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正法眼蔵を学ぶ

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「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ

音声はこちら ↓   2016.6.27 円通寺講話会 朝のご提唱

とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_01.
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_02
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_03
「とある研修会でのアンケート」より・の質問 Ⅰ_04




今朝ここに提起しましたのは、少し体裁が違う。それは現代に生きてる人達が、どういう風なものの考え方をしてるか、

学びをしているかと言う様な事に、かかわる様なものです。

古い時代の修行、勉学、参禅、そうしたものは資料として沢山残ってますけども、それはそれで、

味わいは非常に深いものがあるに違いないですけども、現代のものはどういう風になってるかって事、

参考になるのじゃないかと、そう言うな事をちょっと思いまして、ところによっては時々話の後に、

アンケート用紙を配ってですね、収集しているんですね、色んな事を。そういうものの中のひとつのものです。

これ対象になった時の教材は、正法眼蔵の八大人覚って言うものの話をした後のアンケートですね。

だから少欲とか知足と言うような言葉がたくさん出てきます。

読みながら何か話をしていきたい。


「とある研修会でのアンケート」より・の質問

★『「少欲」の教え「禅」の状態で、自分の思慮分別なしで、現代社会を送るのは大変難しいと考えますが、

心が乱れたり、迷ったりした時に、坐禅などをして立ち戻るという生活の仕方では駄目でしょうか』



って言う様なことが書いてある。これ読んでみると、色々面白いですね。

この人がどういう状況にあるか、どういう風にものを学んでいるかって言う事が、ものすごくよく、こう見えてくる。


補足をするのに、先だってこんな話があった。セラピーとかなんか言うのがあるんですか、

そういうものを職業にしている婦人です。深層心理やなんか勉強するとか言ってましたけど。最近スランプでですね、

ひとつもそれやる気が起きない、どうしたらいいのかって。

自分の生活とそういう仕事がですね、両立出来る様な方法は何かないかって言われたんですね。

何をこの人は思っているのかなあ、って。人生に何かと両立するなんて言う事はないですね、人生の中に。一本道ですよね。

今やってることだけで、もうひとつ何かをそこに立ててですね、これとこれだって、そんな風な生活はないですよね。

でも殆どの人はそうやって、もうひとつの生き方があって、並立して両方が上手くいくといいなって思ってる人は沢山いる。

それは思ってるんですよ。ここに書いてある様に。思ったり考えたりしている上の話であって、

実物の方に目がひとつも行ってない、って言う事をその方に話したんですね。


ここもそう思うんですね。ひどいね。一番最後なんかひどい。「坐禅などをして」って、坐禅などをして、

何処へ立ち戻るんでしょう。そう言う生活を勉強って言うんですね。

自分自身の生活している他に、もうひとつ生活があると思っているから、先ほどの話の様に、

両立するとか言う様なことを考えるのですね。生活っていうのは、もうひとつの生活なんかしている人は居ないですよ。

ずれっこないですよ。乱れるとかですね、迷ったりする事なんか絶対ないんです、生活って。

本当に今の在り様だけですから。比べるものなんかないでしょう。もうひとつの生活。どうですか、そう言う事は。

考え方の上だったら、そうやって比べるものが出てきて、どっちが本当だろうって。生活はですね、今生活しているものと、

もうひとつの生活しているものが何処にあるんですか。もうひとつ比べる生活なんか。

そんなものを持って生活している人は一人も居ないのでしょう。どうですか。

要するに、話を、これだけこの方にしたにも拘らずですね、私の言わんとする事は、殆ど解ってない、通じてない。

がっかりするなって、ひどい事言うと、そう思うんですね。それ位、一方は考え方で取り扱っている。

こっちは一生懸命、今の事実をこう見せてるんだけど、中々噛み合わない。


で、少欲の教えって、何か八大人覚説いた時に、少欲の教えってのが、自分の生活している事と別にあると思っている、先ず。

少欲って、見て御覧なさい。自分たちの生活を。

桔梗の花を見る時に、ただ桔梗の花に向かったら、それで他に何もそれ以上に、求めるものも何もなくて、

ちゃーんと桔梗の花が見えるのでしょう。本当に少欲を行じているのでしょう。

音を聞くのにも、パン!(机を扇子で打つ)この音を聞くに、ただこの音だけがパン!

こうやって聞こえさえすれば、それで100%、パン!この音を聞くことになるのでしょう。

他に何もそれ以上のことをやらないんです。そうやってちゃーんと少欲を行じているんでしょう。

「グァー、グァー」(牛蛙の鳴き声)グァ-、グァーって、あれみな少欲ですよ。

まだ何か欲しいって言う様な事はひとつもやってません。その鳴いている様子だけで、鳴いている事、皆ちゃーんと足りてる。

若しあそこに何かつけたら、ああいう風に聞こえなくなるんだよ。折角鳴いてても。少しでもつけたら、

もうその通り見えなくなるでしょう。だから自分の生活を見ても、皆、ちゃんと少欲を行じているじゃないですか。


しかも「禅」の状態でって、又自分の生活の他に、何か特殊なそういう境地があると思ってる、頭に描いている。

本当に面白いね。短い文章なんだけど。


これがスタートですからね。この人のものを学ぶ様子が。こんなにズレてるんですよ、事実と。

自分の生活している、今生活している事実と、この人が質問していることはこんなに最初がズレてるんですよ。

本人知らないですよ。だから、一生懸命そういうもの描いて、そこに向かって、それを探して尋ねようとしている。

これ二重構造って言うんでしょう。二枚舌ですよね。だから幾らやったってこの人は満足するところまで行きませんよ。

「坐禅なんかをして立ち戻るというような生活は駄目でしょうか」って。駄目でしょうね。こんなことやってよい訳がない。


でもこれ、普通に読んで普通に回答したら、同じ立場からこれを読んで同じ様に、これに対して回答したら、

そう言う風にして行ったらきっと良いでしょうってなるでしょう。両方考え方だから。両方思い方の人だから、それで、

話はうまく合致するでしょう。そう言う風な話をするとたぶんこの人は喜ぶ。私のような回答すると、ちょっと何言ってるの、

私の質問してることに正確に答えてないじゃないかって、たぶん反論が返ってくる。

これを何回も何回もやることによって、やっと、ああ、ものの本当の有り様は、自分が考えている事と違うんだなって事に

気づく時節が来るって事でしょう。


★『仏の教えを聞かない受け入れない人に、それでも聞いてもらいたい時、どの様に伝えたらよいのでしょうか。』

仏の教えを聞かない受け入れない、それは自分の中に確たるものの考え方を持ってるからそんなもの用ない、

と言う事でしょう。立派な人でしょう。自分のご意見をちゃんと持ってるって言う。

だけども、この方からすれば、それはそうだけれども、もっと確かな事があるよ、それを伝えたいんだけどって、言うのでしょうね。


で、何でこの人がどの様に伝えたらよいのでしょうかって言わなきゃならないかって言う事は、自分でその仏教っていうものが

如何いうものであるかって事が、根底でよくわかってないからでしょう。


私だったらこう言う事を聞かれたら、「ちょっとこっち来てごらん」

「聞きたくない、あなた人の話しなんか聞きたくないって言ってんだけど、そういわずに来てごらん」

そうするとこの人は知らずに、自分で人の話を聞いてるとも何にも思わないのに、私の前に、進んで来ますよ。

おうチャンと聞いたじゃないですか。絶対聞きたくないっと思っているはずなのに、

ちゃんとそんな事を超えて聞いてる事実があるじゃないか。難しい事は一切ないです。


あそこに書いたものがあるから見てごらん。書いてあるものを見る事が禅の教えだと思わないからね、そう言う事は。

禅の教えってもっと別なものだと思ってるから。それが、素直にそうなる、そう言う風になってる事が禅の内容なんです。

本質なんです、誰もの。


子供に禅の教えなんて特別なもの教えないでしょ。普通にそれどうやってやるかったら、見てごらんって、

ここに何か見るものがあって見せると、子供がちゃーんとそれを見てると、それでそのものが分かる様になってるでしょう。

こっちが教えなくても。そうやって勉強してきたんでしょう。「食べてごらん」食べると、教えないんだけど、味がちゃんとする。

その味を教えようと思ったって、ものすごい難しい事だけれど、食べさせると教えなくても、そのままズバッとその味が分かる様に

出来てる。こんなに禅の教えって素晴らしいじゃない。だけど、そういうのは禅の教えだと思っていない。

そりゃ、そう言う風に食べりゃ味がするよって言う位にしか思ってない。


ものに向かえばそれが見えるって、当たり前だと思ってるんですね。面白いね。だから、そう言う風に、

自分の今生活している事の他に禅の教えがあるって言う風に、殆どの人が思っている。


誰もそんな風に、たぶん教えなかったと思うんですけどね、正当な流れの中では。いつの間にかそう言う風になってる。

仏教とか禅の教えって言うものが、自分の生活とは別に、そしてそれを取り入れるって言う風な学び方になってしまっている。

だから、ウカウカしているとわからなくなってしまう様な、そう言う学び方が出て来る。


だけど最初から自分の様子ばかりだって事になると、取り逃がすなんて事はない。

うっかりしてた、忘れてしまうって言う様な事はない。いつでも、その中で、それを使って生きている。だから役に立つ。

よそから学ぶものはないですね。思い起こさないと出て来ない、急いで来たら、忘れて来ちゃったって言う様なことは

ないものですよ。せっかく学んだのに、あそこの本箱の、あそこにそう言う事記憶しているものがある。

あれ持って来ないと分からないって言う風なものではないですね。

災害が起きて、学んだものが、そこにあったものが皆流出してしまったら、今まで学んだものが全部なくなってしまう様な

勉強なんですよね。仏教とか禅というものはこれが(身心を指す)居さえすれば絶対になくならないほど確かです。

不思議なものですね。


★『一般の方へ一番分かり易く伝えるにはどうすればいいでしょうか(禅語を使わずに)』

「オーイ」その位で十分です。一番わかりやすい。「オーイ」と言われたら何だろうと思う人は沢山いますけど、

何だろうと思うことではないですね。「オーイ」


雲門という方の所に香林という人が参禅に行ってた。師匠の雲門は「オイ」  香林という人は「ハイ」18年。

ただそれだけ18年間。他に何も雲門はやらない。18年経ったある日気付いたんですね、香林が。そういう歴史がある。


★『悟り、覚り→修証一等では?』

こんなの仏教学を勉強した人達、禅を勉強した人達の頭の中にある文言です。

言葉がですね、整合性があるかどうかって言う様な事を聞くのでしょう。そう言う事もあるから、それはそれでいいですけども、

頭の中で言葉を、整合性を考えて、これはこう言う風な事言ってる、これはこう言う意味だという答えがいくら出てもですね。

それは修行にはならないじゃん。覚えた知識なんですね。


ちなみにこういう方に、じゃ修証一等ってどう言う事を自分で思っておられるかって、質問してみると、これがよく分かる。

修行と覚りというものが別々にあるなんて事はないですよ。


やってみますよ。パン!音を聞くと言うことと、音がわかるということは、パン!

このとおりです。音がしてから何かしてやっと、修行して、パン!音が分かる様になるなんて言う様な事は

ありません。パン!と言っただけでもう終わりです。それは行としては聞くと言うことでしょう。

証としてはその通りの音が、パン!今、はっきりしていると言う事ですよ。それ位、本当は修証一等ですよ。別にあるんじゃない。

皆そうでしょ。そういう風にもうひとつのあり方なんてないんですよ。だからこんなに安心して生活が出来るんです。


★『まあ一応老師って私のこと指してくれてるから、「老師の研修を受けて、当たり前のことを当たり前のように説明して

いるけど、終わったあと、常に思うのは、解答の無い研修というか、答えにたどり着かない感覚になってしまいます。』



こういう風に言われちゃった。で、私が気になるのはですね、当たり前の事を当たり前の様にって言うのは良いですけど、

本当に何かパン!こうやるとこう言う風に聞こえるでしょって言うと、この方もそうでしょうが、

井上さんが説明してるって、本当にそうやって思ってくれるんですね。パン!見てごらん、向かうとその通り、

いきなりその様になるでしょうって、説明だと思ってるんですよね。


今ここで実際やってるんでしょう、皆さん、この体でその事を。パン!説明なんかじゃない。事実でしょうが。

エー、実物そのものでしょう。どうですかって、パン!こうやって、パン!音がすると、

その通りちゃんと聞こえる。音がしなくなると聞こえなくなってませんかって。

これ説明だと思うから、終わった後に思うのは、解答の無い研修になる。これ、パン!説明じゃないから、

ちゃんと解答したんじゃないですか。パン!答えにたどり着いてるんじゃないですか。エー、着いてませんか。


音がしたら、ちゃんと音がした、音が止むと音が聞こえなくなってる。

だから、片付ける用もないし、整理しなきゃならない用も無いしって。ちゃんと、いろんなこと話すんですけど、

皆答えにたどりついているじゃないですか。どうしたらそうなるかって言う事じゃない。こうやってやるとその通り見えるでしょう。

ちゃんと解答しているじゃないですか。答えに辿り着いてるじゃないですか。


そうやって、そうやるといきなりその通りになるって事は、皆さんが迷わない、苦しまない、乱れ無い、どうしたら良いかって、

そう言う事を一切飛び越えて、いきなり大満足の生活が、今出来てるじゃないかって、ちゃんと答えじゃないですか。

研修できたんじゃないですか。こういうの読んでると本当に面白いなあ、私としては。

皆さんはどうかね、こんなもの、教材でこうやって見せられて。

★『他人の振りを見つつも、自分の振りを改善しなければならないと感じ、修行においても実用されるのだろう。

我々だけが坐禅をしていれば良いのではなく、生きている時間を禅と知れば良いのではないかと思った。』



まあ、色々あるね。昨日来られた方が、最初に円通寺の勉強会に来た時に、どんな話をしたかって覚えていて、

赤ちゃんか、ちっちゃな子が縁側から落ちそうになっている時に、ああ、危ない、落ちそうだって、それを私が話をしたらしい。

それが、赤ちゃんのことじゃ無いですよ、あなたのことですよって、どうもそう言ったらしい。

それが引っ掛かったって、昨日話をしてました。


そういうのがこう言う事でしょう。「他人の振りを見つつも自分の振りを改善しなければならないと感じ」を

何か向こうの事を見ている様な、向こうの人の事のように思ってる、人間にはそう言う誤解があるじゃないですか。

確かに普通に言えば、赤ちゃんをみて、赤ちゃんが縁側から落ちるじゃないかって思うから、危ないって、そっちへ、そっちへと

言うんだけど、そう言う風に思っている事が皆、自分の有り様の話でしょ。

そしてそれに自分が気が付くから、これがその思った通りに活動するのでしょ。

向こうの事なんかひとつもやってませんよね。そういうのよくみると面白い。


修行においても、本当はそうやって、他の人のことなんかないよね。他人の事が気になる間はね、修行にならない。

修行って他人のことをどうこう言うんじゃないんです。それをつついて、自分の思ってる様うに相手がなったらって、

そしてそれが出来たら、自分はどうなるんですか。自分の思ってる様に相手がなってくれたら、自分の修行は終わるんですか。

気分はいいでしょう。自分が思っている事を、向こうがちゃんとその通り修正してやってくれると、気分はいいでしょう。

だけど、こっちの問題はどうなるんですか。この自分の中から色んなものが発生する訳ですからね。


「生きている時間を禅と知れば」って、まあ理解としては悪くは無いかもしれんね。そんな事を知ってどうするんですか。

一日24時間ずーっと自分の様子ばかりですって話をすると、ああ確かに一日24時間自分の生活ばかりだなって、

知ってどうするんでしょ。それで済むわけじゃないでしょ。知ることじゃないですね。

ああそうだ、ああなるほどと、知ることじゃないですよね。


自覚って何か、知る事と違うんですよね。自分の実物そのものに触れることでしょ。そして、それを本当に生活の中で使っていく。

それだから実行力とか効果がでるんでしょ。覚るってこういうことだって知ったって、なんの役にも立たないじゃない。

ああそうなればいいな、と思うんじゃん、きっとそうなったら幸せになれる、こういう風にある、ああいう風になるって、

色んな事を思うだけじゃない、知ってますか。

★『事実を事実として受け止める、見るもの聞くものをそのままに受け止める、言葉によって惑わされる、

そのように感じました。』



感じてくれたんだからいいんでしょうかね。突っ込みとしてはですね、ありのままに事実を受け止めるって言うんだけど、

事実を事実として受け止めると言う様な、そういう構図にはなってないね。


これは詳しく見てみると、自他の見(ケン)と言って、向こうとこっちという見方が、自分の中に潜んでいる。

だから受け入れると言う事が出てくるんですね、言葉として、どうしても。


最初にも申し上げた様に、生活している事は、受け入れるとか、その様になるとかって言う様な事は一切無い。

向こうとこっちって言う様な事は一切無い、生活の中では。


考えの上にはある。今生活している様子を表現する時に、あっちの方に、ほら灯篭があるでしょう、向こうで鐘が鳴ったでしょう、

という風にして、表現する事はありますけど、内容は、自他を立てる事は一切ありませんね。

だから向かって何処かに行って、本当になるって言う様な事は無い。はじめから本物の中にいるんだけども、

考え方が邪魔をして、本物の生き様をしてるって事を、自分で触れる事が出来ない様になってる。考え方が邪魔をして。

それが、穴があくって言うか、取れると、いきなり本物の生き方をしている自分にぶち当たる。

あーなんだ、最初からちゃんとしてるわって、結論がつくんですよね。

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  1. 2016/12/26(月) 19:31:39|
  2. 学道上の事
  3. | コメント:3
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コメント

公開共有ありがとうございます

初めまして😊 とても嬉しくお声を拝聴し、また興味深く内容を拝読いたしました。とにもかくにも日々坐禅に親しみたく励まして頂きました。正法眼蔵にもこれから触れていきたいと思います。

海外米国在住の者ですが一年前ほど前に哲玄老師と貫道老師の法話をネット動画で視聴して衝撃を受け、矢も盾もたまらず昨夏帰国して7月の東京坐禅会にて貫道老師に坐禅のざの字もよくわからないまま独参しました。

まずは厚くお礼まで
  1. 2017/04/10(月) 01:23:03 |
  2. URL |
  3. Shuhei Ito #i.UprpcU
  4. [ 編集 ]

コメントありがとうございます

初めまして。お読み頂きありがとうございます。井上老師方に出合われて良かったですね。

貫道老師は正法眼蔵を”考え方ではない”という処で読み解いて下さいますので、分かり易い気がします。

海外にいらっしゃると、老師にお会いになる機会が少ないかも知れません。このブログがお役に立つと嬉しいです。

このアンケートのご提唱は、学んだことが考えになってしまう事を、指摘されているのかな、と思ったりしました。

ご提唱をお聞きしていると、道元禅師か貫道老師か、わからなくなってしまう時があります。  

日本は桜が満開です。 お元気でお過ごしください。     shikkasan
  1. 2017/04/11(火) 07:21:49 |
  2. URL |
  3. shikkasan #-
  4. [ 編集 ]

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2017/04/13(木) 06:13:55 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集 ]

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