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坐禅箴 Ⅶ

2019.6.23
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道元禅師は、西暦の1200年のお生まれで1254年、54歳を一期として亡くなられた世界的に今脚光を浴びておられる方ですが、その道元禅師が残された正法眼蔵と言うものがありますが、その中の坐禅に関する巻ですが、正法眼蔵坐禅箴というタイトルで残されたものを今読んでおります。

前置きはこのくらいにして本文ですが、今日の処、230ページ、上の右肩の方に頁数がありますので江西大寂禅師という書き出しのところから行きます。一行(くだり)読んでみます。

「江西大寂禅師ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。南嶽ある時とき大寂のところにゆきてとふ、『大徳、坐禅図箇什麼』。
 
 この問、しづかに 巧夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に巧夫すべし。
 
 彫龍を愛するより、すゝみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨の能あることを学習すべし。遠を貴することなかれ、遠を賤とすることなかれ、遠に慣熟なるべし。近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聡明ならしむべし。」


云々、という事で話を進めます。 ここに江西の大寂と言う方と、お師匠さまの南嶽慧譲と言う方が居られて、江西の大寂と言う弟子がここで坐っておられるとですねぇ、お師匠さんの南嶽慧譲が来られて、大徳、あなた、あなたで良いですかね、あなた坐禅して何の図をかはかるとか、そういう風に読むかね、坐禅して何してるのかということで、簡単に言えばそういう事です。坐ってるけど坐って何するんだ、何してるんだ、そう言う質問をされた。

皆さんが今日坐ってくださってるから、そこへ私が行って、坐ってるけど何してるのって一人ずつ聞いてるって言う事です。そしたら皆さん方、どういう風に対応するのかと、いう風にして投げかけてる訳ですね。これ古い話じゃなくて,今ここで皆さん方にそうやって勉強の教材を投げかけてると言う事です。でこちらで先輩がですね、その皆さんに代わって色々なことを話しておられますから、それを参考にしてここで勉強会をいたします。

「この問、しづかに巧夫工夫参究すべし。」お前さん坐禅してるけどそれ何してるんだ。言われた事を、「しづかに巧夫参究すべし。」自分に問いかけて。自分でも坐ってるんだけど、坐って一体何してるんだろう、何するんだろう、どう在ったら良いんだろう。言葉はたくさん知ってると思います、坐禅するって。そして実際にあちらに行って坐った、こちらに行って坐ったというような人、結構世の中には多い。

だけども坐禅って本当にどういう事してるんだろう、って言われた時に、よく分からないって言うのが正直なとこじゃないですか。かろうじて分かるのは、先程の様に形を作って教えたことをそのまま実行している。こうやって居る。

まあ此処では一応坐禅についてだけですけども、広く、広義ですね、広い意味でこの問いを扱ってみるとですね、皆さんが色んな事毎日やってますけど一日の中でも色んな事してますけど、その今やってる事、それ何?って言われる。ねぇ。戸を開けて外に出る。それ何?お手洗いに行ってお手洗い済ます、それ何?スリッパの履く、脱ぐ、それ何?そう言う問いです。分かりきってる筈なんだけも、なんか良く分からない。やってる事があるにも拘わらず。そう言う処が皆さん方に中に、生活の中に見て取れるんじゃないですか。

其処で、どうして「そのゆゑは、」何でそうやって勉強をしなきゃいけないか、「そのゆゑは」まず第一番目に、「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」これが一つ目ですね。坐ってる時に、坐ってる事以外の何かがあるかって言っております。ひょっとすると坐って悟りを求めるとかって言う様な人が居たら、坐禅より他に何かを求めるものがあると言う人でしょう。此処では「坐禅より向上にあるべき図のあるか、」ですから、坐ってる事より他に何かあるかと言ったら、無いのじゃないかと一応言ってる訳です。皆さん方はどういう風になってる、坐禅をしてまだ何か他に求めるもの持ってる様な事をしているとしたら、第一問目で引っかかるんですね。

それから「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」坐ってるにもかかわらず、坐ってる事に、坐ってることを大事にせずに、似た様な話になるのでしょうけども、格外ですから坐禅をしてることの他に、何か素晴らしいもの、或いはもっと違ったもののあり方、そういう様な事を求めているのか。これが二つ。もう一つは「すべて図すべからざるか」描くものが一切ないのか、と言う事は、本当に坐禅してる時坐禅してる様子だけなのかと言っております。こう言う事が道元禅師によって皆さんに向けられてる訳ですね。

「当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。」当時って言うのは昔じゃありませんよ。今まさに座っている時って言うのが当時です。今まさに坐ってる時に、坐禅せるにいかなる図か現成する、どのように本当になってるかと尋ねる、問著する、この様な事をですね、「つまびらかに功夫すべし。」審細に工夫すべし。で、審細に巧夫する時にですね、ああじゃないか、こうじゃないかって考えるって言う事ではない。実際に坐ってるものに触れて、その事実がどうなってるかっていう事を見届けるっていうことです、正しく。「つまびらかに、」そうでないと勝手に坐ってる事の他に、ああなってるこうなってるという思いを巡らしてるような事、それは修行にならない。

例えば、もうちょっと身近な事で、此処に鐘があるから、こうやって鳴らしてみる。良いですか。チーン(おりんを鳴らす)こうやって鐘の音が出てなってるの。その時に皆さん方はこの鐘の音にチ-ンこうやって触れた時、チーンこの鐘の音がですね、二つの聞こえ方三つの聞こえ方、そう言う風な聞こえ方のする人が、まず居るかどうかです。この音を聞いた時に、チーン二つの聞こえ方がするか、もしこの音を聞いた時、二つの聞こえ方がする様だと、「坐禅より向上にあるべき図」とか「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、」と言う様な事に当たるのですね。

別な事があるかないかって、チーンもう1回確認してみて、「すべて図すべからざるか」言うと、ただこの様に聞こえるだけか。チ-ンって、今一応実験してみたんです。皆さんどうですか。難しくはないでしょう。これ、チーン聞いて貰えば分かる。チ-ンこうやった時、もう一つの聞こえ方がするかどうか。本当にただ音がしてる通りに、ただ聞こえるだけなのか。

これもの凄い重要な事なの。首をひねるほど難しい事じゃないです。実際、今ここでやってるわけだから、チーンねぇ。もう一つの聞こえ方する人居たら、ちょっと手を挙げて。あれは髪をいじってるだけで手を挙げたんじゃないですよ。(笑)(丁度この時髪をいじっていた人が居た。)

これはもう少し裏打ちをしたり、参考に意見をつけるとですねぇ、この通りチ-ン聞こえてるって言う事は、生活をしてる時にですよ、一切問題が起きないっていう証拠じゃないですか。そう思いませんが。こうやった時、チーンその通り聞こえるだけだったら、一切問題おきないでしょう。皆さんが色々な事で問題が起きる時には、必ず比べるものがあるのでしょう。あっちがこっちがとか、あれがこれがって。日常の中で問題起こる時、見てごらんなさい。必ずそうでしょう。だけど、今こうやって生活してる時、こうやって音を出した時に、チーンその通り聞こえるだけだったら、一切何処にも問題が起きる処無いでしょう。争うものがない。ずれた試しがないよ。チ-ン

本当は皆さん毎日そうやって生活してるんじゃないですか、自分の本質は。だけども、じゃあ、人と会話をした時にですよ、こんな風にうまく聞いてる人がいるかしら。チーン 向こうの人が喋ってる通りにただ聞いて居れる人がいるかしら。居ないでしょう、此処に。誰もって言って良い程。

「格外に」チーンあるいは「向上に」余分なことを必ずなんかつけて聞くのでしょう、話をしたら、すぐ。本来の耳ってそんな風になってないでしょう。此処でやってみれば分かる。こうやった時に、何もついてこないでしょう。この音がするばかりでしょうが。そして音が止むと、どうもしないのに、もうそっから一切離れて切って、問題にする音が一つもこの中に響いて無い。そういう風にして生活してる筈でしょう。だけど皆さん方は喋り終わった後に、ガンガンガンガンガンて、音がずーっとしてるのでしょう。

何を聞いてるのでしょう。あいつあんな事言って、何を取り扱ってるのでしょう。音じゃないですよね。音じゃないですよね。音はしてる時にこの様に聞こえて、もうひとつの聞こえ方が出ない様に聞こえるんだから。で、音が止むとこの様にどこにも聞こえてない訳だからね。人間の声でもそうでしょう、今私喋ってるけど、何処にも、喋るの止めると何処にも聞こえてないでしょう。

こんなことを勉強するんですよ。坐禅て。仏教ってこう言う事をやっている。誰しもの自分の今生活してる事実がどのようになってるかって事を自分自身ではっきりさせる道です。すると、こうやって過ちが自分の中で行われる事で苦しんでる事、みんな整理される。音がしない時に聞こえる人居ないのでしょう。音がしない時、聞こえる人いますか。では人間喋っていない時、何が問題になるんですか。喋ってる事が問題になってるんじゃないでしょう。皆さんの中に記憶したものを呼び起こして取り上げて、それを自分の考え方でつついてるって言う事が問題になってるでしょう 。

こうやって、チーン(おりんを打つ)こうやって勉強する。今、耳の勉強をしたけど、人間の視聴覚教室って言って、目と耳はものすごい生活の中で大きな位置を占めてるから、目の方もやってみると良く分かる。こうやってみなさんに見せた時に、(扇子を開いて見せる)もう一つの見え方がある人? 出てこない 。こうやってやったら、こう言う風に見えるだけでしょう。もう一つの見え方出て来ないでしょう。もしもう一つの見え方が出て来たら、こんな風に見えない訳でしょう。上手く出来てるでしょう。必ずこの通りに、その通りの様子が見えるだけです。だから自分の中で何にも混乱が起きない。すーっとこう見てごらんなさい。何処に向かったってその通りの事がこうあるだけで、重なって何かが二つの見え方が出て来るなんて事はない。

もしあるとすれば、頭の中に思い浮かべた事を、こうやってやりながら見てるって言う事でしょう。それは見てるという事とは違うでしょ。考え方を相手にしてるって言う事でしょう。本当に皆さん方、自分の眼に学ぶと、こう言う風になってる。これだから生活していてですね、どんな事が目の前で起こっても、トラブル起きたことがない。起きない様になってるんです。どんなこと起きても。トラブルを起こす人は自分の中で昔体験した事とか、ありもしない事を思い浮かべて、今の現実と見比べる様な愚かな生活をしてるって言う事だけです。

ものを知らないとそういうこと平気でやる。他の人に聞いたって、なるほどって納得してくれる様な話です、これは。皆大体そういう生活してるから疑わないんですね。そう言う愚かな生活をしてる事が当たり前だからです。正しいと思ってる。

よーく見てみると、人間はそんな風に生活してないでしょう。今やってみて良く分るでしょう。もう一つの見え方なんか絶対無いのです。今日はその位勉強して帰りゃ十分だよね。エー、後は、自分の生活してる中で私が言ったことが本当にそういう風になってるかどうか、自分で審細に、詳にはっきりさせたらいいじゃん。それは皆さんがやる仕事です。修行ってそう言う事を、必ず自分の体でやらないと、この事は分からないんです。他の人にまかしといては。

この音一つ聞くんだって、チーン他の人に任せて聞かないんだもん。必ずこの自分の身体で聞いて初めて、音がどうなってるかがわかる。チーンそう言う風に修行って言うのは絶対に自分でやる意外に無い。やらないと分らない。 頭で考えてても無理。頭で考えてる事と事実は違いますからね。ね。頭で考えてる事と事実が違うのと同時に、皆さん方は事実と頭の中で考えてる事をどっちを大事に生きてるんですか。どっちを大事に生きてるんでしょう。もし頭の中で考えてる事を大事に生きてるとしたら愚かでしょう。そう思いませんか。事実の方がずっと重要性があるのでしょう?

私は時々、変な話をしますけども、例えばここに名医がいる。私が患者として先生とこへ行く。その時に私の体の現状をきちっと見ないで、名医と言われる先生がですね、メスを取って手術をするだろうか。そんな先生はいないと思いますよ。名医と言う人ほどその患者さんの現状がどうあるかって事をきちっと見る。だから正確に手術ができる。どんな技量があっても実物がどうなってるか分からずに切ったらですね、とんでもない事になりますよ 。

世の中のありとあらゆるもの対応する時に、一番必要なものは、実際に今どうなってるか、と言う事がはっきりしなかったら、そっから先は進まないんじゃないですか。勝手に想像して、ああしたらこうしたらと思ってやってるけど。そういう勉強でもあるんですね、これ。何故かって言うと事実の方は無かった様はできないのです、ね。考え方の方はどんなでも扱えるじゃないすか。考えだから、別に。だけど事実の方を無くすって言う事は絶対ない。それで修行する時にこの実物の方で学んでいくのです。考え方でなしに。先程もちょっと坐禅と言う事を話したけども。坐禅は考え方を相手にするのではない。実物に触れると人間は、 理解出きる力を持ってる。実物がどうなってるか、考えなくても。こんなの考えなくたって、チーンその音を聞いたら、その音が分かるようになってるでしょう。頭を捻ってですね、考えないと、チーンどんな音がしてるかって、わからないってことないでしょう。

(質疑:ミュージシャンだと自然に感情が音になってしまうでしょう。頭でしようとしなくても。)

パンパンパンパン必ずしもそうじゃないでしょう。感情移入して音楽を奏でる人もいる。それは勿論いるでしょう。いるけども音自体って言うものには、感情移入はにない。

(居ますよ。音自体に。)

それは音と感情というものは別です。音を縁にして感情は起こるけど、音と感情は別です。そう言う事です。こうやって音がして、好き嫌いの音にはならない、音は。この通り聞こえるだけです。聞いた人が自分の聞き方によっては、好きな音、嫌いな音って言う風に位置づけるけど、音自体には、元々好き嫌いがない。感情が入らない様になってる。そう言う事、知っといてほしい。

(それは自然と起きる人の場合は、自然と起きることじゃない、認識だけのとこにして行くって事が禅?)

いや、基本的に感情とは別になってる。

(なってない人が一杯居る。)

なってないんじゃない。なってないんじゃなくて、そこが自分でよく分からないから、チーン音がした時に、嫌いだとかっていう風に思ったとすると、チーンこの音が嫌な音だと言う風に聞いてる。

(好き嫌いですらないんですか。)

ないですよ。音は。

(でも揺さぶられる、、、)

それはだから思いと言うものと、目の働きと思いの働きは全然分野が違う 。そうそう。耳で音を聞いてる分野と目で見てる分野とは全然違う。目で見てる中に耳で聞いてる分野が入って来ない。絶対、あの目、耳、鼻、口とかこう言う感覚器官あるけど、絶対よその感覚器官の中を侵す様な事はない、入って。だから目は目の働きをするし耳は耳の働きをするんです。これがごっちゃになっちゃったら大変なんです。そんな事はないです。

(ごっちゃじゃなくなって行く?)

そこを皆さん自分のことだから、はっきりさせないと。ものが分からないとごっちゃになるように受け取ってる人がたくさん居る。それでそのごっちゃになってる様なものの扱いの上で、どうしたらちゃんとなるかっていう風にするから、最初からごっちゃになってないのにごっちゃになってると思ってるものを手をつけて何かしようとするから余計に変なる。そう言う事です。まあそんな事があります。ね。その辺で審細に参究すべし。もうちょっと先へ行ってみますね。先程読んだところまでやってみたい。



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