fc2ブログ

三十七品菩提分法 八正道  正命道支

音声はこちら↓

三十七品 正命道支_01
三十七品 正命道支_02
三十七品 正命道支_03
三十七品 正命道支_04.
三十七品 正命道支_05


次が正命道支6番目になるんですか。五番目か。八正道の五番目、正命道支。命というのは生活ということでしょうかね、訳したら。同じ前のも生活には違いない。正業道支って。似た様な内容でしょうけれども。

「早朝粥、午時飯なり」命を支える。朝はお粥を食べ、昼はご飯を食べる。それから「在叢林弄精魂なり」修行道場にあってですね、本当にそう言う風にして、親しく自分の今出来てる様子にこう在るということですかね。精魂を傾けるっていうんだけど、精魂を傾けるって言うことは、今やってることに親しく居るってことじゃないですか。余所見をせずに、それず外れずに。身も心も全て今やってるだけでこうやって居てみる。考え方がそこにおこるとたちまち生活している事実からですね、浮き上がってしまうんですね、考えっていうのは。事実からすぐ目が離れる。嘘だと思うなら皆さんやって御覧なさい。考え始めたらすぐ今の生きてる自分の事実から離れていきますよ。

「曲木座上直指なり」曲木っていうのは坐る処の椅子なんですけども、腕の処にこう曲がったものがつけてあるから、曲木って言うんです。けどもそういう処に坐ってお話をする。それから「老趙州の不満二十衆、これ『正命』の現成なり」立派な生き様をしている所には、人はそう集まらないって言っていいのでしょう。なんだろう、中々そんな所に居れないものでしょう。厳しいっていうんだけど、正しいって言った方が良いのでしょう。厳しいって言うといじめみたいなものになるんで。修行を、正しい修行をされているって言うことになると、人間は中々窮屈みたいで居れないのかも知れない。

それは考え方が中心になって生きてる人はですね、自分の考えてることと生活してる内容が、あまりにもかけ隔てがあるからですね。お粥出てきた時に、お粥食べる時にこんなことしてて何になるって思うじゃないですか。ご飯出てきたらご飯食べるだけ、お茶出てきたらお茶、お掃除のときお掃除するだけ、礼拝する時礼拝するだけ、こんなことして一日やってて何になるんだろうって、何時も思うから、とてもそんなとこに居れないでしょう。私の求めてるのはそんなもんじゃない。お寺に来たら、もっと何か立派な、らしいもの学べて、素晴らしい人になれるって、何かそういうものを求めて生活入ってきますから、そういう人たちはとてもこんな生活じゃ耐えられないですね。だから二十人に満たなくなるのは目に見えてます。二十人も居りゃ立派なもんです。

「薬山の不満十衆」十人に満たない。うちの師匠なんかでもそうだったけど、貧乏な寺で食べるものとて無い。在家の参禅の方が来ると昼になっても帰らないと、師匠がご飯時だなって言って、なんか出さなきゃ悪いって思うんでしょうね。お米もないからご飯も無い。台所に行くと井戸から汲んである水が水桶にある。そっからこうやって水を汲んで皆に出して其れで参禅をしていた。そんな状況で私らもそういう処で育ったから、来る人達が子供さん達の食べ物まで取っちゃ悪いって言う様な言い方された。そういう中で育ったんだけど、貧乏だって思ったことが無い。水一杯で皆有難く其れを頂いて参禅をして帰ってました。

お坊さん達も四、五人はいつもお寺に寝泊りしてる。一緒に修行してる人がいたけど、殆ど蒲団を引いて横になってるのを、私が小さい頃はみたことが無い。私が気が付くといつでも坐ってるって言って良い位坐ってる。もちろん一日中坐ってるにしても、時々外に行って歩いてきたりしていますけども、四、五人の人が順番に食事の準備をして、バケツに一杯位の水を汲んできて、一日その一杯の水で過ごすような生活をしてる。質素というかこんなに簡潔な生き様をしてる人は居ないなと思う位、そういう生き方をしてる。だから普通のひとは耐えられないね。そういうものがお坊さん達の世界の様子でしょうね。求めるものが違うんだよね。まあ「これ正命の命脈なり」

「汾陽七八衆」これも人の名前です。汾陽の所では七、八人。そんなに沢山の真面目にやる人が集まる訳はない、言ったら悪いけど。それは仏法だけじゃなくて普通のことでもそうですよ。世界のトップを目ざす人達を見て御覧なさい。そんなに沢山居るわけじゃない。やれない、そんなには。「これ正命のかかれるところなり。もろもろの邪命をはなれたるがゆえに」 要するに、金儲けとか名声とか何かそういうようなものを目的にしているんじゃないですね、修行すること生きて行くことは。本当に自分自身が心底満足の行く有り様、そういうものを成就しよう、成し遂げよう、それがわかったら、人にもそういうことを、勧めて救える、救ってあげる、そういうことを心がけているんであって、これだけやったら他の人よりも裕福な生活が出来るとか、そんなこと望んでいるのじゃないですね。そういうことが、この辺に挙げられている「もろもろの邪命を離れたるがゆえに」

釈迦牟尼仏言、「諸声聞人、未得正命」そういうところ引いておられます。自分中心にして自分の幸せだけを考えているようなあり方をしている人達は正しい生き方は出来ない。相手のことを本当に思う時に、自分のことを問題にする人はない。それが皆さん知っていることでしょ。治療する医師にしてもそうです。自分のこと忘れて人の為にただやってる。それが尊いのでしょう。知らないうちに自分のこと忘れるんですね。やってることだけに。それが自分の様子ですから。自分のこと忘れてますね自分ことは何処へも行かない。それがそのまま人を助けることになる。

ところが自分のことがどうしても気になって、自分の思い通りにならないと、腹が立つような生き方では人をも育てられない。子供もまともに育てられないって言って良いのでしょう。いろいろ家庭の中で問題が起きる時見て御覧なさい。何で親が子供をいじめるか。自分の思い通りにならないだけじゃないですか。子供を育てる時に自分の思い通りにならないからって、子供をいじめてどうするんですか。

「しかあればすなわち、声聞の教行証、いまだ正命にあらざるなり。しかあるを、近日庸流いはく、声聞・菩薩を分別すべからず、その威儀戒律ともにもちゐるべしといひて、小乗声聞の法をもて、大乗菩薩法の威儀進止を判ず」とあります。声聞とか縁覚とか菩薩とかって言う名称があるんだけど、人のものを学ぶ時のランクづけをしてるんでしょうかね。三段階ぐらいに分けております。

その中で声聞という、声を聞くって言うんですけども、声聞。人の教えを聞いて学んでいくような在り方でしょうかね。声聞。本来は人の教えを聞いてものを学ぶんじゃないですね。自分の様子は人に聞いて学ぶことは一切ありません。ね。人から教えられて学ぶものはないですね。自分がどうなってるかってことを学ぶのに。だけどちょっと力のない人は、人に教えられないと自分の様子がどうなってるか見る力がない。そういうものなんですね。

こうやって毎日ものを見てるんだけども、どうなってますかって、どういう風に自分は生活をしてますかって、水をむけてあげないと、毎日見てることがどうなってるかを見たことがないんですね。一生懸命見ないとものが見えないと思っている。パッと見ただけで、ちゃんと其の通りみえるんですね。修行するとかしないとか関係なく、こうやって見える力がある。

一般的には小さい子はものがよくわからないと大人は思ってるじゃないですか。かなりそういう面があるでしょ。小さな子の方が能力が低いと思って、ものが良くわからないと思って、そんなことはないですよ。大人以上ですよ。誰も教えないのに、モデルの車、こやって10台ぐらい在って、パッとみせると、ひっくり返そうがどうしようがすぐわかる。大人はですね、最初に見た方向に並べて貰わないと其れがどうなってるか分からない。それ位大人はたいした能力はないな。何処で学ぶんだか分からない。本当に。

おっぱいと水の違いを誰が教えたか。誰も教える人はないよ。だけどちゃんとその違いが分かる。水が欲しい時におっぱい飲まされても、赤ちゃんは喜ばない。何で。泣いてるから、お腹が減ってるからおっぱい飲ましたらいい、と思って、おっぱい飲ませるお母さんが居るけど、子供でもですね、水が欲しい時がある。水分。おっぱいと水分では違う。ああいうものが、大人は子供が泣いてるって聞き分けられるだけの人が中々居ない。ましてや初めて子供をもうけた場合、体験初めてだから良く分からないって、大人は必ず思うんです。じゃ、赤ちゃんは?赤ちゃんも初めての体験ですよ。おっぱいも水もはじめての体験なのに、どうして違うことが分かるんですか。誰も教えないのに。こんなに素晴らしい能力みんな持ってるでしょ。

声聞っていうそう言う位の人達です。教えられてやっと自分のことが分る位の程度の人、そう言う位の修行をしてる人を、声聞と言います。別にここからここまで声聞、ここから菩薩っていう風にここの中に分かれてるわけじゃないんですよ。だから安心して下さい。自分で分けないで下さい。本当に誰しもがちゃーんとした生き方をしてるものがあるんだけど、それが自分でわかるようになったら、立派な生き方になる。そう言うことが問われますね。

「しかあればすなわち、声聞の教行証」修行の過程でしょう。見たり聞いたりして、それが実行に移されて、実行した結果なるほどって言う様な、納得の行く処まで行く、そう言うことが教行証でしょ。そう言うこと一応やってですね、行くんですけど、「いまだ正命にあらざるなり」最初から話してるように、声聞ていうもののあり方をしている人達は、その程度だからものの本質が分るのにそれ位開きがある。

だけども、「しかあるに」最近力の無い人達、つまらない人達が、「庸流いわく」声聞も菩薩も分け隔てる必要が無いじゃないか。どっちも用いたら良いじゃないか、声聞の人の様子も菩薩の人のあり方も用いたら良いじゃないかと言ってですね、小乗声聞の法を以って、つまらないものを以って、立派なものの在り方を評価する。

丁度ですね、悟りを開いた人がそこにいた時にですね、悟りを開かない人がそこに居てですね、開かない人はですね、悟りを開いた人の内容を素晴らしいってって、誉められて悟りを開いた人が喜ぶようだったら可笑しいでしょ。そう思いませんか。ものが分らない人に誉められてなんになるんですか。ものが良く分る人に誉められて初めて価値があるのでしょう。そう思いませんか。ダイヤモンド一つでもそうでしょう。鑑定する人に力があって、力のある人が鑑定したものだから、これが認められるんであって、鑑定の力の無い人がこれは素晴らしいもんですって、こうやって置いて、誰がそれをじゃ買って行くかって。

最近はそうじゃないですよ。お坊さん達修行をしてですよ、在家の坊さんじゃない修行もしたことが無い人が誉めると、何かいい気になってる。そう言う姿が沢山ある。かって私が修行してた時に、そう言う身近なことを見聞した。見聞きした。その方が本を出される時に、誰に序文を頂くかって言った時に、東大の名誉教授か何か言う人に、肩書きのある人に序文を書いてもらった。何で仏法の話を書いてある本の序文にですね、そういう人に序文を書いて貰い出さなきゃならないか。何の価値があるか、それが。この人に誉められて。こんなもの大事にしてるって言う事を見聞きした時に、この本は読むに足りないって思いますね、私なんか。第一級の人がそれを読んで、ああ、この内容だったら、是非私が序文を書かして貰いたいって、言う位の人に書いて貰ったら、其の本は価値があるよ。まあそんなことはそこらへんにいっぱい転がってる話ですよ、これ。

「釈迦牟仁仏言、『声聞持戒、菩薩破戒』」かって聞いたことのある歌にですね、悪を憎むを善だと思う、悪いことを憎むのが善いことだと思う、その憎む心が悪だと言う様な、そう言うことを残してる人がいた。そう言うのがこの文章にピッタリするんでしょうね。声聞の持戒、悪いことするなって言うでしょ。正しいには違いない気配があるじゃないですか。だけど其の前に善し悪しをつけるって言うことが問題なんでしょ。菩薩って言うのは善し悪しをつけないで生活している。そうすると、声聞の人からすると、菩薩のやってることは破戒じゃないかって、どうでも良い様な、善し悪しをつけないで、よく平気で居るなって、ものがわからない人からすればそうですね。もの学ぶ時に善し悪しがちゃんと分って、善い事をする悪い事はしない、それが正しいのじゃないかって声聞の人は思うんですね。

だけどものが本当に良く分ってる人はですね、本当にものに最初から善し悪しが無いって言う事が基本なんですね。感じませんか、そういうこと。そうやって、お互いこうやって、あの人はいい人悪い人がってそういう事やることがつまらないですよ。一切のものに対して、そうやって善し悪しの見を以って見ない、向かないって言うのが菩薩の戒律の守り方なんです。小乗の人の戒律の守り方は、最初からものに対して善しあしをつけてる。そして悪いことはしないようにしよう、善いことをしようって初めから優劣がもうある。そういうな事が、声聞の持戒は菩薩の破戒って言われるような言い分になるんでしょうね。いろいろあります。

一例だけ挙げて内容をもう一回みますが、「しかあれば、声聞の持戒とおもおへる」声聞の人はこれが戒を守ってるんだってそう思える内容だけども、「もし菩薩戒に」比べてみれば、声聞の人達は戒をしっかり守ってるって内容は、正しいものを間違えて受け取ってる、破戒ですね。

その他のことも定とか慧とか言うようなものもそれと同じようだと言う風にあげてあります。具体的にもうひとつ「不殺生」、ものを殺さないという事ですかね。命のあるものを殺さないと言うようなものを挙げてもですね、「自ら声聞菩薩あひにたりとも」同じように命あるものにを殺さないち言うことに関して似た様なことを、やってるけど、「かならず別なるべきなり」内容が違う。みんな東の方へ向かって歩いてるからって言って、内容を見てみると目的が違うって言う様なことがあるでしょう。同じ方向に歩いていれば皆同じかってそんなことはないですよね。

近年、この第一不殺生戒ってのがあるんだけど、はじめに。殺さないって言う戒があります。こういうなもの問題になって物議をか
もしたことがある。その代表的な話をすればですよ、狩をする人、所謂鳥や獣や魚やそういう生き物を取ることを生業をしている人、それから取ったものを今度は料る人ね、そういう人に対して長い間私達は偏見を持ってた。卑しい職業、身分の低い者だって言う風なものの見方をしてきたんでしょうね。

食べる人は誰が食べるかって言うと、そういう風に批判をしてる人が一番沢山食べるんですよ。自分の手を汚さないでですよ。人がそうやってやったやつを食べてるんで、私はものを殺してませんて言うような顔をして食べてるんですね。殺させてるのはあなた方のほうじゃないって言うことを知らずにやってる。そういうな長い間日本の国の中であっても、取り上げられてます。やっとこのごろそういうものが正当な見方で出来るようになってきたんじゃないですかね。

特に日本の国ではそういうことが近年まであったでしょう。まあ今でもひょっとしたら、そういうものの見方をまだ何処かで伝え聞いて、そう思い込んでる人が居るとしたら改めるべきでしょう。或いは生き物に対して、植物と動物の違いって言うよう様ものを勘違いしてですね、動物に対しては殺すってことを非常に意識が強いんだけど、植物についてはあまり殺すって言う意識はないですね。だから、平気で買ってきた物が枯れて、或いは腐ってもですね、動物が死んだのと違う感じがするじゃないですか。同じ命のあるものですよ。或いは茶碗やこういうものでも、皆そういう机でも命あるものですよ。座布団でも。どうやってそれを大事に扱うかって言うようなこと。

昔はこの不殺生戒は本当に動物だけに対してやってたかも知れない。原点は人が人を殺さないって言うことだったはずなんですね。自らの命を自ら粗末にしない。あるいは両親、近いところから言えば両親を殺さない。他のものは何処の国でも取って食べてるんですね。国によっては食べるものが違うじゃないですか。何故違うかっていうと、其の国にはそういう動物が居なかったからでしょう。インドでは牛を大事にする、豚を大事にする国、羊を大事にする国、ウサギを大事にする国いろいろあります。それによって何を食べて良いかって言う、国で決まりが自ら出来てくるじゃないですか。

兎に角全ての生き物はですね、お互い、お互いを食べて生きてるんだ、そういう風に出来てます、全て。弱肉強食じゃなくて、連鎖として全てそういう風に出来てる。で何処で殺すとか言う様なことが問題になるか。一番問題になったのは、自分の気に入らないからって言って、相手を自分の思い通りになる様にきゅっと締めてしまって言うような殺し方をすることが問題になったんでしょう。そういうことはしないんですね。

で、そこの内容を見てみると、必ず自分ていうものが最初にたって、自分の思い通りになるかならないかって言うことで、殺生するとかしないかってことをやってきたのが声聞の戒律の守り方なんです。大乗の戒律は全てのものの生き物に対して、命あるものとして平等に扱って来たじゃんね。それ位同じ殺生に関してもですね、取り扱いが違う。まあそういう様なことがあって、最近では食肉生産業者って言うんですね。食べる食肉を生産する、殺すんじゃなくて生み出す、生かすと書いてある生産、そういう風に扱ってます。

「天地懸隔の論におよぶべからざるなり」今の内容を見てみると、その位ひとつの戒律の守り方でも、声聞のものの考え方と、そういう考え方をしてる人と本質的なももの扱いをしてる人の戒律の守り方はこんなにかけ隔てがあるという、違いがあるということでしょう。で私たちはその上等な方を実践していくのでしょう。「いわんや仏々祖々の正伝の宗旨と諸声聞と、ひとしからんや」だから同じ訳がないじゃないか。声聞の人たちのものの考えと仏祖の方のももの取り扱いが同じなんて言う風に扱う、そんなことがあってはならない。「正命のみにあらず」正しい命のあり方だけじゃなくて清浄の命あり。「清浄命あり」本当にものに、あらゆるものを見てもですね、人が取り上げて思ってる様なもののあり方ではないですね。

第一に優劣がない、ものには。人間はそうは思えない、ものに対して。優劣がないなんて思えない。善し悪しがないなんて思えない。綺麗とか醜いとかっていう様なものだってあると思っている。糞ころがしって言うのは糞の中、糞を相手に生活してる。昆虫です。何よりあれを愛する昆虫ですね。地球は糞の塊の様なもんです、全て。内容を見ると。あらゆるものが、生きてるものが排泄したものが、全部地球の上にあるんだよね。糞ころがしみたいなもの。人間がものの見方ってそういう風になる。本当に見てみると優劣なんかないよね。好き嫌いなんて大体ないじゃないですか。

皆さんの耳だってそうでしょ。ポン!ポン!ポン!(机を打つ)どんな音だってしたら聞くんでしょ。好き嫌い超えてその通り。聞いた上であれが嫌いだこれが嫌いだって言う話があるんで。聞いている時に好き嫌いをして聞いている人は居ない。全部その通り聞くから、後で自分の思いに比べた時に、気にいるとか気に入らないとかって言うことをやってるだけ。ものを見るたってそうでしょ。そこにありゃ全部見るんでしょ。その時になんてことはないのでしょ。そういう大きな生活をしてるじゃん。博愛主義とかって言うんだろうけど。一切のものを嫌わずに受け入れるだけの能力がある。こういう風に生活してるのに、自分を立てると、たちまち小さな世界になるですね。自分で首を絞めるのでしょう。そういうの処をみると小乗の命っていうのがよくわかるでしょう。どういうものが本当に素晴らしい在り方か。

「しかあればすなはち、仏祖に参学するのみ正命なるべし」本当によくわかってる人に学ぶって言うことが、ものの命を学ぶ時に正当だと言うんでしょう。「論師等の見解、もちゐるべからず」良さそうなんだけどね、いろいろ評価が出来て。評論家って居るじゃないですか。あんな楽な仕事はないですね。誰でも出来る、評論家なんて。責任ないんだもん、殆ど。言ったって。あーだこーだって言ったって。多分こうなるでしょう、ああなるでしょう。色んなこと言って、一週間たったら、ああなったって。合ったとか合わなかったとかって取り上げてるけど、その程度じゃないですか。人を混乱させるような職業ですね。あれに対して今度は視聴者が好きなタイプの評論家が居て、この人が好きだとか言って、その人の言い分をまともに受けて、そうやって生きてるだけじゃない。こんなこと離れるべきじゃないですか。本当に。

そういう風にして本当はものを学ばないといけないのでしょう。だから新聞なんかでも一社だけ読むと偏ってますから、だから何社か新聞を取ってみると、同じ事柄に対して意見がみんな違う、そうすると全容が大体見えてくるってのが、今のあり方です。「味得正命なるがゆゑに、本分命にあらず」ものが本当にわかってない人の生き方だからって、書いてあります。本物の生き方じゃないって、それは。本当の生き方ではない。


スポンサーサイト



コメント

非公開コメント