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安居 ⅩⅠ

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安居 ⅩⅠ-5



「大衆相随ひて、送って方丈に至りて、大衆乃退す。」ですね。それが終わると、これで一応済んだと言う事でしょう。「いはゆる住持人まづ庫堂にいたる、知事と人事しをはりて、住持人いでて巡堂すれば、知事しりへにあゆめり。知事のつぎに、東廊のほとりにあるひとあゆめり。住持人この時延寿院に入らず。」延寿院て言うのは病室です。だから病で伏せってる人達が居る。ここはですね住職はご遠慮すると言う事の様です。

「東廊より西におりて、山門をとほりて巡寮すれば、山門の辺の寮にある人、」相当広いですねぇ。京都のお寺なんか行くと、東福寺なんかも一駅あるもんね。東福寺の地領は。あの黄檗の満福寺なんかも町全体が日本の国じゃないみたいに感じる位、異国の文化で一杯だよね。あそこはねぇ。お寺が幾つかありか知りませんが。それ位山門の巡堂って、それ位になるんだろうねぇ。

臨済の方のお寺は、殆ど本山には塔頭があって、山門の外に十位は少なくとも寺院が建てていて、其処に皆住職は住んでて、毎日本山に上がって来てお勤めしてるんですね、塔頭寺。そう言うな形があるから、山門の辺て言うのはこんな事だろうねぇ。「山門の辺の寮にある人、あゆみつらなる。南より西の廊下および諸寮にめぐる。このとき、西をゆくときは北にむかふ。このときより、安老・勤旧・前資・頥堂・単寮のともがら、浄頭等、あゆみつらなれり。」色んな役職の人が挙げてあります。「維那・首座等あゆみつらなるつぎに、衆寮の僧衆あゆみつらなる。」段々人が多くなってくる。凄いね。

「巡寮は寮の便宜によりてあゆみくはゝる。これを大衆相送とはいふ。」相送る。便宜によりてだから、お仕事が入っていて、今うちの寮あとにしてくれないかって言う様な時には、後になるって言う様な事もあるのでしょうね。「かくのごとくして方丈の西階よりのぼりて、住持人は方丈の正面のもやの住持人のくらゐによりて、面南して叉手してたつ。大衆は知事已下みな面北して住持人を問訊す。この問訊、ことにふかくするなり。」ことに深くするって言う事は、頭を深く下げる、或いは腰を曲げる角度が深いと言う事です。45度位まで下げるのがあります、一番深いのは。「住持人、答問訊あり。」皆さんがが頭を下げれば、住持の人もそれに答えて挨拶をするって言う事ですね。そして其処に集まった大衆は退くと。

「先師は方丈に大衆をひかず、法堂にいたりて、法座の堦前にして面南叉手してたつ、大衆問訊して退す、」ここで先師ってありますが、必ずしも如浄禅師の事をさすのではないと思いますが、あの、新しく今其処の住職がいるとすれば、その住職の先代の方と言う事になるでしょうかね、先師。あるいはその方のお師匠さんと言う事になるのかも知れません。エー、ここははっきりしません。道元禅師が先師って書いてあるので、ひょっとしたら如浄禅師の事を指しているのかも知れませんが。住職の他ですね。同じくそう言う儀式がある。

「しこうしてのち、衆僧おのおのこころにしたがひて人事す。」あと各自お互いに顔を合せて挨拶を交わすと言う事はあると言う事ですね。「人事とは、あひ礼拝するなり。」人事異動とはちょっと違う。ね。人事って、同じ字を使ってるんだけど、元々はお互いに挨拶する事を人事と言ってる。何処に按配するかとか言う事まではついてないですね。だけども人事行礼って言うと、そうやって相対する人がどう言う人と相対するかって言う事があるので、人事異動に似た様な使い方になって来たのかなと思わないでも無い。まあその辺にしときます。

「たとへば、おなじ郷間のともがら、」同じ国の人が其処で会った時、「あるいは照堂、ありひは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。」まあ図らずも同郷の人と安居する事が出来れば、話は積もるのでしょう。延々としちゃあいけない。ちょっと挨拶をしてかわさないといけないから一応挨拶するのでしょう。幾十人にもとある。「しかあれども、致語は堂中の法になずらふ。」とありますから、余分な事を語らないと言う事ですね。家族の事や何十年も会わなかった昔の思い出話をするとかって言う様な事はここではしない。兎に角ここで一緒に修行する間仲良くお互いしましょう、って言う様な事だけが中心になると言う事です。

「人にしたがひて今案のことばも存ず。」多少は相手の様子によってはそこに付け足したりする大事な言葉を付けると言う事もあるだろう。「あるひは小師をひきたる本師あり、」自分だけが修行に来たかと思うと、お師匠さまも来ている場合もある、一緒に。師匠と弟子が同じ修行道場に修行に来てる場合もあると言う事ですよね。「これ小師必ず本師を拝すべし、」其処でもし自分のお師匠さんが、はからずも修行に来ていたら、弟子はその師匠に対して挨拶をすべきだと。「九拝をもちゐる。法眷の住持人を拝する、両展三拝なり。」それは丁寧にご挨拶をしているんですね。「あるひはただ大展三拝なり。」これも丁寧なご挨拶です。

「法眷のともに衆にあるは、拝おなじかるべし。」法眷と言うのは兄弟弟子みたいなものを言いますかね。法類と言います。同じお師匠さんの流れを汲んでいるグループ。「師叔・師伯、またかならず拝あり。」叔父さんですね、お師匠さんの兄弟弟子に成る方々もお師匠さんと同じ様に大事に挨拶をすべきだと。それから隣の単「隣単」ですね、「隣肩みな拝す、」此処が自分の坐禅をする場所、修行をする場所に、あの僧堂と言う場所はですね、坐禅堂と違って、僧堂と言う場所は一畳位の広さを頂いてですね、左右を大体三尺ですね、三尺頂いて、奥行きは大体一間半あります。その位の場所を頂いて、そこで九十日の修行をするのが僧堂と言われます。だから寝起きと三度の食事と坐禅を此処で行います。それが僧堂。

坐禅堂って言うのは、寝起きの出来る様な寝具をいれる場所がないでしょ。それから函櫃と言って日常生活するのに最小限必要なものを入れる場所もありません。それから食事もあそこで取ってませんね。

だから僧堂って言うのは、そう言う場所です。で、有り難い事には、その自分の場所、その位狭い場所で決まってますから、一目瞭然居る人と居ない人すぐ分かる、ね。九時になってお休みになる時に、こうやって部屋ずーっと見ると、どうして彼処空いてるんだって言うの、すぐ分かる。名前がちゃんと書いてある、誰々の席。どうしたんだって、言う。ねぇ、非常に有り難い。また朝起きる時は鈴を鳴らしてくれるから、其処で寝てる以上はですね、一人だけ起きるのを忘れたまま寝てるなんて言う様な事はない。本当に有り難い。どうもしなくてもちゃんと起きられる様に出来てる。安心して寝ててもちゃんと起こして頂ける良い場所ですね。で昼間は絶対に布団は出しませんから、横になって寝るなんて言う事はない。ここに居る僧堂と言う場所は。各寮に入った人は分かりません。ちょっと色んな事がおきます。僧堂って言うのは良い造りをしてるねぇ。

隣単って言うのは隣の人です。隣肩も隣で良いでしょうかね。肩、隣肩の人。両隣の人に宜しく。ここ良寛様の古いお話しを承る中で、良寛禅師は此処(円通寺)で修行してる時に、隣単の人の顔を見ずって言う様なものが、どっかに文言が残っていると言われております。一緒に九十日生活してるんですが、九十日も居て、隣にどんな人が居たか顔を覚えてないって。如何いう過ごし方をしてるか想像がつきますか。一切他所の人に関係なく、本当にひたすら自分の在り様だけに修行してたと言う事でしょう。

凄い人ですよ。普通気になりますよ、隣。少なくとも顔位見るんじゃないですか。町に行っても、町で托鉢をしてもですね、町の人の浄財を投じてくれた人、そう言う人の顔、一つも見てないって言う様な、なにしろ一連のそう言う文章がどっかに挙げられてますねぇ。さすがに良寛禅師と言われる、やっぱりどこか普通の人とちょっと違う処があるのかね。過ごすのに本当に。ちょっとだけ、ちょっとだけが大きく違うんだ。難しい事は決してしてない。誰でも出来そうな事なんだけども 、本当に違うねぇ。

ここらでは、(安居の巻のご文章を拝読すると)一応ご挨拶してるのね。「相識道旧ともに拝あり。単寮にあるともがらと、首座・書記・蔵主。知客・浴司等と、到寮拝賀すべし。」皆ここはどんな人とも顔を合わせてですね、挨拶を交わしてる。あれ嫌だからおれ嫌だとかって言わないもんね。こう言うのも良い処だね。まだあるね。単独の寮がありますが、「単寮にあるともがらと。都寺・監寺・維那・典座・直歳・西堂・尼師・道士等とも、到寮到位して拝賀すべし。」どの部屋にも行ってですね、ちゃんと挨拶をするって言う事ですね。言葉を交わして。

「到寮せんとするに、」その部屋に行く時に、「人しげくして入寮門にひまをえざれば、牓をかきてその寮門におす。その牓は、ひろさ一寸餘、ながさ二寸ばかりなる白紙にかくなり。」病院に行って予約取る様なもんですねぇ。今日来たんだけども、沢山並んでて入れなかったのでって言う様な事ですかね。それで自分の名前を書いて、某、自分が何処にいるか、僧堂に居るかその他の単独の寮にいるのか、寮を書いて名前を書いて、拝賀と書いて、あるいは又の式と言う、いずれにしてもこう言う書き方ですね。「大旨かくのごとし。」とあります。448頁の最後。「しかあれば、門側にはこの牓あまたみゆるなり。」何枚も、そう言う大勢並んだ時にはそう言う物も貼られると言う事になるんですかねぇ。

「門側には左辺にはおさず、門の右におすなり。」左側にそれを掛けないで門の右に貼っておくと言う。この牓はお昼ご飯が終わったら、その寮の主人ですね、会いに来て頂いた方々の名前をこう剥がしながら、こう言う人来て下さったって言うのを知りながら剥がして行くと言う事ですね。「今日は、大小諸堂諸寮、みな門簾をあげたり。」今日は、だからそう言うご挨拶をするには、部屋が一々一人ずつ開けては入り閉めるって事せずに、オープンのまま一日置くと言う事ですねぇ。そうするとその手間もかからないじゃないですか。どんどんどんどんどんどん、次々。

「堂頭・庫司・首座、次第に煎点といふことあり。」煎点はお点前です。お茶を出すと言う事ですね。「しかあれども、遠島深山のあひだには省略すべし。」下にもありますけども、遠く離れた日本の深山、永平寺の様な所ではとあります。こう言う事を省略するって言う事がある。「だゞこれ礼数なり。退院の長老、および立僧の首座、おのおの本寮につきて、知事・頭首のために特為煎点するなり。」とくに大事な人は、まとめてお茶を出さない。その人だけに為にお茶をたてる。茶道でもそうでしょう。茶室に一人だけお呼びしてお茶をたてるって言うのは、古来から一番、何だろう、相手を尊重する時の接待の仕方でしょう。

で、特に戦国の世の中、明日は敵味方でどちらが刺し殺されて命を落とすか分からない、そう言う間でも、茶室に入る時には、刀とかそう言うもの一切外に置いて、かいくぐらないと入れない様にしてあるじゃないですかお茶室って。外に置いて、武器は一切持たずに入って、そこでお茶を交わしてって言う様な、茶道の中に受け継がれている精神でもある訳でしょう。それを特為と言いますね。

和尚さんたちのご法要の時にも特為煎点と言って、道元禅師様のご命日に、道元禅師だけにお茶を捧げる。あるいは瑩山禅師のご命日に瑩山禅師のご供養するに先立ちて、先師である道元禅師を先にお招きして特為煎点と言って、お茶を差し上げた後、正式に瑩山禅師のご法要が務まると言う様な風にして、特為ですね。特にその人の為に席をもうけてお茶を出すって言う様な事が行われているって言う様な事が書いてあります。

「かくのごとく結夏してより、功夫辦道するなり。」こうやって人と人の接触する事によって、不思議ですね。人と人が接触するって言う事は功夫辦道になるのでしょうねぇ。レストランでお客さんが来る。ウェイトレスさんがそこに接客する。必ず功夫辦道になります。向こうから入って来た人見て、それが良く分からないと、きちっとした接待が出来ないって言う様な事です。朝の此処でもやる粥の時に、粥を注いでもらう時に、注いで下さる人と注いで貰う人が心が一つになって、其処でお粥の量を測ったり注ぎ方をこうやって目の当たりにやって、言葉を発しないで自分の頂く適量をこうやって勘案するって言う様な事、ああ言うものを見ると、まさに功夫辦道してますね。

あれが日常家庭の中で執り行われたら、人は殆ど争いを起こさないと思う。人と争いをする時起こす様な家庭はどうなってるかって言うと、殆ど一方通行です。本当は一方通行なんて絶対ありっこないんだ、向かい合ったら。必ず一緒に動く様になってるじゃん。その時に、自分の思いが強すぎると、向こうの様子をそのまま受け入れる力が無い。それがギクシャクさせる所以でしょう。そう言うなものを、こう言う処を見ると出て来る。

「衆行を辦肯せりといへども、いまだ夏安居せざるは仏祖の児孫にあらず。」何処で私達は本当に実践するかって言う事を考えた時に、こうやって九十日の安居してる時に、その日その時その場所でその事が如実に行われてる訳でしょう。その他の場所でどんなに長い年月居てもですね、その他の場所で行われる事がない。人と触れるって言う事、必ず今なんです。今此処で触れるしかないですね。どんな人でもそうでしょう。何処ででもそうでしょう。今、今皆さんが居る場所で、其処で触れる以外に無い。それが九十日の様子です。何処かで修行するんじゃないんですね。

そう言う事が本当に行われなかったら、仏祖と言われる様な生き様にはならない。或る時はやる、或る時はないがしろにすると言う事になるじゃないですか。これは正しく片時もいい加減に過ごすって言う事はない様に出来てるでしょ。皆さん必ずそうでしょう。何処へ行ったって、今触れてるものと直でしょう。だけど、直に触れて居る事にあまり関心がなくて、頭の中で色々思い浮かんでる事の方を相手にする癖があるもんだから、ちょっとずれるんでしょう。そっちじゃないんだよね、修行って。そう言う事ですね。

「孤独園・霊鷲山、みな安居によりて現成せり。安居の道場、これ仏祖の心印なり。諸仏の住世なり。」これは古い徒の事を挙げておられます。この身心と言われる、この身体のある所が皆さん方の住いだからね。諸仏方もそうです。必ず一人一人自分のこの身心と言われるもの、このものの在る所で生活して来たでしょう。でその生活ぶりを見ると、必ず他の事やってない。そこで今触れてる事だけが展開されてる。そこにちゃんと着眼をしてるから、巧夫辦道になるんでしょう。そう言うものがお釈迦様の、当時行われた様子だと言う事でしょう。

「みな安居によりて現成せり。」安居の巻だから、安居は最初にも申し上げた様に不安は一切無い。どの位一切不安が無いかって言うと、今ここやってるって言う事は、これから、これからする事じゃないからね。もう既に皆こうやって出来てる事でしょう。一つも、付け足さなければ今の様にならないって言う事が無い程、完璧でしょう。余分なもの無いですよ。今こうやってる事から。何か少しでもこうやって取り除いたら、今の様子じゃなくなる。付ける事も取り除く事も無い程、完璧に今の様子ってこうやって出来てる。こう言う処に誰も住んでるって事でしょう。それ見届ける必要がある訳でしょう。自分で。自分の事だから本当にそうかどうか。

それが無かったら確信が行かないじゃないですか。人が言ってる事をただ信じてるだけ。自分の事だから、誰にも目を向けなくても、自分のそうやって今の様子だけにこうやって居る。九十日、良いね、皆安居によりて現成せり。一応九十日って書いてありますけども、本音の方を言えばそう言う事でしょう。今の在り様だけですよ。而今の現成って言う事もあるでしょう。

丁度この辺で。今日の処はそれで終わります。良く分からない事ばかりですみませんね。こんな事をこんなに丁寧に書いてある。どっか修行道場へ連れて行って、直接皆で本当に触れたらすぐ分かる。洞松寺さんにお伺いしてこう言う事を実践してる所にちょっと参画させて貰うと、なるほどそう言う事かってすぐ分かる。でも皆さん方の日常の中でも、なるほどって参考になる事は少なからずあると思う。



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