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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 Ⅷ

音声はこちら↓

三十七品 正業道支 8_①
三十七品 正業道支 8_②.
三十七品 正業道支 8_③


「あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり」維摩の一黙と世尊の一黙と同じだと思っている。この思うという文字ですね、三文字おもふと書いてある。思うって言うこと、これは中々味わってみる必要がある。思うんですよ。維摩の一黙と世尊の一黙が同じだと思うんです。同じじゃないんです。思うんです。この人達は皆そう思っているだけなんです。だからつまらないでしょ。ああだとかこうだとか思うだけ。活路はないですね。生きていく道はない。開けない。

「さらに分別の光明あらざるなり」折角思慮分別を使うんだったら、ものが本当にどうなっているか、って言うことをはっきりさせる力があってもいいじゃないか。思うんじゃなくて。そういう風に使うのでしょう。「かくのごとくおもひいふともがら」ここにも思いというのがでて来ました。思ってそういうことを言ってる、審細に参学すべしって言うんだけど、参学はしてない。学ぶんじゃないんだよ。自分の頭の中で、ああじゃないかこうじゃないかって思うことをやってるだけ。それは修行には一切ならない。

もうちょっと身近なことで言えば、食べ物のレシピがそこにあって、それをここに開いて読んで、材料はこういう物、切り方とか調理のしかたとか火の通し方とか熱の加え方がどうだとか何分だとか、ふた開けるとか閉めるとか味付けるとか、いっぱいいろんなこと書いてある。これずーっと読むと大体出きた様に思える位ちゃんと書いてある。それがレシピでしょ。でこれをここへ置いといてですね、読んでは何回も読んでは、ああなるほどこんな風に。一日やってもですね、ご主人が帰って来た時に食べさせるものが何もない。出来ない。普通はですね、作ってみるんですね。作ってみると、出来栄えがそこにあるから、それを自分で食べてみると、味もわかる。レシピ読んで完了したところで味がわかるかって、そんなことは無理です。ああいう味がするんじゃないか、こういう味がするんじゃないかって思うだけです。本当にここに有るように思うということだけなんですね。人がやってるのは殆どそうです。

パン!こうやってした時に思うんじゃない。実際この音に触れるって言うことがあるじゃないですか。そうするとイキナリ音がしたら音がした通り、パン!ちゃんと人はなるようになってる。修行ってこういうことでしょう。修行するってどういうことかって、パン!こうやってやると、こういう風になるって言うことが修行でしょ。パン!自分の方で何かしてその様に作るって言う様なことは、一切修行の中ではしません。自分の方から造作するあり方は、ここに挙げてある梵天とか自在天の教えなんですね。仏法ではないのです。

こうやって、パン!音がしたって聞きなおすなんてことをやったことないでしょう。イキナリそれで完結です。パン!終わりです。やり直せないんです。パン!やり直せるんだったら、皆さんが考えているような修行したら良いじゃないですか。何回も何回もやったら段々立派になってくる。そんなことは絶対にありっこないです。この音パン!はこれで終わりです。後にも先にも聞きたくても聞くこと出来ない。そういう風に私達は生活が成り立っている。

だから、修行する時に自分の見解、考え方を用いずに、本当にパン!この事実に、こうやって学んでみる必要がある。知らない人は自分の考え方の上から、思いの上から学ぶから、最初に思いがあるのですね。ああなりたい、こうなりたい、ああなったらいい、こうなったらいい。そういうものを目の前に掲げといて、それに向かってこうやって進んでいって、そういうものを修行だと思っている。それ二重生活でしょうが。実際の生活に二重生活してる人なんかないですよ。もうひとつの在り方を生きてる人なんかいません。

ただ考え方っていうものは、今だけで生きてるものと別に、こうやっていろんなものを思い起こさせる力があるから、その考えがはびこってくると、考え方に近寄っていくんですね。どこまで近寄って行ってもですね、考えの方に近寄って行って真実がはっきりするって言う事は不可能です、それは。道が全く違います。それお分かりでしょう、そういうこと。

これパン!何処で聞くんですか。この音を何処で聞くんですか、この音を。一切自分のものを持ち込んで聞くっていうことはないでしょう。少しでも自分の考え方をそこに入れて聞こうとしたら、必ず余分なことでしょう。それが、はっきりさせなくするのでしょう、この音を。そういうこと本当に勉強してほしいですね。「すべていまだかって仏法見聞の参学なしといふべし」まあ道元禅師はそういっておられる。仏法っていうものがどういうものであるかって言う事を、聞いたことも学んだことも全くない人だから、思慮分別を相手にした学び方をするんです、とこういってる。これは現在でも同じですよ。

「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」ということはですね、衣を着ていたら、頭を剃っていたら、皆素晴らしいお坊さんだと思うんじゃないですか、一応。それは外見であって、内面はそんなことじゃないよって。これもそうです。同じでしょ。お隣の中国の大国の人は皆立派な素晴らしい人だって。かって日本の人は西洋とか諸外国から入ってくる文明に、非常に弱くてですね、日本の文化というものはすごく程度が低いものだと言う風に扱って、よその舶来品って言う、よその文化を尊ぶ習慣があった。本当は今見直されているように、日本の文化って言うものは世界でも冠たるものですよ、あらゆる面で。そうおもいます。

高級なホテルに行ってですね、五つ星位のホテルに泊まって、そこのシェフの作って出してきた料理、それは確かに立派です。だけども、家に帰ってですね、ご飯たいて味噌汁たべた方が美味しいっていうのは、何だって、私も思うんですね。会計すると何万って言う、一食何万もする。家じゃ2,3百円、そっちの方がはるかに美味しい。折角の材料をこねくり回してですね、一番のその素材の良さを失っているんじゃないかって思う位、不思議なこと料理ってのはしてますね。それが何か優秀な人達がやってる。

で、これ肩書きに弱いってこともあるじゃないですか。「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」というような事は、そういうことも通じるでしょう。何か肩書きがあったり、何処何処の学校出てるっていうと、皆そこを出ると素晴らしいのかって、そこだってピンからキリまであるって。同じ学校でも。「その道理、明らめやすかるべし」そういうことは誰でもちょっとすればよくわかることじゃないかて言っております。何が言いたいかって言うと、騙されるなって言うことでしょう、そんなものに。

いわゆる『正業』は僧業なり」正しく行う一日の生活(生業というもの)の基本は、お坊さんたちが修行している様子だと。それを超えるものはない。これ道元禅師が自分で修行の道場作って、そこで後継者を、あるいは立派な人を育成しようとして道場を開いてますから、当然こういう見識でしょう。何処でやるよりも私のところに来て一緒に修行したら、これが一番だよって言っておられるでしょう。「論師、経師の知るところにあらず」ああでもない、こうでもないってやってる様な人達の知る範囲ではない。こっちは実物で生きてる、実物で。一日中。一方はここから上で(頭?)生きてる。ここで取り扱っている。でああじゃないこうじゃないって、あすこにこういうことが書いてある、ここにこういうことが書いてある、あっちの人の言い分は、こっちの人の言い分はって、そんなことをこちょこちょ、こちょこちょやっている。そんなことじゃない、って更に詳しく書いてある。

「僧業といふは、雲堂裏の功夫なり」雲堂という建物、生活の場所はですね、一般の人達の家庭の生活とは違うって言うことなんですね。生まれると、生きて行くためにどうしてもいろんな生業をしないと生活が出来ないから、給料をもらうために俸給を頂く為に働く、云う様なことが一般社会のあり方でしょう。この当時の出家って言うのは、家族を持っていませんからね、だから家族を養うために坊さんたちが働かなきゃならないって云うことは一切ないのですね。今の坊さん、私もそうですけど、家族を持ってるから、家族の養成の為に、学費を出すとか、教育費とか生活費とか、そういうものを、子供たちが自分で稼げないから、親が働いてそれで育ててる。そこら辺になると、お寺って云うんだけども、雲堂というような感じは今、私の寺でもないですね。在家と全く変わらない位になってしまっている。比較してみると、昔のそういう道場っていうのはこれぐらい純粋に出来てるんですね。

「仏殿裏の礼拝」こういうところで礼拝をするにしても、仏様に拝んだら何か頂けるんじゃないかって云う様なことはやっておりません。それは在家の人が言うことです。神仏に礼拝をして。お坊さんたちの礼拝はそんなことしません。違うんですね。後架って言うのはその修行道場の裏に所謂洗面所があってですね、顔を洗ったりする様な場所がある。そういう所ですね。汚れてるから顔を洗う訳じゃないんですね。自分の顔が汚れてるから顔を洗う訳じゃないですよ。そういうの見てください。ないし合掌したり、問尋したり焼香したりお湯沸かしたりしているわけですが、一日の生活逐一挙げてありますね。ここに大体。何をしておっても、本当にその事をその時に親しくやっているだけ。字を書くにしたって、ただこうやって線をズーっと引いているだけじゃないですか。

リーンリーン(携帯電話が鳴る)ああやって鳴ったらその鳴ったのに従って動いているだけ、あれでいいんじゃないですか。外のことやらない。凄い単純なんですよ。もっと云ったら、単純ていうか外の事できないのですね。こうやってる時に(指で字を書く)、もう一つのことが私のこの指で出来ない。こうやってものを書いてる時に、もう一つのことやろうたって出来ないでしょうが。これをこうやって見てる時に、もう一つのものを見ようたって、これを見てる時にもう一つのものを見よう思ったら、どちらも見ることが出来なくなるでしょう。そういう風にして単純にそのことを、本当にその事を取り組んで生きてる。そういうものが僧業という坊さんたちの生き様です。

果たしてじゃあ、厳密に坊さんという人がそういう風な生き様を、今してるかって問われたら、答えは各自で出せばいいんですけれど、若しそういうことが行われてなかったら、衣を着ていようが頭を剃っていようがなんら在家の人を変わらない。そういうことが、「大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ」っていう様な内容になるんです。頭を以って尾に換えるというんですね。「以頭換尾するのみにあらず」脚注で生き方の転換と訳してあります。そのものを以って本当にそのものを実践する以外にないじゃないですか。「以頭換頭」頭を以って頭に換える、心を以って心に換える、仏を以って仏に換える、道を以って道に換える。どれを挙げてみてもそうでしょう。そのものを以って本当にそのものを味わうんでしょう。

でも考え方っていうのは、このことをやっていながら他のことに心を向けるんですね。そうでしょう。仕事をしてても、今仕事してるんだけども、他の事に心を向けてる人沢山いるでしょう。菜っ葉切ってる時に他の事位考えられますからね、手を切らずに。だから他の事を考えられるから、他の事を考えて、あれやったらこれやったらって、こと効率が良いと思うじゃないですか。幾つもいっぺんに仕事ができて。どういう風にきった?って言うと、初めて自分の切ったとこ目を向けて、どういう風にきったかって言われて、あれ、こんな風になってって。知らないんだよ切ってても、自分で。こんな無責任な生き方してる。

これ料理人だったら大変ですよ。料理人の素晴らしい人たちは皆、今やってることきちっとやってますよ。他に心を向けるような一級の料理人はいませんよ。その場を離れない、火をつけたら。焼き物をしても、蒸し物をしてても。少し位離れてもね、ガスをつけて乗せといてもどうこう無いもんだから、火をつけてどっか行って来るでしょう。味噌汁がぐつぐつしてても。そういう生活の自分の有り様を比べてみて御覧なさい。人間位のものでしょう、他の事やるのは。殆どのものは蝶々でもこうやって飛んでる時ただこれだけですからね。これだけをやってる。他の事やってませんよ、飛んでる時に。それで飛んでいけるんだからいいじゃないですか。

こう言うな処よーく見て下さい。「これすなわち正業なり」あやまりて仏法の商量すれば、眉や髭が落ち思わず顔が崩れる、とあるんですね。「面目破顔するなり」「あやまりて仏法の商量すれば」間違って仏法のことを取り上げれば、とんでもないことになるよといってるんでしょ。そういう生き方をしないようにしたいものですね。


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