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他心通 Ⅱ

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 後にですね、あるお坊さんが趙州従真禅師にこの事を尋ねられた。この話をどっかで知っておられたんでしょうね、聞いて。それで、『大耳三蔵、』第三度ってあるけども、三たびって言う事でしょうね、『三たび国師在処見ず、未審、国師什麼処にか在る』三蔵様は慧忠国師の何処にいるかって事を見ぬく力が無かったけども、趙州禅師あなたはって言う事ですね。『未審、国師什麼処にか在る』それに対して、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』これって味わってみる趙州禅師のお答えだと思います。そうですね、一番最初にちょっと本題に入る前に触れた様にですね、皆この趙州禅師がおっしゃってる様に、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』と言われる様にですね、自分自身の上の様子なんですね。
 繰り返し繰り返し申しますけども、一日中位の短い時間をこうやってみてみると、人が何をしてるかって言うと、自分の活動している様子ばかりなんですね。本当に。あすこにああ言う物がある、あすこにああ言う人が居る、そう言う事、他人の身体の中で一切やった事が無い。でも自分以外の人が居ると思ってる。ここが面白いですね。全部自分の中でやってるにも、自分の中の事なのにも拘わらず、自分の中の事で自分と他人をちゃーんと分けてる。それで日常生活が問題が起きるんですよね。あいつ何を言ってるんだって、そう思ったのは私ですからね。あいつ何をあんな事言ってるって、そう言う風に見たのも私です。他の人が見てる訳じゃない。だけどそう言う見方を起こす。と、自分の中で忽ち相手が出来て闘う、敵を作るんですね。ゲームが始まる、頭の中で。
 今子供達が色んなゲームで戦をやってるでしょう。殺したりなんかして。点数をやったりする。あれと同じ事を、皆さん大人の人も自分の中でやってる。あれが始まるとですね止められない。ほんとに、自分の中で。時々間違う人が出て来る。それは何かって言うと、自分の頭の中でやってる事を、現実にそこに反映させるもんだから、そうすると大変な事件が起こる。ゲームの中では殺してもすぐ生き返ってくるんだけど、ね、自分の考え方の中で闘って滅茶苦茶に相手をしても何とも無いでしょう。自分の中でやってるだけだから。本当にその人とやってる訳じゃないから。自分の中で思い起こした事を自分の思いと闘わして争ってる。それでも気分悪くなるんですよね。その内に本当にその事がある様に思えると、向かって行く様になる、その人に。或いはその人に大声かけて罵倒を浴びせる様になる。それがもうちょっと酷くなると手を上げたりする様になる。暴力振るう様になる。やってる事は何か言ったら、自分の中に思った事を、自分で相手にしてるだけなのにね。まあかようにですよ、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』向こうに、自分の目の前に国師が居るのではなくて、国師そのもの様子は自分の上と言って良いでしょう。
 扇風機がここにあるんで、向こうに有る訳じゃないよね、別に。見てる人の、この扇風機に触れてる人の様子の上に扇風機が各自有るのでしょう。一緒になって動いてますからね。だけど頭はどうしても、私はここに居る、扇風機は向こうに有るって言う風にしか、無理だねぇ。何で別々になるんだろう。本当に同じ時間に、今こうやって居るにも拘わらず、向こうの扇風機が回ってる様子が、こっちで扇風機を見てる様子って別々にある訳じゃないでしょう。こうやってやる時に。それは分かるでしょう。時間てそう言うものでしょう。今の時間て言うのは向こうで扇風機が回っててこっちで見てるって言う風な、別々のものが今の様子の中にある訳じゃないでしょう。必ず一緒でしょ。二つある訳じゃないでしょう、向こうで回ってる様子とこっちで見てる様子って、二つある訳じゃないでしょ、別々に。そんな風には絶対ならないでしょう。それは頭の中で考えた上の見方ですね。実際にはそんな風になってないでしょう。
 (蛙が鳴く)ケロケロあれ蛙なのかしら、ケロケロ。(カラスが鳴く)カアーカア―って色んな物がありますけど、音でも皆さんよーく知ってる。聞いてみると分かる。向こうで鳴いてるカラスの声がこちらで聞こえるって、それ常識です。ものを知らない人は常識なの。本当にカアって言う時の様子にこうやって自分でみてごらん。向こうで鳴いてるカラスをこっちで私が聞くって言う様な構図にはならない。これが皆さんに本当は知ってほしい事なんです。皆さんに知って欲しい事。こう言う様にして人は生きてるんですよ。誰もそう言う風になってる。だけど何時からか知らないけども、向こうでカアって言うとこっちでカアって聞こえるって、そう言う風にしか学んで来なかった。そこに大問題があるだけ。
 仏法って何を勉強するかって、そう言う自分の達の真実です。本当に生きてる生き様がどうなってるかって言う事を自分ではっきりさせると、「なるほど」って事になるじゃないですか。そう言うものがここで暫く趙州禅師、『在三蔵鼻孔上(三蔵が鼻上に在り)』って言う様な表現をしておられる。でこの尋ねたお坊さんはその趙州の答えを聞いてですね、鼻孔上、鼻の上に、こんな処にあるんだったら、どうしてそれが見えないのか。ここら辺に(鼻を指す)ありゃ、大体見えるんでしょう。(笑)壁の向こうにあるんだとちょっと何があるか見えないけど、ここら辺にあるんだったら、見えるもんね。どうして見えないのかって聞いてみたんでしょうね。答えがふるってる。『只為太近(只太だ近きが為なり)』。パン!(打掌)こうやって音を立てて聞く時に距離ないでしょう。こっちで音がしてそっちで聞こえたって言う距離がないじゃん。時間的にズレがない。パン!そう言うのを近いと言う。『只為太近(只太だ近きが為なり)』。だからこうやった時に、聞くと言う事がない。聞くと言う事を用いない。パンて言うだけだ。音がしたなんて聞いてられない。こうやってやると、パン!と言う、イキナリ。
 眼でもこうやってると、見えるって言う事言わない、イキナリこうなる。そう言う風なのを近きにあり。近いもんだから、近いって言う事は一緒に居るって言う事ですからね。離れてれば見るって言う事があるじゃない。例えば自分の眼を自分で見る事が無いって言う様な事でしょう。自分の顔を自分で見る事がない。自分の顔をもし見ようと思うと、しょうがないから何かに写してみるしかない。エーだから人間は自分の顔を見る時は、殆ど写した顔しか見た事がない。直にその物をそのまま自分で見た事はない。だけども不思議だね、これ自分の顔だって分かるんだよね。でもこうやって自分の顔を見るって言う事はある。(手で顔を触る)こうやってやると、自分の顔が良く分る。どう言う風に、こうやってやると、この手で触ってる様子がそのままあるって言う事かねぇ。まあそう言う様な事が出て来ますけど。面白い表現するね。
 また他のお坊さん、他の所にですね、仰山慧寂と言う方が居られますけど、その方の所にあるお坊さんがこの問題を提起されて聞いておられます。それぞれお答えがありますね。仰山さんはそれに対してですね、『前両度是渉境心、(前の両度は是れ渉境心なり、』三回同じ事を問われたけども、一番目、一回目二回目、それは景色とか風景とか対象になる様な世界を眺めて、今慧忠国師の居る様子をこうやって表現している、と言う風におっしゃっておられる。そして最後三回目の時には、『後入自受用三昧、所以不見(後には自受用三昧に入る、所以に見ず)』。自受用三昧って言うのは、さっきからずーっと話して居る様に、本当に自分自身の様子ばかりなんですね。一日中。一つも他人の事をこれはやらないものです。これが分からないんだよね、どうしても。初めから自他を分けた生活をしてますからね。そう言う風に学んで来た。
 だけどもずーっと遡ってみると、人間は自他の境を最初につけていずにこの世の中に生まれて来た。その証拠には生まれたとも何とも知らない。自分がこの世に生まれて来たとも何とも知らない。それ位ですね、境が無い。自他の境が無い。しかも眼がついていてですね、物が多分見えている。お母さんやお父さんや周りに、生まれて来ると、やがて見える様になる。目が開いて。その時もですね、物を見てるって言う、そう言う感覚と言うか意識と言うか、認識と言うものが自分の中に無い。無いけども、こうやってやった時これに(物を見せる)触れると、これに(別の物を見せる))触れた時に、赤ちゃんの反応を見てると、私達はああ明らかに物が見えてるなって言う事が分かるんですね。或いはこうやってトントン音を出す。聞こえてるなってわかるんですね。聞こえてない人と聞こえてる人の様子が違いますから。これ大事な事ですね。生まれた時にこう言う生活をしている事を皆しっておかないと、三歳位になる迄聞こえないまま育っても気付かない。良く見えないまま育っていても気付かない。そうすると医療的に手遅れになる事や、早くやれば回復出来るものも手遅れになる事もあるでしょう。
 元々はそう言う風にしてですね、自分と他所の物とを分けた生活をしていないんですね。それでいながらちゃんと分かるんですね。不思議な、不思議だねぇ。こう言うものが本当は他心通と言われる原点でしょう。分け隔てをしない様な生き様が自分の中に今もある。それを自覚が出来ると人は救われて行くね。何もしなくても良い。自分と他人を分けた上からしか物を見てないから、何処かで調整しないと、コントロールしないと上手く行かないんですね、人間の社会では。だけども、パンパン!聞く時にですね、自分で何にもコントロールしないんだけども、パン!必ずその通り聞いてちゃんと一切問題が起きないで、パン!こうやって終わる様に出来てるじゃないですか。物を見てもこの通りこうやって。
 だけどこれが人間相手」になると、人間同士になるとどうしてこう言う風にはいかないのかって言うと、それは自分がこれは私、あれは私じゃないって言う風に見た上から扱うからです。本来こう言う風な扱いはしてないですね。自分が見てるとか言う事無しに物と一緒になってる。普段歩いてる時に物を見ようと思って歩かないんだけど、何時も見えてる世界いるでしょう。ねぇ。ああ言うもんですね。歩く。あれ全然見ようと思ってないですよ。何時も見えてる、世界の中に最初から。その見えてる中から特殊に自分で取り上げて、あんな物が見えたとか有るって、有るとか無いって言う前に、ちゃんとこの通りなってるんですよ。そう言う処が私達が自分の生き様の中で見過ごしてる一番大事な事じゃないですか。今、今、どう言う風になってるかって事。今はこう言う風になってると。『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』。必ずそう言う風になってます。向かう場所は無いんです。尋ねる場所は無い。作る用が無い手を加えて。
 白雲守端と言う人、次へ出て来ますね。この人は誰かに尋ねられた訳じゃない。ご自分でこの事に対してこんな事を言ってますね。『国師若在三蔵鼻孔上、(国師若し三蔵鼻孔上に在らば、)』これは趙州の言われた様に国師が鼻の上、近くに有るならばって言う事でしょう。『有什麼難見。(什麼の難見か有らん。)』見るのに何も難しい事はないじゃないか。『殊不知、国師在三蔵眼睛裏』殊に知らず、国師、三蔵の眼睛裏に在ることを)』。本当は鼻の上にあるんじゃなくて、眼の中に有るからそれで見る事が難しいのだと言う風に、守端禅師はおっしゃっておられる。それは先程申し上げた様に、自分の眼を自分で見るって言う事が難しい様にって言う事で言えば、まあ理解は出来るでしょう。
 パン!後で聞くって言う事は無いからですね。後で聞くんなら、パン!音を見る事が出来る。その事と一緒に居る時はですね、見る事が出来ないじゃない。手だってそうでしょう。こうやって手くっつけて、こうやってくっついてる所どうなってますかって、見る事できませんよ。離すと、離すと見れるかと言ったら、不思議だね、見れないんだね。音だってパン!そうでしょう。音がしてる時に聞けるかと言うと、聞くんじゃなくて、パンていってるだけです。じゃあ音がし終わった時に、それを聞けるかと言ったら、無理ですね。音がしてないから。だけど人間は音がし終わった時に、あ、今音がしたって、そうやっちゃ聞いた様な事を言ってる。不思議ですね。
 今鳥が飛んだって言って、飛んじゃったあっち行っちゃった後に、ああ今飛んだとか、飛んで行ったって。見てませんよ、見てる時には鳥が飛んでるなんて言って、そんな事言ってる暇が無いよ。それ、何を言いたいかって言うと、人間の思慮分別に渡る様な事がそこに入らないです。もっと丁寧にそれを言うとですね、問題が一切起きない生活をしてるって言う事です。で終っちゃってから、皆さん方、今のは何だって取り上げる、そう言う生活をしてるんですね。それで問題が多いです。本当に生きてる時に皆さん問題ないでしょうが。
 それは仕事をしている時でもそうでしょう。仕事を本当にしてる時に、問題にならないでしょうが。必ず問題になるのは、後で取り上げた時ですよ。あーだった、こーだったって。仕事をしている最中には、言ったら悪いけど、他に気にかかる事が無いんですよ、無いから今やっている通りのことが出来てるんです、実物は。実物には余分思いが無いのにも拘わらず、思い浮かんだ事を実物の様に取り上げて、それをどうかしようって自分で思う、それが苦労させるんじゃない。
 仏道ってそう言う事だけです、本当に皆さんに知って貰いたいのは。自分の事で自分に一番近い、離れた事のない時間帯ですよ、それは。鼻孔上にあり、眼睛にあるとか色々言われるけども、それ位自分自身の事なんだけども、自分自身の事に対して人間は一番疎い。離れた物だったら、少し離れた物だったら見る力がある。不思議ですね。これ落とし穴ですね。本当に。こんな処にブラックホールがあるとは思わないじゃないですか。
 もうちょっと別な言い方をすると、こうやって今の在り様って言うものは、在りながら何処にもその今の在り様を留めた事がない。だから探し用が無い。尋ね用が無い。尋ねる用がない。一方から言うと今の様子がなくなった事は無い。内容は全部変わって行くのにも拘わらず、今の様子は無くなった事はない。でその内容は今申し上げた様な過ごし方をしてるんですね。こんなに出来の良い、極上の在り方です。人が手を付ける事が一切無しに展開されてる。 
 もう一人玄沙の志備と言う方がこれに対しておっしゃってる。「玄沙、徴三蔵曰、」徴は呼び出すと言う事ですね。慧忠国師と問答を交わした色んな経緯があるけども、今度は玄沙は自らこの大耳三蔵と言う方が本当にどれだけ力があるのかって言う事を試しておられる。これ親切な人ですよね。『汝道、前両度還見麼(汝道ふべし、前の両度、還た見る麼)』ああ言う風に何回も慧忠国師の『老僧即今在什麼処(老僧即今什麼処にか在る)』って言って何回も問われたけど、お前分かるかって言ってるんですね。これに対して何も答えが無い。ここに書いてない。どうなったのでしょうね。
 雪竇重顕と言う方はですね、『敗也、敗也。』と言っておられます。手も足も出んなあって言う事でしょう。大耳三蔵と言う方は、玄沙にそうやって言われてですね、手も足も出ない。完敗。飲む方じゃないですよ。完敗。少し位返せれば良いけど、完敗。手も足も出ない位に。グーの音も出ない位って言う事でしょう。そう言う何人かの話がずーっと道元禅師によって色んな所からこの最初の問答に対してのやり取りの流れとしてですね、関連質問みたいなものですかね、挙げてあります。これからもっと更に、今挙げたものを今度は道元禅師がご自身でこの方々を試験されてます。言い分に対して。突っ込んでおられます。ここが道元禅師の真骨頂でしょう。それちょっと休憩してからやりたいと思います。




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