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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正念道支

音声はこちら ↓   2016.11.26 御提唱分

正念道支 ①
正念道支 ②
正念道支 ③
正念道支 ④
正念道支 ⑤




三十七品菩提分法、あと二つ残っています。少し読みます。

「『正念道支』は、被自瞞の八九成なり。念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝なり。

念中発智と学するは、纏縛之甚(纏縛の甚しき)なり。無念はこれ正念といふは外道なり。

また地水火風の精霊を念とすべからず、心意識の顛倒を念と称ぜず。

まさに、汝得吾皮肉骨髄、すなはち正念道支なり。


『正定道支』とは、脱落仏祖なり、脱落正定なり。

他是能挙(他れ能く挙す)なり、剖来頂寧作鼻孔(頂寧剖き来って鼻孔と作す)なり。

正法眼蔵理裏、拈優曇花なり。

優曇花裏、有百千枚迦葉破顔微笑(百千枚の迦葉有りて破顔微笑す)なり。

活計ひさしくもちゐきたりて木杓破なり。このゆゑに、落草六年、花開一夜なり。

劫火洞燃、大千倶壊、随他去なり。


この三十七品菩提分法、すなはち仏祖の眼晴鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。

仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり。

しかあれども、一千三百六十九品の公案現成なり、菩提分法なり。坐断すべし、脱落すべし。」

正法眼蔵三十七品菩提分法第六十



人の身体の事を身心と表しております。

身と心という字を書いて、身心と表してますけれど、身体と心を、どういう風に何時頃から分ける様に、こうなったのでしょうかね。

身体と心が別々にあると言う事はないんだけども、何となく、この身体の活動と違った活動がどこかに、こう認められるもんだから、

そう言うものを心の働きとするのでしょうね。

そう言う中で、この念の字が使われるんだけども、結構厄介な、人間にとっては厄介な文字でしょう。


要するに、「心とて人見すべきものぞなし」って言う様なが残されている様にですね、心って別に何か形らしいものがあって、

見せる様なものは無いですね。

こうやって、コン!(机を打たれる)コツンて、これが皆さんの心の働きなんでしょう。今。コン!

ものをよく知らない人は、それ音がしただけだって。コン!ね。コン!そう言う風に捉えてる。

こうやって、コン!そう言う事が、必ず身体全体の中に、コン!こうやって音を聞いてるだけじゃなくて、

コン!これによってそう言う風な事が起こる様に出来てる。そう言う働きを、念て言ってますね。


だから、そこにも最初に出てきますが、被自瞞て書いてある。自らを瞞せずと読むのかね。

これ、いつも話してる様にですね、人の在り様を見てみるとよくわかるけど、他人の在り様というものは一切無いのですね。

あの人がって、こうやって言ってる事自体が、皆さんよくわかっている様に、自分の働きなんでしょう。

誰も他の人がやってる訳じゃない。あの人があそこであんな事してるって、こうやってやると、

如何にも向こうに何かものがある様に、自分の事とは別に、こう何か有る様に思っているけど、

そうやっている事自体が全部自分の在り様でしょう。そう言う事が問われています。


八、九成というのは、悟は十成を忌むって言って、何ですかね、本当は完璧といいたいのでしょうけれど、

八、九で収めるんですね。ここが面白い処。日本の建築でも、屋根を見るとですね、一番上に尾根がある。

ああ言う風にして残してあるんですね。あれで、屋根葺き終わったと言うんですね。

この様な在り方を、大体八、九成って言うんです。ほぼ完璧て言う様な言い方をするね。

これは内容として無限だと言う事ですね。

これで一杯って言って区切られる様な、そんな小さな働きでないって事を言いたいんです。面白い表現ですね。

念より更に発智すると学するは、父を捨てて何処かに行くって言うんですね。これは故事があるんですね。

捨父逃逝 ものを知らないとですね、本当の自分の在り様を捨てといて、どこかに本物を尋ね様とする、

そう言うものを表現した言葉です。詳しくは辞典引いてもらえば出てきます。

「念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝なり」簡単な事を挙げてみればですね、

こうやって音一つパン!皆さんに聞かせて、このパン!真意は如何いう風にあるか

って言ったら、これ以外に無いのですね。パン!念よりさらに発智する。

これ聞いてから、パン!この音を聞いてから、何かその先にって言う様なものは無い。

これで、パン!この音の全部なんです。もう。えっ、パン!全部終わったの。

人間て面白いですね。こうやっててパン!どうなりますかって言うと、音は分かるって言うんですね。

音は分かるって言う事は、何か他に分からないものが有る様な気配の言葉でしょう。

それ位、想像力の豊かな動物です、人間って。すぐ考え事でものを捉えるもんだから、折角、パン!八、九成の在り様として、

物が本当にパン!それで全て完璧にこうやって、尋ねる用が無い程確かな事をやっているにも拘らず、

音は聞こえる、この位の事は分かるって言って、まだ何か他に、でも手を叩いた以外の事が有るんじゃないかって、探るんですね。


だから当時、お釈迦様の当時でも、金波羅華を拈じるって言って、こうやってお釈迦様が一枝持って来て、こうやって捧げた。

大勢の人が居るんだけど、花を捧げてこうやってるのは、見えるんですよね、誰もね。間違いなく、こうやったら見えるんだけど、

何だろうって、それが何だろうと言う人が多い。此処に迦葉尊者と言う人が出てきますけど、

迦葉尊者だけは、こうやった時に、真意が分かったんですね。


もうちょっと卑近な例を挙げると、此処に、今、308から309ページが、こう開いてある。

これを読む時にですね、この本を読む時に、何故か、こうやって書いて有る事を読んで行くんだけど、

皆さん方の読み方を聞いて見ると、書いてある以外のことが一杯出て来るんですね。それ何でしょうかね。

こうやって読んでいくと、書いてある事以外のことが一杯出て来るって、何でしょう。そう言う人居ませんか、読んで。

どうですか。本を読む時に、此処に書いて無い事が出て来るんですよ。不思議でしょう。

本を読むってことは書いてある通りにしか読めないのでしょう。後、出て来るものは何ですか。

今、念よりさらに発智するって書いてあるけど、念よりさらに発智するは、と学するは間違ってるとかいてある通りでしょう。

間違いでしょう。こう書いてあるの読んでるにも拘らず、書いて無い事が出てくるって。

自分の勝手な、そこにものをつけたって言うことでしょう。

利口そうだけども、書いて無い事を、こうやってそこへつけてやるって事は、正しく読んでるって言えないじゃないですか。

そう思いませんか。どうですか。それじゃ分からんって。そんなことないでしょ。

書いてる通り読めば、書いてある事分かる様に出来てるでしょ。そうは思いませんか。


だから、人は本を貸してあげてもですね、本を読まない。よっぽどちゃんとした本を貸して上げてもですね、読まない。

自分の勝手な解釈で、こう行くんですね。要するに、自分の頭の中で理解が出来ると読めたと思ってるんですね。

読むって事と理解するって事は違う。基本は此処にあるように、念よりさらに発智するは間違いなんです。

念中に発智と学するは、これも纏縛の甚だしきなり。本当にその通りのことをその通りあるだけが、本当の在り様じゃないですか。

正しくものを受け取るって事はそう言うことでしょう。


中々あの人の言い分は素直に受け入れられません、て言う女性がこの前いました。

そう言う人もいるかなと思うんだけど、正念道支って言われるんだけども、

人は必ずですね、受け入れられるとか入れられないって言う前にですね、本当にびた一文ずれないように、

相手の喋ってることがそのまま自分の処に伝わる様に出来てますよね。そう言う様子を人は聞くって言ってます。

ところが、普通の人の聞き方って言うのは違うんですね。言ってる通りに聞くんじゃなくて、それ、どういう事だって言って、

何が言いたいんだろうって、やってます。それは聞いてるんじゃない、よく分かるでしょう。

自分の頭の中で色んな事を考えてるんであって、全く聞いてる事とは別でしょう。本当に耳を傾け耳を澄まして聞くってその通り、

虫の音でも、鳴いてる通りに、ただいるだけを言うのでしょう。

一切、こっちで何もしないで、虫が鳴いてる通りに、ただそこに居てみる。そう言うのを本当に聞くって言ってるでしょう。

基本的な勉強なんですよ。


ものと目とが触れ合うと見える様になってますけど、それでそれだけで、仏法の全てがその中に漏れなく説かれてるのですよ。

たったそれだけのことで。嘘だと思うんなら検証して御覧なさい。

八万四千の法門と言われる仏教の色んなものを、書いてあるものを。

この目とものが触れてみえる、この働きで全て説明がつく様になってますよ。それ以外に無いんですよ。

他には無いですよ。念中に発智するって言う様な事。


眼とものがどの様になるか、皆さんに何回も話してるから、おおよそ分かっているでしょう。自分の生活ですから、毎日してる。

だけど、それとは違った生活をしてるんだね、人って殆ど。眼の様な生活が、人が出来たら、こんなに苦労しないよね。

難しいことは一切無いでしょ、こうやって。必ずそうなるんじゃないですか。こんなに自由な活動が出来る、底抜け。

なんにも縛られずに。残るものが無い、いつも。対象として取上げて、あれがこれがって言う様な、そう言う生活を、眼はしてない。

本当に今の在り様だけですよ、いつも。こんな清清しい生き方をしてる。本当にこれだけで仏法の全てがこの中にある。

だから釈尊が明けの明星に触れて大悟するのでしょう。だた星を見ただけで、何で全てのものが解決するんですか。

竹に石が当たった音を聞いた位で、何で一生の問題になってる事、底抜け解決するんですか。

カチッと音がする事の中に仏法の全てがある。音ってそう言う風に皆さん勉強してるはずです。

音って音がした時だけ聞こえるからでしょう。

本当音がした時に聞こえるだけで、音がしてない時に聞こえなかったら、人は苦しまないのでしょう。

本当、そう言うもんじゃないですか。


だけども、朝小言言われて、昼の仕事をしている時も、まだ気になるね。それは見て御覧なさい。

自分の耳に聞いて御覧なさい。こんな耳を持ってる人は居ませんよ。

朝小言いわれた事を、昼になっても、まだ喋って聞こえる様な耳を持って生活してる人は、誰も居ないはずですよ。

あれは耳じゃないですよ。自分の中で思いを起こした事を、自分で問題にしてるんですよ。耳の様に生活して御覧なさい。

耳が活動してる様に生活して御覧なさい。腹が立つものなんか、どっこにも抱えてませんよ。

捨てた訳でもない。手放した訳でもない。忘れた訳でもない。

何にもしないんだけど、耳ってそう言う風に、底抜け素晴らしいんですよ。


そう言う事がこうやって「念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝」とか「念中発智と学するは、

纏縛之甚(纏縛>の甚しき)」
と言う様な事になるんですね。

ものが分からないと、何か他にあると思ってる外には無いですよ、今の有り様以外には。


「無念はこれ正念といふは」道から外れた人達の言い分だと言ってる。正しい言い分ではない。

皆さん無念て言う事、言葉知ってるから、聞いてみると分かるんだろうけど、無念てどう言う事なんですかね。

同じ言葉を使って喋っててもですよ、後で出て来るかも知らんけど、同じ言葉を使って喋ってても、内容が違うんですね。

一般に無念て言われたら、自分の中で思いが無いとか、そう言う風な状態を想定して、そう言うものを無念だって言う様に

思ってる。そう言う事と違うでしょう、無念て。それは念があるのでしょう。残念無念(悔しく思う事)をある。

何も思ってないって言う状況が。想像してるって事は、ちゃんとそれだけのものを持ってるのでしょう。

そう言う指摘をちゃんと道元禅師はしてるんですね。考え方を離れないと無念て言う事は本当には分らない。

考え方の上で扱う無念は、必ず無念て言うもの持つんですね。無いって言うのは分ってるのに持つんですよ。

そう言うものが無いのを無念て言う事が分っていても、いつもそうやって持つんですよね。

考え方を離れない限りは必ずやられます。だからそれは正しくないと言っておられる。


「また地水火風の精霊を念とすべからず」四大元素と言いますけれども、

全ての一切のものを作る四つの大切な元素、地水火風そう言うものによって全ての物が構成されてると、

一応言うんですけれど、この身体の中に、何か固まった何かそう言うものが有るって言う風な思いですね。

思い、念としてのものが何かそこにあるって。

音だって何処にも有るわけじゃないですよ。パン!聞こえたけども何処にもパン!身体の中にもないでしょう。

こうやって物を見せたって、身体の中に何も無い。どうですか。

何か身体の中、これ見せてこれが分かったら、こう言う物が身体の中にこうやってありますか。どっかに。不思議ですね。

これと目が触れるとこう言う風になるんですね。所謂皆さん見えるって言ってます。有るって思える様になるんですね。

じゃ何処にって言うと、こう言う風にやった時だけそう言う事があるっだけで、

その他には一切何処にも固まったそう言うものが無いですね。

でも、もう一度人間は自分の目で見ると、あそこにああ言うものが有るって、一応概念化して記憶の中に留めて行く。

で、その概念を相手にして、お互いに生活の中で語り合うもんだから、随分とずれるんですよね、実物と。

思い込んだものと実物は違いますからね。実物の方は皆さんがその時思ったものがですね、

知らない間に全く様を変えていくんですよね。実物って言うものは止まった事がないんだ、事実というものは。そうでしょう。

今と言う時間なんかをみても、何処にも今と言う時間は止まる場所が無いですね。取って置く場所がないですね。

だけども、概念はちゃんと今と言う時間を取って置くことが出来る。何回でもそれを出してくる。

身体の中に、本当はそう言う思いだけがあって、実物らしいものは何もこの中にないですよ。

地水火風、そう言うもので作られているんだけど。


一軒の家だってそうでしょ。色んなものを寄せ集めて、これだけの建物、形が出来るんだけど、ほどいていくとどうなるかって、

地水火風に別れるだけだよ、最後。それぞれ土や木や。何処にも家らしいものが無いよ。

だけど寄せ集めると、皆さんが家が出来たって言う風にな思える様な形になる。そう言う風な事を説いてある。

「心意識の顛倒を念と称ぜず」色んな事が思えるって言う様なことでしょうね。

そう言うものをここで念と言っているのではない。ああ驚いたとか、嫌だなとか、明日如何したらいいんだろうかとか、

色んなことやります。心意識の顛倒。顛倒って逆さまな思いなんでしょ、事実と全く逆のものの捉え方をする。


事実にはですね、よく話出すんだけど、各自の見解らいしものは、、ひとつも付いてない、思いらしいものは。

どんな草木にこう触れても、あっちが綺麗でこっちが汚いとかって、そう言う風な気配は全く無いんだね。

あっちが素晴らしくて、こっちが劣ってるって様なのは何も付いてない。そう言うもの挙げるとよく分かるでしょ。

心意識って言うものは、皆さんがやってる心意識ってのは、あああっちは美しい、こっちは何だかって汚たねえな、そうやって、

そう言う風なもの、心意識の顛倒です。


だけども実際の様子は、その通りがそうあるだけですよ。そうじゃないですか。物にそんなものついて無いでしょう。

分かりにくいのかも知れない。こちらの人の方が若く見える、こちらの人の方が年を取って見えるって言う風に言うけど、

本当はその通り、こうあるだけでしょう。それに自分の思いをつけるんでしょ。

こっちの方が若く見える、こっちの方が年行って見えるって。どうですか。自分の眼に聞いてごらんなさい。こうやった時に。

自分の眼って見解はついてないんですよ。

だから、眼と物との関係で、こうやって触れた時に、やっぱりそう言う中で、仏法の真髄がちゃーんと説かれてるでしょう。

優劣を離れてる、是非を離れてる。争いの起こる余地が無い。

だけど考え方をつけると違うでしょう。それが顛倒の思いと言うんでしょう。般若心経の中にも、多分そう言う言葉があるでしょう。


正念というのは、本当にこうやって、どこにそれらしい念があるか分からないでしょう。

こうやったって(紙片を一枚見せる)エー、念が動いたとか動かないか分からない。ただこう言う風な様子になるだけじゃんね。

眼と物が触れると、こう言う風になるの。こうやったら(紙片の向きを変える)こう言う風になる。

こうやってやるとこう。如何したんでもないけど、そうなるんです。

だけど、修行している人達は、それをただ見てるって、そう言う感覚で居るんですね。

やってみると、目と物はですね、目と物の感覚ではですね、見るって言う気配は何にも無いんだよね。

ただ、こう言う風になるだけじゃないですか。こうなってるだけでしょう。こう言う様子が展開されてるだけでしょう。ね。

向こうの事だとか、こっちの事だとか言わないでしょう。エー、不思議ですね。ここが違うんです。

あっちで何か、井上さんが紙切れ持って遊んでる、みたいな事を思う訳でしょう。私達はそれをこっちで見てるって。

そういう風に思ってるでしょう。それは見てる事とは別でしょう。ここ(頭)の中で取り扱ってる話でしょう。

眼と物と触れてる様子にはそう言う風なもの一切ついて無いでしょう。分かりますか。


まさに、汝得吾皮肉骨髄、すなはち正念道支なり。」って言う風に書いてあるけども、

本当に誰でもそうなってるのでしょう。私がここに居て、向こうに井上さんが居てって、そんな事は何処にも無いじゃないですか。

こうやって。何故かこう言う事がこの通りあるだけで、不思議だね。見てるとも何とも無い。難しいかしら。

まあ、その辺でおきます。こんな事がよくも、ねえ、書かれてると思う。

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  1. 2016/12/21(水) 20:03:52|
  2. 三十七品菩提分法・八正道
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