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安居 Ⅴ 

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2019.4.20 安居

424頁ですか、中程。

「しかあれば参学すべし。『九十日為一夏』は眼睛量なるのみなり。身心安居者それまたかくのごとし。夏安居の活鱍々地を使得し、夏安居の活鱍々地を跳脱せる、来所あり、職由ありといへども、他方他時よりきたりうつれるにあらず、当処当時より起興するにあらず。来所を把定すれば九十日たちまちにきたる、識由を摸索すれば九十日たちまちにきたる。凡聖これを窟宅とせり、命根とせりといへども、はるかに凡聖の境涯を超越せり。思量分別のおよぶところにあらず、不思量分別のおよぶところにあらず、思量不思量の不及のみにあらず。

世尊在摩竭陀国、為衆説法。是時将欲白夏、乃謂阿難曰、「諸大弟子、人天四衆、我常説法、不生敬仰。我今入因沙白室中、坐夏九旬。忽有人、来問法之時、汝代為我説、一切法不生、一切法不滅」。(世尊、摩竭陀国に在して衆の為に説法したまふ。是の時まさに白夏せんとしたまひて、乃ち阿難に謂って曰く、諸大弟子、人天四衆、我れ常に説法すれども、敬仰を生ぜす。我れ今因沙白室中に入って、坐夏九旬すべし。忽ちに人有り、来って法を問わん時、汝代って我がために説くべし、一切法不生、一切法不滅」と。)言訖掩室而坐(言ひ訖って掩室して坐したまふ)。

しかありしよりこのかた、すでに二千一百九十四年(当日本寛元三年乙巳歳)なり。堂奥にいらざる児孫、おほく摩竭掩室を無言説の証拠とせり。いま邪党おもはくは、掩室坐夏の仏意は、それ言説をもちゐるはことごとく実にあらず、善巧方便なり。至理は言語道断し、心行処滅なり。このゆゑに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆゑに、掩室坐夏に九旬にあひだ、人跡を断絶せるなりとのみいひいふなる。これらのともがらのいふところ、おほきに世尊の仏意を孤負せり。

いはゆる、もし言語道断、心行処滅を論ぜば、一切の治生産業みな言語道断し、心行処滅なり。言語道断とは、一切の言語をいふ。心行処滅とは、一切の心行をいふ。いはんやこの因縁、もとより無言をたうとびんためにはあらず。通身ひとへに泥水し入草して、説法度人いまだのがれず、転法拯物いまだのがれざるのみなり。もし児孫と称ずるともがら、坐夏九旬を無言説なりといはば、還吾九旬坐夏来(吾れに九旬坐夏を還し来るべし)をいふべし。」


その辺まで。安居の日数は一夏(ゲ)、一夏90日、三か月、九旬と言いますが、旬の字は十と言う意味があるので、一応九旬とも言います。

で、その内容は「眼睛量なるのみなり。」って言う風に一応そこに出ております。眼睛は皆さんの眼の様子を眼睛と言います。眼の、生きた眼の働きって言った方が正確かも知れませんね。あの、死んだ眼の働きって、本当は無いんですけれども。どうして眼の働きがつまらなくなるかって言うとですね、そこに考え方を付けるからですね。眼その物の働きを学ぶと、眼睛の様子がよくわかるんですけど。眼の働きを考え方でどうこうし始めるもんだから、眼の本当の働きは、段々分からなくなる。

所謂、理解すると言う事は、真理から段々遠のくと言う事ですね。届かなくなる。理解って言うのは、真理から。上辺だけに成るんですね、理解って言うのは。皆さんそう思いませんか。中には真理を理解する方が深くものが良く分かってるって思ってる人が居るかも知れない。それ逆ですよ。絶対に逆ですよ。

今、まあ海外の人達も非常に仏教や禅に興味を持っている人達が多くて、色んな分野で研究しておられる。それがもう百年近く続いてるって言うんだけども、仏教は振り返ると三千年近く昔からやってる。今更、何だ、と思う位不思議な事を、今やってます。

要するにそれだけ、仏教の真相、真実がですね、世界中に、釈迦が亡くなられて後ですね、正確に広まってないと言う事じゃないですかね。広まって来なかったと言う事じゃないですかね。で、やっとこの頃色んな文献が世界中に広まって、そう言う事だ、昔行われてたものが、仏教とか禅とかって言うものの中に、伝わってるって言う事が、識者の中で、少し理解が出来る様になって、その内容を改めて追及するようになって、エー、今一般企業でも盛んにそれを使ってるでしょう。

要するに余分な考え事をしないとか、過去を追わないとか、未来をあまり追及しないとか、と言う様な、マインドフルネスと言うのかね、そう言う風な言葉で使われています。それは禅の教えに非常に近いと言う事になるでしょうね。まあそんなものが一般的に扱われる眼睛量と言う時に考えられる事ですね。だから皆さん方も、こうやって眼は働きそのものに、こうやって学んでみると良い。

西洋では、大体考え方を中心にずーっと生きて来た。で行き詰ったんですね。今、近年になって。その時に身体の働きってどう言う事かって言う事に、着目する様になった。その時に初めて、仏教が日の目を見る様になってきた。仏教は五官或いは六官と言われる様に、この身体の働きを説いてる訳です。相手にしてる訳です。考え方じゃないんですね。

身体の方は悩んだ事が無い。どの分野も、六官の全ての分野、見てごらん。身体の方は一つも悩んだ事はない。悩むのは考え方で取り扱いはじめた時に、行き詰まったんです。で、こう言う風な事が行われてますので、まあ九十日と言おうがですね、一生と言おうがですね、一つ挙げてみれば、正法眼蔵と言われる様な眼の働きがあるでしょう。

「吾にある正法眼蔵」他の人の眼で物は見ない。「吾にある正法眼蔵」それで一生終わって行く。で、自分の眼の様子にこうやって参じてみると、非常に仏様の悟られた境涯って言うものが、如実に理解が出来る。だから皆さん方も実践しないと駄目ですね。それを考え方で理解して行くと、矢っ張り遠のいて行ってしまいます。

自分の今活動して居る様子。それ一番身近なのはですね、眼はどう言う風にしているかって言うと、他所の物を一切見ないですね。他所の物を一切見ないって言う事は、今見えてる様子だけで生きてるんです。これでもう殆ど解決でしょう、皆さんの問題は。そう思いませんか。今見えてる様子だけで生きてるんですよ、眼って。嘘だと思うなら、此処でやってご覧なさい。こうやって、眼って言うのは、今見えてる様子だけですよ。何にも問題起きてこない。何処にこうやって行ったって、ずーっと。人間が悩んだり、苦しんだりするのは、対象物が必ず有るからでしょう。比較対照する物が。

眼の働きは比較対照するものは無いですよ。必ず、こうやって居たら、今見えてる様子だけですからね。古いものが邪魔になるって事、一切無い。出て来ないんだもん、こうやって見てて古い物は。眼ですよ。考え方は出て来ますよ、こうやって見てると。考え方が出て来た時、こう言う所に浮かぶかって、浮かばないんだね。エー。この自分の身体の中だけですよ。だから隣に人の邪魔にはならないから良いですけどもね。まあそれは良いんだけども。

で、今の様子だけがこうやって有ると言う事は、すっきりしてるって言う事でしょう。道を歩いたり、車で走る時、今の目の前の様子がちゃんと見えさえすれば、恐らく事故は起きにくい。この頃ねぇ、止めた方が良いって本人も思ってる様な人が車の運転をして、事故を起こしたり、色々困ったみたいになって来ている。その人間の歩く速度と車の運転は違うもんだから、一秒位ずれただけで、とんでもない事が起きるんですね。眼はそこの目の前歩いてる人、その通り見えてるんだけども、運転してる方の操作が一秒遅れると、ぶつかっちゃうんだよね。間に合わない。時速60キロ位だったら、相当速いね。見えていることと、思い浮かんだことを相手にしている事では、注意力が違いますので要注意です。

まあ何を話そうとしてるかって、安居の中で何を本当にするか。で、表題に挙げて有ります、安居って言うのは、そんな風に安らかに生活が出来てるって言う事が安居でしょう。安心して底抜け。エー、もうちょっと大きく取り上げると、「身心安居者それまたかくのごとし。」今、眼の様子を挙げたけども、身も心も、要するに五官六官と言われる全てのものの様子を、「身心安居者」と言うんでしょう。「これまたかくのごとし。」って眼と同じ様に働いてる。

「夏安居の活鱍々地を使得し、」そう言う自分自身の本質そのもので、日々暮らしている。「夏安居の活鱍々地を跳脱せる、」だから、どんなに素晴らしい働きが有っても、それさえも掴まず、留めず、ね、その位でないと、ちょっと良い物があるとすぐ掴んで、そこに腰を据えたりする癖がある。

持ち物が一つでも増えたらですね、皆さん心配事が増えるんですよ。あれ何処へ行ったんだろうって、持って来たかしらとか、置き忘れたんじゃないかとか。持ち物が何も無いとですね、心配する用が無い。底抜けそうですよ、毎日。だってこの身体を忘れて来た事無いから。大丈夫。持って歩く訳じゃないもんね。この身体を、この身心て言うものを。

「来処あり。」それは来たる処も有るでしょう。それから職由って言うから、働きでいいのかねぇ。それから他方ですから、他所ですね。他時だから、その時間帯ですかね。そう言うものを人間は頭に浮かび易いけども、他所から来るとか、よその時間とかって言う様な処から移れるにあらず、とある。

「来たり移れるにあらず。」これは実際自分の今の様子を、こうやって触れてみれば良く分かるよ。ずーっとこうやって生きてるんだけど、今の在り様って言うものは、本当に何処からか来たって言う様な事は無い。今こうやって触れている様子は、何処から来るって、来る場所も無い。不思議な活動をするもんだねぇ。従って移れるって、向こうからこっちって言う様な事は無い、って言う様な事ですね。

それから今、当所当時って言うんだけど、何時も此処で今、って言う様な事を口にするもんだから、そう言う何かそこに基準になる様な物が有るかって言うと、そう言う処さえも見当たらない。それが活動をしてる内容でしょう。言葉の不思議な魅力があるもんだから、今ここに、って言うとですね、何処かにこうやって見るんですね。場所、時間を。

起は起きるですね、出て来る様子でしょう。興もおこるって、そこで出て来る様子でしょ。起興、どちらもそうでしょう。何処からも、その今此処に、って言うものは出て来る場所が無いですね。人間の考え方の上で、ちょっと立てるんですよ、そう言う表現する物を。それで又やられるんですね。こう言う処まで、些細に参禅をする必要があるんじゃない。自分自身の真相にこうやって触れて、それが本当にどうあるかって言う事を見届ける必要があるでしょう。

「来所を」つかむんですね、「把定すれば九十日たちまちにきたる、」もう九十日と言えども、こう言う在り様しかないじゃないですか、ずーっと。来たるって言うんだけども、行ったり来たりする様な状況でないって言う事を言いたいのでしょう。「たちまちにきたる、」って言う事は。「たちまちにきたる、」って言うのは、場所も時間も無い事を「たちまちにきたる、」って言うんだよ。パン!こう言う風になる。音がたちまちに聞こえる。その間にですね、間髪を入れずって言って、時間的なズレが有ったり、距離的な物が一切差し挟まれないって言う様な事が、「たちまちにきたる、」って言う表現でしょう。日本語の。良い表現だねえ。

「識由」働きで良いですかね。職業とかって言う風に使う訳でしょう、の由ですね、由縁。そう言うものを探ればですね、「九十日たちまちにきたる。」一生涯今やってる事だけですよ。今やってる事だけですよって言うと、何かずーっと同じ事やってる様に聞こえるかも知れませんが、そう言う意味じゃないですよ、今やってる事だって言う事は。他の事が無いって言う事でしょう。

歩いてる時に歩いてる、ね。坐ってる時に坐ってる。何時でもその時、その時の身体の様子以外に無い。身心の様子以外に。これはもう絶対そうなんだね。この一人一人の身心でやる時の生活の様子を見ると、ダブってるって言う事はない、自分の中で。身心の様子が。そう言う処は見ておきたいですね。

如何したらそうなれるって言う様な事じゃないですよ。如何したらそうなれるなんて言う追求をする必要はない。自分自身の今の生活してるそのものに、こうやって親しく自分に目を向ければ、この事が皆判明する様になってる。だから禅を組むのでしょう。禅を修行するのでしょう。禅を修行するって言う事は、考え事じゃなくて、自分の生き様、本物の生き様そのものに親しく居るって言う事でしょう。それは作り変える様な事は一切しません。そう言う修行です。

一般の修行は自分の今の状況を見て、どうかしないと、もう少し何かしないとすっきりしないと、気分が良くないとか、色々思ってるから、何かそう言うものを取り除くとか、それを修正する様な事が、一般のやってる修行じゃないですか。こっちは修行の仕方も内容も皆違う。ねぇ。最初から、自分の本質って言うもの、そう言う風に欠けてる人が無いんです。その自分の本質に、自分の考え方をちょっと止めて、真実そのものにこうやって居てみるって言う事が、禅を修すと言う事でしょう。

道元様は色々な表現をしてます。例えば「習禅にはあらず」って言う様な事を言っておられる。何で習禅で無いのか。年月を積み重ねる事によって立派な内容になって行くって言う様な教えでないって言う事ですよね。やってみると良く分かるけども、何時でも何時やったって、今やってる坐禅の様子しかない。何十年やってきた人でも、今初めて来て坐る人も、どちらも今坐ってる様子しかない。それにしか触れられないですよ。

頭の中で、俺は何十年も坐って来たって言うかもしれないけど、そんなもの今坐ってる処へ一つも出て来ない。出て来るのは、今坐ってる様子だけです、どちらも。そしてそのものに触れて初めて、坐ってる内容がはっきりする。そう言う事見ても、習禅て、習い覚えて積み重ねて何か立派なものに成る様な事は何処にもありません。

「菩提を究尽するの修証」自分の真相そのものが、坐ってる内容の中に全部あるから、それに親しく居ると、全部究め尽くす事が出来る教だと言っておられる。他所から来るものは無いんですね。他所から貰うものはない。他の人から何か貰うって事は無い。要らない事でしょう。

「凡聖これを窟宅とせり、」どちらもですね、物わかりのいい人も、物が良く分からないで生活してる人でも、どちらもこう言う内容を住処としている。又それを命としている。「命根とせりといへども、はるかに凡聖の境涯を超越せり。」これが道元禅師は言いたいでしょう。悟ったら、迷っていたらつまらない、悟ったら立派に成るって言う様に思ってるかも知れないけども、そう言う人間の迷ってるとか、悟ってるとか言う様な事から、最初から遙かに飛び越えた生活をしてるって言う素晴らしさを道元禅師は説いておられるじゃん。これは仏教の素晴らしい処でしょう。仏様のおしえの素晴らしい処でしょう。

皆さん、さっきも眼睛量って言いましたが、見てごらんなさい。悟ってる人も迷ってる人もそう思ってる人もって、そう思ってる人がいてもですね、こうやって床の間に掛けてある軸をこうやって触れると、読めても読めなくても、この通りなんだもんね。読めなかったらいい加減にしか見えない、そんな事はない。エー、読めたらこれよりもっと凄い事が出て来るって、そんな事はない。それ位凡聖を超越してる、良いでしょう。

「思量分別のおよぶところにあらず、」どうしてそうなるんだろうって、そんな、考える余地がないじゃないですか。要らんことじゃないですか。「不思量分別のおよぶところにあらず、」考えない、考え方を止めた時の在り様は、それは要らん事でしょう。「思量不思量の不及のみにあらず。」もっと広い世界がある、と言いたいんでしょう。不及って言う事は。及ばざるって言う事ですよ。

不及って言うのは、及ばない、及ばずとあるけれども、手の届かない世界なのかと言ったら、皆その様子の中に今居るって言う位、面白いでしょう、思量不思量の不及のみにあらずって言う事は。そう言う風に説かれてる内容が、今現実、実際に皆さん方の生活そのものとして行われてるって言う位、面白いでしょう。届かないかなあって思ってる人が居るかもしらんけど、そう言う事を遙かに超えてる。でも未だその先に何かあるんじゃないかって、人間は本当にこせこせしてるねぇ。今だけじゃ納得しないのかねぇ。

眼を見てご覧なさい。まだほしがってる物がありますか。こうやってる時、こうやって見てて。それだけ、その通り見えてるだけじゃつまらない、そんな事はないでしょう。その通り、それだけで、それ以上一つも欲しがらない、ねぇ。皆さんもそう言う生活を朝から晩まで、晩から朝までずーっとしてるのでしょう。仏教って不思議でしょう。もう皆さんが今まで学んで来た事と全然違うでしょう、内容が。これ誰しもの今の自分達の様子ですからね。

これからそうなるんじゃないですよ。今、必ず一人一人の様子がそうなってるんですよ。嘘だと思うんなら、眼睛量と言う言葉があるけども、眼に学んだら良い、身心に学んだら良いじゃないですか。それが修行している人達の九十日の在り様。何を九十日其処で生活をしてるかったら、それをやらなかったら、安居って言われる様な形式を取って、一緒に生活を、起居を共にしてもですね、ほど遠いじゃんね。修行道場って言うのは、そう言う事を一緒に勉強する場所なの。

で、幸いに皆さん方は四月に入って、四月の一日から修行が始まるんだけども、その中の一日を一緒にするって言う事になるのでしょう。七月の十五日まで。まあ一段其処で終わりますが。

次はお釈迦様が摩竭陀国におられた時にこの様な事を説かれた。白夏せんて言うのは、夏を告げると言う事ですね。これから夏安居を致しますよって言って、表白と言いますが、申すと言う字ですから、白(しろ)と読むとあれだけど、白いと言う字だけど表白とかって言う時に、この白いと言う字を使うでしょう。

おそば付きの阿難尊者にこんな事を言っておられる。「諸大弟子、」諸々の大弟子、立派な弟子って言って良いのか、あるいは大勢の弟子と言って良いのか、大の字は。「人天四衆、」四衆は出家したお坊さんと、出家をした女性の方、比丘比丘尼ですね、それから優婆塞優婆夷、在家の男性の信者、女性の信者、それを四衆と言いますね。人天は良いでしょう。人間界の世界、それから天界と言われてる、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、て言う風になって色々ある。文言が観音経なんかにも出て来ると思いますが。あまり難しくしなくても良いでしょう。在りとあらゆるものと言った位で良いかしら。

「我常説法、不生敬仰(我れ常に説法すれども、敬仰を生ぜす)。」こんな事を言うのかね。一生懸命、常に法を説いてるんだけども、本当に敬う心、尊ぶ心、仰ぎ見る気持ちって言うものは生まれない。一つはですよ。この特別な気持ちが起きないって言う事の大事な事もある。皆さんの眼だって素晴らしいっておもわなくても、本当平凡で何とも思わない位にいるって事が、一方では尊いのでしょう。ね。尊ぶ様な気配が自分の中で起こるとつまらないものを自分の中で呼び起こすじゃない。その尊いものとつまらないものを自分の中で感じる様になると、このままでは居られなくなる。

本当にこう言う所でも、二通りのものの在り様として説かれてるでしょう、ね。「敬仰を生ぜす」悟ったって言って、特別に何もそこに特殊なものは無いのですよ。一方では幾ら説いてもですね、他人事の様に聞いてるって言う意味もあるでしょう。それはちょっと寂しいでしょう。ものの真意が分からないと、一方ではそう言う意味も説ける。



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