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安居 ⅩⅣ (終)

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「今我れ敬請す、声聞に依らず、」先ほど上げた様に、独りよがりな生活をせずに、「当に十方如来、及び大菩薩とともに、三月安居すべし。」三月安居すべし、「菩薩の無上妙覚大因縁を修せんが為の故に、」何をそこでやるかったら、自分自身の本当の在り様にって言う事です。それはお釈迦様が自覚をされた様子ですから、私達もお釈迦様が自覚をされた様に、自分自身のこの実相といわれるものですね、清浄の実相と言われる、或いは寂滅の境涯と言われる、そう言う様な処に居てですね、「徒衆を繫ぜず、」独りよがりにならずにって言う事です。
  小人は閑居して不善をなす、何かあるでしょう。一人生活して不善をなす。何かそんな言葉が有ったと思う。大勢の人と一緒に居るとですね、有難いですよ。自分の悪い癖がみな取れて行く。例えば食事でもそう。十人で居て一人だけ他人の事全然構わずに何時までもゆっくりって、そんな生活しないでしょう。少しは何時もより早めたり、もうちょっと何かしなきゃとおもって、じゃ少し食べるの減らしてでも一緒にやるかって言う位、気を使って行くじゃないですか。朝寝して何時も起こされる。一緒に生活してると、そう言う事も自ずから正されて行く。顔を洗うのもちゃちゃっと洗って、いい加減にすっと坐る。時間に間に合えば良いって、そう言う様な姑息な生活は止めて、キチッとした生活を、皆する様になってるじゃん。一人だったら、本当に誰にも知られないから、結構いい加減になるんじゃないですか。食事も一人になると身体壊すでしょう、まあ今日はこれ位で良いかとか。まあそんな事にして置きますか。
  「善男子此れを菩薩の示現安居と名づく。」目の当たりに皆さん方に示してくれる安居の様子ですね。「しかあればすなはち、『比丘比丘尼、優婆塞優婆夷』等、かならず安居三月にいたるごとには、十方如来および大菩薩とともに、『無上妙覚大因縁』を修するなり。」知らないうちに、そうやって生活すると、仏様の自覚をされた内容にこう触れて行くって言うんです。「しるべし、優婆塞優婆夷も安居すべきなり。」在家の男性女性の方々も、この安居にご参加下さい。お坊さん達だけじゃない。出家した人達だけのものではない。そう言うな事をここに書いてある処をみると、永平寺様では在家の男性も女性も安居に入れるのかなと思うと、現今では入れませんね。こう言う処を読んでないでしょう?)「この安居のところは『大円覚』なり。」本当に素晴らしい世界だよと言っています。
  「しかればすなはち、鷲峰山・」鷲峰山、霊鷲山のことですかね。祇樹給孤独園と言いますが「鷲峰山・孤独園、」色んな所がありますが、「おなじく如来の大円覚伽藍なり。」お寺の建物を伽藍と言いますね。中が何も無いから伽藍(ガラン))と言う訳じゃあない。まあそれで良いですかね。「『十方如来及大菩薩』、ともに安居三月の修行あること、世尊のをしへを聴受すべし」この様にお釈迦様の残された教えを聞いて受け取って、実践して下さいと言うんでしょう。
 そこで圜悟克勤の残されたものの中の一節を道元禅師が引いておられます。どんなものが引かれて居るか。「世尊一処に九旬安居したまひしに、自恣の日に至って、」それが終わる、三か月が終わる日ですね、自恣の日、九十日目です。「至って、文殊倐に来たって会にあり。」そこに文殊菩薩がおいでになって一緒に居られる。そこで迦葉尊者が文殊菩薩に、こんな風に尋ねられた。『今夏何れの処にか安居せる。』この夏は何処でご修行をしておられましたか。」と。「文殊云く、『今夏三処に在って安居せり。』」九十日を一つの処で過ごすのを普通安居と言っておりますから、この迦葉尊者、文殊が三か所で安居したって言ったもんだから、怪訝な気が起きたんでしょうねぇ。『今夏三処に在って安居せり。』と文殊が言った。
  「迦葉是に於いて集衆白槌して文殊を擯せんとす。」この人は一か所に三か月居た人じゃないから、こんな処に置いとく訳にはいかないって言って、皆に告げたんですね。白槌してって言うのは、人に何かを告げる時に、例えば法廷で何かこうやって、槌の様な物を打って、パタって何かやるじゃないですか。ああ言うのに似てます。「纔かに犍槌を挙するに、即ち無量の仏刹顕現し、一々の仏所に一々の文殊あり、一々の迦葉あり、挙槌して文殊を擯せんとすると見る。」文殊菩薩を追い出そうと思ったら、そこにですね、千枚の蓮の葉っぱ、睡蓮じゃない方ね、蓮の葉っぱがこうダーっと敷き詰められた様にこうなって、その上に一人一人文殊菩薩が皆坐ってる、千枚の蓮の葉っぱの上に。それで迦葉尊者が追い出そうとする時に、一つ一つを追い出そうとするんだけど、間に合わない。もぐら何か叩きってあるじゃないですか。あんな感じでしょうかねぇ。
 そこでそれを見ていたお釈迦様がですね、「世尊是において」迦葉尊者にこんな事を言っておられる。お前何処の上の文殊菩薩を追い出そうとしてるのか。「時に迦葉茫然たり。」手のつけようがない。何処にこういう中でその問題を取り上げたかって言うと、安居は必ず夏安居三か月一か所に留まって安居すべきだって言う様なものが仏制としてひかれてるもんだから、それに対して文殊は反している、その違反した者を此処に、今終わり頃になってですね、一緒に居るなんて、こんなやつ此処においといちゃ駄目じゃないかって言う事で、排斥しようとした時にこう言う現象が起こったと言う。それでお釈迦様がその二人のやり取りを見ていてですね、投げかけられた言葉がこれなんですね。どの葉っぱの上に居る文殊菩薩を、お前取り除こうか、外に追い出そうとするのか。何か忍者の世界みたいじゃないですか。変幻自在。
 まあそれが一段ですが、それに対して圜悟禅師が自らこの様にいっておられますね。『鐘撃たざれば響かず 、鼓打たざれば鳴らず。』そりゃそうでしょう。全然問題ないですね。難しい事ない、その通り。『迦葉既に要津を把定すれば、文殊乃ち十方坐断す。当時好一場の仏事なり。』下の言葉はこう言う読んでいて、迦葉尊者が文殊を三処安居によって擯出しようとした時、安居とは大円覚を以て伽藍となすと見ぬいた。自分が考えていたのとは違うと言う事ですね。あなた達今、今と言う処から安居する時に絶対外れる事がない、そう言う処で生活してます。それは本当に皆そうでしょう。それが千の蓮の葉っぱの上に一々自分自身の真相が其処にあると言う事じゃない。何をやっていても自分の様子だって、私はよく使いますけども、何処で何をしていても、生涯自分の様子ばかりですよ。これはもう決定的にそうなんですね。
 でもあの人があんな事を、この人がこんな事を言うって言う風に言葉を上げるとですね、何か他人事が在る様に自分の中で思ってる。それは逆で、自分が自分の様子を見て、そう言う風にあれが、あれがあいつが、あそこで、そう言う風に自分が見ているのであって、それ全部他の人がやってないって事、それ良く知ってるでしょう。それ全部自分が付けたんでしょうが。あの人があんな事言ってる、あの人あんな事やってるって。そう言う見方をしたり、聞き方をしたりしてる。自分が付けた見解でしょう。向こうには付いてないでしょう。しかも聞こえる時には、向こうとこっちと別々に離れてるって言う事はない。物を見る時向こうとこっちと別々にって事はない。必ず一緒になってる。見えたり聞こえたりしてるだけでしょう。二つ無いですよ、真実は。清浄実相と言われるけど、本当にその通り今の在り様が何時でもあるだけですよ。人間の考え方は別々になると思うから、修行する時にまず清浄の在り方として、自分の考え方を付けずに物の真相そのものにこう触れる要がある。それが六根の真相です。
 エー『当時好一場の仏事なり。』それは仏様が自覚される時のあるいは自覚された内容でもある訳ですね。結句として『惜しむべし』おしむらくは、残念な事に『一著を放過せることを』そう言う処に触れていながら、みすみすそれを見過ごしてしまって、取り逃がしてしまってる。何故みすみす取り逃がしたり、それを見損なうかって言うと、余分な事してるからでしょう。自分が頭の中にそれ以外の事描いているから、それに触れても大事だとも思わない訳です。そう言うものでしょう、人間て。自分の中で描いてる物を探すって言うのが、大体の人じゃない。その自分の中で描いてる物、探せるとああ良かったって。その通りの事が人間の意識の上で行われてる現実感を増して行く。本質的なものはそんな物離れてるじゃないですか。
 釈迦老師の「『阿那箇の文殊をか擯せんとする』と道せんを待って、」言う事をまって、「便ち撃一槌を与えて看るべし、他什麼の合殺をか作す。」沢山葉っぱの上に文殊様が居るけど、どれをそっからつまみ出すんだって言った時にですね、「便ち撃一槌を与えて看るべし、」って言う言うのは、パン!叩いてごらんと。槌と言う物がありますけど、そう言う物叩いてごらん。そうするとですね、不思議だね、音を聞いた途端にパン!考えてた物、皆すっとんじゃうんだね、人間て。千枚の上に一々一人ずつの文殊様が居る、どれをとか思ってたものが、こうやってパン!全部すっ飛ぶ様に出来てる。「合殺を作す。」別に殺す訳じゃないですよ。それで全部終わるんです。疑いが消えるのです。疑いは考えてる上の話ですから。考えてる物を止めると事実だけが、パン!するんです。ね。
 更に圜悟禅師の頌古にこの様な事があると言って引いておられます。象は兎の歩いた道を踏まない。兎の歩いた道じゃ象はちょっと狭くて通れないって。「大象は兎径に遊ばず、燕雀安んぞ鴻鵠を知らん。」鴻も鵠も大きなって言う方ですね。雀も燕も小さい方です。似た様な句が挙げてあります。「拠令宛も風を成すが若し、」この風をなすがごとし、「拠令宛も風を成すが若し、」って、坊さん達はよく知っておられると思うけども、従容録の達磨廓然の頌古にですね、「得は鼻を犯さずして斧を揮い」と。あれが此処の事ですね。斧を世界一と言われる斧を使う名工がおってですね、どの位素晴らしい技を施すかって言うので、鼻の上に白い粉をこうやって塗ってですね、この鼻の上にのった粉を斧で削ぎ取るって言う事です。その時に鼻を一つも痛めずに、粉だけが見事にこうやって取られるって言う、そう言う凄い技を持ってる人なんですね。「拠令宛も風を成すが若し、」「拠令」ってそこに拠り所としてって言うことでしょう。拠は拠り所とせしむ。
 皆さん方がこうやって、パン!音を聞くのに、ですね、手をつけずにそのままその音を生け捕りにする位の力があるじゃないですか。こう言う様な事があるじゃない。私がこうやって扇子を開いた。これを見るのに、あなた方何も手を施さないうちに、この私が扇子をこう開いたのをそのまま自分の生活の中で頂いてるって、そう言う様なものが皆さん方の命ですよ。凄いものこう持ってるんですよ。コンコンコンコン。自分の方で私が開けた様になろうとも思わないのに、必ずずれた試しがない。こんなに綺麗な生活が一緒になって生活が出来る。ここには何一つ不足言う時間帯が入って来ない。此れが皆さん方の本来の生活です。そう言うもの皆さん自分の事がはっきりすれば良いじゃない、生活して。こう言う大事な事を捨てといて、さっきも有った様に、『惜しむべし、一著を放過せることを』って事でしょう。自分達の本当の真相が在りながら、自分たちの事を知らない、自覚出来ないもんだから、他にもっと素晴らしいものがあるって尋ねて行く様な事をする。それが先ず一番愚かな事なんでしょう。自分をそんなに素晴らしいものと思ってないでしょう。だけどそう言う処に皆さんも生活してるのね。
 「拠令宛も風を成すが若し、破的渾て鏃を囓むがごとし。」的を射るって事ですか。普通に言えば、時間帯でズレた生活をしてる事は一度も無いって言う事じゃないですか。そう言う事なんだって、皆さん感じてるでしょう、生活する時に。時間帯でズレた生活を一度もした事が無い。考え方は何処か何時もズレてる様に思う。実生活は何時もズレた事無いですよ。実生活の中にもう一つの過ごし方って出て来ないんだもん。不思議ですねぇ。もう一つの生活が出て来なかったら、こんなに皆さんがしんどくない筈ですよ。皆さんがもの凄くしんどく感じてるのは、何処かにもう一つの自分の生き方が有る様に常に見て、そして酷い人は、自分の今の生活してる方を、こんな生活をしててもしょうがないじゃないかって言う風に思って、まず実生活を叩き潰して、そして自分が求めてる様な素晴らしいって描いてる様な世界を、何処かにずーっと尋ね歩いてる、生涯。尋ねても行き当らないものを探してる。これ、くたびれ果てて死んでいくんですね。難しい話じゃないでしょ。現実その様に過ごしている人の方が多いのでは?
 ご飯食べるんだってそうでしょう。口に入れて、その食べてる味がして、それを十分に味わえば、そこで味わう事が出来たら、それで幸せな時間帯が出来るのでしょう。だけど何こんなものそう言う風に食べてる人が居るでしょう。ああ、こんなって。世界のトップを行く人達はですね、皆さんが捨てた、こんな汚いゴミ溜の様なって思う様な中でもですね、じっとこうやって観察をして、昨日も何か見てたら、蚊に食わせる人が居たけど、引っ掛ける。片手に二百匹とかって、何か蚊に食わせて、実験している女性がいた。雌しか食わない事は私も聞いて知っていたけど、雄は何を食べて生きてるんだろうと思っていたら、蚊って言うのは、元々血を吸わなくても生きてる動物だって事が分かった。蜜を吸ったりして花の、それで十分生きてる。子供を産むために蛋白質が足りないから血を吸うと、その中に沢山栄養が有るらしい。誰が考えたかしらん、誰からそんな事を学んだかしれないけど、不思議ですね。蚊の世界でも、誰からも学んだ訳でもないけど、誰からも教えられた訳でもないのに、ああー生物って不思議な物ですねぇ。まだそれを研究する不思議な世界です。利口な人位、そうやって今の物の中に、皆さんの知り得ない素晴らしい内容が在る事を知ってる。
 「徧界是れ文殊、」すべて自分の様子だと言う事ですよ。それすべて自分の様子って事は、逆な言い方をすれば、こうやって各自が見る時、一人一人が自分の見ている事が行われている以外に、何千人何億人の人が居ようが、こうやって見る時、他の人が見ないんだよ。必ず自分の眼で見てる様子だけなんです。生涯そうですよ。それどういう事か分かりますか。それがどう言う風な事になるのか。皆さん方は他人の見てる様子と、なんで比べるんですか。自分で本当に見てる時、他人の見てる様子と比べて見てる人なんか居ないですよ。そんな事したら、自分の今見てる様子にならない。そして本当に自分の見てる様子だけになった時、一切他の人の見てる様子なんか問題ないじゃない、要らないじゃないですか。そんな穏やかな生活が出来てるじゃない。そう言う事をご存じかしら。
 聞く時でもそうです。一切の音に触れてるたって、皆自分の耳で聞いた音だけですよ。自分の耳で聞いてる音だけだから、聞いて、音を聞いてごちゃごちゃになるなんて言う事は一切ない。その通り聞こえるだけです。どの様な物でも。絶妙な音です。その今してる音に合わせるなんて聞き方はしません。その音の通りに聞くなんて一切しない。しないのに必ずその通りの音の様にしか聞こえない様になってる。こんな穏やかに生きられてる。
「徧界これ迦葉、」どっちでも良いじゃん。ここには文殊菩薩とか迦葉大師とかって人の名前上げてますけど、それ皆自分自身の事ですよ、誰も。「相対しておのおの儼然たり。」よく見てごらんなさい。これ相対って言うんだけども、物を見る時、向こうとこっちって相対するって言うんだけど、必ず二つは無いですよ。エー不思議ですね。「挙椎何れの処か罰せん好一箚、」非の打ちどころが無いって言うんでしょう。「金色の頭陀會て落却せり。」お釈迦様も金色、全身が黄金の様に光を発してるって言うんで、金色と言われるのが、後を継いだ頭陀大師と言われる摩訶迦葉尊者も、お釈迦様に似て金色の色を発せりと言う事ですかね。「金色の頭陀會て落却せり。」取り落としているって訳してますね。落却せり。椎を取り落とす。椎って叩く道具です。落却せり、取り落としてるって言うよりは、打つのを忘れてしまったと言う事でしょうかねぇ。お釈迦様に、千の蓮の葉っぱの上一々菩薩がおられるけど、お前はどの文殊、どの葉っぱの上の文殊菩薩をこっから、擯斥するのかって言われた時に、ついうっかり、椎砧でこうやって叩く道具があるんだけど、その椎を手からポロっと落としてしまったと言う事は、打ち忘れてしまったと言う事でしょう。そのお釈迦様の質問に対して呆然としてってあります。「呆然たり。」呆然自失と言う様な事が言われるけど。そんな事が圜悟禅師の頌古と言うものに引かれていますね。
 それを道元禅師がお受けになって「しかあればすなはち、世尊一処安居、文殊三処安居なりといへども、いまだ不安悟あらず。」要するに先程からずーっと問題にしてますけど、九十日一カ所で居るのが正しいのか、三カ所じゃないのかって言う様な疑問が起きた時に、道元禅師は一カ所でも三カ所でも、って言っております。どちらもちゃんとした安居になるのだと言っていますね。「いまだ不安居あらず。」とあります。「もし不安居は、仏及菩薩にあらず。」最初に安居の巻に入る頃にちょっと話した様に、安居って言うのは安らかに其処で生活する、不安な気持ちが一切無しに其処で生活するって言う事が安居と言う表題になってますね。不安に居す、平安に居すと言う事です。で。もし不安な気持ちで其処で生活するんだったら、仏様が菩薩さん達の修行の在り方ではないと。
 「仏祖の児孫なるもの安居せざるはなし、安居せんは仏祖の児孫としるべし。」安居すれば、それで安心して安らかに生活が営まれるんだったら、それが仏様やお弟子さん達の在り方です。「安居するは仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。」そこで生活してる内容、一々挙げてみると、そう言う事が言えるでしょう。仏様方、悟りを開かれた方の在り様そのものが其処で展開されてる、身体や心の働きの上で。
 或いは眼の様子を見てもそう。先ほどから何回か上げてますけど、皆さんの眼だってそうでしょう。どう言うに本当は自分の眼が毎日生活してるか見て下さい。眼は色んな物を見て苦しんだ事は一度も無い。それによって迷ったり悩んだりする事は一切起こさない道具です。眼ってそう言うものですよ。その物とふれた時しかその物が見えない道具です。その物から離れると、その物が自然に見えなくなる様になってる。で、無くなったって、何処かにしまってある場所がある様な見え方、しまってある様な隠れ方はしないのですね。何処にも残らないんです。隠した場所も無い。だから探っても出て来ない。それだから良いのです。それを仏祖の眼睛と言ってます。仏祖の命根、そう言う風な命だから、生き活きとした生活をしてると言う事ですね。「安居せざらんは仏祖の児孫にあらず、」何回も出て来ます。「仏祖にあらざるなり。」「いま泥木・素金・七宝の仏菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。」人間だけかと思ったら、そこに作られた木造で出来た物も、或いは地金で作った物も、或いは金銀瑠璃玻璃瑪瑙硨磲珊瑚、七つの宝ですね、そう言う物で書かれた仏様菩薩様、皆ともに一緒に其処で三月過ごすと言う事です。
 もっと言えば鍋釜も皆そうです。誰かの野球の選手の着たユニホームが落札幾らとかって出てました。(笑)かっての名選手が試合の時に着ていたユニホームだと言う事だから高いのでしょうね。ユニホームは何着もきっと着替えがあって、一度も手を通した事の無い、真新しいその方のユニホームもある訳でしょう。だけどもその一番汚れた様な、汚いやつだった。不思議ですね。三月安居したからですね。新品の方が高い時もある、勿論。誰か一回着たのって言うと、すぐ値段が下がる場合もあるけど。こう言う処、引いてみると面白いね。
 「これすなはち住持仏法僧宝の故実なり。仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月、つとむべし。」まあそう言う風にして結んでおられます。これ四十六の時ですね。道元禅師が四十六歳の夏安居の時に、まだ永平寺と名が付けられていなかった、永平寺の前段階大仏寺と言われている時代に示されたものだと言う風に、奥書があります。
 以上で安居の巻終わります。皆さんに直接関係ないって言やあ、無いかもしれませんが、まあお互い日常生活をしているので、こういう基本的な生活の在り方を、日常の生活でも学べる処があったら、ぜひ取り入れて頂ければと思う。それで、取り入れるのには、一度位お寺に顔をのぞかせて、そして三か月とは言いませんから、一泊でも二日でも一週間でも体験して、チラっとでも見て触れて貰うと、片鱗が伺われるかと思うので、折があったらそう言う事もお勧めだと思います。以上で一応、これ今第三巻、四冊に分かれているので、三巻終わりにしますので、四巻目無い方は出来ればお求め頂いて、どうしても無い方は最初の頃コピーを頂けるかも知れません。以上です。

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