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三十七品菩提分法 八正道  正定道支

音声はこちら ↓  

正定道支 ①
正定道支 ②
正定道支 ③
正定道支 ④
正定道支 ⑤


次は正定道支。一般に言う坐ると言う事でしょう。禅定。「脱落仏祖なり」坐ってる時に、どういう風に本当にあるかって言う事です。次のも「脱落正定なり。」脱落って言うものは、字の通りですね。そう言う今の在り様から全部離れきってる、脱けきってる。脱け落ちると書いてあるでしょ。

坐ってる時に、仏様だとか、悟りを開いた人だとか、そんな様な事は全く問題外でしょう。本当に、今、自分のこうやっている様子があるだけ。この様子の中に坐っているらしい気配さえもすっかり忘れてしまっているのでしょう。それが坐ってる時の皆さんの様子でしょう。坐ってる事が気になってる間は、十分坐れてないでしょう。これでいいのだろうかとか、気になってる間は坐っちゃ居られないでしょう。こっち(頭)が働くんですよ。どうしても。これでいいのかな、、こんな事何時までもやってて、ただこんな事してて、どうする。折角坐ってるんだけど、坐ってる事にひとつも目が向かない。それじゃ坐禅にならないでしょう。

「他是能挙(他是れ能く挙す)なり」他って言うのは何を指すかって言うと、坐ってる様子でしょう。坐ってる事が坐ってる事実を本当に教えてくれるんでしょう。それ以外にないんでしょう。坐るってどういう事だって言われたって。説明の仕方としては、坐ってる事が一番坐ってる内容をよく説明するのでしょう。だって、これが実物だもん、坐ってる。これに学んだらいいのでしょう、坐ってる。坐ってる事に学ぶって言ったら、やっぱり、自分の考え方で、あーのこーのって取り扱う事を止めなければ、この坐ってる様子だけに居れないじゃないですか。考え方で取上げたら、すぐ坐ってる事とは別な方向に行くでしょうが。頭の中で描いてる事だけを相手にする様になるでしょうが。それをやったら坐禅にならない。折角坐ってるにも拘らず。それだから坐禅をする時に注意されるのでしょう。

「剖来頂𩕳作鼻孔(頂𩕳剖き来って鼻孔と作す)なり」凄い表現ですね。頭を勝ち割ってって、言う事ですかね。頂𩕳を剖き来る。脚注がありますけども、予想外の展開ですね。自由な、何者にも囚われない大きな働きをしてる、坐ってる様子というものは。

例えられる話としては、水晶の玉の様な物が有って、それを青い葉っぱの上にこうやって置くと青くなる、赤い絨毯の上にこう置くと赤くなる、言う様な例えがある。このもの本当に坐っていて、その時、その時の在り様に、コロッコロッっと否応なしに変わっていくねえ。「白露の 己が心を そのままに 紅葉に置かば 紅の玉」。

こっちにひとつも何も作り事しないんだけども、こうやって坐ってるだけで、今の有りとあらゆる環境の中に居ると、その通りに一緒になって、コロコロ、コロコロ動いて行く様になってる。どれが本当の自分だって言って、取上げる事が出来ない位、どれもこれも自分の在り様以外に無い。こっちが好き嫌いを持ってものを見ていると、それ全部受け入れる能力が無くなる。それで愚図愚図言うのでしょう。もっと面白い展開をしてるんですよ、これは。自分の想定外のもの凄い活動をしてる。何でそう言う事に、こうやって身をゆだねてみないんですかね。面白いですよ。人生が楽しい。

「正法眼蔵裏、拈優曇花なり。優曇花裏、有百千枚迦葉破顔微笑(百千枚の迦葉有りて破顔微笑す)なり」百千枚って言うんだけど、百千枚は人でいいでしょう。大勢の人が居てって言う事で。お釈迦さまが優曇華という花を、手にして差し上げて見せた時に、そこに百千万と言う大勢の人が居る。その中に迦葉尊者の様に真意のわかる人と、わからない人が居る。わかる人は頷ける、わからない人はきょとんとしてる、って言うことでしょう。どうしてわかる人とわからない人が出来るかって言うと、構図としては、アー、お釈迦様が出て来た、花持って出てきたぞって、そうやって見てるからですね。わからなくなるの当たり前じゃないですか。最初から自分の事だと思ってないんだもん。お釈迦様の事を私が見てる、って言う風に見てるから、どうしてもわからないよ。

眼と物だけの様子でこうやって居ると、その通りの事がただ、そうずーっと有るだけじゃない。そうやって勉強したんですね。幼い子達は見事にそう言う事を知らずにやってるよね。少し大きくなると、これは「私」って言って、今の有り様の中から自分だけを切り取って、そしてそれ以外のものは他所のものだって言う風に、ここではっきり自他を分けて、ものを見る様になった。そこからものを学ぶもんだから、物凄く厄介なの。

現実、今、皆さんが生活してる事取上げてみたって、今って言う中に皆さんこう居るんですよ、だれも。私の今とか、あなたの今なんて言う様なものが、今の中に幾つもあるわけじゃないですよ。今って言うのは、そんなもんじゃないですね。ここからここ迄は私の今、こっからここ迄はあなたの今なんて言う風に、今なんてものは無いじゃないですか。近づくとか触れるとか言う様な事は一切ないですよ、今って言うものには。そう言うものが今と言われる概念ですよ。誰もそう言う風にして生きてるんですよ。だけどもそう言う風に生きてるんだけど、どうしても今って何か掴むものがあるんですね。そりゃ、もう正しく今と言うものを知らない人ですね。取って置いた試しが無いですよ、今って。置く場所が無いですよ、取って置く場所が無い。しまっておく場所が無い。それだのに、こんな展開してるんですよ。

こんな、こんな、今の様にこう言う展開してる。こう言う展開してるってことは、先程の気配は全く無いじゃないですか、何時でも。こう言う様子が人の真意でしょう、失う事の無い。正法眼蔵裏って言うけど、ものの本当の在り様でしょう。誰一人として、それから外れる人はいないでしょう。どっか他に住む場所がありますか。エー、無いじゃないですか、何時でも。こんなに盤石な中に居るじゃないですか。踏み外す事も無いほど確かな生活してるんです。迷いようが無い。

「活計ひさしくもちゐきたりて木杓破なり」木で作った柄杓が、柄杓があるけども、それが朽ちてるって言うんでしょう。木杓破。朽ちるって言う事はもうちょっと現実的な話をすると、木で作った柄杓の、中が普通しっかりしてる物は、こうやって水を入れると溜まるでしょう。底が抜けてないから。だけども、この杓は傷んでるから、底が無いんだ。底が無いので汲むとですね、どうなるかね。

皆さんの身体だって、もうこれで一杯になったって言う様な事無いでしょう。これだけ毎日、朝から晩まで色んな物を見てるんだけども、目がですね、もう一杯になって、ちょっと待って、捨てて来ないと入らないとか言う様な風にならない。耳でもそう、もうあれだけ聞いたから、もうそんなに言われたって入らない、言う様な事はない。不思議な身体なんですよ。そう言うのを木杓破って言う。この身体の本質。一応形が有るもんだから、人間て言われてる。だけども、内容はですね、底抜けですよ。手だって一生動かしたって、未だ動かしきらん位、動くじゃないですか。ね。これでもう使い切って動かなくなったって言う様な事ない位、凄いものでしょう。そう言う様な面白い様子を指すんですね、木杓破。皆さんの袋は小さいもんだから、すぐ一杯になって、愚図愚図する。お悟りを開いた人達を桶底を脱するって言うじゃないですか。桶の底が抜けるって。破顔微笑って、顔が破れると書いてるよ。ニッコリ笑うと今までの顔形が何処行ったか分からん様になるって言う事でしょう。

「このゆゑに、落草六年、花開一夜なり。」修行するのに年月がかかる人も居れば一夜で終わる人も居る。人には蒙昧と言うのがあって、すぐれた能力のある人と中々すぐに出来ない人の違いがあるって言う様な事があるから、一夜で出来る人もあれば、6年もかかる人も居るのでしょう。聞いてすぐ、その通り正しく実践する人は、やっぱり早いのでしょう。聞いても、納得が行かないからって、やれないって人が結構居るよね。そんな事言われたって、自分の中で納得できなきゃれないじゃないかって、あんたの言う通りにやれない。

自分の、皆さんが持っている眼を見て御覧なさい。色んな所にこうやって向かうと、何故かこうやってその通りになっていく。時間がかかった試しが無い。イキナリそう言う風になる、全部。花開一夜です。花が開く、イキナリそう言う風な様子に必ず触れる。それでも分からない人は分からないですよ。6年かかる。それが何だ、それがどういうことだ、言う風になるから。これ、自分の在り様でしょう。こうやって、これが自分の今、真相。これで生活が成り立ってるんでしょう、皆さん。今日一日だってそうでしょう。こういう状況でずーっと来たんでしょう。これ切り取って並べれば、無限の状況が、こうダーっと貼り付けられる位、ある訳だけれど、何処にもそう言うものが残らん様になってる。

「劫火洞燃、大千倶壊」物凄い焚火って言うのか、火がこう燃えてるんですね、劫火洞燃。そう言う中に身を投ずると瞬時のうちに燃え尽きて残らない。そう言うことだね。「劫火洞燃、大千倶壊」朝から色んなものに触れて来たけど、こうやってやると、イキナリコロッっとこう言う風になるんじゃない、全部が。どうしたら、そうなれるって言う様な事ではない。紅炉一点雪。

内容としては、「随他去なり。」随他去って、向こうに従って、その通りになるって言う事でしょう。こっちで如何こうするんじゃないけど、こうやってふれると、向こうの通りになるのでしょう。必ずこっちでその通りになるんじゃないでしょ。向かうと、その通りに向こうの様子に従って、その通りになるんでしょうが。こんなに仲良く生活が出来てるじゃないですか。だけどこの中に自分らしいもの、有ると思って握ってると、それが愚図愚図言うんですよね。それをどうかするんじゃないですよ。それを取り除くんじゃないですよ。こういう事によって、アッ無いんだと言う事を気づくべきです。勝手に思って、有る様に思ってるけど、無い。そんなものが自分の中に、本当に無しに、こうやって生活が出来てると言う事に気づくべきなんです。

「この三十七品菩提分法、すなはち仏祖の眼晴鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。」全体と言う事でしょう。今月の初め、お集まりの人に最初に話したのは、こうやって、こうやってる時に、どうあったら修行してるって言う風な事が言えるのか、こうやってて。パンパンパン音がして、こうやって音がして聞こえてる。どうあったら修行になってるのか、って言う話をちょっとしました。

修行って、そうでしょう。パンパンパンパン、こうやって音がしてる時に、これ放っといて、どこかで修行するって言う様な事があったら、逃げ出すと言う事でしょ。此処から、今こうやって居る、こうやって生活してるこの事が有って、この事の他に、どっか修行する場所があるとしたら、今生活してる事ほっぽると言う事でしょう。じゃないですか。可笑しいでしょ、それだったら。修行って必ず、こうしている時に、どう在るかでしょう。パンパン、こう有った時にどう在るかでしょう。それだけが大切な修行の在り方なんでしょう。だから皆さんが、眼と物との関係で、こうやって修行するのでしょう。耳と音との関係でコンコンコン、修行するのでしょう。不思議ですね。音がしない間は絶対に聞こえない。音がした途端にカチッって言う。カチッとしたって思った頃には音が無い。

こちらによく来られていた方が、何でここに来てたのか、わかったんですが、お母さんがこちらの方に居られたので、介護に来てたらしい。それで、長くこっちに来てた間に、自分の奥さんが病にかかったので、名古屋の方に戻った。そしたら、介護してたお母さんが直に亡くなったと言って、物凄いショックで立ち直れないって言う方に、一昨日会いました。どうしたらいいでしょう。現実問題ですね。

だから、眼と物の関係で、こうやってやれてると、どんな物でもこうやって触れていたって、人は苦しんだ事ないでしょう。眼と物が触れると、その通りのことがそこにあれば、その通りこうやって見えるんだけども、苦しんだこと無いでしょう。苦しむって言うのは、少なくとも自分の中で、それを見たものに対して、考え方や思いをつけて変えて行くのでしょう、事実を。だから誰も他の人がやってないんですね。自分自身の中で、触れたものに対して、自分が思いを起こして。眼はね、こうやって見てて、こうやって見た時に、離れても、淋しいとも何とも言わないよね。無くなっちゃったとか、今まで見えてた物がなくなっちゃったとか、一切そう言う事を言わない。ずーっと見えっぱなしなんですよ。片時も見える事が無くなったって事無いんです。空白な状況なんか起きない。頭(考え方)は、亡くなったって、心にぽっかり穴が開くんです。それで苦しむ。頭(考え方)が中心だとそうなる。

旅行に出てて、一週間家を空けてても、ここは(頭)理知が働くから、今は旅行に行って居ないんだって思ってるのは、やられないんですね。死んでしまってもう二度と会えないって思うのは、違うんですよね。だけど現実は一週間の間、全く会わないんでしょう。ね。旅行行ってて。ここ(頭)はちゃんと帰って来るって、そう言う風に思ってるから、悩まない。でもたまたま、そう思ってた事が、急変したり、色んな事故の中に巻き込まれたりして、すると、気が動転するんですね、やっぱりね。如何いう事でしょうかね。事実と人の考える事、この位違うという事でしょう。ギャップがあるって事でしょう。それで、多くの人の場合は事実よりも、この考えてる事の方が中心なんですね。こっちの方に物凄くウェイトがかかっている。此方を大事にして生きてるんですね。

仏道は違いますね。ものを学ぶって言う事は、考え方に学ぶんじゃない。本当に実物に学ぶんでしょう。お粥を一口食べる、どうやってお粥を味わうかって。必ず口に入れるのでしょう。置いといたまま学ぶって、味を、お粥の味を学ぶって事はないよね。で、入れると何の苦も無くちゃんと分かる。一度も食べた事の無い人でも、口に入れるとすぐ味がする。で、何かと比べないと、その味が分からないかって、そんな事はない。それだけで、ちゃんと味は分かるようになってる。そう思いませんか。

だけど私が知る限りでは、何かと比べないと分からない様な気になってる人沢山いるよね。そんな事はないよね。この音パン!を聞くのに、何かと比べないと分からないなんて事はない。この音パン!だけで、この事はちゃんと分かるのでしょう。ま、そう言う風になってますね。「仏祖一枚」って、それを言ってます。人は誰でもそうです。

生涯ただ、この頂いてる身心ひとつで生きていくんです。他には無いよ。短い時間を取り上げてみたってそうでしょ。この頂いてる身心の活動から一歩も出た事はない。ここで色んな人がいるって、何のことない、自分の目で見てるだけじゃないですか。部屋中ありとあらゆるものが、有るって言う風に認識が出来るのは、各自自分の眼で、こう触れている様子だけじゃないですか。それが如何いう風になってるかって言ったら、その時に必ずそうなるだけの事じゃないですか。それでこの部屋の様子はこういう風にちゃーんと出来上がるんでしょう。他の人の様子なんて何処にもないですよ。

でも眺めると、隣に自分じゃない人が居るもんだから、ああ、私じゃないって、見てる、自分が見てる事を、自分の事じゃないって言うんですね。面白いでしょう。これは私の事じゃない。あっちの人の様子だって。そう思いませんか。向こうの人の様子だって言うじゃないですか。私の様子だとは言わないじゃないですか。あそこに居るのは、あれはって、見るって。まあそれ位のものが分からないと騙されるって事でしょう。

「これを三十七品菩提分法と参学しきたれり。」と言うんですね。三十七に分類した箇条書きにした修行方法を挙げたけども、よく見ればそうやって自分自身の生活してる様子そのものに触れてる以外に何も無いじゃないですか。「しかあれども、一千三百六十九品の公案現成なり、菩提分法なり。」って掛け算かなんかするのかね。下に二乗と書いてあるから、二乗ってのは37×37ですか。じゃないか。37の2乗か、そうするとこの位の数になるんでしょうね。一つ一つのものに37通りの内容があるって、こう言うことでしょう。正念道支の中に、後36のものが含まれている。

だから、先程申し上げた様に、眼と物の関係で物が見えるって言う中に、仏道の全てがあるんですよ。耳と音との関係で、聞こえるって言うその様子の中に仏道の全てがある。一々そうです。だから色んな物で気がつく人が居るのでしょう。

「坐断すべし、脱落すべし。」と書いてある。本当に坐って御覧って言う。必ずそう言う人間の見解から離れてる時の様子がある。人間の思いをつけてものを見るって事は、ものを本当に見るって言う時に、邪魔になってるはずでしょう。眼には物を見る時に、ものの見方って言うもの一切持ってない。だから眼に学ぶとよく分かる。耳も自分の聞き方って言うもの一切持ってない。自己流のものは一切持ってない、この六官て言うものの働きの中には。そうやって学ぶと言うのが脱落する道なんでしょう。

何から離れるって、人間のそうやってつけた見解から離れるって言う事でしょう。そう言うものが一切付いてない時の、自分のまっさらな様子にこうやって触れると、このものの本質がよく分かると言う事でしょう。そう言うものを体験した人達を一応悟ったとかって言うのでしょう。ね。まあ、その辺で読みきりで。ちょっと休憩しましょう。


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