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安居 Ⅷ 

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今やっている安居の巻きって言うのは、ちょっと縁遠い処が多いかも知れませんが、始めたので最後まで読み切って行かないと言う事になりますかね。今日は四百二十九頁の二行目から。ざっと読んで行きます。

「清規云、『行脚人欲就処所結夏、須於半月前掛塔。所貴茶湯人事、不倉卒』。(行脚の人、処所に就て結夏せんと欲はば、須らく半月前に於て掛塔すべし。貴するところは、茶湯人事、倉卒ならざらんことを)」

まあ少しずつ読んで行きますが、四月一日から七月十五日まで、九十日、一応の間を夏の安居といたしまして、行いますので、その四月一日に安居をされる方は、修行道場に入る方は、少なくとも半月前に、普通に言えばですね、志願書を出して、そして申し込んでですね、許可を得る必要があると言う事ですね。そうでないと、四月一日から何人集まって、その集まった人がどう言う役割で一つの修行道場で過ごすかって言う事を決定するのに、上手くいきませんので、そう言う事を行います。まあこれは何処でも使っている様な事でしょうけれど。

「いはゆる半月前とは」三月下旬を言うと、良いですね。「しかあれば」三月の内に来たり掛塔すべきなり。四月一日から修行始めるから、三月の十五日以降四月になる迄の間に、少なくともその修行道場、寺に到着をして、と言う事ですね。「すでに四月一日よりは、比丘僧ありきせず。」と言う事は、もう四月一日を過ぎると、お坊さん達はあっちこっち歩き回らない。必ず決まったお寺に止住して、止まってそこで九十日の修行をすると言う事が、古来の在り方ですね。

「諸方の接待および諸寺の旦過皆門を鎖せり。」だから四月一日になっちゃうと、もう完全に、尋ねて来ても、門を閉ざしてですね、入れないと言う様な事になっております。其処で旦過と言うのがありますが、諸寺の旦過ってありますが、せっかくお坊さんも居られるので、今曹洞宗でこの修行道場に上がると旦過寮と言う所に通されまして、まあ一週間位か或いはもっと早いのかも知れませんが、過ごしますけれども、現在見失われている、行われていない旦過寮での事ですが、旦過寮は本来はですね、色々な地方から人が集まってきますので、この円通寺さんでやる場合は、岡山県の条例とか色んな此処に社会生活をする上においての決まりがあります。そう言うものをこの旦過寮の間にですね、きちんと伝えて、修行をするのに困らない様に指導すると言うのが、旦過寮の一つの大きな役目ですけども、今の旦過寮をみてると、殆どなんかいじめとは言いませんけども、修行に来たって言うので、一週間なり一週間びっちり坐らせてですね、何も他にさせないで耐えさせる様な、そう言う風に使ってるのは、本来の旦過寮の過ごし方ではないですね。

旦過寮って言うのは親切に、新しく来た人を生活の中で、そこの各お寺で違いますからね、細かい処は、だからそう言う事をきちっと四月一日迄に伝えて、生活する上に遺漏の無い様にするって言う時間を取ってる訳です。覚えが悪いとかね、上手く行かない、そう言う様な事もあると思いますが。だからそのような人はもうちょっと時間かかる訳でしょう。

或いは普通に旦過寮って言うのは、この九十日安居以外の時には、お寺に夕方の四時位かな、晩課の前にお寺に必ず入ると、泊まる場合は。それが礼儀なんですね。それ過ぎて、それ以降に上がって来て夜泊めてくれって言うなのは、ものを知らない人ですね。そして一日其処へ泊めて頂くって言うって、旦過寮って言う風に使ってます。翌日は朝の食事が終わると、一応お掃除などをして、そして其処を旅立って行くって言う風な使い方をするものですね。まあそんな事ですね。

「しかあれば四月一日よりは、雲納みな寺院に安居せり。」お坊さん達は、修行をしているお坊さん達は皆それぞれのお寺に、自分の決めた所に止まって修行を始める。「庵裡に掛塔せり。」それでいいですね。掛塔せり、言うのは、そこへ届まってと言う事です。「あるいは白衣舎に安居せる、先例なり。」白衣舎って言うのは一般の在家の建物、そう言う所でも届まって修行するって言う事が先例の中にあると言う事です。

「これ仏祖の儀なり、慕古し修行すべし。」古を慕ってその様に修行をすべきだと。「拳頭鼻孔、みな面々に寺院をしめて、安居のところに掛塔すべし。」それ難しい事はないでしょう。今申し上げてる様な事で、一カ所のお寺に決めた所で足を止めて、其処で修行をすると言う事です。ずーっと。

それに対してですね、こう言う事を言ってる人達が居るって言って、注意を促しております。「しかあるを魔党いはく、『大乗の見解、それ要枢なるべし。夏安居は声聞行儀なり、あながちに修習すべからず。』かくのごとくいふともがらは、かつて仏法を見聞せざるなり。阿耨多羅三藐三菩提これ九旬安居坐夏なり。たとひ大乗小乗の至極ありとも、九旬安居の枝葉花菓なり。」ものをよく知らない人はこう言う事を言うってんですね。大乗の見解、聞いた事あるかも知れませんが、大乗とか小乗とかって乗り物の例えてですね、大きな乗り物の方を大乗と言います。

どの位大きな乗り物かって言うと、一切のものを救うと言う様な意味合いがあるものが大乗と言われるものです。小乗の方は小さいので、まあ一番小さいのは自分が救われれば良いと言う事ですかね。そう言う様な考え方があると言うものが、一応ここで大乗の見解なんですね。この人はだから、そう言う大きな乗り物で人を救う事を考えてる時にはですね、九十日、其処のどっかのお寺に止まって修行する事よりも、そう言う内容を理解する事の方が大切だって思ってる。

今でも色んな所で見かけるのはですね、物事を理解する方が大切だと思ってる人沢山居ます。物事は理解するんじゃなくて、実践する方が大切なんですね。ねぇ。実践する事によって初めてそのものが生きて来る訳だから。理解してるだけではどんなに素晴らしい理解を持っていても、あの本当は救いにはならないのですねぇ。そう言うな事を、此処ではこの魔党と言う、ものを良く分からない類いの人達は考えておられると、こう言う事ですね。

だから夏安居と言う実践する方はですね、それは酷い事を言えば、其処にサンプルがあってそれを真似する様なもんだって思ってる訳ですね。だけども私達はですね、人の物真似をするって言う様な事を使いますけども、やってみるとですね、他人の物真似は一切した事が無い。分かりますか。やってみると分かります。絶対人の真似はしませんよ。ここ(頭)が人の真似としてると思ってるだけですから。似た様な事をしますから。

だけど実践すると、絶対他人の事やってない。初めて自分の身体で自分がやってる事が出て来るんですね。真似ているとその内立派になると言う様な事も、時々使う人がいるじゃないですか。あれ真似てるからじゃなくて、実践してるからですよ。こうやってご覧って言って、実践するとすぐそうなるからねぇ。実践て言うのはですね、その効果が現れるのに時間がかからない。

良いですか。これ(コップ)をこっから此処に動かして下さいって言って、実践すると直ぐ効果が現れるからねぇ。考え方って言うのはそうじゃないですね。こっから此処まで動かして下さいって、何時になったら結果が出て来るか分からない。考え方って言うのは。不思議なもんですね。思うだけだから。こうやって、こっから此処動かしたら、こう動いて来る様になるんじゃないかって思ってる訳。だけど実践はこうやってやると、誰でもイキナリその通り結果がついて来ます。

こう言うのが九旬安居と言われる実践してる事ですね。道元禅師はそう言う事をだからそこにおっしゃっておられるでしょ。「あながちに修習すべからず。」そんな事はどうでも良いって言い方でしょう。そう言う事を言ってる人はですね、「かくのごとくいふともがらは、かって仏法を見聞せざるなり。」凄い事を道元禅師はおっしゃる。本当の教えに出会った事がないのじゃないか。見たり聞いたりした事が無いのじゃないか。だからこんなつまらない事を言うんだと言うんですね。

「阿耨多羅三藐三菩提」至極ですね。この上ない尊いものの在り様です。それを道と訳します。道と訳してます。無上道とかこの上ない道。「これ九旬安居坐夏なり。」その実態は、その実践してる事を除いては無いのじゃないか。だから例え大乗であろうが小乗であろうが、「至極あり」と言えども、至れりですね。極意に至る。まあどちらにもあるでしょう。だけどもそれは正しく、この九十日実践してる中の様子であると言う。

樹木に例えれば、根であり茎であり枝でり葉であり花であり実である、言う様な事が、一本の樹木でですね、行われるけども、九十日の間に行われてる様子の片々、所々そう言うな事があるが、それは全て九十日の修行の中の様子であって、それ以外の所からそれを得る事は出来ない、と言う位はっきり説いておられますね。

で、次の処から段々実践。一日はいいですね。一日は先ず入った。それから四月三日になると、朝ご飯が終わった後ですね、初めて事を行うといへども、「堂司あらかじめ四月一日より戒臘の榜を理会す。」とあります。この九十日一緒に修行する人達が、どう言う方がここにいるかって言う事を書き出し、ですね。

何だろう、今日はアメリカの大統領が、五時位に着くって言うんだけど、着いてる。東京は大変だな。エーまあ何でそんな話をちょっと出したかって言うと、例えば大統領が晩餐会に出席するとなるとですね、そこに列席する人は全部警察の方で網羅してあってですね、チエックが出来る様な体制にしてる筈です。門の所でね。名前も書いてない様な人が来たらですね、つかみ出される。そう言う必要があるでしょ。一緒に生活するって言う事は。会社でもそうでしょう。自分の会社の社員でない者がそこに来て、朝来たら働いてたりしたら、まずいじゃないですか。そう言う事ですね。

だから堂司って言うのは、下にもちょっと書いてますけど、維那と言う役職の別名でもあります。で、修行道場の維那って言うのは、禅門の三禅師と言われる位、三人の禅師の内の一人なんですね。それ位重要な役です。今は禅師って言うと、ご本山なんか一人だけ禅師ですね。住職だけが禅師です。あとの人はありませんが、三禅師の中に維那って言うのは入る位重要な役の方です。

そう言う方がですね、名前を書いた物を用意する。そしてそれは四月三日の朝ご飯が終わってから、それを部屋の前に、どの部屋にかけるかって言うと、衆寮と言う修行に来ている方々が一纏めに居る部屋の所にそれを掲げる。前門の下間、下間って言うのは、ここの白雲閣、行っても正面から坐禅堂へ入る訳ですが、正面から左を下間と言います。右を上間と言います。上の間下の間と書きます。真ん中を中央と言いますが、中央から右を上間、左を下間と言います。だから左側の方にそれが書いてある。それは丁度左側から出入りしますから、一番見やすいのかもしれません。格子戸になってる様な所、櫺子ですね、寮窓、寮の窓は格子戸がこうある。そう言う所に掛る。

夜坐禅が終わるとそれを一応取り外して、また明日になると掛けて、それを三日から五日までの三四五の三日間行われると言う事だね。「三日より五日にいたるまでこれをかく。をさむる時節、かく時節おなじ。」「かの榜、かく式あり。」それを書く書き方がある。どう言う事があげられてあるかって言うと、「知事頭首によらず、戒臘のまゝに書くなり。」と言うと、お坊さんになって年月の古い人から順番に名前を書いていく。例え役職が凄く上の方であろうがですね、それには関係なく、一日でも早く出家をした人が先輩になると言う書き方をすると、こう言う事ですね。

道元禅師も中国にいた時に、この事である修行寺に上がった時に、そこがちょっと理不尽な行いがされたって言うので、それを文章にしたためて意見を具申したと言う様な歴史がどっかに残っていたかと思います。聞いた事あるかと思いますが。道元禅師と言う方はそう言う事(知事頭首によらず、戒臘のまゝに書く)をご存じだったのでしょうね。だからこれを外国の人に注意されたって言うので、中国の住職さん達は、これはただならぬと言う事にもなったのでしょうね。ものを知らない外国から来たから適当に扱えって、そう思ったんだが、中々そうは行かないと、言う様に大事な事でしょうね。

「諸方にして頭首知事をへたらんは、おのおの『首座』『監寺』と書くなり。」肩書きとして他所ですね、今日ここで修行するのに人が集まって来る訳だけども、その前に何処かお寺でこう言う役職を務めていたと言う立派な役職についていた方は、肩書きとして、首座とか監寺とか言う肩書きを上に付けて、監寺誰々、首座誰々とつける、とこう言う事ですね。しかもですね、ここに来るまでに沢山の役職についたならば、その中で一番重い役職、一番上の役職を取り上げて付けると言う、まあこれは何処も大体そうでしょう。

さらに、「かって住持をへたらんは、」何処何処のお寺の住職をしたって言う人は、某甲西堂と書くと。「小院の住持をつとめたりといへども、雲水にしられざるは、しばしばこれをかくして称せず。」小さなお寺の住職をした場合はですね、わざわざ私は何処何処の住職をしたらか、何々西堂って言う様な事は書かない、これ美徳でしょう。逆にそう言う事をひけらしたい人も中にいるって事が、この背面に見る事が出来るって言う事でしょう。だからこう言う事を注意しておられるのでしょう。

「もし師の会裏にしては、西堂なるもの西堂の儀なし。」お師匠さんの元で修行するって事になれば、他所の住職をした経験が有っても、一切そう言うものは出さないのが古来のしきたりの心得。奥ゆかしいと言うのでしょう。どう言う風に書くかと言うと、「『某甲上座』書く例もあり」と。「おほくは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。」師匠の弟子、師匠の元で修行している様な人達は、他所で住職をした様な方達は、おそば付き、何だろう、秘書課みたいなもんかねぇ、そう言う所に入るって言うのが、大体慣わしだと言う事ですね。

侍者と言うのはですね、ただ単にお付ではなくて、焼香侍者と言う侍者、五人一応侍者が有りますけど五侍者、五侍者の中で、焼香侍者と言うのは、そこの現住職が法要を務めたり何かしてる時に、もしもの事があって倒れたり、命をそこで失う様な事があった時には、住職に変わってすぐその儀式をそのまま続行する役職を持っております。だから住職に匹敵するだけの能力がないと、侍者って言う役は受けられない、受けない。だから他所の住職をした人達がこの侍者寮に入るって言うのが良く分かると思います。今は其処まで厳密にやってないから、何か有った時、困る事が有るかも知れません。まあ他の人がやるでしょう。






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