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他心通 Ⅲ

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 「大証国師の大耳三蔵を試験せし因縁、ふるくより下語し道着する臭拳頭おほしといへども、ことに五位の老拳頭あり。」今話して来た様に、この慧忠国師と大耳三蔵の二人の間で、帝が、本当に大耳三蔵と言う方が他心通を得てるかどうかって言う事を試験させた、そう言う因縁があって、それに対して今読んで来た様に、昔から色々な方々がそれに対してご意見を述べておられると言う事です。その中にここは五人挙げてあります、五位の拳頭あり。代表的なものとして、五人の様子をここに取り上げたと言うんですね。で、この方々の言い分はさすがに皆はっきりしている、内容が素晴らしいには違いない、と評価を一応道元禅師がしておられます。
その後、「しかあれども、この五位の尊宿、おのおの諦当甚諦当はなにきあらず、」あとと言うことですが、「国師の行履を覰見せざるおほし。」本当に慧忠国師が何をされようとしてるかって言う処をみる力がちょっと欠けてるのじゃないか。どうして私がそう言う事が言えるかって、「ゆゑいかんとなれば、古今の諸員みなおもはく、」ここではこの五人の事で良いでしょうかね。
「前両度は三蔵あやまらず国師の在処をしれりとおもへり。」一回二回三回同じ様な事を聞いておられますけれども、一回二回は三蔵が答えた事を聞いて、所謂良しとしておられる。『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言う事に対して、ちゃんと示していると言う風に理解をしておられる。「これすなはち古先のおほきなる不是なり、晩進しらずはあるべからず。」そうじゃないじゃないかと。一回目も二回目も、『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言った時に、ちゃんと答えてないじゃないかって、そう言う事、後で学ぶ我々も、そこの処を見逃しては駄目だと、道元禅師は先ず指摘をされておられます。まあちょっと後で色んな事が出て来るから、それ置いときますが。
 「今五位の尊宿を疑著すること両般あり。」で改めて今五人のつけた話ですね、関連したかす方々の、これに対する話を挙げたけども、その方々の内容を見ると、大きく問題になる箇所が二つあげられる。一つはですね、慧忠国師が、『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言う問いはですね、何を本当に大耳三蔵に聞いているか。それは他心通をそこで示せと言う事でしょう、あるんだったら。本当に他心通が有るんだったら、その他心通をそこで使って答えると言う事が、国師が問いを発している内容だけども、それには十分答え切って居ない。
 それからもう一つはですね、「国師の身心をしらず。」これは最初に申し上げた通りです。皆さんも多少感じていると思うんだけど、自分と自分以外のものが有るって言う風に、殆どの人が理解してるんですね。これ、こうした自他を分別して見ることは中々取れないね。どんな学問的に理論を展開してもですね、理論の上ではある程度理解行くんですよ。今って言われる時間帯に皆居る訳ですから、別々な事が絶対無いって言うのが理論的に分かるじゃないですか。どんなに沢山の物が有ったって、今って言う上に全部ある訳でしょう。これは今でない、これは今だって、そう言うに別れる処は何も無いでしょう。それだけど終わった時には、これは誰ですかと言ったら、自分の様子だとは言えんね、矢っ張り私じゃないって言う風になるんですね。
 本当に自他って言うものだけは、中々頭では自他が隔てが無いって言って、考えの上で理解が行ってもですね、実際になるとすぐ自他の見が起きる、見方が。こうやって見る時には、向こうとかこっちとか言ってないよね。否応なしに一緒になってるから、こうやって見える様になってる訳でしょう。だけど、瞬時の内に向こうに障子が在ってこちらに私が居て、こう言う風に見える様になってるって言う風な、考え方で取り扱った話しか人間の中で展開されてない。
 こう言う様な事が、道元禅師が言いたいのですね。「国師の身心を知らず。」と言う事は、自分自身の本当の様子も知らないと言う事言いたいのですね。二四時間自分の活動してる様子だけでしょう。他の人の身体で何かやるって事無いじゃないですか。一応ね、一応話として、皆さんが頭で理解して頂けるかな、どうですか。一生涯そうでしょう。生まれてから死ぬ迄の間、この身体一つでこの身体の活動がずーっと在るだけ。そうは思わないでしょう。だって、見た事も無い国がある、今年は夏休みになったら海外旅行に行こうとかって言う位までやってる訳だから、色んな物がある、自分の事の以外に。今挙げた様な話だって、皆自分の中で、ああその国には未だ行った事がないなぁって言う中での話しだけじゃない。それが自分の中で行った事が無い国があるなって思わせてるだけであって、そう言う活動してるだけですよね。これを、「国師の身心を知らず。」自分自身の身心を知らずと言いたい。一応此処で道元禅師は国師の身心を知らずとおっしゃっておられるけど、真意はそう言う事でしょう。お互いに自分自身の身心と言う物はどう言う風な在り様で活動してるか。
 それで更に入って行きますが、「しばらく国師の三蔵を試験する本意をしらずといふは、」で一番目ですね。「第一番に、国師いはく、『汝道、老僧即今在什麼処』といふ本意は、三蔵もし仏法を見聞する眼睛なりやと試問するなり。」本当の自分の在り様が自覚出来ている人だったら、こう言う質問をしたらって言う事ですね。こんなつまらない事言わないじゃないか。「三蔵おのづから仏法の他心通をありやと試問するなり。」仏法の他心通です。これは読む時に、注意をすべきです。一般に言う他心通と仏法に言う他心通は、本当に違う。一般に言う他心通は先程ちょっと挙げた様にですね、神変不可思議な特殊な能力の様な、蚤が空を飛ぶ位の高さに人間が飛ぶ様な話になったりする様な力ですよね。ああ言うのを神通力といいますから、一般に言う神通力はそう言う事です。仏法に言う神通力って、お茶が飲みたいって言った時に、こうやってお茶注いで、こうやって、どうぞって、そう言うのが仏法の他心通、神通力です。何でもない。なんでそう言う事が神通力かって、不思議ですね。心が通じるのでしょう。通じないとどっか行っちゃうからね。
 「当時もし三蔵に仏法あらば、」本当の眼が開いていたならば、「『老僧即今在什麼処』としめされんとき、」言われた時に、「出身のみちあるべし、」ちゃんと答える力があるんじゃないか。どんでもない答え方をしてるでしょう。何ですか。川の話を挙げてそこで舟が浮かんでる様な話をして、その舟が競いあって流れてる様な物を取り上げて、あなたと私って言う様な事でしょう。慧忠国師と大耳三蔵二人の事上げて今こう言う風にここでこう言う事が行われていますって言う様な物を取り上げてる様な話しか目が行かない。本当に眼のある様な人だったら、そんな事は言わないでしょう。『老僧即今在什麼処』って言って、どんなお答えが良いか知りませんけど、ちょっと手を見せてくれますか、国師にちょっと手を見せますかって言う様な事は、これは『老僧即今在什麼処』言われた時に、老僧が何処に居るか良く知ってる人でしょう。本当に。いやお疲れ様です。今日は済みませんね、私の為にわざわざ出て来てくれて、そう言う力があってしかるべきでしょう。ね。色々な事が有ると思います。
『親會の便宜あらしめん。』かつて親しくって言う事ですね、親會。下には真実と一体となったやり方って書いてあります。今ここで触れ合って居る様子です。私は何処に今居るのかって言って、ここに触れ合って居る様子ですからね。あの、そう言う事が当然行われる訳でしょう、いきなりね。それから「いわゆる国師の言われる『老僧即今在什麼処』は『作麼生是老僧』問著せんがごとし。』」って道元禅師が言い換えておられる。慧忠国師ですね、『作麼生是老僧』慧忠国師ってどう言う人って言う事でしょう。なぜ慧忠国師どう言う人かって言う問いに置き換えて道元禅師がいるかって、目の当たりにこうやって触れてる訳でしょう、今、即今。私は今どこにあるって、こうやって訊ねてる処、目の当たりこうやって触れてるんでしょう。そしたら目の当たりに触れててこのものが皆さんに分からない訳ないじゃないですか。今の様子がそのまま有るんだもん。探るんじゃ無くて、これから。もういきなりこの私の様子そのものがそのそこに提起されてる訳だから、それに触れるのでしょう。即今いずれの処にか在るって言った時に、必ず今そう言う風に触れるのでしょう。それが本来の他心通でしょう。それ位自他の隔ても無い、ツーツーのやり用があるんじゃない。一点の隠す物もないほど全部そのままですよ。それ皆さんだって毎日そうやって色んな物と触れてる筈ですよ。だけどそこに自分の考え方がふっと入るもんだから、そうするとズレて行くじゃん。
 こんな事を道元禅師がおっしゃっておられる。もう一つ、まだ。道元禅師って言う方は凄い、何だろうねぇ、この洞察力って言うか、ものに参ずる力って言うものは凄いね。絶対に逃さない、人を他所に。そらさない様にちゃーんと連れて行く。「『老僧即今在什麼処』言うのは、「『即今是什麼時節』と道著するなり」。今どうなってるのか。(大きな声で)パン!聞いてるんだって、こう言ってる訳です。目の前に居る私の事を、って言葉上は言ってるもんだから、普通はそう言う風に捉える訳じゃないですか。対象になる人のことを聞かれたら。それが普通の神通力です。仏法の神通力は違う。何時でもいきなり自分の様子でしょう。他人(ひと)の様子に出会った事無いんだよね。そうでしょう、他人の様子に出会った事ないでしょう。全部自分の様子なのに、自分の中で、それはあっちの人の様子だって言う風に置き換えて扱うから厄介になってるでしょう。どうでもよくなるじゃないですか。そんな時間なんか無いですよ。私達何時でも。二四時間、何処で触れたって皆自分の生き様そのものですよ、生き活きとしてる。生き様そのものです。『即今是什麼時節』ねぇ。
 「『在什麼処』は『這裏是什麼処在』と道著するなり。」いずれの処にかあるか言うのは、今です。這裏です。あなた今何処にいるのかって言ってます。『這裏是什麼処在』是はこれ、自分で良いでしょう。『這裏是什麼処在』あなた方一人一人の様子でしょう。これ何の処在ぞ。だって他に扱うもの無いもんね。喚んで什麼とかなすですね、「喚什麼作老僧の道理あり。」喚んで何をか老僧となすかね。目の前に慧忠国師って言っておられるけど、目の目に慧忠国師って言う方がおられて、ここに大耳三蔵が居て、こうやって触れあってるんだけど、エー、「喚什麼作老僧」って言う表現をしておられる。目の前に居られる慧忠国師を老僧と喚ぶのか、それとも、もっと砕けて、味気の無い話をしてしまえばですね、私が今、こうやって慧忠国師に触れてるって言う事が、老僧を見てるって言う事になるんでしょうねぇ。  この自分が慧忠国師に触れると言う事が無かったらですね、老僧は出て来ないじゃん。色んな事でもそうだけど、此処に柱が有るって言ったって、こう柱が出て来るって事は、必ず自分が今そのものにこうやって触れてる様子が柱を見させる、或いは柱をそこに出現させる訳でしょう。ゲロゲロって音が聞こえるって言うのは、自分が今音に触れてる様子がその音を出現させるのでしょう、この中に。もし自分が触れてなかったら(自分を抜きにしては)、音は聞こえない訳ですね。自分が居なくても鳴いてると思う人は居るかもしれないけど、思うのは勝手だけど、自分が居なかったら鳴いてるのは聞こえませんよね。そう言う風な事ですね。「喚什麼作老僧」
 言ってみれば、自分の在り様が老僧を出現させたり、声を出現させたり、蛍光灯が出て来たり、味が出て来るのでしょう、こうやって。皆このものの様子の中で出現するのでしょう。摩尼宝珠です。如意珠といわれるゆえんです。向こうの事じゃないと言いたいです。日常問題になるの見て御覧なさい。全部自分の中で取り上げた事だけですよ。どんな事でも自分の中で取り上げてる事だけが、今自分の中で有るとか無いとか言わせているだけですよ。取り上げてない事に関しては、有るとも無いとも言えないじゃないですか。気にならないんだもん。取り上げた事だけが有るとか無いとか言って騒ぐでしょう。良いとか悪いとか、あの人があんな事言ったとかって、あそこであんな事があったとかって言わせてるのは、全部自分が取り上げてる、自分の中で取り上げた思いですよ。もう既に済んでしまった。しかもそれを取り上げて元に戻すとか、やり直すとか絶対に出来ないって言う事を知っていながら、それをつつくんですね、人間て。まだああなりたい、こうなりたい、ああなったら良かった、こうなったら良かったって。それが何か人を幸せにする、解決する道だと思ってる。そっちじゃないでしょう。
 『老僧即今在什麼処』って今の自分自身の真相がどうなってるかって言う事を本当に見極めるって事が救いの根源でしょう。ケロケロって言うだけだけど、迷いも無ければ悟る必要も無いし、憂いも無ければ争いもなければ、ねぇ。こんな静かな、涅槃寂静というけども、一つも自分で手を付けない、こんなに清々しいすきっとしていきなりそのままで終わってる世界がある。これが『老僧即今在什麼処』って言う一人一人の真相でしょう。考え方が始まるとですね、こんな処には人は目を向けないんだよ。それで坐禅と言われるものが仏法で大切にされて来た訳でしょう。坐禅と言うのはだから人間の考え方の上のものじゃない。そう言うもの扱う時間じゃない。今、今、自分自身の真相そのものに、考え方で無しに直に居るって言う事です。そう言う過ごし方をするから、非思量と言われてるじゃないですか、初めっから。人間の思慮分別でない、超えてる、そう言うものを全部。そうでないと、この事は本当に眼が向かない。先輩達が皆そう言う事を通過してやって来て、考え方ではここに届かないと言う事を知って仏道に帰依して、この事の素晴らしさを実践して、嫌って言うほど良く知ってるじゃない。



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