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坐禅箴 Ⅹ

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次の頁ちょっと行きますが、「江西の曰く『図作仏』」道元禅師がそれに対して、「この道あきらめたっすべし」江西の馬祖道一禅師が、お師匠さんが、お前何してるんだ、坐ってた時に、いや図作仏ですって言ったんですね。道元禅師がその事に対して、先ず作仏って言うのはどう言う風に捉えているか、皆さん。仏となるって、一応文字上はそうなってるじゃん。仏を作るとか仏に成る、ね。皆さんはどう言う風にとらえるんですかね。「作仏と道取するはいかにあるべきぞ。」どう言う事が作仏と言う内容なのか。
 で、道元禅師が皆さんの答えを待つ前にご自身の口から「仏に作仏せらるるを作仏と道取するか。」これが一つでしょう。自分の方でどうもしないのに、こうやって物に眼がふれると、否応なしに、その通りこうやって、その物がこうその通り見える様になるのか。そう言うものを作仏と言うのか。チリチリチリチリ音がすると、チリチリチリチリ自分で聞こうとも何ともしないのに、否応なしいきなりチリチリチリチリ音がしてる様にチリチリチリチリこうなる。そう言うあり方を作仏と言うのだろうか。
 「仏を作仏するを作仏を道取するか。」一々今の様子そのものにこうやって居るだけですね。距離も時間もかからない。向かうと言う距離が無い。尋ねてそこに到ると言う距離がない。こうやってチリチリチリチリ。だけど人間はこうやってやると、向こうで音がしてこっちで聞くって云う風に理解してる人は、距離を持ってる人でしょうねぇ。もう一回自分の耳で確かめてみると、こうやって、チリチリチリチリ音がする時に、向こうからこっちへ音が聞こえてきたって言う風に聞こえるか、距離あるか。自分の耳で確かめてみて下さい。時間的な表現では、今って言うものは絶対に人が手を付ける事の出来ない様子ですよ。作るんじゃないからね、今の様子って。今の様子に其処へ行くなんて言う事はない。今と言う有様は初めっから存在しているのではない。どこからか来て今になるのでもない。去来もなし。そうやって過ごすのかって言う事です。
 「仏を作仏するを作仏と道取するか。」「仏の一面出両面出するを作仏と道取するか。」一々今の様子だけだって言う事でしょう。一面出両面出って事は。その時にその時の顔の様子がある、その時その時の様子が只、その時にあるだけ。その時にもう一つの様子が出て来た事無いでしょう。不思議だねえ。
 例えば私がこうやって手を動かした時、私が手を動かす時に、もう一つの手の動かし方が出て来る事が無い。次にこうやっても、一面出両面出って言うけど、何時も只その様子だけが、こうあるだけです。で、こうやった時に作り変えてこんな事やる事ない。これで終わっちゃう、もうこの事は全部。こんな生活をしてるって事でしょう。だけど人間は、こうやった後、これを問題にする、終わってちゃってから問題にする。気に入らんて。エー。実物は皆さんが気に入るとかいらないとかって言うものが起きる前に終わっちゃう。こんな素晴らしい生活を皆さんしてるんですよ。だけどこの事を自分で気が付かないから、終わった後の事しか取り上げた事ないじゃないですか、生活で。眼が眠ってるのと同じですよ。真実の様子が其処に在りながら見る力が無い。自分の眼が眠っているから。ねぇ。無いなら難しいですよ、探すのに。だけども、誰しもそう言う事が行われてるじゃん。こうやった時にやり直して見るなんて事ないでしょう。この通り見えて終りでしょうが。そしたら文句言わなくなるでしょうが、あれがこれが。
 「作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。」その時限りで何処にもその様子が残らない。ねぇ。その時限りでその事は何処にも残らない。こうやって確かに見たに違いないけど、見終わった時に、今見た物が何処にも無い。こうやって見せた、確かに皆さんその通り見えたでしょうが。だけど、こうやってやり終わった時に、そのやった事が何処にも無い。抜け殻も無い、脱落って言うけど、抜け殻も無い。それ位皆さんの思ってる事と違う生き様をしてる。そう言う自分の在り様を「図作仏」と言うのか作仏と言うのか、と言う様な事を道元禅師は幾つも身近な事を、自らの口で皆さん方に問いかけている。答えはあなた方がその中で出すのですよ。本当にこの道元禅師が言ってる様な事なのかどうかって事は、自分自身で、自分自身が生活してる様子の中で、この身体、身心の活動してる様子で。それが「耳目をして聡明ならしむ」って言う事です。他の人にやって貰ったって分かる訳がない。物を見るんだって、音を聞くんだって、他の人の身体で見たり聞いたりする事は、どんなにやったってはっきりしません。だけども自分自身の上でやると、こうやってチリチリチリチリ(鈴を振って)他の人の耳で聞いてないでしょう。他の人の目で見てないから、隣に居て、どう言う風に見えますかなんて言う必要がないじゃない。その通りの様子しか出て来ないんだもん、こうやって。これがこうやった時に、その通り以外の様子が、こうやった時に出て来るんだったら、非常に問題になるけど、出て来ないでしょう。だから一切混乱しないじゃん。そう言う風な過ごし方をしてるのを、作仏と言うのかって言ってるんです、仏様。仏様の過ごし方って、そう言う過ごし方をしてる。それは誰しもが今やってる事ですよ。
 ちょっと屁理屈を付けてみれば分かる様に、こうやった時に(物をみせる)その通り見えるだけだったら、迷うって言う事はないでしょう。エー。迷うって言う事は比べる物があって、どっちが本当だろうって言う様な事の時に迷うって言うんでしょう。単純にその事だけが出て来て、何を迷うんでしょう。迷わないじゃない。で、これだけしか出て来ないから、見るのに苦しむ事は無いじゃないですか。悩む事は無いじゃないですか。本当は皆さんそうやって毎日生活してるんですよ。だけど此処まで自分の心底、心の、心底、心の様子に触れないから、考え方の上だけのものを見てるから、分からないだけですよ。頭に思い浮かべた事の方を重要視してるから。その方が気になる訳でしょう。明日雨が降るかなー、エーそう言う様な事を思い始めると、今天気の中にこうやって生活してても心配になる訳でしょう。雨が降ってないのに。不思議ですねぇ。
 「作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏を道取するか。」今ずーっと話して来た様な人の在り様ですね。眼でも耳でも、身体全ての活動がそう言う風になってますけども、万般です。何もかもそう言う風になってます、誰しも。本質的な働きってそう言う風になってます。今の事を後でやるったら、今の事をやってるとは言わない。今の事は今やるだけです。後ではやらない。後でやる用がない。
 これで見終わったんです。(扇を開いて見せる)だけど、何かこうやった時に、良く分からないってふっと思うと、もう一回やって下さいって言うんですよ。良く分からないから。もう一回こうやってやってあげる。そうすると、前のものと今のものをこうやって比べて、前のものはああ言う風になってたのかなって、そう言う風な勉強をしてる。そうじゃない。今の様子を学ぶだけなんですよ。学ぶって言う事は何時でも。さっきはっきり見なかったからお願いしますって、何回でもやって上げるけどね、皆さん見てるものは何を見てるかったら、必ず今の様子だけじゃないですか。さっきの様子を見てる訳じゃない。それだのに人間はさっきこうやってやった時に良く分かんなかったけど、なるほどさっきああなってたのかって、こうやってみるんです。さっきああなってたって見るんじゃないです。今こうなってるんですよ。(扇を見せる)分かるかしら、こう言う処。不思議だね。そうやっちゃ、さっき分からない事が分かった様な気になって。そうじゃない。今の事が今分かると、さっき分からなかった事必要なくなるんだよね。それだけじゃん。
 「この図に葛藤しもてゆく」かって、こう言うお互いの様子、一緒になりながら活動してる様子、それだけで修行して行くのでしょう。葛藤は物に絡まり付く蔦だとか藤とかそう言う様な事で、一般的には、邪魔者って言う様な意味に葛藤ってのは取ってるけど、此処でこうやって読んで見ると、葛藤ってのはそう言う取り方はしてないね。葛藤って、本当に向こうとこっちって言われる物が一緒になりながら活動してる。物を見る時だってそうでしょう。向こうの様子と皆さんが見てる様子が別々な事は無いでしょう。必ず一緒でしょう。
昨日、面白い事を言う人がいた。何かね、鏡がこうあって、こちらで手を上げる、右手を挙げると鏡の中はどっちの手が上がってるでしょう、って言うんだって。。エー。こうやってこっち、鏡の外に入る人が右手を挙げた時、鏡の中に写るでしょ、これが。で、鏡の中の手はどちらの手を上げてるでしょうって。これがですね、学者がですね、結論がつかないんだって。愚かだと思いませんか。こっちは右手だけど、あっちは左手だって言う人がいるらしい。だけど一番はっきりしてるのは、鏡がこうあったら、こうやって鏡に近づけてみると、向こうの手とこっちの手が別の手でないって事良く分かるでしょう。だから向こうに見える手とこっちにある手だもんだから、別々になる様に思ってるんだね。考え方ってこうやって迷わされる。実物は迷いませんよ。こうやってやると、間違いなくこうやって近づけて行くと自分の手そのものの様子ですから。こっちの手じゃないってのが良く分かる。逆に写ろうがどう写ろうが、自分の今の手の様子に違いないって言う程はっきりしてる。こんな話が昨日あって、エー学者ってつまらんなって話したんだけど。
(それ右っていうんでしょう)そう。
(右って言うから駄目なのよね。)言っても良いけど、言葉は幾ら言ったって良いんだけども自分の中で言いながら、はっきりしないんだよ。
(学者は何処が分からないんですか)右の手か左の手かって、鏡の中に写ってるのは右のてなのか、こっちは右の手を上げてるけど、向こうは右の手を上げてるのか左の手をあげてるのかって、そう言う質問らしい。
 で、それで私はついでだから、皆さん右と左知ってますよね、って。右と左知ってますよね、何処からが右で、何処からが左ですかって。お尋ねしてみたら、答えが出ない。知ってるでしょう。何処から右で何処から左ですか。(笑)右の様子とか左の様子とか言うけど、どこからが右の様子ですか、此処ですか、此処ですか、左の様子ってここら辺からですか。エー。
 (どっからか無いんですね。)無いんですよね。実物の方は何にも迷わない様に出来てる。こっち(頭)が分からなくしてるだけ、考え方。言葉を知ってるために。
 こうやってる時(正面向いてる)右左と、こうやってる時(横に面す)右左は全然違う。自分の向いてる位置に依って全く違ってくるのよね。ねぇ。それ位自己中心に生きてると言う事だよね。物の真相そのものに学んでない。だから道を聞いてもですね、電話で、あなた何処に今居ますかって言って、いや此処に居るんだけどって言って、その道を右にずーっと行って下さいって、その先行くと左に曲がって下さいって、だけどこっち向いて聞いてる人とですね、こっち向いて聞いてる人ではですよ、全然違いますよ。ちゃーんと聞いて、言われた通り行ったんだけど、無いって。面白いね。一番最初が分かってない、ね。一番最初をちゃんと見てない。物の真相を明らめるって事はそう言う事です。一番物の最初、人間の分別を入れる前にはっきりしてる状況がある。その物に触れないと、物の真相は掻き回されて分からなくなる、考え方で。皆さんが困るのは、皆そうじゃない。
 事実を見て悩む事は無い。事実が悩むんじゃない。考え方が悩ませるだけじゃない。ああ倒壊しちゃって、昨日まで住んでた家が。そう言う事でしょうね。だから救いってものは、そう言う処に在るじゃない。壊れたものは壊れてるって事が自分ではっきりしたら、立ち直って行くでしょう。ところが、壊れた事を悩んだり苦しんだりしてる処からしか物を見てないじゃない。壊れる前の様になってればこんなにならないんだけどって、そう言う思いだけに居る人は大変ですよ。親しい方と死に別れてもそう。色んな過酷な事が世の中に起きてくるけど。事実は人を苦しめる事は無い。考え方が人を苦しめます。あああったら良かった、こうあって欲しいって言う思いが強いから、許せないんです、今の事実をそのまま。受け入れられない。だけど事実って言うのは受け入れるしかないじゃないですか。無い様にしようと思ったって無理じゃない。それが物を本当にはっきり明きらめる人でしょう。どうなってるかって言う事が分かる人。そうすると立ち上がる力が其処にある。まあその位で良いのかな、時間。あと、何か聞いてみたい事や気になってる事があったらどうぞ、此処で。公開独参みたいなもんですね。やりましょう。


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