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安居 Ⅵ

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「我今入因沙白室中、」入ってと、下にも、摩竭陀国ですからね、毘陀山中に有るとあるね。場所ですね。古い地図がないとこう言うのは出て来ないと思いますが、インドの明記したものがあると思いますが、そう言うものを見ると、場所が良く分かります。まあ其処に洞穴の様な物があるのでしょうね。室中に有って、これから九十日のこの夏の間はそこに、動かずにそこの場所で生活をすると、言う様な事をおっしゃった。

で其処にそう言う事を、「忽有人、来問法之時、」私が、お釈迦様が此処に九十日こうやって居る。そう言う事を告げた時に周りの人がそれを聞きつけて、人が忽ちこうやって集まって来て、どうか法を説いて下さい、教えを示して下さいって言って来た時に、阿南尊者に、その時私は部屋の中に入って坐ってるから、出ないから、代わりにお前、代わりにこう言う風に言って説法してくれって言って、阿難尊者に言っておられますね。「一切法不生、一切法不滅」と。

これ、不生とか不滅とかって言うのは、般若心経の中にも不生不滅って言う句が詠われてますが、皆さんもよーくこれも見て下さい。一切の法不滅です。これは自分の今、こうやって此処でやってる生活を見てみると良く分かる。これ今こうやってる様子が、一切法不生、一切法不滅の内容です。

今こうやってる状況は何処から出て来たんですか。ご覧の通りじゃないですか。出て来た場所が無いじゃないですか。自分でどうこうするって言う事前にこの様な状況にすでにいるのでしょう。居たのでしょう。今もそうでしょう。今のこの状況って、どうもしないのに、今の状況に居るでしょう、皆さん。それが一切法不生の様子でしょう。

で一切法不滅って言う法は、じゃこの今こうやってる様子って言うもの自体が詳しく見てみると、不思議ですねぇ、先程までの今の様子が無い。無いんだけども、無くなった試しが無いじゃんねぇ、今の様子は。ねぇ。何処へ行くんだろう、先程までの今の様子は。全然無いんだけど、それでも今の様子が無くなった事なんて、これ実に不思議ですね。今の様子がずーっとそのまま有るかったら、今の様子はそのままずーっと有るなんて言う事は、間違ったら活動止まっちゃいますよ。成長もしない。

野菜を植えても。芽も出ない。花も咲かない。実もつかない。赤ちゃんが生まれても、十年、二十年、三十年、百年たっても赤ちゃんのまま言う様なことになっちゃう。今度は年の行った人も八十のまま何時になっても死ねないって言う様な事になると、厄介だろうねぇ。不滅って言う表現だけど、無くならないけども、前の様子ではないのねぇ。こう言うのは丁寧に自分の事だから見て頂いたら良いと思う。これで、この二つが自分で本当に会得が行ったら、胸落ちがしたら、それで後、求めるものなんか要らないでしょう。

まあそう言う事を、阿難に告げて言い終わって、居室して、掩室して、他の人が入って来ない様に戸を閉めるって言っていいですかね。伊勢神宮に、天皇皇后両陛下が数日前、神器の三物のうち、剣と勾玉をお持ちになって、天照大御神様の元で、あれ一夜を共にするんですかね。あの内宮の奥に入って。布団があるのかなぁって心配しちゃうけど、風邪でもひかれたら、と思ってるんだけど。ああ言う風にして、外から一切のものがこう入らない様な感じで中に居るんでしょうね。掩室して坐した。最近のニュースをちょっと思うんですが。

皆さんもそう。誰かがこうやってお釈迦様と同じ様に、一切法不生一切法不滅って言って、来た人に説法してあげれば良いでしょう、説いてあげたら。説いた以上は、代わって説くと言ってもですねぇ、説いた人が責任をもたないきゃあならない。その内容は?って言われた時に、頼まれたから言っただけだって、そう言う訳にはいかない。そこに面白い処がある。

先程方丈様と話をしてた。誓願について話して頂いたんだけど、願を立てる、願いを立てるって言う事は、向こうに向かって依頼するだけじゃない、依頼をした以上、自分でその責任をはたさなきゃあならない。何かオリンピックの選手がそんな事を言ってた。優勝したい、優勝しようって思った以上は、私も公言したから実現出来る様に努力をしなきゃ、そう言う責任が有りますって、そう言う発言をしてるのを聞きましたけど。矢張り世界のトップで出て行く様な気概を持ってる人は、言う事も違うし、心がけも違うなってつくづく感心します。仏道無上誓願成ですね。一度願心を起こしたら、成仏するまでは少なくとも修行は止めない、言うのがここに居られる方々の願いでしょうね。

「しかありしより」そう言う風な事があってよりこの方、どの位時が過ぎたかって言うと、これどう言う計算の仕方をしてるか知りませんが、二千百九十四年と言う年月が過ぎたと言う、この時から。まあ、今の年を加えてくれればいいでしょう。

「堂奥にいらざる児孫、おほく摩竭掩室を無言説の証拠とせり。」堂奥にいらざる児孫て言うのは、このお釈迦様がですね、九旬の夏の安居をしますよって言った時に、人があつまって来たら、阿難お前代わりに説法しろ、こう言う風に言ってくれって言った事を聞いておらないと言う事でしょう。堂奥にいらざる児孫と言うと。だから部屋を閉じて中に入って、その後九十日、お釈迦様は一言半句、口を開かなかった証拠だって言う風に捉えてると言う事ですね。ここら辺は全部間違いだって言う事を道元禅師が挙げて行く訳でしょう。

「いま邪党おもはくは、掩室坐夏の仏意は、それ言説をもちゐるはことごとく実にあらず、善巧方便なり。」ものがよくわかってない、よこしまなものの考えをしてるグループの児孫、お釈迦様の元で修行している仲間だとは言うもののですね、勘違いをしてる人達のグループはこう言う風に捉えているのじゃあないか。黙っているのが本当で、言葉で言ってるのは仮ももので偽物だって言う風な、そう言う風な捉え方をするんでしょうかね。

「至理は言語道断し、心行処滅なり。」本当の処はですね、言葉やなんかでは届かないものだって言う事を言いたいって言うんでしょう。そんな事はない。道元禅師が松に松の経ありって言う様な事を、竹は竹の経えありって言う様な事をどっかで説いておられます。そうすると、竹は竹の法を説く、松は松の教を説いてるって、聞こえてますかねぇ。松のお経、竹のお経、要するに私達がその、言説って言うのはですね、人間の口から出て来る言語ですね、そう言う、或いは文字に表したもの、それだけを言語とみてるんでしょうね。

だけども、本当の言語は何を表してるかったら、その言語の元は実物があると言う事じゃないですか。ゴーンって言うんだけど、ゴーンって言う音はですね、音が有るのでしょう、ゴーンと言う音が。それを言葉で喋ったり、あるいは文字でゴーンと書いたりすると言う事でしょう。だから言葉や文字が無くてもゴーンて言う。有るのでしょう。エー。鐘を撞くとですね、言葉や文字が無くてもですね、音がするのでしょう。

こうやってると、(天井を見る)天井と言う言葉が無くても、有るのでしょう。これを指して天井と言うのでしょう。ね。文字だけが有るなんて言うことじゃ話にならない。そう言う様な処をこうやって、私達も学んで行く必要があるんじゃないですか。

思量分別を絶するって言う様な事だけども、思量分別を、考え方や思量分別を離れたらものの内容が分からないかったら、思量分別が止んでも、ものの内容は良く分かる。例えば今お茶を頂きますが、考えなくても飲むとですね、味がちゃんと分かる様になってる。思量分別を使って味が分かる訳じゃない。そう言うのはどうですか。人間は思量分別を使わないと味が分からないと思ってるかも知れません。飲むと味がするのです。そう言う様な事があるね。にも関わらす、ものが良く分からないと、こう言う風な事になるのでしょう。

「このゆゑに、無言無心は至理にかなふべし、」喋らずに何も思わないって言う様な状況は真理に叶う。真理に至る内容。だけども「有言有念は非理なり。」真理ではないって、こんな風に捉えてる。「このゆゑに、掩室坐夏に九旬にあひだ、人跡を断絶せるなりとのみいひいふなる。」言いもすれば、言いもするって事ですね。

沢山の経論の中にも、この安居の時にですね、安居が終わってお釈迦様が出て来られて、九十日どう言う風にして過ごしたかって言う話があった時に、いやーお互いに一切喋らずに過ごしたって言う様な事が言われて、何であなた達はお互いに一切口を効かないで過ごしたのか、言う様な事を言っておられてます。修行の上で尋ねる事が有るだろう、気になってる事が有るだろうに、何でそれを聞きもしないで、ただ自分でお互いに黙ったまま過ごすのか。こんな事で修行になるのかって言っておられる。

悶々として過ごすだけでしょう、九十日。自分の中ではっきりしないものがあって、どうですか、普段だってそうじゃないですか。自分の中に気になるものがあったら、本当に手放しで修行が中々行かない。お釈迦様が部屋を閉じて坐って誰も来ない様にしてたって言うのは、別に喋らない様にするためじゃないって事です。「おほきに世尊の仏意を孤負せり。」叶わない。仏様が本当に伝えようとしている内容に背く。「孤負せり。」ここらは、今他所の経典に書いてある様な事が、そう言う事を示しています。

其処で、道元禅師がそれらを通して言われるのに、「いはゆる、もし言語道断、心行処滅を論ぜば、」本当にその言われている内容を味わってみるんだったならば、「一切の治生産業みな言語道断し、心行処滅なり。」生活してる事実を見てごらんて、本当に言われている通りじゃないか、どれもこれも。

其処で解説をもう少ししてるでしょう。言語道断て、どう言う風に一般の人が捉えてるか知りませんが、道元禅師は丁寧に「一切の言語をいふ。」じゃ心行処滅というのはどうか、「一切の心行をいふ。」ここではだから道断とか処滅とかって言う句になってるんだけど、言語道断って言う時の内容は喋っている、或いは言葉そのものが既に言語を離れているじゃないかと言ってるのでしょう。

これ見てごらんて言ったって、見てごらんて言った時に、既にもう皆さん言語を聞いてるんだけども、それを離れてる。パン!(打掌)分かりますか。パン!分かりますかって、言語をこうやって使って、パン!分かりますかって言うんだけど、既に皆そう言う言語道断、言語を本当に離れ切って生活してるって事があるんじゃないかって言うのが道元禅師の所見です。心行処滅もそうです。オイって、ハア、心を巡らしたいと思ってるんだけど、その時に既に、自分の心で何か追求する様な、探る様な気配が皆止んでる、もう。

こっちに来る時に軸を持ってきた、お茶の先生、自分の所に軸物が有って、何点かお持ちに成ったんだけど、読めないからって。読めないからって言われても、持って来られても読めないかも知れないなと思った。何とか想像して読んだんですけど。

「白雲堆裏、白雲を見ず。流水静中 流水を聞かず」臨済の立派な方の書でしたけど。そんなのがあって、そう言うのを見ていると、読んで見ると、雲がこうモクモクモクモク沸いている所ですね。その中に白雲を見ず、何でもそうでしょう。物と一緒になるとですね、その中にどっぷり居たらですね、見るって言う事はない。音もそうでしょう。ザーっと水が流れている。その清流の勢い、音のしている中にこうやって身を置くとですね、流水の響きが有るだけであって、聞く人なんて言うものは無くなるものじゃないですか、ね。まあそう言う様な句だと思いますが、良い句ですねぇって言ってお帰り頂いた。

後はね、分からない物が幾つかありました。分からない物持って来るから、こっちも分からない。でも不思議なもんだね。同じ物を見てるんだけど、他の人が見ると、何となく分かる時があるんだね。私も何とか分からないなりに、何となくやって大体全部当たりました。

不思議だなあと思って宣宗皇帝の道光って、道の光、道光の年に製作した道光年製て、何か花瓶の入ってる箱書きにそう言う箱書きが有って、それがまあ読めて、これ道光って何だろう、まあ日本じゃないなぁと思って、中国の一応年号をずっと見てたら、宣宗皇帝の代が道光と言う年号が使われているので、宣宗は道光帝と言う風に呼ばれるって言う様な事がこう書いてあった。1212年かな何年だろう。年数もでてたかな。1200じゃないな。そう言う風なかなり古い時代の花瓶だなぁと思って、良い物を持ってるんだなぁと思いました。

もう一つは、こんな香合ですね、お香入れの銅製の物で、自分の母が満州から引き上げる時に、沢山の物を持って帰れないから、是だけはって言って持ち帰った物だって言っておられたから、価値のあるもんだろうなぁって、私も思いました。で、蓋の方にですね、東木山って言う、東木山て三字が彫ってあって、調べたら、これは台湾の山の名前でした。

下の方に四字縦にこう彫って有る物があって、それが読めなくて、何でか知らないけど、何かやってた時に、中国の文献をこうやって見てたらですね、自ら、自作、作の字は非常に読めない。何だろう、篆書って言うんですかね。篆書の中でもちょっと読めない字だった。

だけどもまあ左側は人偏に違いないなあと思って、で、引いたらそう言う自作寶用、宝を用いると言う、そう言う熟語がですね、中国の銅製器とか、銅で作った器ですね。そう言う国宝を扱う物の中に、そう言う文献がたまたま私が引いた時に同じ文字が使われている。それでああ、こう言う事なのかなと思って、価値が矢張りあるものだと思いました、かなり。読めなくて困ってるんですよって、持ってるんですけど、って言ってましたけど。

言語道断、心行処滅、道元禅師がおっしゃる様に、本当にこうやって触れてる様子の中に、私達が理解してるのと、ちょっと桁外れですよね。何かしないと其処まで届かないって、人間思いがちでしょう。こうやって生活してる時に、一切の分別を離れてるからねぇ。ただ、今やってる事だけが其処で行われてる位余分なものは何も無し。

色々な事が思える時でもそうでしょう。心の様子で色んな事が浮かんで来るんだって、その時にその事がただその通りポカンと浮かぶだけであって、それが何にも人にですね、苦しみや束縛を与えた事は一度も無い。だけどその出て来たものを自分の考え方で取り扱うとやられますよね。苦しいなぁって思う思いがふっと出ただけで、何処を見ても何処も苦しいもの何も無い。思えただけ、そう言う事が身体の上にふっと。ああ嫌になっちゃうなあって思いがふっと浮かんだだけで、何処にも嫌になってる様子なんか何も無い。思いってそう言うものですよね。心行処滅。

ものを知らないと、そう言う思いが自分の中でふっと浮かぶとですね、何かそう言うものが自分の中にくっついてたり、有る様に勘違いをする。勘違いをすると、それを相手にして、どうしたら楽になるだろうって言って、手を付け始める。そうすると、修行には全くならない。ひっちゃかめっちゃかと言うでしょう。滅茶苦茶って言うのでしょう。そういう事の無い様子がここらに有るでしょう。ね。

「もとより無言をとうとびんためにはあらず、」と有ります様に、喋らないのが大事な事だって、修行する時、喋らないのが大事だって言う様な意味ではない。ただし余分な事はやっぱり喋る必要はないから、注意して下さい。どうでも良い様な事をべちゃべちゃ、べちゃべちゃ喋って一緒に修行する時に、無駄な時間を過ごしてはならない、って言うのは、もう当然です。だけど大事な事は、聞かずに喋らないで居さえすりゃ良いって、そう言う風に捉えてはいけないと言う事ですよね。

「通身ひとへに泥水し入草して」泥の中に入ったり、草の中に一緒に撥草参玄と有りますが、草を払ってとかって言う様な事ですかね。兎に角法を説いて人を渡す、あるいは救う。困ってる時に、色々な意味で困ってる、問題になってる、引っかかってるものがあったら、それを一緒に相手になって、どうしたら良いかって事を、指導しながら行くって言う事です。法を転ずる時ですね、ものを救う、救うのも、度と言う字とおなじですね。度すという字と同じです。

「いまだのがれざるのみなり。」人の事だからどうでも良いって言う様な過ごし方はしないという事でしょう。周りで行われてる事に触れている自分が居る時に、その周りにふれてる事が、自分の今の全容ですからね。そしてその物に触れた時、自分の中に慈悲心が起こったりねぇ、する訳でしょう。他人事じゃないよ、本当に。

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