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三十七品菩提分法 八正道  正精進道支

2016 10.22
 
音声はこちら ↓
正精進道支一_01
正精進道支一_02
正精進道支一_03


つぎ行きます。

「正精進道支とは抉出通身の行李なり、抉出通身打人面なり。倒騎仏殿打一匝、両匝三四五匝なるがゆゑに、九々算来八十二なり。重報君(重ねて君に報ず)の千万条なり。換頭也十字縦横なり、換面也縦横十字なり。入室来、上堂来なり。望州亭相見了なり、鳥石嶺相見了なり。僧道前相見了なり、仏殿裡相見了なり。両鏡相対して三枚影あるをいふ」


まあそういう風なことが書いてあります。段々漢字が多くなってきて読んでいると頭が痛くなる文章になって来てますね。内容は、それほどどうこうのことじゃないでしょ。

「正精進道支とは抉出通身の行李なり」本当に見てみると、一日二十四時間考えてみれば、一日二十四時間あるという風になってる。だけどもこの今の様子は、その中の選りすぐった真髄ですよね、今これ。たったそれだけで生きてるんですよ、今。一杯あると思ってるんだけど、本当に今こうやってる様子しかない。生涯そうです。本当にそう。

「抉出通身打人面なり」顔つきだってそうでしょ。一日中、こう並べれば色んな顔つきがあるに違いない。だけど、必ず、今の顔つきの様子しか皆さんは他の顔つきの様子を見せたことがない。見せられないんですよね、他の顔つきを、今。今見せてる顔つきの様子しかないんですよ。「抉出」そこだけをくり抜いて出してくるって言う様な言い方をしてるけど、本当に今のそういう有り様しかない。こんな難しい文章を何で引いてくるのかと思うんですけど、好きですね、道元禅師。いろんな事沢山知ってるからでしょうかね。

さかしまに仏殿に乗って一匝する。さかしまに仏殿に乗るって言うと、馬に乗るんならわかるけど、この本堂にさかしまにのるって言う様な言い方ね。さかしまっていうのは味噌なんでしょう、こういうもの読む時に。普通に乗ったんじゃ普通です。さかしまに乗るって言う事は此方から向かって行くって言う事じゃやないでしょう。

こういうことだってそうでしょ。パン!(両手で打つ)聞きに行かなければ聞こえないって言う、そんなことはないでしょう。何もしないでパン!こうやって私がたたいたら、いきなり聞こえるように出来てるでしょう。皆さん方は音がしたらパン!聞きに行かないとパン! 自分の方から耳を向けて聞きに行かないと其の事が聞こえないと思っている位、そういう生活をしてるんだけど、さましまって言うのはこうやってパン!何も自分の方ではしないでもその通りにあるってことが、さかしまなんでしょう。ものが見えるんだってそうでしょう。こっちから向かうと見えると思ってるんだけども、戸を開けた途端に、飛び込んでくる位向こうから入って来るんでしょう。こっちから何もやらないでしょう。そういう有り様をさかしまって言うんですよ。皆さんが考えているのと逆です。

人の話もそうです。聞いて理解をしないとわからないと思っているけど、人の話は理解しようなんて思って聞くと、わからなくなるんです。知ってますか。理解しようと思ってそこに自分の考え方を入れるから、あいてが喋っている通りに聞こえなくなるのです。間違った聞き方をする様になるんです。自分の好きな様な聞き方に。自分流の聞き方になって行くんです。それをやらないんです。そういうことが逆さまに仏殿に乗るとか言う表現になるんですね。

一回りとか二回りとか三回りとか四回りとかあります。五匝、一々そういう生活をしてるってことでしょう。そう言う事が精進なんです。正しい精進のあり方。一切混じりっ気のない純粋に生きてる。だから掛け算をする九々。ここ八十二となってる。多分書き間違いなんだろうね。九々八十一ですよね。間違い。何かの原文がそうなってるからそのまま挙げてあるんでしょうけけど、八十一で大丈夫でしょう。例えばそこの脚注のある様に、無門関、無門録の上巻なんかの雲門のお話を載せてあります。引いてあります。原点はこういうことでしょう。九々八十一となってますね。だから道元禅師が何でか掛け算間違えた。そう言う事で良いでしょう。誰がやっても九々八十一ですね。

「重ねて君に報ず」だから改めて、くどい様だけど申し上げる皆さんに。ものの真相はこの様になってますよ。「千万条」だから、一々ものの真相はこうなってますよって皆さんに示すわけですね。だから示された人は、教えられるんじゃなくて、自分自身の生活してる内容で、それを見てみると、ああなるほど、言われてる通りだ、本当にそうなってるって言う事がよーくわかるはずです。

パン!とこの音がしてって言うんだけど、音がしない間は、音がしてるかどうかひとつも気が付かないんだけど、パン!こうなった時に、イキナリ聞くとか聞こえたとかって言う事じゃない、ガチャーと言うだけですから、こんなになってる。パン!そこには人の見解って言うものは一切入ってない。従ってこれをうけた時に、自分の中が乱れるとか、崩れるとか、問題が起きるって言う事一切なしにキチッとした生活をしてます。パン!これどうしたんでもない。パン!これだけで、何時音からはなれたのかも知らない。ね、気が付かないでしょ。何時音からはなれたか、全然知らない。

ところが皆さんの日常生活を聞いてみると、朝、あいつにあんなこと言われたとか、会社に行ってあんなことが在ったとか、夫婦の間がこうだったとか、何か近隣の人にこんなこと言われたとか、言う様なことがしょっちゅう問題になってる。どこでそれが響いてるんでしょうか。実験してみますよ。パン!実験してみると、パン!音はこうなるんですよ。こういう風にしかパン!人にはならないんですよ。今聞こえてる人は一人も居ないんですよ、ね。パン!こうやって言われたんだけど、今聞こえてる人は一人も居ないでしょう。それ、信じられるでしょう。どうですか。これに対して疑いのある人、それはそうだけどって言うんでしょう。

「審細に参学すべし」よーく自分のことだから、パン!おろそかにせずに、生活の中でパン!パン!勉強しなさいと、こう言ってるんです。これはパン!わかるけどって、パン!これはかろうじてそういわれれば、そうわかるけど、人に言われたやつはそう簡単には離れられない、忘れられない、やめられないとか、じゃ自分の耳に聞いてごらん。そんなことをしてる耳があるか。パン!パン!パン!こんなにうまく生活が各自出来てるのに、何でこの素晴らしい生き方に諸手を挙げて賛成してついて行かないんですか。つまらない自分の考え方の上の生活にどうして戻って来て、そして考えの上で、これをどうしたら忘れるだろうかとか、どうしたら気にならずに居られるだろう、そんなことばかりやってる。良いですか。パン!どこに残ってるんですか。

「重ねて君に報ず」皆さん方に重ねてそういうことを告げる。しかも千万条ですよ。数えればきりがないほど、その確かさを皆さん方にこうやって、二十何年、こうやってここに来てやってますよ。これだけですよ、やってることは。他の事は一切やってませんよ。それだのにまだはっきりしない。こんなもんですよね、人間てね。真面目に勉強してるような顔はするけど、本当に。

「換頭也十字縦横なり、換面也縦横十字なり」 六番目に何かどんなことが書いてあるって。要するに自由自在な働きをしてるって言う事を言いたいだけでしょう。十字って言うのは、縦横の線が交わってる処を、十字って言うのでしょう。それは何処を指すかったら、今でしょう。十字ってのは今ですよ。空間と時間帯を縦横に並べて、こうやって交わる処を十字というのでしょう。今ですな。ここですな。縦横っていうのは同じ事でしょう。縦横十字。本当にそこで活動してるんですね。この身体のない所で活動した人いないんですよ。人が生活するっていうことは、この身体のある所だけで生きていく。外国から此処まで来るにしても、必ずこの自分の身体のある所で、ズーっと来ただけ、そういう経過をして此処に来てるだけです。別に他では何もありません。一生涯そうです。ただ、この身体と共にあるだけです、人間は。不思議ですね。

部屋に入って来る時、お堂に登って来る時、或いは有名な場所がある、こうやって望州亭とか円通寺の山頂とか、いろんな所こう有る訳ですけど、必ずそういう所に行けばその通りに、相見了とあるけど、その通りに必ずなる。出会ったら出会った様に必ずなる。それ、相見了っていいます。相見っていうのは出会うっていうことですね。会見互いと言いますけど、片方だけで行われることはない、ね。ものを見る時は向こうだけってことはないでしょ。必ずこのものと一緒になっているんですね。

まだ一杯書いてある、「僧堂前相見了なり、仏殿裡相見了なり。」 何処でも良いですね。何時でもこの身体が其の所に、その場所で一緒になりながら活動してるんです。他には無いですよ。考えっていうのはあらぬ事を、思ってもみないことまで思う道具ですからね。面白いね。だからひっちゃかめっちゃかになるんですね、考え方に学ぶと。

「両鏡相対して三枚影あるをいふ」 鏡と鏡と相対すると、どの位の姿が映し出されるかって、何かそういう法理があるでしょうが。聞いたことありませんか。鏡と鏡を向かい合わせると、お互いどんどんどんどん映しあっていくから、物凄い枚数がこう映し出されるんですね。不思議なんですね。此処で要約して三枚って言う風にしてあります。

例えば三輪空寂ってお経を唱える時に、そういうのがありますが、三つ巴って言うんですかね。三枚、三つの輪がうまく融和する様な状況、自分と相手とそのものが触れ合う様子って言う様なことですかね。もうちょっとわかりやすく言えば、この三枚って言うのは、各自の身心と、時間帯の今と言う時と、場所的に言う此処の三者が三枚でしょう。これ三つある様に思うけども、一つのものの様子ですよ。サイコロの面体が、だけどもどれもサイコロですね。一の目でも、六の目でも。そう言う様なことですかね。両鏡相対して三枚影あるという。

三身一体って言う表現が、私は他の所の教えを勉強したことが無いので、内容を十分には知らないけども、私が使うんだったら、私と今と此処、そう言うものが別のものでない、そう言う風に三身一体って言うのは使いたいね。自分を離れて今、って言う時なんか絶対にありえない。自分を離れて此処って言う場所なんか有り得ないのですね。

だけど考えって言うのは、私が死んでも円通寺は残る、そう言う風に考えるものですね。で、そやって話をすると、誰だって、そりゃあなたが死んだって円通寺は残るよって、誰もそう思ってますから、そう言う風に返事するんだけど、自分が死ぬるとですね、どうなるかって、一切のものが消えるって言うことさえも知らないですね。不思議ですね。自分が亡くなると一切のものが消えるとか、なくなったとか、残るとか残らないとか、皆が問題にしてることさえ、何処にも出て来ない、こんなにすっきりしてるって言うことでしょうかね。良いでしょうね。まあこの辺で。ちょっと残しちゃったんだけど。全部終わるつもりでいたんだけど、余分なこと話たんで長くなってしまいました。すみません。じゃもちょっと残して、終わりにします。


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