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安居 ⅩⅡ

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2019.6.22.
安居の巻ですが、講本の449頁。一番最後の行になるかと思いますが。例によって少し読みます。
「解夏七月十三日衆寮煎点諷経。またその月の寮主これをつとむ。
十四日、晩念誦。
来日陞堂。人事・巡寮・煎点、並同結夏。唯牓状の詞語、不同而已。(人事・巡寮・煎点、並びに結夏に同じ。唯牓状の詞語、不同なるのみ。)
庫司湯牓云、『庫司今晩、就雲堂煎点、特為首座大衆、聊表解制之儀。伏冀衆慈同垂光降。』(庫司湯牓に云く、『庫司今晩、雲堂に就て煎点す、特に首座大衆の為にし、聊か解制の儀を表す。伏して冀はくは衆慈同じく光降を垂れんことを。』庫司比丘某甲 白
土地堂念誦詞云、『切以金風扇野、白帝司方。当覚皇解制時、是法歳周円之日。九旬無難、一衆咸安。誦持諸仏洪名、仰報合堂真宰。仰憑大衆念』(土地堂念誦の詞に云く、『切に以みれば金風野を扇ぎ、白帝方を司る。覚皇解制の時に当り、是れ法歳周円の日なり。九旬無難く、一衆咸安なり。諸仏洪名を誦持し、仰いで合堂の真宰に報ず。仰いで大衆を憑んで念ず』)
これよりのちは結夏の念誦におなじ。
陞堂罷、知事等、謝詞にいはく、『伏喜法歳周円、無諸難事。此蓋和尚道力廕林、下情無任感激之至(伏して喜すらくは法歳周円し、もろもろの難事無かりしことを。此れ蓋し和尚道力の廕林なり、感激の至りに任えず。)』
住持人謝詞いはく、『此者法歳周円す、皆な某(首座監寺)人等の法力相資せるを謝す、不任感激之至(此者法歳周円、皆謝某(首座監寺)人等法力相資、感激の至りに任へず。)』
堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、『九夏相依、三業不善、悩乱大衆、伏望慈悲(九夏相依す、三業不善なり、大衆を悩乱せり、、伏して望むらくは慈悲あらんことを)』。
知事・頭首告云、『衆中兄弟行脚、須候茶湯罷、方可随意{如有緊急縁事、不在此限}(衆中の兄弟行脚せんには、須らく茶湯罷を候って、方に随意なるべし。{如し緊急縁事有らば、此の限りに在らず}』


まあちょっとそこら辺まで読んで。いよいよ九十日の、約束として九十日一緒に修行した最終日が近づいて来ます。十五日がお別れに日になるのでしょうが、その二日前、)七月十三日に、先ずこう言う事が行われる。まあ此処で言えば白雲閣の様な道場があって、そこで一緒に修行をした仲間が、お経を上げて、その後お茶を頂く儀式になりますね。そのお茶を差し上げる主人公・亭主になるのは、その月の寮長と言って良いですかね。そう言う方が勤めると。そして翌日十四日の夕方ですね、夕方の勤めが晩課と言いますが、夕方の勤めが終わると、坊さん達が修行をしている僧堂と言う、お経をしたり、坐禅をしたり、食事をしたりする、僧堂と言言われる場所へ赴いて、そこで次の様な事が唱えられて、皆で仏様のお名を、名前を復誦していきます。
 どんな事が唱えられているかと言うと、「『庫司今晩、就雲堂煎点、(庫司今晩、雲堂に就て煎点す、』)私が今晩皆さんにお茶を差し上げますよと。『特為首座大衆、聊表解制之儀。伏冀衆慈同垂光降。』(特に首座大衆の為にし、聊か解制の儀を表す。伏して冀はくは衆慈同じく光降を垂れんことを。』)
 いささかお別れをするにあたって、この度の九十日の修行が終わるに当たって、慰労申し上げたいと。まあどうぞ宜しくって言う位でいいでしょうか。。そしてそれを誰が亭主を勤めるかと言う事で、庫司比丘某甲曰くと言う牌が掲げられて、それを唱えます。
 そして念誦の詞としては、『切以金風扇野、』 下にもある様に、秋風が吹いて来るって言うんですねぇ。昔の暦だから、一二三、四五六、七八九、十十一十二とこう言う風になるんですね。そうすると七月はもう秋なんですね。七八九が秋。ですから「金風野を扇ぎ」って言う風に。七月は夏のまっさい中じゃないって思うかも知れない、まあそう言う事です。
『白帝司方。』これは東西南北を司る神様と言って良いですかね、そう言うものが配置されておりまして、秋にはこの白帝と言う方がその辺の方角を治めておられる。『覚皇解制の時に当り、』九十日一緒に過ごした安居の日が終了するのにあたって、学校で言えば修了式、一学期が終わるの、修了式ですか。一年のは卒業式ですね。修了式にあたるのですね。『是れ法歳周円の日なり。』それが今日でありますよ、と。九十日、九旬安居。九十日これと言って特別な事も無く、過ちも無く、無事に過ごせたと言う事、『衆咸安なり。』 「諸仏洪名を誦持し、」と言う事は、この後、十仏名と言って十の仏様の名前を唱える訳ですが、それを唱えて、その力を頂いて『仰いで合堂の真宰に報ず。』真宰はその道場の中心になる方と言って良いでしょうかね。だから僧堂の場合は文殊菩薩がそれに当たるかも知れません。そこで皆さん方宜しくお願いしますと言って、一緒に唱えて行く訳ですね。それが十四日の夕方の儀式。一年の中の特殊なものだけを此処に安居の巻で挙げてあります。
 「これよりのちは結夏の念誦におなじ。」とありますが、あとの内容は、その今唱えた後に行って行くのは、最初の時、九十日の安居が始まる時に、最初の方で行われたのと全く内容が同じだと言う事で、そこを復照してくれれば分かると、こう言う事になります。
 「陞堂罷、」住職は本堂に出て来て位置に登る。まあ登り終わってと言う事ですね、陞堂。堂に登り終わって。必ずしも高い所に登るかって言う訳でもないですね。此処の本堂で言えば、須弥壇を背にして、一番こっちに近い所に真ん中辺に立つのを陞堂と言われるでしょう。そう言うな位置が決まると、そこにこの九十日の間主な役職として、六知事がいて六頭首がいてと言う様な、部長課長と言う様なものが七月十三日、一応会社の様な組織になっておりまして、そう言う方々が出て来て、住職、この九十日をまとめて修行を導いてくれた一番の主な住職に対して謝辞を申上げる。その謝辞にこの様な言葉が語られる。
 『伏喜法歳周円、(伏して喜すらくは法歳周円し、)』まことに有り難い喜ばしい事だと言う事ですね。九十日の修行が無事終わると言う事は、誠に私達もお世話させて頂いて無事終わる事が出来る事は大変嬉しいと言う事です。『無諸難事。(もろもろの難事無かりしことを。)』これはけだし堂長さま、住職さまの道力のお陰であると、本当に有り難うございます、とこう言う事で良いですかね。
 色んな事が有ります。例えば、此処でこうして毎月、眼蔵を読ませて頂いておりますけども、こう言う事もですね、よーくこう味わってみるとですね、勿論提供してくれる場所が必要だろう、と思います。それからその提供してくれる場所が、そこを管理してる人が同意が無ければ、借りられません。その気持ちの有る人が居なければ、恐らくこう言う道場も開放されませんね。それからもっと大事な事は、発願をして、九十日なら九十日、月一回なら月一回の、こう言う事を致しますと言う発願をして、それを公表して、他所に問いかけてと言う様な細かい事業をしてくれる人が居らないと、こう言うものは成り立ちません。全て色んなイベントの様なものを見てもそうでしょう。それを計画する人、計画したものを実践する為に色々働いてくれる人達が快く一丸となってやって貰わないと、上手く行かないと言う事は、皆さんもよーく承知だと思います。そう言う事をつらつらこう思うとですね、本当に自分では出来ないけども、そう言う事が、こう呼びかけをして下さる事があると、そこに行きさえすれば何とかなりますので、誠に有り難いなぁと思うんですね。
 そう言う一緒に過ごした方々の方から主催者に対するお礼の言葉があって、それに対して、主催者側の住職は次の様に述べておられます。『此者法歳周円す、』九十日が無事に終わります。『皆な某(首座監寺)人等の法力相資せるを謝す、』皆さんが力を合わせて助けてくれたお陰ですと言って、私も感激の至りにたえずと言う事が述べられております。
 『堂中首座已下、寮中寮主已下、謝詞いはく、』今度は主な役職についている方々の方からも、そこで一緒に修行した仲間の方々に詞が述べられます。『九夏相依、』九十日一緒にこうやって過ごした、誠に不思議なご縁だと言う事でしょう。『三業不善』、口は災いの元と言いますが、口業、それから身業、身体ですね。それから意業、こころ、身口意の三業と言いますが、口と身体と心で行う業、行為の中に良からぬ事がないと言う事は、問題なく過ごしたと言う事ですかね。『不善、大衆悩乱せり』、不善だから良いこと無いと言う事は、これは逆ですね。自分達の、その中心になって住職をお手伝いした主な人達が、いや実は皆さんが思ってるほどでなくて、我々は結構呆けだから、つまらない事をしてご迷惑を掛ける様な事したなって言う事ですね。
 『三業不善なり、大衆を悩乱せり、』だから言わんでも良い事を言ったり、やらんでも良い事をやったり、思わなくても良い事を思ったりして、色々迷惑を掛けましたね、とかって言う、決してそんな事はないだろうけど、非常に、何だろう、謙遜した形でご挨拶をしてるなって言うのが分かります。謙遜して自分達の事を言っておられる。どうか、だから気にかかる事が有ったかも知れないけども水に流して欲しいと言う様な事ですね。『伏して望むらくは慈悲あらんことを。』こう言う風な気持ちってお互いに言う時に、度量が広いとか、許し合う力があるとか、少し余裕が無いとこれが出来ませんね。そう言う様な事もあると思う。こう言う事をこの九十日安居の最後の日に述べられております。
 また知事・頭首の方々も、同じくこんな様な事を言っております。『衆中兄弟行脚、(衆中の兄弟行脚せんには、)』此処に集まった大勢の方々が今日を以て一区切りの修行期間が終わる。この後はそれぞれ自分の思いによって此処を出て行って、一つには次の修行の間にこれはと思う様な人を訪ねて行く。或いは次の修行の九十日の間の生活をする、最低限の生活が出来る位の身の前を整えると言う事ですね。だから多少の財物が欲しい。そう言うので行脚をしながら托鉢をしたりして、施しを頂く、言う様な事がこれから行われますが。『衆中兄弟行脚、(衆中の兄弟行脚せんには、)』何時此処を立ち去ったら良いかって言うと、このお茶などを出した後、茶話会かな、言う様なものが終わった後、それを待ってそれぞれ随意に心に随って出て行かれたら良かろうと。それは大概何か会合でもそうでしょう。一応お開きって言う時間が有って、その前にですね、てんでんばらばらにですね、黙って出て行くって事は殆ど無いですね。折角ここ迄上手く行ったのに、最後にそうやってやると、何かバラバラになっちゃいますから。如何しても急用で仕方の無い人は、ってあります、この限りにあらずと。
 こう言う風な十三日、十四日、十五日の流れですが、「威音・空王の前際後際よりも頂𩕳量なり。仏祖のおもくすること、たゞこれのみなり。」昔の形を取っておりますけれども、今申し上げた様に、よくよくこうやって見てみると、あらゆる集会合会合で人が集まって何かをする時には、少なくともこう言う様な形態を取っております、昔から。威音王とか空王とかって言うのは、まあ時間的に言えば、そのすごく前の事ですから、ずっと昔からって言う事で良いでしょうねぇ。long long agoとかって言うんですかね。昔、昔ある所で、って言う様な事になります。非常にあの抽象的なんだけども、良い言葉ですね。昔、昔って。「頂𩕳」はまあこの辺(頭を指す)を指すのでしょうけども、頂ですから。ものの真相と言う位で十分通じるのかなと思います。
 「仏祖のおもくすること、たゞこれのみなり。」今こうやってお互いが顔を合せて此処で何かする時に、まともにこう顔を合わせて生活すると言う事ですよね。目をそらさないって言う様な事が言われますけども。知らない振りをするとか言う様な事も入るでしょう。そう言う事はしない。「仏祖のおもくすること、たゞこれのみなり。」
「外道天魔のいまだ惑乱せざるは、たゞこれのみなり。」よその色んな者がそこに出て来て掻き乱そうとしても、こう言う生活をしている限りは乱れないと言う事ですね。「三国のあひだ、仏祖の児孫たるもの、いまだひとりもこれをおこなはざるなし。外道はいまだまなびず、」正しい道を歩んでいない人達はこう言う在り方を勉強しておらない。修行しておらない。
 「仏祖一大事の本懐なるがゆゑに、得道のあしたより涅槃のゆふべにいたるまで、開演するところ、たゞ安居の宗旨のみなり。」基本的にはこの九十日の修行の形がずーっと行われている。でその九十日の修行の在り方の、更に分けて行けば一月の様子であり、更に言えば一日の様子であり、煎じ詰めれば、今こうやっている処に帰着すると言う事になります。これはどの生活、どの修行、どう言う生き方をしてる人でも必ずそうでしょう。最終的な帰着は、今ここで自分がどの様にあるかって言う事が何時も問われる。そこで色んな形が出て来ますので。
 「西天の五部の僧衆ことなれども」って言う様な事が今申上げた様な事になるでしょう。どう言う位置に、どう言う職業の方であっても、「おなじく九旬安居を護持してかならず修証す。」ここではお坊さんの修行の仕方を代表して取り上げている訳ですね。「生前にすべて九夏安居せざらんをば、仏弟子・比丘僧と称ずべからず。」今日の日本の仏教界の中では禪宗、しかも禪宗の中でも曹洞宗が一番安居を、この安居の形を厳密に守っているのではないかと思います。生意気な事をって言われるかも知れませんが、少し気にかかるのが、この安居の形を厳密に守って下さってるのは有り難いのですけども、それが形骸化されやすい。何故かって言うと、新しく入って来て学ぶ方々が、その決まってる事を実践する時にマニュアル本を手にして、それをそのまま再現する事に精一杯になってしまうって事が、段々内容がですね、乏しくなるのではないかなって言う懸念がされる処です。
 そして安居の年数って言うものがですね、昔の様に十年ですね、十年位安居をするって言う人が本当に少なくなった。もう一年ないし三年、五年居る人は数える位しかいなくなってるように思います。そんなに短い時間で学べる様な内容ではないと思いますけども、どうしてそう言う風になって行くのかって言うと、一年目に安居してやる時に、その形骸化されたものを、近いものをこう実践するだけだとですね、今の人は耐えられないと思うねぇ。馬鹿らしいって思うんだろうね、きっと。あんな事、言うのはわかる、書いて有る、そう言うに思えるようになるんじゃないかねぇ。しかしやってみると、読んで味わってるのとは違います。
 まあこれから先そう言う事がどう言う風になって行くか、本当に心配。皆さんには直接関係無い。直接関係無いけど、間接的には間違いなく影響を被ります。それは日本の国の、一応お坊さん達はリーダーですからね、精神界って言う様なもののリーダーですから、そう言う方々の質が落ちるって言う事は、皆さん方も学ぶ質が当然落ちると言う事ですから、もう少し良いものを学びたかったら、お互いに精進してこう励みあう事をしないといけない。何かスポーツ界では、凄い華々しいニュースが飛び交ってたりなんかして、ああ言う日本の選手が世界でそうやってトップクラスに躍り出る、認められる人が居るんだなって言う様な気がするので、捨てたもんじゃないと思っています。まあそれ以上余分な事を言わない方が良いとおもいます。止めておきます。
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