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「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅱ

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とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_01
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「とある研修会でのアンケート」より・の質問Ⅱ_04


『前に食べたものと今食べたものの違い、それは味なのではない。前にたべたものの中にある味を想像して、それを頭

の中で今食べているものと比べているのだと言われているのを聞いて、心にとても気づくものがありました。

今を理解することは頭で思った時、それは過ぎていることなのに、今と思ってしまっている。それを相手に伝える時、

どの様にするのが一番分かりやすいかを知りたいです。』



この人は少なからず、聞いて何かを、このように理解してくれたんですね。気づく事があったんですね。

一方は味の話をしているんで、一方は今食べている味そのものの様子ということが少なからずわかってる。

だけど、これ、分からない人、結構多いんですね。今食べているものの味がしてる時に、この前食べたものの味を、

話をあるいは思い起こしている。何かそこに比べる味があるように思っている。

一方は思い起こしているものであって、味じゃないんですね。あの時のライスカレーはとかって言ってるんです、それ皆、

味じゃない。それはよく分かるでしょう。何をやっているか。思い起こしているだけの話であって、

味なんかどこにもしてないでしょう。でも人間て、味だと思っているんですよ。味がしてると。

今食べている味がしている様子と比べるんですよね。天地ほど次元が違うものですよ。べる値がないに一方は。

まあそう言う事を、こうやって自分の様子の中で、話をとおして、少しこう気づいてくれた人がいるって言うので、

嬉しかったんですが。

だけど今度は、それを人に伝える時、どのように伝えるのが一番分かりやすいかと言う様な事がこの人の中に残っている。

あなたが感じた通り伝えれば良いじゃないか。あなたが気づいた通りが一番早いじゃないですか。

自分が理解出来たことでやるのが一番人に伝えやすいでしょう。自分の中で理解できてないものを使って人に話すなんて、

難しいじゃないですか。自分で理解出来たものなら、どんなにでも話ができるじゃない。

自分に理解出来てないものを扱って人に正しく伝えようと思うから難しいじゃん。格好良すぎるじゃん。

格好良く生きる事などではない。本当の自分が生活して、ちゃんと理解できた事だけでよいじゃないじゃん。一杯あるでしょう。

自分の生活している事だから、自分でちゃーんと分かる事が一杯あるでしょう。


★『少欲のところで、少しのことでも満たされる心があれば幸せであるとおもうのですが、あれが欲しいこれが欲しいと

ならずに、心が満たされる完成があればよいのではないかと思うのですが、これは少欲とは違うのでしょうか。』



これ、一般の人が考えている欲が少ないって言う事。いろいろ欲しがっている人が、そう言う人が少し欲張りをしなくなったって

言う風な意味合いの少欲。仏教で示している、お釈迦様が残された、少欲として示されいるものとは全然違うね。道理を聞いて、

少しでも余分な、欲しがる気持ちを抑えて、そうすると物が少し整理されるだとか思ってる。悪くはない。

やたらに欲しがっているものを少し制御が出来るって言うのは、悪くはない。

そう言う事と違うでしょ。お粥をすすってる時に、もうそれだけで、他のもの一切その時に持って来なくても、満喫できるんでしょ、

お粥の味を。そうやって食事を頂いてるのでしょう。そう言う事から比べると、何か少し抑えるということとは違うじゃないですか。

抑えて、やっと自分の理想的な生活に近づくと言う様な事とは程遠いね。


★『目の前に起きていることを、あるがままに受け止めると言う事は、まさにお釈迦様の言うとおりのことであり、

分別をしないということが涅槃ということはわかります。然し、お釈迦様は社会生活を営むと分別をしないわけにはいかないから、

サンガ(坊さん達の集団ですね)を造り、修行をし、道元禅師は山奥に入り修行をしています。現代の日本の僧侶は社会に身を

置きながら涅槃に到るための修行をする、なるべく毎晩坐禅をするようにしていますが、涅槃の世界は遠いです。』



こんな風にとらえているんですね。分かりますっていう割りには、何か矛盾があるんじゃないですか。

あるがままに受け止めると言う事は、目の前に起きてる事をあるがままに受け止めるという事は、

方にお釈迦様の言うとおりのことであり、分別しないと言う事が安らぎになると言う事が分かる。

なんで、こう言う風に生活しないんでしょうかね。こう言う風に生活したら別に社会生活するのに困らないのでしょう。

でもこの方は社会生活営むと、必ず分別が起きてきて、ある決まりのある集団の中で、決まりに従っていると、

分別から離れられる、だからお釈迦様はそういう規律のあるものを作ってそこで過ごしたって、思ってるんですね。


道元禅師の話もついでに出してくれてる。何で山奥に入って、修行したか。町の中に出てくると、見たもので分別が起こって

修行にならないからだと思っているんでしょう。生涯、山の中にいるのかって、誰にも会わずに。

それじゃ、素晴らしいものが自分で手に入って、見つかっても、一人で全部それを食べ終わって死んでいくだけであって、

なにもその素晴らしい味わいも分けて味わう人がいないってのは、寂しいでしょう。この素晴らしさを共有出来る人がいるから

素晴らしいのでしょう。そうでなけりゃ教えなんか伝わりませんよね。受け継ぐ人がいないんだもん。変だなって思うんだけどね。

「現代の日本の僧侶は社会に身を置きながら涅槃に到るための修行をする」これ、みんな事実のほうに目が向かないから、

こういう話になるんじゃないかね。じゃ、どうしてそう言う風に事実のほうに目が向かない様に育って行くのかって言ったら、

教える人が皆、そういう風に教えて来たってことでしょう。学校でもそう。

仏教を教えてる学校でも、そういう風に仏教を教えるのでしょう。自分の今生活している事と仏教が、やっぱり乖離してる。


そんな人はいませんよ。今生活している他に、何があるんですか。ええ。お釈迦様だってご覧のように、自分の生活している中の

様子じゃないですか、全部説いてる事は。それ以外の話なんかひとつもないじゃないですか。

昔の人だってお坊さんは社会に身をおいてたんじゃないですか。別に社会から離脱した、どっか別世界で生きてた人なんか

いませんよ。現実ばなれした処で生きてるように思っている。


お寺に来ると、皆さんもそう、お寺から帰ると世俗に戻ってて、言うんですね。ここにいるときだって、

自分の本当の生活じゃないですか。今こうやって。だけど、あそこら辺から入ってくると、何か違った世界って、うちに帰るとねって、

なんかどっかでそういう区分けをして見てる。お寺にいる間はいいけど、家に帰ると。何を見てるの、

ずーっと自分の生活じゃないですか。場所が違う位のものじゃないですか。


分別って言う言葉が出てますが、こっち来る前日、浜松にいたら、立派そうな紳士がですね、

「思慮分別って言う言葉がありますけど、それどういうことでしょうか」って尋ねられた。あなたが知ってる通りでしょうって、

言ったんだけど、思い測るということと、物を分けて考えるっていう事じゃないですか、って言ったら、分かった様な分からない様な

顔してるから。しょうがないから、もうちょっと、じゃ、何か具体的にやってみましょうって言って、あなた方こうやった時に、

手が合わさっているって言う事知ってますね。(両手で合掌の形をする)それは、思い測ったんじゃないですか。それ、思量。

分別ってどういうことかって言うと、こうやって手を合わせる処の様子があるけど、ここの(右手と左手が一緒になっている)様子は

どうなってるかって聞かれたら、知りたいから、どうしてもこうやって(手を開く)見る。くっついている処の様子って、

そこどうなってますかって言うと、こうやって見る癖があるじゃないですか。開けたら分かると思うから。

でも開けた途端にですよ、こうやってた(手を合わしていた)ところの様子から、全部離れちゃうんですよね。分別ですよ、それ。

分け隔てなの。せっかくちゃんとしてるものを、こうやって分け隔てて本当のものを見ようってする、無理です。

分別はそういう様になってる。事実を見る時には、分別したら、絶対に見えないですね。

こうやってる(手を合せた)様子を知るのには、こうやってる(手を合せた)様子の中でやらないと、こうやってる(手を合せた)ことは

分からない。分け隔てて、なるほどと見る、開いている所を見る、こうやってる。そういうちょっと話をしときました。


だって、このままじゃ(手を合わせたままでは)、分からないじゃないかって言いたいでしょうね。そんなことはない。

この通り分かっているじゃないですか。やってごらん。こうやって手を合わしている様子がこの通り分かるんです、誰でも。

こうやってるのは、手を合わしてるのじゃないって事わかってる。こうやってこんなによくわかるってる。

こんなことが毎日の中で行われている。


毎晩坐禅をするようにしてる。いい事ですね。さすが。「でも彼岸の世界は遠い」こうやって音が、パン!した時、

その通りいきなり聞こえるのに、遠いかしら。その様に、本当に音がした時、聞くのに、

どうしても時間がかかって遠くて出来ない。そんなことは無いでしょ。

こうやって見せたって、いきなりちゃんと、この通り見えるでしょ。このことを知らないんだよね。こういうことが彼岸の世界、

覚りの世界、救われてる様子だってこと知らない。

だから何か覚りの世界とか救われている世界って言うのは、どっかあっちの方にあるように思っている。


本当にこういうの、有難いアンケートなんですね、私としては。こういうことを頂くことによって、どういう風にしてこの先、話をしたら、

こう言う事が本当に理解して貰えるかって言う事を示唆されている。


『少欲の意味を今までは欲張らないことだと思っていたので、その時にその事だけをやる、という説明は

新しい発見でした。結局八大人覚もその事を説明している内容なのだとおもいました。

正法眼蔵もその事について色々な例をあげて、角度を変えて同じ内容を説明しているのだと思いました。

他人、他者との比較がなくても自分自身の向上が望めるものなのでしょうか。』



少欲、そういうには話したはずじゃないけど。まあ、少欲は欲張らないことだと思ってたんだけど、

そういうことと違うって事にきづいた事はいいですね。

私が言ったのは、ポン!こうやってやるとほかに何も加えなくても、それだけで、

この音が、ポン!ちゃんと頂けるようになってる。

そういう生活をしてるって言う風に話をしたんですけどね。その時にそのことだけをやる、それで少欲、欲しがらない、欲張らない、

ただ本当にそのことだけで、満ち足りている、言う様な事を、こうやって一応受け取ってくれているのでしょうね。


「結局八大人覚もその事を説明している内容なのだなとおもいました」それで結構なんですけども、そう簡単に片付けられると。

「正法眼蔵もその事について色々な例をあげて、角度を変えて同じ内容を説明しているのだと思いました。他人、他者との比較が

なくても自分自身の向上が望めるものなのでしょうか。」


人と比べなくたって自分自身の向上が望めるに決まってますよね。他の人が、どのようなことをしようが、

このものが実践しなければ、このものは向上しません。それだけです。

自分でやると、ちゃんと自分のやったことが自分の上で育つように出来ている。自覚以外の何者でもない。

気づくって言うのはみな自覚でしょう。この自分自身の身心、体や心の働きの上で気づくのでしょう。

この身体でやってないことで、何か気づけることなんかありますか。無理じゃないですか。気づくって言う事は、

必ず自分がやってることでしょう。その上でしか気づけませんよ。


音がしたって気づくんでも、他人の身体では無理。あそこに座布団があると気づくのでも、他人の身体では無理。

触っている事、他人の身体では無理、絶対。皆、自分の身体でやるんですね。その時に、その事に触れて、どうなってるかを、

人の力を借りずに全部自分の様子がわかるようになってる。


教えられないとわからないんじゃない。これだって教えられないとわからない?

ポン!音がしないと聞こえませんね、音がすると聞こえたでしょ。

そういうの聞く時に、よし聞くぞって言って構えなくても、音がすると、聞いたともなんとも思わない内に、音がちゃんとする。

そんな風に出来てるって話しをこうするじゃないですか。私がそうやって話をしたから、その事に気づくわけじゃないじゃない。

ポン!これに学ぶと、皆、私が言ってる様な事、皆、この中にあるんでしょ。

音がやむと聞こえなくなる様になってる。言われて気づいたように思ってるけど、そうじゃない。

本当は、ポン!こうやってこれに触れると、他人に学ばなくても皆その事がこの中にあるでしょう。

あんなにちゃんと聞こえたのに、どこにも残ってないって言う様な事だって、ポン!

この通りですよ。皆、この中に、人から学ばなくても、分かるようにできてるでしょう。

どうしてそういう自分に力があるのに、発揮出来ないようになっちゃったんだろうね。


本当に人を育てるってのは、そうやって昔から育ててきたんでしょう。教えたんじゃないんだよね。

実際のことをそこでやって見せるんです。色んなお仕事なんかで、そこに弟子入りしてるとですね、師匠がそこで生活をしてる。

その生で生活してるものに触れてるから、学べたんじゃない。皆。

学ぶ時に最初の頃は、ただやってる事がその通りあるだけで、何をやってるかよく分からない。それは自分の考え方の方が

優先してるから。だけど、親しくそのやってる事実にこうやって触れてると、なるほど、ああ、なるほどって、そうやって、

気づいていったんでしょう。だから10年ぐらい一緒にいると、大体奉公は終るじゃないですか。独立してもいいよって言って、

暖簾わけをされる位力が付くじゃないですかで。良い本当に修行法だったと思います。


今は早い。どうして早いかと言うと、頭の方で理解していくから、身体がついていかない。頭は一応理解できるけど、

それで力が付いたように思っちゃう。代議士の秘書をやってると、自分が代議士の名詞を持って、人と接すると、知らないうちに

自分が偉くなる人いるからね。面白い。別に偉くなったんじゃない。その人のところに仕えてるだけじゃない。

その人の名詞持っているだけの事なのに、自分も同じくらい偉くなった様に。気をつけないといけない。


色んな事がありますが、ここら辺で。多少役に立ったら、あとは読み物に。

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コメント

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臨場感のあるお話しをありがとうございました。
多くの方の思いに老師が一つずつ明らかにされていく様子、自分もその場にいたようで、何度も読み嬉しく思いました。
いつもアップしていただきありがとうございます。

感想ありがとうございます

このお話は、修行上の自分の在り方を気づかせていただいた貴重なお話でした。
6月のご提唱でしたが、8月に再度録音を聞き、自分の事として受け取りました。
御老師のご尽力に感謝すると共に、いっそうの努力を、と思った事です。

また、このアンケートに答えて下さった方々にも感謝しています。
読み返しては、元気をいただこうと思っています。

ご感想いただき、感謝します。またがんばりますね。
修行が進まれますように。