう風に学んで来ないもんね。これはこれだけ、わずかにこれで区切って、

これだけの自分だっていう風に教えられて、その他は皆さん自分以外のものだって教えられてる。

自分の目で見ないものは、どうなってるかって分からないね。自分の耳で聞かない音はどういう風になってるかって、

わかんないね。これに拠らないと全く何も分からないです。全部これに拠って理解するんですね。

だから私達は、己事究明と言って、自分自身が本当にどうあるかって事を学ぶんです。これさえ学べば全て学べるんです。


「これ真実体なるがゆえに」皆さんそういう風に、自分の身体ってなってませんか。

私が喋ってるてのは、信用ならんかしら。なんか疑いのある人、反発がある人、そんなこたあないよ。


「活路に跳々する『観身不浄』なり。」生き生きした様子でしょ、活路って。

生活って言うのも、生き活き(イキイキ)と書くじゃんね。本当に凄いもんですね。


「不跳ならんは観不得」不跳ならんは観ることを得ず。何時までも前のことに留まって居る様では、

今の様子がはっきり観ることが出来ないという意味ですね。パン!パン!パン! (両手を打ち合わせる)

本当にこうやって音を出す時、前の音パン!問題にしてるようではパン!音は

パン!パン!聞けない。本当にパン!聞こうと思ったら、今の音だけが

本当にこうやって、パン!パン!聞こえてるところパン!観ないと。

そういうのが不跳、跳び越えなければって。前のものを問題にしてる間はパン!

本当に音に触れることは出来ない。


物だってそうでしょ。こうやってこっち見てるのに、前のこと、こっち見た時に問題にしてるようじゃ、これちゃんと見る事が

出来ないのでしょう。日常茶飯そうでしょう、生活の中で。皆さん方ひょっとしたら、そういう風な生活してるんでしょう。

真実が見れない様な生活してるんでしょう。だから何時までも過ぎ去ったことを取り上げて、愚図々々愚図々々

言ってるんでしょう。本当に生き生きとした生き様が、今、展開されているのもかかわらず。


若し身なからんには「若無身ならん」自分らしいものが、本当にそう言う処を見てもですよ、

これが私って言う様な気配はどこにも残らないですね。不思議ですね。「行取不得ならん、説取不得ならん」

得ることも出来なければ、説くことも出来ない。行ずることも出来なければ、観ることも出来ない。色んなことをこう挙げてあります。


でも心配要らんよって言うのは「すでに観得の現成あり」って言うのは、皆さん方に救いの道なんですね。

すでに誰でも出来てますよーって言ってる。やれてますよ、現成だから。既にその様に、今出来上がってる。


「しるべし跳々得なり」 前の事をやってる人は一人も居ないじゃないですか。

鉛筆一つこうやってやるんだって、前のことをやってる人は居ないじゃないですか、書く時に。どうですか。

これを書く時に前のことやるって出来ないじゃないですか。今書いてる様子が本当にあるだけじゃないですか。

それ位、全てのものから離れきっているでしょうが。こんな細かいことを道元禅師観てるんですよ。


「いわゆる観得は、毎日の行履、掃地掃床なり」いわゆる観得は毎日の生活、行履、生活ですね。

明日もお掃除があるって言うけど、その前の所こう掃く、掃地、床の間のとこ掃いたり拭いたりするって言うことです。

日常茶飯の事でしょう。そこへそう言う事が実際行われているじゃいかって言ってるんです。こうやって大地を掃く時、

前の事なんかやっちゃ居ないじゃないですか。こうやって拭くときに前の事なんかやっちゃ居ないじゃないですか。

必ず、今やってる事だけじゃないですか。こうやって。でも人間はそうなっているにも拘らず、何か、今やってる事よりも、

前の事が気になる。だから綺麗にならないですよ、掃除して。見て、見ているはずだけど、見てないんだよ。触れてるようで、

触れてないんだよ、今の事に。どっかへ気が行ってしまってる。それ、注意すべきじゃないですかって言う事でしょ。


「第幾月を挙して掃地し、正是第二月を挙して掃地掃床するゆゑに、尽大地の恁麼なり」

ここらは今申しあげてる様に、昔のことやらないって言う事だけですよ。本当によく見てください。今やってる事が、

その時に其の通りあるだけです。その内容たるや、皆さんが求めてる最高のあり方なんですよ。

払わなければならない様な塵がないんです。汚れているから拭くとか、汚いから掃くとかって言う様な掃除じゃないんでしょう。

作務です。お寺でやる作務。一般のお掃除は、そうやって汚れてるから汚いから、そこを綺麗にするってその程度なんです。

お寺の掃除っていうのは、そんな事じゃ無い。こうやってやったら身も心もそれに拠って全部清浄になるようになってる。

前のものが一切残らんほど全部。良いじゃない。その位綺麗にやったら。ちょっと休憩しましょう。


さあ次のところにいきたいと思いますが。

「観身は身観なり」観身というのは自分自身のこのものを相手にすると言う事だと言っております。

「身観にて餘物観にあらず」この他の事じゃないよって言ってるね。いいですね、修行するのに、

この自分自身の身心を借りて修行するのですね。この自分の身心以外のもので修行はしない。


「正当観は卓々来なり」本当に自分自身のこう様子を見ると言う事が大事なんでしょう。

高く立つ様とかすぐれた様子とか言って訳してますけども、大事な事だといってるんです。自分を本当に観るって言う事が。

それだけで十分なんですね。だって、この上で問題が起こるんだから。この各自分自身の、この身心の上で、

問題が起こるんだから。他処で問題が起こった事ないんだから、生涯。

問題が起こるって必ず、この自分自身の上で問題が起こる。他の人の身体の様子ではない。そんなのは百も承知でしょう。

百も承知のはずなんだけど、何かあの人が私をいじめたとか、どっかに原因が他所にあるようにしか、

思えないのが情けない処ですね。そう思ったのは皆、この自分自身が思ったんですよ。そう言う事。他の人が思ったんじゃない。

あいつあんなことやって馬鹿なやつだな、そういうのだって、自分が思ったものに対して思っただけであって、

他の人が誰もやってないんですよ。そういう思いを自分の中で起こして、その人をそういう間違ったものの見方でみてる。

その間違った見方をしてることを気づかないって云うことが、どうして起こるかって言うと、自分自身に目を向けないからですよ。

身観じゃないからですね。向こうの人のことだと思って見てるからわからない。


「身観の現成するとき、心観すべて摸未著なり、不現成なり」 そりゃそうでしょ。皆さんが物を見る時、

これだけ部屋の中に一杯あるけど、こっち見る時他のものは見ないですよ。そう出来てるんです。

身体とか心とかって、言うんだけど。音がしてるのに聞こうと思う時には、見る方が疎かになります。それで良いんでしょう、別に。

大勢の人と話している中で、あの人と話をしようと思うと、他の人の話は、殆ど。不思議ですね、聞こえてるはずなのに、

関係なく、その人だけの話をこう聞き取る力を持ってる。ものが一杯見えてるのに、そこにきれいな花が咲いてるでしょう、と言うと、

そこだけがこう見れる様になってる。他のこと一切問題にならない。そやって日常私たちは生活をしてますね。


「しかあるゆえに」だから、「金剛定なり」その事が微動だもしない位キチッとこうやって

生活が出来る、味わえる。金剛定ってそういうことですね。ダイヤモンドが別に座ってるわけじゃないですよ。金剛。

揺ぎ無い確かさ。どんなに人がそれを崩そうと思っても崩せないほどきちっと定まっている。

或いは「首楞厳定」と言う呼び方をするのでしょう。「ともに観身不浄なり」


その後にですね、もうちょっと行くと、道元禅師もちゃんと話をしてくれていますね。

いいですか。「おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり」こんな難しい表現をしておられます。


そこちょっと置いといて、次のところと見るとよくわかる。綺麗とか汚いとかって言う対比をしている話ではないと言っている、

不浄と言うことは。


「身はこれ不浄なりと観ず」って言うことは、その前のページの下の脚注の方にこんな風に書いてあるでしょ。

六番目。「凡夫は身を不浄と観じて転倒の思いを離れるのであるが」私達も学校に行って習った時に、

この不浄観て言うのをですね、どういう風に先生方が、教えてるかって言うと、此処に美味しいご馳走があるとするとですね、

人間はその美味しいものを食べるに執着するから、物に。だからそういう時に、此処こうやって塵があって、

障子の桟に付いている塵を指で集めて取って食べるって、そうやって不浄観っていうのは、そうやって教えられた。


人間も、あの人は綺麗な人だって惚れるようなことが事が在った時に、何だ愛欲かな、そういうものにこう引っ張られるのは

いけないから、綺麗な人を見た時は、身体の中は糞(いばり)だらけって、そういう風に思えと言って、

そうするとその執着しなくなるって。そういう風にこの観身不浄って言うのを習った。

多分学校でそういう風に聞いたと思うんだけど、全然違うんですよね、道元禅師のは。そう言う綺麗とか汚いとかって言うことの

話をしてるわけじゃない、とこう言ってるんですね。これが此処の大事なとこなんです。はじめっからこの身体は不浄だからって

言う風に見て、そういう人間の、物に対する執着心とかお金に対する執着心とか色んなものにくっつく様なものを離れなさいって、

一般的にはこの観身不浄ってそうやって教えてるんですね。それえ分かり易くていいようなんですが、ここは違う。


「夜半見明星の道理」夜半て言うんだけど、明け方でも良いでしょう。

お釈迦様は明けの明星をご覧になられた。明けの明星っていうのは、午前何時ごろかしら、まだ夜が明ける前ですね。

明星は金星です。金星は他の星よりも、ちょっと人間の肉眼で見た時に明るく見えるし、大きく見えるからよく目立つ星です。

見ている時は見るという事はない。見ている人も出てこない。明星が瞬いているだけです。自覚も無い。そういうことを観身不浄と

言うんだって。まさしくそれを読んでみると、どこに身は不浄だって観るなんて、そういう綺麗とか汚いって事は一切問題に

なってないね、確かに。これ大事な事ですね。


「浄穢の比論にあらず。」観身不浄というのは一般に考えておられる様に、綺麗とか汚いって言う、

相対的なものの見方の上の話ではない。お手洗いのことをご不浄と言います。あれは一番綺麗な場所です。

汚いって言うんじゃないですね。お手洗い、ご不浄って。ここから出て来るんですかねえ。聞きませんか、ご不浄って、お手洗いの

こと。きれいにあらずって書くから、じゃ汚いのかって、そうじゃない。きれいにあらず、綺麗とか汚いって言うことじゃない。


「有身是不浄なり、現身便不浄なり」必ずこのものは、ものに触れると触れた様に変わるんですね。

色も形も何も持ってないんだけど、松の枝ぶりに触れると松の枝振りに触れた様になる。蘭に触れると蘭に触れた様になる。

これ身体があるから、このことを言ってるんですね。「有身是不浄」音がするとパン!

その様に変わるんです。音がしたパン!通りにかわるんですよね、この身体(身心)が。

変わらない人一人もいない。パン!この音がして。音がしてなかった時と音がした時パン!

必ず変わるんですね。


「かくのごとくの参学」こういう勉強の仕方ですね、それはもうちょっと変わったものを挙げれば、

「魔作仏の時は魔を拈じて降魔し、作仏す。仏作仏の時は仏を拈じて図仏し、作仏す。人作仏の時は人を拈じて調人し、

作仏するなり。」
これは普通に言えば、材料がどの様なものであっても、今やってることで本当に修行するんだ、

と言う事です。他にはないんですね。掃除をしている時、本当に掃除をして綺麗になる時、どう言う事ですか。

ある一部だけが綺麗になる事で済むことですか。

カンナ使って木を削ってる時、それが綺麗になるって、どういう事を言うんですか。ただこっちの面が綺麗になるだけですか。

そんなんでは綺麗な板は引けませんよね。大工さんに聞いてみたらわかる。

本当に綺麗な板を引く時にはそんなことじゃないですね。必ずその様に、その事で自分の内容がキチンとするように出来てる。

他の事を用いるんじゃない。


書道をする人は筆でこうやって書いてる事に拠って、自分の人生をきちっとするのでしょう、生き様を。

それが出来ないようなもんだったら、書道じゃないでしょ。悪戯書きでしょ。ピアノを弾く人は音を出してる事自体が

自分の人生の全てでしょう、その時。それで評価されてるでしょう。

音だけを評価するんじゃなくて。音自体がその人を評価するのでしょう、出て来る音が。そうやって引いてるんでしょう。

だからちゃーんとしたものを弾いてる人見てごらん、うたれるよ。バイオリンだって此処だけがバイオリンじゃない。

こうやってこの身体全体が一つのバイオリンになって音が出て来るんでしょう。いう事ですよ、皆いちいち。どんなものでもいい。

この後に洗濯の事が出て来る。皆が、これちょっと皆さん、分かり易いかもしれない。道元禅師も洗濯するんですよ。

自分の着てる物を。
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  1. 2017/01/04(水) 18:34:01|
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