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坐禅箴 Ⅷ

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坐禅箴Ⅷ_04

「彫龍」彫った龍ですね、「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」って言うんだけども、じゃ本当の龍ってこの世の中に居るのかって言ったら、普通に考えたら、龍自体が架空の動物ですから、本当にには居ないものです。此処で真龍って何を指すかったら、皆さんの本当の、自分の本当の在り方を指す。それを真龍と指してます。生まれてから後、で自分の考え方を中心にして、彩りをつけたり、色んな事をやっていくものの方を彫龍と言います。どっちが大事かって言うと本物の方が大事だと一応言ってる訳ですね。

これを普通に蛇に例えたら、彫刻の蛇よりも生の蛇の方を相手にした方が、本物がよく分かるということです。絵を見るよりも実物を見るほうが良い。レコードを聴くよりは生の演奏に触れた方が良いという事です。みなそうなってるじゃないですか。だけど知識がはびこって来て、今のこうやって電子機器の様な物が発達したもんだから、実物ほとんど抜きになってきてる。実物よりも本物に近いぐらい今の電子機器って物はリアルに物を想定させるもんだから、それで済んでるけど、やっぱり仮想の物は仮想です。お花なんかでも造花の花を見ると、本物の花よりも綺麗だ。ウワーっと思う様な花が売られてるね。その位今は素晴らしい技術がある。それでも矢張り本物とは違う。本物を知ろうと思ったら本物で学ばないと分からない。偽物でいくら勉強しても本物は分らない。ね。そう言う事が「彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。」とこう言う事です。

「彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学習すべし。」彫龍は彫龍、真龍は真龍でそれぞれ持ち味があって、違ったものがはっきりそこで勉強できる力を持ってる、どちらも。だから良いのでしょう。これが真龍 も彫龍も同じ様に見えちゃったら、皆さん大変でしょう。騙される。(笑)そんなことはないですね。

そこで身近な事を道元禅師がおっしゃってる「遠を貴することなかれ、」この当時も最近ででもそうだと思うけどもで、日本の方なんかヨーロッパとか欧米から入って来た物が、日本の文化よりもすぐ尊ぶ癖があったでしょう。舶来品とか言って。他所の国の物を非常に高く思う気風があった。これを逆にすればですね、自動車なんかでもそうだけども、国産車って言うけどもねぇ、日本の車だって外車ですよ、アメリカ行けば、イギリス行けば、フランス行けば、日本の車は外車ですよ。だけど日本人はそうは思わないんだねぇ。他所から入って来た車だけを外車だと思ってるから、外車に乗りたいって言う人沢山居た。何か外車に乗ると、少し何かリッチになった様な気になるんだねぇ。日本の車の方が、他所へ行ってみたら良く分る様に、素晴らしい性能の良い車です。だからトヨタでもこんなに売れるのでしょう。伸びてる。誇りに思って欲しい、日本の文化を。

そういうような処に遠くにあるものを大事にする。私なんかも静岡県から来てるから、この高知に、もし同じような人がいても、ですね、皆さん方は高知の地元に居る人よりも私の方が絶対他所から来た人としてですね、持ち上げてくれる。隣にどんな立派ない人がいても、何だって、その位にしか扱わないんでしょう、皆さん。不思議だね、人間てね、近いものは凄く安っぽくするんです。で、日本の人達はすぐ海外の人材派遣か何か知らないけど、他所に行って名声を上げると、日本の人達はすぐもてはやす。日本ではうだつが上がらないんだけど、他所に行くとウワーって言って、そのウワーっていった処帰って行くと、愚かだから、ウワーって言うんですよね。それ位日本の文化は今低いと思うね。そう言う様な事が「遠を貴することなかれ、」「遠を」今度は蔑んだ様な事をするなって言ってる。

どちらにしてもものの本当の価値を見失わないようにしなきゃ駄目じゃないかなと言ってる訳です。近くにあるから遠くにあるから、そう言う様なものによってものの真価が見失われる様な生き方をしてはないじゃないかとって言ってるのね。誰かが褒めたから立派、誰かを貶したからつまらなくなるって言うもんじゃないじゃないですか。そのもの自体は。そう言うものでしょ。

その後、「遠に慣熟なるべし。」って言う事は、今申し上げてる様な事です、慣熟って言う事は。物事に十分慣れて上手になる。木の実で言えば、木からもぎ取らないまま熟すって言う事ですね。それを完熟と言います。早いうちにもぎ取って、バナナなど青いうちにも見とって室に入れて色が付いて甘くなるのを待って売り出すって言うのは、完熟のバナナではない。木についたまま赤らむ、そう言うもの食べたことがある人はよく分ってる。全然美味しさが違う。パイナップルにしたってそう、同様に。マンゴーにしたってそう。色んな物、トマト、胡瓜何でもいい。色んな物見てごらん。そっから切り離して慣熟っていう事は得られない。そう言う事実から切り離して慣熟って言うものは得られない。本当にその事実そのものに親しく居るって言う事が、ものを本当に見極めるだけの力がつく道です。坐禅もそうです。坐禅をして他の事やるんじゃない、坐って。考え方で坐禅どうのこうのって取り扱うんじゃなくて、坐っている自分自身の今の在り様が、本当にどうあるかって言う事を自分の身体ではっきりさせる。そういう道です。

でその後に、近の事も出てるけども、同じ様に近い方も書いてありますが、その後「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。」さっき目も話したけども、目。目ってどういう働きをしてるか、皆さんこれここは今日まで生きてきてるから、目がどういう風に物を見てるか、っていうことは私が説明しなくても知り尽くしてると思うけども、目って不思議ですよ。何時でも今見えてる様子だけですよ。他の事は絶対目に映りませんよ。今見えてる様子だけですよ。何処をこうやって見ても、今見えてる様子だけです。前に見た物が一切出てこない。知ってますよね。

こうやってやって見ても分る。(扇子を開いて見せる)これ前に見た物が一切出てこないでしょう。今こうやって触れてる物だけが、こうやってあるだけでしょう。これだけだって凄い事でしょう。もし皆さんがそう言う風な生活をしてごらんなさい。今見えてる様子だけだったら、どういう風になるか分かりますか、生活が。あれがこれが、って言わなくなるのでしょう。そうやって目に学ぶんです。目はそう言う風になってる。どんな良いものもどんな醜いものも、一つもどこにも残さない。どっちにも軍配を上げない。同等にきちっと、どんなに汚れてる物でもどんなに美しい物でも同じように優劣をつけずに、ちゃんと受け取って生活する力を持ってます。

ここは(頭)違う。自分の中で気に入るものと、気に入らないものと思ったら、気に入らない物はいい加減に必ず扱う。気に入る物は丁寧扱うかもしれない。そう言う風な、何だろう、偏見を持った生活に変わるじゃないですか。眼はそう言うもの持ってませんよ。それだから道を歩いてても危なげなく歩けるのです。全部その通りちゃんと見る力を持ってる。ドブがあれば、穴が開いてれば、木が倒れても、ねぇ。そうやって皆さん毎日生活して居る事をご覧なさい。こんな楽な事はない。問題が一切起きないんだもん、それで。 実際そうでしょう、眼って。
(質問あり)
はい?
(問題が起きないからドブにそのまま歩いて行っても大丈夫?)
大丈夫ですよ。
(そうなってるなら、)
そうなってる筈なのに、生活を聞いてみると、色んな問題が起きて困ってる訳でしょう。
(そうじゃくて、皆避けるでしょう。坊さんがわざわざドブ突っ込んで行かないでしょう?)
エー?
(行く訳じゃないでしょう)
何処へ?
(ドブ)
勿論です。
(でも、もしどちらも同じなら隔て無くドブにも足を入れて行くんでしょう)
何で?
(だって同じなんでしょう)
だからそれは考え方と言うもんでしょう。
(揚げ足だったかもしれない)
考え方だからそうなるでしょう。皆おなじ様に見ようとする。眼はみんな同じ様に見ようとはしない。全部その通り違って物が見えるんです。それでいてしかも差別意識は何にも持たない。そう言う優しい働きをしてます。そう言う処が違うんですね。考え方と実物、考え方ってそうやって一つの定義を教えると、全部一様にそうやって、同じだから良いじゃないかって、そう言う働きをさせようとする。優劣がないならば、綺麗汚いがないならば、ドブの中だってそのまま避けずに行きゃいいじゃないかって言う様な考え方を起こすんじゃないの。それが優劣を起こしてないことじゃないかっていう風に (そう思い込む)思うだけじゃない。だけども眼はそんな事はしないじゃない。そうなってますよ。

もう一つ、「耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、」誰かがそう言ってたからって、それを信じるっていうこともあるでしょう。「耳をかろくすることなかれ、」って言うと人の言ってることなんかどうでもいいじゃないかっていう扱いもあるでしょう。軽くするんだから。だけど、本当にここで言いたいのは、その後に耳や目をしてですね「耳目をして聡明ならしむべし。」とあります。これがここで言いたいこと。あなた方の持ってる耳や目の働きを通して「聡明ならしむべし」っていうことは、聡明って知ってますよね、や聡明な方だから。エー、ね。聡明が方でしょう、皆。だから聡明ならしむって、本当に自分の目や耳で実験してみるとその様に皆はっきりしてるでしょう。

こうやって見ると分る。(扇子を開いて見せる)こうやって。皆はっきりしてる。どの位はっきりしているかって言うと、 同時に二つの様子が出てこないって事が、聡明な人の在り様じゃないですか。二つの聞こえ方をが、こう、チンチンチンチン(おりんを打つ)しないという事が聡明な皆さんの耳の様子のじゃないですか。だけど実生活を見ると聡明じゃない人の方が多い。チーン聞いて腹立つんだもん。チーン聡明じゃないですよ。見て腹が立つんだもん。何でですか。こうやって色んな物にふれて、見たり聞いたりして腹が立つ。

もう一回勉強しときますけども、見たり聞いたりする時にもう一つの様子って出てこないんですよ。もう一つの様子が出てこない時に腹が立つ人って居ないんですよ。もう一つの様子が出てこない時腹が立った人居ますか。なんでこんなもんだけだとか言って、そう言う事さえも無いのでしょう。その事だけがあるから。それが皆さん方の毎日の根底の様子です、生活の。誰もがそう言う上で生活をしてます。だけども考え方を通して物を見てるために、こう言う事が自分の上で行われてるって事を殆ど見過ごしてる。或いは、触れたことがない。

坐禅て言うものは、そう言う自分の本質に触れる唯一の道です。坐って何もしないで、チーンこうやって音がした時に居てみると良く分る。その通りの音がするだけで、一切問題がない。明確にその通りの音が、音がしてる間中聞こえて、音が止んだ途端に、どうもしないのに聞こえなくなるほどすっきりしてます。皆さんはこの音が、し終わってから、さっき聞いた音を取り上げて、そしてああでもないこうでもないってと言って生活してっる。それは音を聞いてるわけじゃない。

物もそうです。見終わった後にそれを思い起こしてあれがこれが、って言ってます。それは物を見てるって言うことではない。全然次元の違う世界ですよ。滓(かす)、滓を取り扱ってる。もう完全に味わい尽くした後の物です。味わい尽くすというものは、音がしてる時、音がしてる時だけでなきゃ、音は聞けないんですからね。音が止んじゃってから音を聞く事はないですからね。物はそこに触れてる時にしか見えないから、触れてる時以外にその物を見るっていう事はないのです。そう言う風に基本的に私たちは生活してる。そう言う自分の本質というものに触れさせる道が、禅と言われる。坐って言うのは、そう言う時間です。そう言う様な事が此処に二人の会話を通して、その中で道元という方がそれを教材にして皆さん方にこの様に色々述べておられる。それを、坐禅をする時のテキストとして申し上げて、今日は終わりにしておきます。



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