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安居 Ⅶ 

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「もし児孫と称ずるともがら、」私達もお釈迦様の児孫と言われるのでしょう。称する以上は、自分でそう言う風な自負心を持ってる以上は、「坐夏九旬を無言説なりといはば、」そう言う風な受け取り方をしたならば、それは大変な間違いだ。そこで、「還吾九旬坐夏来(吾れに九旬坐夏を還し来るべし)をいふべし。」九十日まことに申し訳なかった。ちゃんと修行しないもんだから何もお役に立たずに。

それが、「還吾九旬坐夏来(吾れに九旬坐夏を還し来るべし)」って言う様な事でしょう。だから、そう言われたら、せっかく修行させて頂いたのに、こう言う良い場所を提供して頂いたのにって言う様になるのでしょう。お前、何やってんだって言う意味ですからね。これ。まあそれはそれで、次行きますかね。

「阿難に勅令していはく、汝我為代説、一切法不生一切法不滅と代説せしむ。」阿難にお釈迦さまが直々にですね、阿難その様に代わってお説きなさいって言う事を言ったと。「この仏義いたづらにすごすべからず。」そりゃあいたずらに過ごせませんね。大事な事でしょう。

「おほよそ掩室坐夏いかでか無言無説なりとせん。」、先ずは一つはこう言う事が喋られたと言う、語られたって言う事が有ると言う事が、大事でしょう。お釈迦様は先ほども、ものを違えて捉える人は、お釈迦様が夏の九十日の安居をした時に、部屋に入って外界を遮断して、後何にも喋らなかったって言う風に受け取っているけど、そうじゃないって事が、先ずここで出て来る訳でしょう。

「しばらく、もし阿難として当時すなはち世尊に白すべし、」申すべしっていいですかね。阿難はお釈迦様から、代わってこの一切法不生、一切法不滅って言う風に説きなさいって言われた時に、って言う事ですね。この様にお釈迦様に申し上げたらどうか。「一切法不生、一切法不滅。作麼生説。」どの様にその事を説いたら良いのか。一切法不生、一切法不滅って言う事に対して、どの様に説いたら良いか。

「縦説恁麼」たとえお釈迦様が、一切法不生一切法不滅って言う風に説けって言うから、その通り説いたにしてもですね、「要作什麼。」皆さんだってそうでしょう。代わりに、私の代わりにってお釈迦様に、皆さんも人が来たら、そうやって説いて下さいって言われて、その通り説いたのは良いけど、言えって言ったから、言ったには良いけど、その後どうしたら良いって言う事でしょう。言えっていったから言っただけで済むかしら。その後どうするんだろうって言う様な事です。

これは尋ねて来た人に対してもそうだけど、自分自身に対してもそうじゃないですか。お釈迦様がそうやって言いなさいって言った事を説いてみても、自分自身の中でもそれで納得が行ってるのかって言う事が、ここで問われるのでしょう。「要作什麼。」本当にどうあったら良いのかって言う様な事でしょう。

「かくのごとく」申し上げて、「白して世尊の道を聴取すべし。」本当に聞くんだったら、お釈迦様の言われてる事を本当に聞くんだったら、自分の中で少しでも疑義が有ったら、はっきりしないものが有ったら、そう言う事を尋ねる必要があるのじゃあないか。分からないまま、「はい承知しました。」ってそれはちょっとまずいんじゃないか。エー。

「おほよそ而今の一段の仏儀」今ここで行われているそう言うやりとりですね、これは二千何年、三千年近く前のお釈迦様の様子ではなくて、今ここで九旬安居を開く訳ですから、九十日これから修行しようって言って此処で行われる事ですから、そう言う事がおほよそ今の一段の仏儀と言う事になりますね。古い昔の話を取り扱っている訳じゃない。「これ説法転法の第一義」、これが一番大事に所と言うのでしょう。

それから、「第一無諦なり。」はっきりしないって言う事でしょう、無諦。明らかならずと言う事です、無諦。大事な事だけどもと言う事、これ以上大事な事がないんだけども、もう一方から言うと、此処が本当ははっきりしていないのではないか。

道元禅師は若かりし頃一切経を読破した後、本来本法性天然自性身と言う、一応結論としてそう言う事を出しておられる。どの経本を、経典を読んでみても、最初から皆成仏しているって言う様な事が書かれているって言う、それが結論だって言う事を一応読み取ったんじゃない。で、だったら何で今更修行しなきゃいけないかって言う事を、日本中色んな、これはって言う人の所を尋ねた時に、聞いて回った訳でしょう。

そうでしょう。最初からもう皆成仏してるって言うんだったら、何もこれからやる必要ないじゃないか、修行を。どうして修行するのか。それに対して日本中では明確な答えが一つも頂けなくて、中国に渡って行く訳ですよね。そう言う様な事をこうやって見てみると、全てそう言う事と同じでしょう。それ第一義でしょう。第一義諦でしょう、最初から。全てのものは成仏してる。

今風にこうやって取り上げれば、こうやって、物にこうやって触れた時に、これからはっきりするって事はない。イキナリはっきり皆それに違いない事位、はっきりしてるじゃない。本来成仏。手の加えようがない。それ位はっきりした生活をしてるんだけども、じゃそれだけはっきりして生活が皆できてるんだったら、何で修行するのかって言う質問だったでしょう。

理において分かると言う事と、本当にそれが自分で心底納得が行くって言う事は違うって言う事でしょう。疑いが取れなかったんだもんね。皆そうやって一々成仏してるって事を、経本を読んでも、それでも自分の中に疑いが残るって言う事は不思議な事ですね。理の上で納得いってるだけであって、本当に自分の中で、その理の通りの在り様に自分が触れて目覚めたって言う事が無いって事が自分でも分かってるじゃん。それで修行せざるをえないじゃない。そう言う事でしょう。

そう言うものが、この第一無諦なりって言う様な事になるのでしょう。はっきりしない。それを誤魔化したら話にならないでしょう。自分で本当にはっきりしてますかって言った時に、いやはっきりしてものが自分の中にあるって事が自分で分かってる以上、それをはっきりさせる迄きちっとやるって事が、法に対して親切だと言う事になるのでしょう。自分に対しても親切な生き方をするって言う事になるでしょう。

さらに「無言説の証拠とすべからず。」あの時お釈迦の様子と、喋らなかったと言う事の証拠にするなんて言う事であってはならない。「もしこれを無言説とするならば、あわれむべし。」気の毒な事だけれども、丁度例えを挙げれば、「可憐三尺龍泉剣、徒掛陶家壁上梭ならん。」って言う様なものに似てるなって言ってる。

どちらも、どちらもって、先ず三尺の龍泉剣って下に詳しく書いてあるから、それによってくだされば良いでしょう。素晴らしい宝剣がある。三尺の龍泉剣。それからもう一つは、海に入って魚を捕ろうと思っていたらですね、偶々その時に布を織る梭って言うものが引っかかって来た。良さそうなものだったんでしょうかね。それを、帰ってきて壁に掛けておいたら、夜中にそれが、稲妻や雷がして龍に化けて飛び立って行ったって言う様な故事なんでしょう。

だけども此処では、そう言うものであっても、役に立たないって言う事でしょ。それを言いたいんでしょう。この二つをあげて。立派なものが今、自分の手の内にあるにも関わらず、それが本当にどう言う素晴らしいものか、見届けもしないし、見届けたならば今度はそれを十分使うって言う事が、その二つの素晴らしい宝物を本当に所持してるって事になるのでしょう。それをただ単にそこに掲げてあるだけでは、置いてあるだけでは、何の訳にも立たん、て言う様な事でしょう。

お互いのこの自分と言われてる身心でもそうでしょう。この素晴らしさは龍泉の剣にも勝る。陶家の梭にも勝る素晴らしい物でしょう。これでどんな物でも織りあげる事が出来るのでしょう。どんな物も刻む力を持ってるのでしょう。

フランスのノートルダム大聖堂の火災が起き、復元するのでしょうけど、あれも人の手によって復元されるのでしょう。色んなニュースを見てると、大統領がおっしゃってる、五年位で復元させたいとのことですが。専門家の意見としては、五年では復元出来ないのじゃないかって言う位大変な作業になるのでしょうねぇ。でも又復元される。それは人間の力によるのでしょう。

「しかあればすはち九旬坐夏は古転法輪なり、古仏祖なり。」今此処で一緒になって九十日約束をして、此処の場所を離れずお互いに此処で修行をするって言う事は、過去、昔、お釈迦様達が最初にやられた内容と寸部違わないものが行われるかって言う事でしょう。昔そう言う過ごし方をしたとか、そう言う歴史があるとかって言う話ではない。それは本当につまらない。あの一枚の宝物を尋ねる地図が有るとすれば、その地図を頼りにして宝を掘り当てて、そして今生の内にそれを有意義に使いこなすって言う事が問われる。

あるいは時々使うんだけども、一枚の楽譜があれば、その楽譜を基にしてその音を此処で演奏する、所謂音に変えると言う事が行われると、無条件で私達は、その楽譜の音色を聞く事が出来る。それは聖人であっても、凡人であっても関係ない。そう言う処に音楽としての芸術の評価の高さがあるのでしょう。一切説明要らないもんねぇ、聞くのに。音楽が分かるとか分からない、要らないのね。

音を聞いてさえすれば伝わる世界、仏教もそうでしょう。実践すれば、理屈抜きだから。実物って言うのは、理屈なんか元々付いて無い。ねぇ。実物には理屈なんか付いて無い。だけども、実物を抜きにして理屈でものを知ろうと思う、分かろうと思うから。頭脳の方が発達したんだよ。それが発達したために、実物抜きにドンドンなってるじゃないですか。それが考え方の世界って言うもんじゃないですか。

それで現代は思考で、ですね、人が苦しむ様になってる。十人に何人とかって言う様な白書も出てるのでしょう。精神的に病んでるとか或いは薬を服用してる人が、何人に一人とかってある訳でしょう、精神的に。凄い高い量ですよ。そう言う事が、この坐禅をするって言うのはですね、副作用の一切ない薬なんです、坐禅て。凄い薬。高価なお金を払わなくても出来る。誰でもすぐ出来る。凄い薬ですよ、坐禅て。人間の思考から束縛を離れる力を持ってる。

「古仏祖なり。」立派な仏様や祖師方の生活ぶりが、今此処で再現されると言う事でしょうねぇ。「而今の因縁の中に『時将欲白夏』」とある。今も昔も。今から静中に入ります、一緒に修行しましょうって言って、そうやって結制と言うものがおかれています。この円通寺さんの其処の本堂の外側に、向こう側の正面の戸がある上側に、こう名前がずっーっと書いて有るのが有るでしょ。

あれは今の方丈様が結制を置かれた時に参加された人の名前が挙げてある訳でしょう。あれだけの方が一緒になって、九十日の間修行をされる。古い形を現代も取って、修行した跡形が有ります。で、此処でお釈迦様達は毎年やる訳ですね。我々はあの住職をすると、一代に、まあ何回もやる人は希ですね。まあ大体多くて二、三回でかね。まあそれはその位に置きますね。

「しるべし、のがれるおこなはるゝ九旬坐夏安居なり、これをのがるゝは外道なり。」こう言うものを本当に行わないと言う事は、ものを知っていても、って言う事になるのでしょう。知っているけれども使わないって言う事になったら、道から外れる、道は行われないって言う事ですね、外道って。道が有るんだけれども、実践しないって言う事は、道を踏まないって言う事だもんね。で、ここはそう言う意味で素晴らしい道場、一年中こうやって時があれば、皆集まって実践をしておられる。素晴らしい道場でしょう。

もう一段読んで終わります。「おほよそ世尊在世には、あるひは忉利天にして九旬安居し、あるひは耆闍崛山静室中にして五百比丘ともに安居す。五天竺国のあひだ、ところを論ぜず、ときいたれば白夏安居し、九夏安居おこなはれき。」これこう言う事が時を選ばす、国を選ばず、志の有る所では、必ずこうやって九旬安居をしてきたと言う事が挙げられております。

「いま現在せる仏祖、もとも一大事としておこなはるゝところなり。」永平寺にいたしましても、まあもう一方の総持寺にいたしましても、曹洞宗で言えばご本山にあたる所はずーっとそう言う事を今も実践している道場ですね。一番大事な事として。

「これ修行の無上道なり。」修行するって言う事は、この身体で実践すると言う事を除いてはないでしょう。教えよりもですね、色んな教えよりも、この身体で実践している内容の方が遙かに豊かです。梵網経中に冬安居と言うのが出ていますって書いて有ります。冬にも。だから年二回制をひいてたって事実があると言う事でしょう。

エー、今他の国では、学校制度も二期制が結構多いのでしょう。二期制の場合、九月位から冬はあるんでしょう。丁度似てるかなと思う。雪が降る間っていうか、雪安居って言うんですね。冬安居を雪安居と言う。インドでも、インドは広いから、暖かい方と寒い方と両方有るのでしょうねぇ。北の方へ行けばヒマラヤがある訳だからね。「その方伝われず。」と有ります。冬の安居の内容は、書き物として、或いは人づてにも正確なものが伝わっていない。

「九夏安居のほうのみ伝われり。」夏の方だけが伝わっている。日本では今、私達は夏と冬の両方やっております。一年百八十日が修行の期間になっています。九十日二回ですね。「正伝まのあたりに五十一世なり。」五十一世は如浄禅師迄かな。そして道元禅師に伝わってくると言う事でしょうかね。それから今日まで日本の中では伝えたれている。

だから、あの仏教各宗が有りますけども、一番正確にそう言うものが行われているのは、禪宗系統でしょう。他所の宗派の方々と時々会う時におっしゃられるのは、禪宗の方々は良いですねぇって、修行の期間がある、ちゃんとしてますから、って言われる。じゃあ皆さんの方は修行の期間が無いの、って言ったら、そうすると、私達の方は3×7=二十一日で終わるとかね。エッその位で終わるのって言う位、修行の期間としてのものが短い所もある。だから何をしてるのかな、って言う事になる。

NHKなんかで取材してるけれども、この夏安居を通しての、色んなものが映像として記録されている様な事が今の処無いのでしょう。今の内に誰かが入って記録しておかないと、ちゃんとしたものが無くなってしまうかもしれません。そう言う危機を感じております。それは何故かって言うと、十人以下になるとですね、総勢十人以下になると、こう言う古規に基づいた、古い規まりに基づいた、こまごまとしたものはですね、再現出来ない。

例えば、野球が行われる時に、最低でも守る方と攻撃する方九人ずつは要る訳でしょう。ねぇ、それが一人でも減ったら、矢張り大変なんだよね。バレーが六人制とか五人制になってきてますけども、そう言うのでも、一人減ったらですね、だからお寺で十ではね、ちゃんとした事が出来ない。それが、エー御本山の様な大きな所でも、お坊さんになる数が少ないって言う事は、日本の若者の数が絶対数が完全に減ってきたと言う事が減少の現れでもある。

出家する人も少ない。で、おそらくはこれから海外の方々が、日本の良いものを引き継いで行かれるのじゃあないかって言う事でしょうね。日本には残らなくなるかなあと思う。あの他所から来る人は真面目だもん。ねぇ。全部自分の今やってる事を投げ打って学びに来る位の、その気概がある。

お寺に生まれた子がお寺の和尚さんするのは、成れって言っても、嫌だって、嫌だって言ってしょうがないよって。本当は一度、こんな事言ってはいけないかもしれないけど、本当に嫌なものをやらなくても良いじゃないかと思う、嫌な人が。嫌な人がやったって、碌なものは出来ないんだもの。少なくとも、本当にやる人だけが残れば、ちゃんとしたものは伝わる。嫌な人が何百人居ても、本当のものは伝わらないから。そう言う気はしますね。だから皆さん方にも志があったら、どうぞあの此処に見本になる様な方がおられるけど、出家してですね、そう言う大事なものを継いで下さる様な意気込みのある人が育って欲しいと思いますね。もっと、ね。是非。此処で置きたいと思います。




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