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安居 ⅩⅢ

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「ただ因地に修習するのみにあらず、」見えない所でって言った方が良いですね。「因地に修習するのみにあらず、」結果が出て来ないと、皆さん中々やらないんだけども、結果はすぐ出るばかりじゃないからね。十年先かも知れない。或いは自分の代が終わって次の代になった位に芽を吹くかも知れない、言う様な事もあるもんね。「果位の修証なり。」まあそこまでそれでいいですかね。
 「大覚世尊すでに一代のあひだ、一夏も闕如なく修証しませませり。」お釈迦様は在世の間、みまかりになる迄、ずーっとこう言う形で生涯を通された。「しるべし、果上の仏証なりといふこと。」果上の仏証って言う事は、お釈迦様が悟りと開かれた上で、って言う事が果上でしょう。そしてその悟りを開かれた身体で以て、日々大勢の方々と一緒に、一緒の場所で生活をされたって言った方が分かりやすいですかね。丸ごと表へ出るって言う事でしょう。
 普通はどっかで人に知られない様な処で何かするって言う様な事、結構あるんですよ。色んな社会で、みてご覧なさい。都合の悪いことは絶対人に見せない、人に聞かせないと言う様な、そう言う処があって、そこら辺で色んな相談がなされたりする事があって問題になる訳です。お釈迦様はですね、亡くなる迄皆と一緒にこうやって毎日生活して、一つも隠す処が無い。それ凄い事ですよ。
 似た様な事は日本の場合は、皇室の陛下などはまさに生涯公人ですからねぇ。多分お手洗いに行く時でも、手洗いの周りにSPみたいなのが居るんでしょうなぁ。おなら出すと聞こえるね。いやだなあ。私なんかだと、ちょっと安心してお手洗いにも入れない。風呂に入っても、中には一緒に入らない様にしても、周りには何人かは居るのでしょう。二十四時間縄の無いもので縛られている様なもんですよ。隠しカメラで相当撮られてる様なもんですよ。本当にそう言う事思うと、私なんか頭下がるな。そう言う事皆さんは思う事がありますか。陛下って国を代表しておられるけど。ああ言う方々の一日の生活って、本当にだから他所から入って来られてですねぇ、色んな過信があるでしょう。言いたい放題だからねぇ、その人は。ちょっと自分の気に入らなけりゃ、ほんとおかしくなるよ。気の毒だと思うけど。そう言う気がする。立派な人でさえもそうなりやすい。こう言う事を感じてます。
 一夏も欠ける事無く。「しかあるを、九夏安居は修証せざれども、われは仏祖の児孫なるべしといふは、わらふべし。」こう言う人達も勿論色んな時代に居る訳でしょう。道元禅師はそう言う方々に対してこう言う痛烈な言葉を残しておられるねぇ。「わらふにたへざるおろかなるものなり。かくのごとくいはんともがらのこと葉をばきくべからず。」共に語るべからず、一緒に坐るべからず、一つ道を歩むべからず。一緒に歩くな、凄い事じゃないですか。潔癖な方って言う表現では済まないでしょうねぇ。仏道に対して、もの凄く真摯に純粋なものを伝えて行こうとする気持ちが強い。こう言う処は本当に許さないんだね。これが今日迄、曹洞宗を支えて来た原動力じゃないですか。一番最初の人がですね、その位はまあいいやって、その位はいいやって言ったら、すぐクズグズになりますよ。
 徳川三百年の基盤だってそうでしょう。自分に厳しい方だったでしょう。家康って、身内に。身内の中で少し不正があったり、それらしい動きがあれば、自ら首を刎ねたりした訳でしょう。そう言うものが、他の家臣達に対してしゃんとした気持ちを持たせたのでしょうね。とかく身内に甘くなる。身内だけじゃなくて、自分自身に甘くなる、一番に。私も弱いとこですが、攻められそうな処ですが、自分自身に一番弱くなる。修行はやっぱり自分自身に一番厳しくないと、修行は進まないと思いますね。自分に嘘をついたら、もうそれで終りでしょう。
 「仏法には梵壇の法をもて悪人を治するがゆゑに。」下にもあります。梵壇、黙擯と訳すとありますね。「戒律における治罰法の一つで衆僧が之と言語を交えない事。」戒律に違反した場合は、その修行僧をそこから擯斥して絶交をすると言う形があります。お見えになっても、その人とは会わないって言う様な。何だろう、黙っていてですよ、見向きもされない、相手にされないって一番酷い仕打ちですよね。知らん顔されるってそう言う事でしょう。凄い仕打ちですよね。そう言うものが、仏制にはあると、そう言うものを引いておられます。
 「ただまさに九夏安居これ仏祖と会取すべし、保任すべし。」この九十日一緒に修行する内容が仏様の本当の在り様を勉強する根本だと。大体九十日一緒に生活するとですねぇ、まあすべて裏も表も全部見通しになる、お互いにね。それが一緒に修行、生活する良さじゃないですか。集団生活ってそう言う事でしょう。何で集団生活嫌なのかって言うと、自分のそう言う見られたくないものが相手に見られる恐れがあるから、って言う様な人は、一緒に生活する事を嫌がる訳でしょう。一回集団生活九十日位過ごすと、同釜の飯を喫するって言って、同じ釜の飯を食った仲って言って、生涯大体友達になれるって言うのが通説です。
 「その正伝しきたれること、七仏より摩訶迦葉におよぶ。西天二十八祖、嫡々正伝せり。第二十八祖みづから震旦に出でて二祖大祖正宗普覚大師をして正伝せしむ。」これは流れですね。今日までこの流れ の処ずっーと説いて、インドから中国に。「二祖よりこのかた、嫡々正伝して而今に正伝せり。」と言う事は、ここでは道元禅師の処までと言う事で良いでしょう。「震旦にいりてまのあたり仏祖の会下にして正伝し、日本国に正伝す。」ご自身がそうやって、そこに行って実践をして実修をして、今日本にそれを伝えた、正しく伝えたと言う。
 「すでに正伝せる会にして九旬坐夏しつれば、すでに夏法を正伝するなり。この人と共住して安居せんは、まことの安居なるべし。」で、その筆頭の人は孤雲懐壤と言う方になるのでしょう。道元禅師の後を継がれた方です。「まことの安居なるべし。まさしく仏在世の安居より嫡々面授しきたれるがゆゑに、仏面祖面まのあたり正伝しきたれり。」一々手に取る様に、今目の当たりにそれを、見ているだけじゃなくて、実践して実感して体感してと言う事ですね。「仏祖身心したしく証契しきたれり。」もうそれでいいよ、それで間違い無いよって言う様な符号をする処がある、お互いに。
 「かるがゆゑにいふ、安居をみるは仏をみるなり、安居を証するは仏を証するなり。安居を行ずるは仏を行ずるなり、安居をきくは仏をきくなり、安居をならふは仏を学するなり。」まあ丁寧に、一緒に居るって言う事が、どの位の内容をお互いに勉強出来るかと言う事です。実物がそこに居る訳ですからね。お釈迦様から、五十二代、道元禅師と一緒に生活するって言う事は。「おほよそ九旬安居を、諸仏諸祖いまだ違越しましまさざる法なり。」黙ったり越えない。聞くよりは見るべし、見るよりは行うべしか何かあるでしょう。ねぇ。一緒に生活するって言う事の重さがよく伝わって来ます。
 「しかあればすなはち、人王・釈王・梵王等、比丘僧となりて、たとひ一夏なりといふとも安居すべし。」出来れば皆さん方もどうぞ一緒に九十日過ごしてみませんかと。インドの国では、青年期、昔そう言う風な法律の様なものがあって、山林、森林に入って禅定を組んだり何かする修行期間が、長子には、長男ですね、後を継ぐ方には求められていたと言う風習があるようです。今は知りません。
  「それ見仏ならん。」「人衆・天衆・龍衆、たとひ一九旬なりとも比丘比丘尼となりて安居すべし。すなはち見仏ならん。」そうすれば仏様って言うんだけども、自覚をされた方々がどう言う生活を一体するかって言う事が、目の当たりに見てとれる、言う事ですね。「仏祖の会にまじわりて九旬安居しきたれるは見仏来なり。」仏を見来たれるなり。「われらさいはひにいま露命のおちざるさきに、」死ぬる前に、「あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、すでに一夏を安居するは、仏祖の皮肉骨髄をもて、みづからが皮肉骨髄に換却せられぬるものなり。」生き写しと言う事ですかねぇ。諸仏方の生活してる生のものを、この身体でそのまま全て。合宿もそうなんでしょう。二十四時間居る処に良さがあるんですね。そうでないと、夕方九時までと言うと、朝の四時までとかの間が抜けると、この間何するか分からんね。此処で問題が起きると大変な事になる。二十時間外ですね。
 「仏祖きたりてわれらを安居するがゆゑに 、面々人々の安居を行ずるは、安居の人々を行ずるなり。」本当に自分自身の生活してるそのものに責任を持って修行する、過ごす。沢山の人が一緒にいるけれども、やることは一人一人自分自身の本分に安住、そこで実践すると言う事につきますね。「恁麼なるがゆゑに、安居あるを千仏万祖といふのみなり。」沢山の人が居るって言うんだけども、やってる事は一人一人そう言う風な生活をしておられる。
 「ゆゑいかんとなれば、安居これ仏祖の皮肉骨髄、心識身体なり。」これを除いては無い。私達もそうでしょう。今のこの自分のこの身心、身体と心と言われるものが一つになったものがこうありますが、このものの活動の様子以外にない。しかもこのものがそれがどう言う処でそれをやるかって言うと、仏様と一緒に決められた中で日々を暮らして行くと。「頂𩕳眼睛なり、拳闘鼻孔なり。」細かく言えば一々はと言う事でしょう。「円相仏性なり、払子拄杖なり、竹箆蒲団なり。」これら一日の中の姿を挙げてあります。何を相手に、どの様に生きているかって言う事で良いでしょう。
 「円相仏性」円相って言うのは丸いものですね。こうやって、(円を描いて見せる)くるっと、円相って言います。円相仏性って言う事は言葉の上から申し上げれば、満ち欠けの無い姿と言う事で良いでしょうか。始まりも終わりも無い。払子拄杖って言うのは、その時に包丁で野菜を切っていたり、薪割りで薪を割っていたり、鋸で竹を切っていたり、色々な事が有ります。そういう様なものですねぇ。竹箆蒲団て言うのは、扇子で扇いでいたり、お布団をお客さんが来たら、どうぞとか出したりする様な事も、皆あります。
何ら普通の生活と変わらないじゃないですか、と言う様な事がこう挙げてありますが、そこで、エー結びの句として、「安居はあたらしきをつくりいだすにはあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。」これは中々含蓄のある言葉でしょう。ね。皆さん何か特殊な新しいものを其処で始めると、自分の存在感が認められるもんだから、つい昔の事は止めて新しいものを其処で何かしようとする。
 例えば建造物でもそう。自分の代が終わる時に、トップの人達が自分の席を後進に譲る時、置き土産に建物を建てたりしたり色々何かするじゃないですか。あれ皆ね厄介な事になってるじゃないですか。大きな建造物立てて。曹洞宗、鶴見本山総持寺さん何かを見てもですよ、一日にあの寺がですね、存続するためにどの位経費が掛かってるかって。本堂電気をつけるとですね、二千畳近い広い本堂に電球をつける訳です。そうすると真ん中に一本だけ蛍光灯付けるようなスイッチになってないんですよね。一つの付けるとバアーっと点くんですよね。そんなの見るとそうでしょう。そんな一つの例を挙げれば、そう言う風にすべての物が大きい物が建ってるから、もう使わなくても大変。あんなに大きなもの要らないんだろうね。あれ直す時大変です、又ね。本堂の屋根瓦が一枚どうかしてですね、雨漏りがしたって言うと、あれを屋根に登るためにですよね、大変な物を掛けるんですね、外から登って行くのに、組んで。庵なんか梯子があれば済むもんでね。まあそれはどうでも良いんだけど、新しく特別に作りだすのじゃあない。
 何百年も使ってるお寺をですね、毎日掃除をしていくって言う様な事がそこに挙げられるでしょう。「古きをさらにもちゐるにはあらざるなり。」って言う事でしょう。ね。新しく殊更に求める訳でもない、古いものを殊更に。だけども使い方が、年数が経った物を今此処で毎日使用してるとですね、それは昨日今日建てた新しい物に触れる様な薄っぺらい様なものじゃあない。味わいが違う。樹木だってそうでしょ。最初のうちは多分そんなに大きな物はない。だけど今日になると、山が鬱蒼として来る。幹もしっかりした太さになって、それを見ただけで、樹齢八百年とか千年の並木がずーっと続いている参道を歩くとですね、もうそれだけで、変わりますよね。だけど指の太さぐらいの木しかないと、何だって言う感じになるじゃないですか。そう言うのと同じ様に、生活の中でもそうでしょう。
 仏祖の袈裟衣って言う、時々聞く事がありますけど。イギリスってあんまり紳士は服装を変えてないと思いますねぇ。同じ様な物を何着も持ってる。毎日同じ物を着て来てるかって思うけど、そうじゃない。違うんだけども、殆どスタイルが変わらない。紳士ですね、矢っ張りねぇ。そんなに変えるもんが無いんですよね。お坊さん達もそうでしょう。あんまり新しい服装あまりない。楽ですよ。気を使う必要は何も無い。かといって厭わんもんだから、乱暴にいい加減に扱うかって、そう言う事は無い。それで矢っ張り大事に扱うと、それなりの事になる。
 まあちょっと此処で休憩にしたいと思う。ここは中々ね、好きな、私こう言うの読んで、好きな言葉です。「あたらしきをつくりだすにはあらざれども、ふるきをさらにもちゐるにはあらざるなり。」言う様な気がします。ちょっと休憩します。
 四百五十六頁の後から二行目括弧の中のを読んで行きますね。「世尊告円覚菩薩、及び諸々の大衆、一切衆生に告げて言はく、」まあそれはそれで良いでしょう。そこにおられるあらゆる方々に、次の様に語られたと言う事です。『若し夏首より三月の安居を経ば、まさに清浄菩薩の止住たるべし。』三ヶ月一緒にこうやって過ごせば、素晴らしい内容になると言う事で良いですかね。
 『心、声聞を離れて徒衆を仮らざれ』これは声聞の人達って言う方の修行はですね、自分だけ悟りを開けば良い、自分だけ良ければ良い、そして悟りを開いた後も、その自分の得た素晴らしい境涯が例え有ったにしても、一切人に公開をしない、告げない、お分けしないって言う様なのが声聞です。そう言う一人よがりの世界を離れると言う事が、三ヶ月一緒に生活をすると言う事ですね。
  『安居の日に至りなば、即ち仏前に於て是の如くの言を作すべし。』この様に口頭で喋るのですかね。仏前でお誓いをする様なもんですかね。『我れ比丘比丘尼、優婆塞優婆夷某甲、菩薩乗に踞して寂滅の行を修す、同じく清浄実相にいりて住持せん。』ここに今申し上げた様に、菩薩乗に踞してって言う事は、さっきの声聞と違って、菩薩と言うのは、一切の人を捨てずに一緒に悟りの世界に赴く、それを目指して生活をしていくと言う事です。そう言う処に腰を据えて、『寂滅の行を修す、』実践をして行くと。
  だから『同じく清浄実相にいりて住持せん。』清浄の実相って言うのは、具体的にどう言う事を皆さんにお話ししとけば良いかって言うと、人間の全ての働き、仏教では六官と言ってますが、眼耳鼻舌身意、全てのものは皆どれもこれも清浄な働きをしております。実相と言われるものの本当の働きは。気がつかない方はですね、この六官の働きに対して、自分の見解をすぐ付ける。その為に清浄の実相を見る事が出来ない。
そこで坐禅の行の中でも言われる様に、実践をする時にですね、「尋伺することなかれ」と言う風になってる。ああじゃないか、こうじゃないかって言う様な思いを暫く離れる。使わない、止めてみる。尋ねる、伺う、探る、そう言う事を兎に角止めてみる、離れてみる。離れるが方が先です。離れて、実際に止めるって言う風になると、もうちょっとはっきりするのですけれど。
 こうやってパン!音一つでも、何だろうって言う様な探る思いを抜きに、音がしてるだけで、こうやって居てみる。パン!パン!て言う様な事が清浄、実相にいりて住持せんと言う、そう言う処で生活すると言う。これは人間の言葉でも同じです。色んな言葉が語られても、その時に、何を言ってるんですか、それ何ですか、って言う風なのを付けずに、この様にただいてみる、と言う事が清浄、実相にいりて住持すると言う、これが修行すると言う事なんですね。眼でもそうです。こうやって色んなものがこうやってありますけど、眼はご承知の様に、見た時に、良いとも悪いともそう言うものをつけずに、こうやって見てます。だけども見た瞬間に、自分の方で、その見た物に対して、自分が「あの人なにやってんだろうか」とか「変じゃない」とかそう言う風な見方をします。それは清浄の真理の実相の様子ではありません。自分の思いの中に居るのですね。そう言うの坐禅にならないのです。坐禅をしてるとは言わないのです。飲んでも美味しいとかまずいとか言う様なものを付けるって言う事は、清浄の真理の実相の様子ではないです。聞いて思うだけじゃなくて、先ず聞いたら実践して貰いたい。本当にそう言う事をせずに、やって欲しいです。こうやって居てみる。そうするとその様子どうあるかって事が、実践すると分かる。ああこうやっちゃ、私達は飲むと旨いとか不味いとか言ってるけど、これは違うんだ。味にはですね、そう言うものは付いてないですねぇ。美味しいとか不味いとかは、味じゃないね。自分の食べた後の評価。評価はそう言う事を言わしてる。そう言う事よーく知って欲しい。こう言うな時に処に、これ出来るんですね。
  「寂滅の行を修す、」って言う事はそう言う事でもある訳です。静かな、そして何もそこから余分なものは出てない。はっきり何時もしてる。すっきり何時もしてる。そこで「大円覚を以て」って言う事ですね。そう言うものがお釈迦様が悟られた内容、大円覚です。満ち欠けの無い素晴らしい自覚の様子です。それを自分の修行の場所として、「我が伽藍となして」この身心、身体、そこにおいて一緒に生活をするって。そうすると、次、平等性智って言う様な、分け隔てなく、全ての物に対して偏りのない物の見方が出来る。人間の見解をそこに入れるとすぐ偏りのものが出て来る。
 眼は大きい物とも小さい物とも言わずに、こうやって見る。手は重い物とも軽い物とも言わずに、そう言う物をこうやって扱ってます。それ位偏りの無い生活をしてます。その通りの事がイキナリその通りこの身体の上に現れる智恵です。平等性智。眼でもそうでしょう。その物に向かったら、イキナリその物の通りに、どうもしないでその通りにこうやって。それ以外の見え方はしないんだから良いよね。音でも必ずその通りに、そこで出た音の通りになる。そう言うなものが平等性智です。皆さんが使ってます。
 使ってるけど、どうして分からないかって言うと、自分の余分な物を、ゴミをつけちゃあ生活してるから、その本当の姿が自分で分からないだけです。坐禅する時にはそう言うゴミを付けません。ゴミの付かないまま坐る。「涅槃自性」涅槃て言うのは、煩悩の炎が吹き消された様子。一切の迷いが無い。しかも涅槃と言うのは寂静とあります様に、どうもしないのに必ず何時でもその通り、それは皆さんだってそうでしょう。今の生活してる様子はどうもしないのに、間違いなく誰でも今の生活になってるでしょう。今の生活の様に。誰かがどうかして今の生活が保証されるてる訳じゃない。何時何処に居ても今の生活は間違いなく、その今生活してる様子以外に無い。だけどへぼな頭はですね、それを差し置いて、もっとどうか成りたいって言う様なものが頭に浮かぶから、一番素晴らしいものを捨てといて、つまらないものをどっかに探しに行こう癖がある。「繫属無きが故に」とあります。何も縛る物が本来無い。
 皆さんの眼だってどれを見るにしたって、ちょっと待って、それを見ちゃあいけないって言う風に縛られた事は無い。自由に何でも、しかもさっき見てた物から離れるにしてもですね、もうちょっとずーっとそこに居てよって言われても、難なくそこから離れられる力を持ってる。縛られた試が無い。で、相手に邪魔になる様な離れ方を一切しない。人に全然気が付かれない内に、ちゃーんとこうやって離れ切って生活が出来る。こんなに上手く出来てる。そう言うのこれ皆、面白いね。
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