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修行の第一歩のズレ 

2016.6.25 円通寺講話会で、三十七品菩提分法 七覚支を提唱してくださっている間で、お話してくださいました。

参加者から質問が出て、変化のある展開になりました。

修行第一歩のずれ①

修行の第一歩のずれ②

修行第一歩のずれ③



これ(除覚支)を読んでいく前にね、一言二言話してみたい。

それはですね、修行をお互いする訳ですが、ものを聞いたりして学んで修行するんだけど、一番最初の立脚地が、どうなっている

かって言うことを、お互いにきちっと見届けるということがひょっとすると欠けている場合が多い。

そのためですね、幾らお話をしてもですね、自分の今立っている場所がですね、

基本的にズレた処にいて話を聞くもんですからね、同じ話を実践してもですね、言った通りに絶対にならないんですね。

そういうことが、日常生活全般いろんな所で、皆さんも十分、触れて知っていることだと思うんですね。

仏道の中、それ特に大事だと思うんです。

人の最初ってどういう風になっているか、その立脚地に皆さんがどうあるのかってことが、一番最初に問われる。


「こっち来てごらん」て、自分の見ている所と同じ場所に立たせてみて、こうやって見せると、

「ああほんとに」って言って良くわかるんですね。

それは目線を同じくすると言っているようなことで、皆さん方使っているでしょう。

大人と子供が会話をするとしても、大人がこうやって、上からものを言うとか、同じ目線で話をするっていうように、

一般社会でもそういうな言葉を使いますね。


正法眼蔵が今までずーっと難しいと言われているんだけども、それはつくづく思うんだけど、

自分のたっている立場がですね、この辺の処に(手で机の高さを示される)居て、正法眼蔵をみてるんですね。

道元禅師はこの辺で(手で目の高さを示される)生活している人なんですね。

この辺で生活するとですね、喋っているとおりなんです。本当に書いてあるとおりよくわかるんですよね。

それだけのことなんです。

じゃ、この道元禅師の、この辺の位置って言うのは何を意味するのと言ったら、人の一番最初の様子を言うんです。

高いんじゃないんですよ。自分達の境涯より高い処にあるんじゃないですよ。

人の一番最初のこうやって、パン(扇で机を打つ)、音でも聞いて御覧なさい。誰もこのように聞こえるんでしょう。

パン!(机を打つ)やさしいとか難しいとか一切なしに、パン!(机を打つ)音がするでしょう。

そのとおり聞こえる。こういう処に道元禅師という人は居るんです。この辺から、勉強をしてんですよ。

ところが多くの人は、パン!(机を打つ)あっ、音がした、音が聞こえた、そういう処からこうやって勉強しているから、

もうその第一歩がずれているんです。わかりますか。自分の見解が入っているから。

分別という熟語がありますが、見るっていうことは分別ですよね。わかりますか。見るっていうことは分別ですよ。

今見えているにもかかわらずですね、それを向こうにものを置いて、こちらからもう一回見直す。

見えているって言う時には分別ないですよ。分け隔てなんかしてませんよ。もうこの通りの事がこうあるだけですから。

だけども、それは何?って、それは?って指すってことはですよ、向こうにものを置いてこっちに人が立ったと言うことですよ。

分けたんですよ、向こうとこっちを。見てる時はそういうこと無いですよ。

「それどういうこと?」パン!(机を打つ)

それどういうことって、パン!もう済んだことに対して、

それを置いといて、こちらから自分をそこから離して、パン!(机を打つ)

今触れていること パン!から離して、それは?って言って、向こうとこっちを分けて、そしてこうやって尋ねる。

だから最初の様子ではないです。

一番最初の様子 パン!分かれてないですよ、向こうとこっちと。

修行するときに、そういうことが本当に大事です。


くしくも、この前お話したかも知れませんが、道元禅師の残された普勧坐禅儀という坐禅の手引書に、最初にこういうことがキチン

と書いてある。ものの道理として、一番最初が。誰のことか、どうなっているかということが最初に書いてあります。

それから、坐禅するのにどうしたら良いかということがかいてある。


ある方が、自分のお父さんが病気をなさって、病院に入って手術をして、まあそれから退院をしてこられた間の話ですが、

病院に行った時、お父さんの様子を見ると、痛々しい苦しんでいるような感じが見受けられたのでしょうね。

だから家に帰って仏壇の前に行って手を合わせて、

「私はお父さんに何もして上げられないけれど、せめて痛くないように、苦しまないように、何とかしてあげて」って、

ずっと家でご本尊様の仏壇に手を合わせて、そうやって過ごしてたと言うんです。

やがて退院して帰って来たから、そういう話の中で、

「お父さん病院にいる時に、痛そうだし苦しそうだったから、こんな風にしてたんだよ」って話をしたら、

お父さん曰く、「痛くも苦しくも何ともなかった」って。

「私はどこも痛くなくて何も苦しんでなんかなかったよ」って言う話。これだけなんですよ。

これ、凄く面白い話ですよ。考えさせられるっていうか。何を私達はしてるんだろう。

人の動きを見てですよ、人の様子を見てですよ、ありもしないことを自分の中で想像してですよ、苦しんでいる。

本人のほうはケロッとしている。

それは一番最初がズレてたからじゃないですか。

ご本人が病院行って、お父さんに触れた時に、ふっと、苦しんでる、痛がっているって、そういう風に思って見たんでしょう。

思いを入れて。そこから自分の行動が著しく変わった行動になってますよ。

それを一生懸命やっていることが、お父さんに対する何か親孝行の一端のように思って、ひたすらそういうことをやったんでしょう。

同じ手を合わすんでも、そういうつまらない見方をせずに手を合わしてたら、自分も楽なのにね。不思議でしょ。


こうやってお互いに向き合ってて、あなたが私にね、「右へ行って下さい」て話しかけて、私はこっからこっちへこう歩いて行く。

「右へいくとね柱があるから、そこを曲がって下さい」って。私はこう右へ行って柱もない、曲がる場所もない。どうしてだろう。

「いや幾ら行っても、右へ行って柱もないし、曲がる場所もないんですよね」

「じゃ反対行ってみてください」って、反対へ行ったら、言われている通り柱が在って曲がる場所があった。

というようなことがですね、日常行われているんです。


わかりますか。一番最初のを抜きで話してるからね。こうやって目の前で見えてればいいですよ、お互いに。

これを電話なんかでやってる場合、どっち向いているかわからないですよね。

自分がこっち向いてる、私(老師)もこっち向いてると思って話しするわけですね。

同じ方向向いて電話聞いてると思うから、「右行って下さい」って言うのでしょう。そうすると、そういうことがあるよ、というんだけど、

こうやって聞いてると、右左が逆なんですよね。不思議でしょ。


これ、修行の基本の処で人はそういうような一番大事なことを忘れていないかということ。どんな正しいこと伝えても無理です。

真逆の方向にいるわけだから、それを実践しても絶対に言われた様にはならない。


だから、今話した道元禅師の在り様とか私達の在り様とか、幾つもあるんじゃないんですよ。

お釈迦さまの在り様とか幾つもある訳じゃない。

基本的に、一番最初はみんな同じなの。パン!(机を打つ)

パン!これ以外の聞こえ方する人、一人もいないね。

パン!こういうところから勉強して行くんですよね。


と、言う事を、最近つくづくいろんな人と話していて、何でこうなっちゃうんだろうって、考えてるんですよ。

有る所へ行って話をして、アンケートに、井上さんはいつも、パン!こうやってやると、パン!聞こえるでしょって、

説明してくれる、と書いてある。

私、説明なんかした覚え一回もない。

事実をこうやって、パン!見せているんだけど、聞いている人は説明をしてると思っているんだね。説明をされてると思っている。

パン!叩くと音がして、音が出ると、そのように聞こえるって、それ説明だと思ってるね。

びっくりしますね、書いてあるの読んで。こんな勉強しかしてないんだって。これじゃ、何遍話ても無理だなって思って。


ある参加者「説明というのは成り立たないんですか」

老師 「これ説明ですか。パン!実際に、今こうやって、パン!あなたがこの通り聞こえている。説明なんかじゃないじゃん。」

参加者「世の中に説明というのは成り立たないんですか」

老師「 いや、これを説明だと思ったら、大間違いだってこと。パン!」

参加者「もっと複雑なこと説明、」

老師 「複雑なことなんかありません!」

参加者「世の中に、出だしが躓いたから、もうわけがわからなくなってるって、 和尚さんが言ったから、音だと説明でないとわかる

んです。世の中複雑なことを説明するのかどうか、そこらわからない」

老師 「あなたが初めて出会う人だって、誰かわからないということないでしょ」

参加者 「わからないことない?」

老師 「初めて出会った人だって、今出会っているこの人がですね、誰だかわからないってことないでしょう。

この人に間違いないって言うこと知ってるでしょう。実物だから。所謂人間がわからないって言うのは、

名前がわからないとか、どこの生まれだとか、そういう後でつけたいろんなこと知らないとわからないと思ってるんですね。

そうじゃない。実物です。実物の中に全部あります。」

参加者「でも実物たって、何もわからない」

老師 「そんなことはないですよ。全てわかりますよ。喋れば音声もわかるし、顔がほころびれば、ほころんだ様子もわかるし、

辛そうな顔すれば、そのようなこともすぐわかる。その通りになってますよ。全部実物って。あなたが思ってるのと違って、

むつかしいからわからないとかってそういうことじゃなくて、その通りの様子がそこにあるだけです。

人はそれに対してむつかしいとか、ややこしいとか、複雑だとかって、そう見方をするだけじゃない。

小さな子はですね、30画位の漢字を見せたって、それがむつかしい漢字だなんて思いませんよ。」

参加者「わからんでしょうね」

老師 「そのとおり見える。大人は子供にはこんな画数の多い字はむつかしいって思って教えない。

だけど、『一』って書いてある字とですね、画数がいっぱいある字を子供は見てですね、

どっちがやさしくて、どっちがむつかしいなんてことはない。

どちらもその通りいきなり見るんです。それ位皆さんが考えているのと違うんですよ。

若し子供がですね、むつかしいことは、大人が思うように見えないんだったら、生活成り立たないですよ。日常生活が。

子供でもそこにある現実のところに行ったら、その通りのことその通りみな見えるんだ。

むつかしいといって、よくわからないって、そんな風には見えないです。必ずその通り見える」

参加者「政治のこと、政治の動きわからない」

老師 「わからないんじゃなくて、言ってる通りのことがあるだけであって、それ以上は人の推測でしょう。

これから先のことがわかる人なんか誰もいませんよ。政治家だって、想像してるだけじゃないですか、皆。

たぶんこうなるんじゃないか、ああなるんじゃないか。で、時間が経ってみると、言ってた通りになると、

ほら、私が言ってた通りじゃないかって言うだけの話じゃないですか。ね。そうなってるんですよ。

むつかしいって言うのは、皆さん、そうやってありもしないことを知ろうとする。それは難しいに決まってるじゃん。

ありもしないことを知ろうと、聞こえない音がどんな音がするだろうって、難しいに決まってるじゃん。

参加者「計画を第3者が練ることがあるでしょう。第3者がどんどん政策を作って、もうわからないですよ」

老師 「その通りじゃないですか。作った通りじゃないですか。作ったとおり、どこがわからないですか。」

参加者「難しい」

老師 「その先はこうやったらどうなるかってことで、推測するとわからないだけでしょう。計画したの発表したら、その通りのこと、

    それみんなわかるじゃない。」

参加者「わからんですよ」

老師 「そんなことはない。後でゆっくり、その先話しましょうね。皆さん方も、こういうご意見あるから、後でお茶飲む時間あるから、

    そういう時にこの話もうちょっと皆で聞いて煮詰めてみますか。今はちょっと置きましょう。」


ざっと申し上げてきたことは、一番最初がどうなっているかが狂っているとですね。どんなにその上に教えても、

正しくものが伝わらないということを言いたいんですね。


だからもうちょっと違ったものを上げとけば、色眼鏡って言う話がよくある。

最初に色眼鏡を掛けていることを自分が知らないでものを見てる時は、その通りの色でしか見えないから、

色眼鏡をかけてることなんか知らないですよね。だけど、色眼鏡かけてない人と出会ってみると、

同じものを見てて、色の話が違う。どうしてだろう、同じもの見て。どうして貴方そういう風に、私はそういうに絶対見えない。

眼鏡をかけていること自分で知っていれば、取りますよね。

この眼鏡かけてるからこういう風に見えるんだとわかるからいいんだけど、こういう眼鏡のような色眼鏡でない場合、

いわゆる勝手な思いと言うようなメガネはですね、勝手な自分の思いって言うような色眼鏡はですね、

こういう形のあるもの掛けてるより、ついてないからわかんないんですよね。

何時それをかけたか、何時自分勝手なものの見方をしたか、知らないんですよ。

それでなかなか話をしても、わからない。だけどちゃんとした人がそこに来て、お前、色メガネかけてるからそうなってる。

はずしてみろって、はずしてくれると、あ、本当だ、あなたの言ってる通りだって、こうなる。


それ修行する第一歩です。

何で師について学ぶか、

何故、指導者が必要なのか。

何故、達磨が中国に来る必要があったか、

ということです。

こんなことが日常の中にいっぱい形を変えていますね。問題が起こる時は必ず第一歩がズレてる。

そこからものが勉強されるために、難しいなあ、わからないなあってきっと言うんですね。

それだけの話です。
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