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三十七品菩提分法 七等覚支 Ⅱ

2016.6.26

音声はこちら ↓

修行第一歩のずれ①
修行の第一歩のずれ②
修行第一歩のずれ③


除覚支1
除覚支2
除覚支3
除覚支4


p491 持っている人は見てください。(法界次第初門中の下)

1 択法覚分 智慧をもて諸法を観ずる時 善能く真偽を簡別して、謬りて諸の虚偽の法を取せず、故に択覚分と名づく。ものを学ぶ時に、その内容等が正しいか偽りであるかっていうことをよく知って、正しい方を選んで信行するということですね。

2精進覚分 精進して諸の法を修する時、善能く覚了して、謬りて無益の苦行を行ぜず、常に勤心を持て真法の中にあり
て行ず、故に精進覚分と名づく。
「謬りて無益の苦行を行ぜず」とそういうことが記されています。間違ってやってはならないことをやって、効果があるように思っている。そういうことをしたのでは精進にならないということですね。

3 喜覚分 若し心に法喜を得ば、善能くこの喜は、顛倒の法によりて生ずるにあらざることを覚了して、歓喜して真の法喜に住す。故に喜覚分と名づく。真実のありように触れて、本当にこうなっている、っていうそういう喜び。そういうものを大事にして生きていく。間違えると、所謂自分の感情、そういうもので、気に入ったものがあると喜ぶ、そういうこともありますが、そういうことはないということですね。

今日のところ行きますよ。p491 法界次第初門中之下

4 除覚分 若し、諸見と煩悩とを除く時、善能く覚了して諸の虚偽を除き、真正の善根を損なわず、故に除覚分と名づく。煩悩、いわゆる自分の頭の中で、ありもしないことを色々に想像して思い起こす。そういうことと、真実のありようというのは違いますから、どちらを除くかと言えば、真実でない、自分勝手に作り出した、自分の中で想像したようなものを、そういうものを本当に相手にしないで行くということですね。

以下のお話しの音声は途中まで 修行の第一歩のずれ①②③です。 除覚支の①は上の文↑が含まれています。

これ(除覚支)を読んでいく前にね、一言二言話してみたい。それはですね、修行をお互いする訳ですが、ものを聞いたりして学んで修行するんだけど、一番最初の立脚地が、どうなっているかって言うことを、お互いにきちっと見届けるということがひょっとすると欠けている場合が多い。そのためですね、幾らお話をしてもですね、自分の今立っている場所がですね、基本的にズレた処にいて話を聞くもんですからね、同じ話を実践してもですね、言った通りに絶対にならないんですね。そういうことが、日常生活全般いろんな所で、皆さんも十分、触れて知っていることだと思うんですね。仏道の中、それ特に大事だと思うんです。

人の最初ってどういう風になっているか、その立脚地に皆さんがどうあるのかってことが、一番最初に問われる。「こっち来てごらん」て、自分の見ている所と同じ場所に立たせてみて、こうやって見せると、「ああほんとに」って言って良くわかるんですね。それは目線を同じくすると言っているようなことで、皆さん方使っているでしょう。大人と子供が会話をするとしても、大人がこうやって、上からものを言うとか、同じ目線で話をするっていうように、一般社会でもそういうな言葉を使いますね。

正法眼蔵が今までずーっと難しいと言われているんだけども、それはつくづく思うんだけど、自分のたっている立場がですね、この辺の処に(手で机の高さを示される)居て、正法眼蔵をみてるんですね。道元禅師はこの辺で(手で目の高さを示される)生活している人なんですね。この辺で生活するとですね、喋っているとおりなんです。本当に書いてあるとおりよくわかるんですよね。それだけのことなんです。

じゃ、この道元禅師の、この辺の位置って言うのは何を意味するのと言ったら、人の一番最初の様子を言うんです。高いんじゃないんですよ。自分達の境涯より高い処にあるんじゃないですよ。人の一番最初のこうやって、パン(扇で机を打つ)、音でも聞いて御覧なさい。誰もこのように聞こえるんでしょう。パン!(机を打つ)やさしいとか難しいとか一切なしに、パン!(机を打つ)音がするでしょう。そのとおり聞こえる。こういう処に道元禅師という人は居るんです。この辺から、勉強をしてんですよ。ところが多くの人は、パン!(机を打つ)あっ、音がした、音が聞こえた、そういう処からこうやって勉強しているから、もうその第一歩がずれているんです。わかりますか。自分の見解が入っているから。

分別という熟語がありますが、見るっていうことは分別ですよね。わかりますか。見るっていうことは分別ですよ。今見えているにもかかわらずですね、それを向こうにものを置いて、こちらからもう一回見直す。見えているって言う時には分別ないですよ。分け隔てなんかしてませんよ。もうこの通りの事がこうあるだけですから。だけども、それは何?って、それは?って指すってことはですよ、向こうにものを置いてこっちに人が立ったと言うことですよ。分けたんですよ、向こうとこっちを。見てる時はそういうこと無いですよ。

「それどういうこと?」パン!(机を打つ)それどういうことって、パン!もう済んだことに対して、それを置いといて、こちらから自分をそこから離して、パン!(机を打つ)今触れていること パン!から離して、それは?って言って、向こうとこっちを分けて、そしてこうやって尋ねる。だから最初の様子ではないです。一番最初の様子 パン!分かれてないですよ、向こうとこっちと。修行するときに、そういうことが本当に大事です。

くしくも、この前お話したかも知れませんが、道元禅師の残された普勧坐禅儀という坐禅の手引書に、最初にこういうことがキチンと書いてある。ものの道理として、一番最初が。誰のことか、どうなっているかということが最初に書いてあります。それから、坐禅するのにどうしたら良いかということがかいてある。

ある方が、自分のお父さんが病気をなさって、病院に入って手術をして、まあそれから退院をしてこられた間の話ですが、病院に行った時、お父さんの様子を見ると、痛々しい苦しんでいるような感じが見受けられたのでしょうね。だから家に帰って仏壇の前に行って手を合わせて、「私はお父さんに何もして上げられないけれど、せめて痛くないように、苦しまないように、何とかしてあげて」って、ずっと家でご本尊様の仏壇に手を合わせて、そうやって過ごしてたと言うんです。

やがて退院して帰って来たから、そういう話の中で、「お父さん病院にいる時に、痛そうだし苦しそうだったから、こんな風にしてたんだよ」って話をしたら、お父さん曰く、「痛くも苦しくも何ともなかった」って。「私はどこも痛くなくて何も苦しんでなんかなかったよ」って言う話。これだけなんですよ。これ、凄く面白い話ですよ。考えさせられるっていうか。何を私達はしてるんだろう。人の動きを見てですよ、人の様子を見てですよ、ありもしないことを自分の中で想像してですよ、苦しんでいる。本人のほうはケロッとしている。それは一番最初がズレてたからじゃないですか。

ご本人が病院行って、お父さんに触れた時に、ふっと、苦しんでる、痛がっているって、そういう風に思って見たんでしょう。思いを入れて。そこから自分の行動が著しく変わった行動になってますよ。それを一生懸命やっていることが、お父さんに対する何か親孝行の一端のように思って、ひたすらそういうことをやったんでしょう。同じ手を合わすんでも、そういうつまらない見方をせずに手を合わしてたら、自分も楽なのにね。不思議でしょ。

こうやってお互いに向き合ってて、あなたが私にね、「右へ行って下さい」て話しかけて、私はこっからこっちへこう歩いて行く。「右へいくとね柱があるから、そこを曲がって下さい」って。私はこう右へ行って柱もない、曲がる場所もない。どうしてだろう。「いや幾ら行っても、右へ行って柱もないし、曲がる場所もないんですよね」「じゃ反対行ってみてください」って、反対へ行ったら、言われている通り柱が在って曲がる場所があった。というようなことがですね、日常行われているんです。

わかりますか。一番最初のを抜きで話してるからね。こうやって目の前で見えてればいいですよ、お互いに。これを電話なんかでやってる場合、どっち向いているかわからないですよね。自分がこっち向いてる、私(老師)もこっち向いてると思って話しするわけですね。同じ方向向いて電話聞いてると思うから、「右行って下さい」って言うのでしょう。そうすると、そういうことがあるよ、というんだけど、こうやって聞いてると、右左が逆なんですよね。不思議でしょ。

これ、修行の基本の処で人はそういうような一番大事なことを忘れていないかということ。どんな正しいこと伝えても無理です。真逆の方向にいるわけだから、それを実践しても絶対に言われた様にはならない。

だから、今話した道元禅師の在り様とか私達の在り様とか、幾つもあるんじゃないんですよ。お釈迦さまの在り様とか幾つもある訳じゃない。基本的に、一番最初はみんな同じなの。パン!(机を打つ)パン!これ以外の聞こえ方する人、一人もいないね。パン!こういうところから勉強して行くんですよね。


と、言う事を、最近つくづくいろんな人と話していて、何でこうなっちゃうんだろうって、考えてるんですよ。有る所へ行って話をして、アンケートに、井上さんはいつも、パン!こうやってやると、パン!聞こえるでしょって、説明してくれる、と書いてある。私、説明なんかした覚え一回もない。

事実をこうやって、パン!見せているんだけど、聞いている人は説明をしてると思っているんだね。説明をされてると思っている。パン!叩くと音がして、音が出ると、そのように聞こえるって、それ説明だと思ってるね。びっくりしますね、書いてあるの読んで。こんな勉強しかしてないんだって。これじゃ、何遍話ても無理だなって思って。

ある参加者「説明というのは成り立たないんですか」

老師 「これ説明ですか。パン!実際に、今こうやって、パン!あなたがこの通り聞こえている。説明なんかじゃないじゃん。」

参加者「世の中に説明というのは成り立たないんですか」

老師「 いや、これを説明だと思ったら、大間違いだってこと。パン!

参加者「もっと複雑なこと説明、」

老師 「複雑なことなんかありません!」

参加者「世の中に、出だしが躓いたから、もうわけがわからなくなってるって、 和尚さんが言ったから、音だと説明でないとわかる
んです。世の中複雑なことを説明するのかどうか、そこらわからない」

老師 「あなたが初めて出会う人だって、誰かわからないということないでしょ」

参加者 「わからないことない?」

老師 「初めて出会った人だって、今出会っているこの人がですね、誰だかわからないってことないでしょう。この人に間違いないって言うこと知ってるでしょう。実物だから。所謂人間がわからないって言うのは、名前がわからないとか、どこの生まれだとか、そういう後でつけたいろんなこと知らないとわからないと思ってるんですね。そうじゃない。実物です。実物の中に全部あります。」

参加者「でも実物たって、何もわからない」

老師 「そんなことはないですよ。全てわかりますよ。喋れば音声もわかるし、顔がほころびれば、ほころんだ様子もわかるし、辛そうな顔すれば、そのようなこともすぐわかる。その通りになってますよ。全部実物って。あなたが思ってるのと違って、むつかしいからわからないとかってそういうことじゃなくて、その通りの様子がそこにあるだけです。人はそれに対してむつかしいとか、ややこしいとか、複雑だとかって、そう見方をするだけじゃない。小さな子はですね、30画位の漢字を見せたって、それがむつかしい漢字だなんて思いませんよ。」

参加者「わからんでしょうね」

老師 「そのとおり見える。大人は子供にはこんな画数の多い字はむつかしいって思って教えない。だけど、『一』って書いてある字とですね、画数がいっぱいある字を子供は見てですね、どっちがやさしくて、どっちがむつかしいなんてことはない。どちらもその通りいきなり見るんです。それ位皆さんが考えているのと違うんですよ。若し子供がですね、むつかしいことは、大人が思うように見えないんだったら、生活成り立たないですよ。日常生活が。子供でもそこにある現実のところに行ったら、その通りのことその通りみな見えるんだ。むつかしいといって、よくわからないって、そんな風には見えないです。必ずその通り見える」

参加者「政治のこと、政治の動きわからない」

老師 「わからないんじゃなくて、言ってる通りのことがあるだけであって、それ以上は人の推測でしょう。これから先のことがわかる人なんか誰もいませんよ。政治家だって、想像してるだけじゃないですか、皆。たぶんこうなるんじゃないか、ああなるんじゃないか。で、時間が経ってみると、言ってた通りになると、ほら、私が言ってた通りじゃないかって言うだけの話じゃないですか。ね。そうなってるんですよ。むつかしいって言うのは、皆さん、そうやってありもしないことを知ろうとする。それは難しいに決まってるじゃん。ありもしないことを知ろうと、聞こえない音がどんな音がするだろうって、難しいに決まってるじゃん。

参加者「計画を第3者が練ることがあるでしょう。第3者がどんどん政策を作って、もうわからないですよ」

老師 「その通りじゃないですか。作った通りじゃないですか。作ったとおり、どこがわからないですか。」

参加者「難しい」

老師 「その先はこうやったらどうなるかってことで、推測するとわからないだけでしょう。計画したの発表したら、その通りのこと、 それみんなわかるじゃない。」

参加者「わからんですよ」

老師 「そんなことはない。後でゆっくり、その先話しましょうね。皆さん方も、こういうご意見あるから、後でお茶飲む時間あるから、 そういう時にこの話もうちょっと皆で聞いて煮詰めてみますか。今はちょっと置きましょう。」

ざっと申し上げてきたことは、一番最初がどうなっているかが狂っているとですね。どんなにその上に教えても、正しくものが伝わらないということを言いたいんですね。

だからもうちょっと違ったものを上げとけば、色眼鏡って言う話がよくある。最初に色眼鏡を掛けていることを自分が知らないでものを見てる時は、その通りの色でしか見えないから、色眼鏡をかけてることなんか知らないですよね。だけど、色眼鏡かけてない人と出会ってみると、同じものを見てて、色の話が違う。どうしてだろう、同じもの見て。どうして貴方そういう風に、私はそういうに絶対見えない。眼鏡をかけていること自分で知っていれば、取りますよね。

この眼鏡かけてるからこういう風に見えるんだとわかるからいいんだけど、こういう眼鏡のような色眼鏡でない場合、いわゆる勝手な思いと言うようなメガネはですね、勝手な自分の思いって言うような色眼鏡はですね、こういう形のあるもの掛けてるより、ついてないからわかんないんですよね。何時それをかけたか、何時自分勝手なものの見方をしたか、知らないんですよ。それでなかなか話をしても、わからない。だけどちゃんとした人がそこに来て、お前、色メガネかけてるからそうなってる。はずしてみろって、はずしてくれると、あ、本当だ、あなたの言ってる通りだって、こうなる。それ修行する第一歩です。
何で師について学ぶか、
何故、指導者が必要なのか。
何故、達磨が中国に来る必要があったか、

ということです。こんなことが日常の中にいっぱい形を変えていますね。問題が起こる時は必ず第一歩がズレてる。そこからものが勉強されるために、難しいなあ、わからないなあってきっと言うんですね。それだけの話です。


ここから P291 道元禅師の本文

「除覚支」は、もしみづからがなかにありてはみづからと、群せず、他のなかにありては他と群せず。我得你不得なり。灼燃道著、異類中行なり。「もし自らが中にありてはみづからと群せず」難しいこと書いてないでしょ。

「もし自らが中にありてはみづからと群せず」そのものと一緒になった時には、一緒になってるって言うようなことは出てこないのでしょう。どうですか。そうなってませんか。いろんなものと一緒になった時に、私は今一緒になってます、という様なものが中に介在するっていうことはないでしょう。無くなるのでしょう、一緒になると。「他のなかにありては他と群せず」他のものもないですね。どんなものでも、今その中に一緒になって、こうやっている時には、自分というものは絶対立たないですよ。それほど仲良しです。仲がいい時は自分というものが立たない時です。お互いどちらも。

そこに故事が引いてある。「我得你不得」私はいただいたけど、あなたはいただいてないって言ってます。後の方に、面白い事書いてある。(P491 291の10行目の補)「玄沙志備一日鼓山の来るを見て乃ち一円相をなして之を示す」玄沙の志備が向こうから鼓山と言う方が来た時に、こうやって見せた。(扇で円を描く)こうやって。そしたら向こうから来た鼓山がですね、「人々這箇を出づる事こと不得」どういうことかと言ったら、こうやったら必ずそういう風になるよって、言ったでしょうね。

師曰く、玄沙が「情(まこと)に知んぬ、汝、驢胎馬腹裏に向かって活計を作すことを」つまらんこと言ってると言っております。で、じゃあって、鼓山が玄沙に、つまらんことと言うんだったら、あなたはどうなんですかって、逆に質問して来た。そしたら玄沙がですね、同じように、「人々這箇を出づる事こと不得なり」。そうやって同じ言葉を返した。

それに対して、鼓山「和尚与麼に道ふも、却って得たり。某甚と為してか道不得なる」あなたと同じように私も言ってるのに、どうして
私の言い分は受け入れられないのですか。その時玄沙が言うのに、「我得你不得」っていう風に答えたんです。

そりゃそうでしょ。皆、一人ひとり自分の有り様であって、人の有り様に一切用が無いように出来ているでしょう。一日中生活見て御覧なさい。たびたび取り上げてますけど、これだけお寺の中の、今の様子をこうやって見るのにですね、それぞれ眼を持ってるんですよ。眼を持ってるんだけど、人の目で物を見るのに、一切用が無いんだよね。わかるでしょう。一切人の眼で見てるものなんか無いでしょ。こうやって全部、各自自分の目で見てるだけであって。さっきもあったように、「如ぜず」人の様子とごちゃごちゃに交わるなんてことは絶対ないんですね。生活してて。あの人の見方が、この人の見方がっていうようなことは出てこないです。

こうやって見てて。本当に自分の、今、目でみてる様子だけです。そういうのはどうですか。私の言ってること、おかしいかしら?どうですか。そんなことはないって言う人いますか。本当に自分の眼で見てる様子だけでしょ。想像はしますよ。他の人はどんな風に見てるんだろうかとか、どんな風に見えるんだろうって、想像は幾らでもします。だけど、実際に自分の目の様子でこうやって見てみると、生活してる様子を見てみると、こうやって必ず自分の様子だけで、他人に用ないじゃないですか。あなたがどう見ようが。で、困った事ないでしょ、それで、自分の今見えてる様子だけで。他人の見た様子はどうだって話をされて、確認するんだって、最終的には自分の目で確認するだけでしょ。他人の目で確認なんか絶対にないのでしょう。

参加者「最初のとき、後で他の人がどう思ったかって聞き合わせせにゃ、世の中が成りたたんような気がする」

老師  成り立ってる。自分の様子で。他人の様子なんか一切なくったって成り立ってるじゃん。成り立ってるでしょう。どうですか。成り立ってないかしら。何か他人の見た様子無いとなんだかわからなくなる、そんな事ない。全部自分の今の様子だけでちゃんと成り立ってるんじゃないですか。何かそれに対して、自分で自信が無いって言うのがあるんでしょう。つまらないこと考えるもんだから、こんなんでいいかしらって思うもんだから、自信がなくなるんでしょう。で、他の人の見え方を気にする。

同じように見えるというと、ああ自分のも間違い無いなあって、一応認識すると、そういうのが一般なんでしょう。今日まで全部自分の目で見たものだけですよ、認識が出きたものは。他の人の目でみたものは認識のうちに入らない。不思議ですね。それなのに、この頭は、今おっしゃるように、他の人はどう見えるんだろうってこと想像する能力があるんもだから、それがわからないと、これだけじゃ十分じゃないんじゃないかって、そうやって思うようになってきた。面白いなあ。

もうひとつ、灼燃道著、異類中行って言うようなこと道元禅師が言っておられ、その因縁話がある。493頁ですね。師(道吾宗知)、南泉に見ゆ。泉問ふ、「闍梨名は什麼ぞ。師曰く「宗知」。泉云く、「智不倒の処、作麼生か宗なる」。師曰く、「切に忌む、道著することを」。泉云く、「酌然道著すれば、即ち頭角生ず」。三日後、師と雲厳と、後架に在りて把針す。泉、見て乃ち問ふ、「前日道えり、智不倒の処、切に忌む、道著することを。道著すれば、即ち頭角生ずと。合に作麼生か行履せん」。師、便ち身を抽んでて、僧堂に入る。泉、便ち去りぬ。師却来して坐す。

巌問ふ、「師適来何ぞ和尚に祇対せざりし」。師曰く、「汝、得恁麼霊利なり」。巌、措くこと罔し。却て去って南泉に問うて云く、「適来の因縁、知頭陀何ぞ和尚に祇対せざりし」。泉云く、「他は却て是れ異類中の行なり」。巌云く、「如何ならんか是れ異類中行」。泉云く、「道ふことを見ずや、智不倒の処、切に忌む、道著することを。道著すれば、即ち頭角生ず。直に須らく異類中に向かって行いて始得なるべし」。


えー、南泉と道吾と雲巌3人が出てきますけど、南泉さんに相見した。南泉さんが、「名前はなんというんですか」言ったら、道吾が、「宗知」と言う。名前にあやかってですね、南泉が、「智不倒の処、作麼生か宗なる」。智不倒の処、知るとか知らないとか、認識できるとかわかったとかいうようなものが差し挟まれない処、そういうものがものの本質だろう、と言うんでしょ。その南泉の言い分に対して、「切に忌む、道著することを」言い分は良いけれども、そういうようなものに引っ掛かるような処が若しあれば、それは、智不倒の処って言いながら、智不倒の処じゃなくて、智に棹を指すような内容になってるんじゃないかって。そうやって指摘をしてます。「酌然道著すれば」それに対して南泉は、おおそうだよ、そうやってそういうところに引っ掛かるとな、すぐ問題が起きるんだよって「頭角生ず」って言ってる。

三日後、道吾と雲巌が後架にあって、縫い物をしていた。それを南泉がご覧になって問う、「前日言えり、切に忌む、智不倒の処、道著することを。道著すれば、頭角生ずと。まさに作麼生か行履せん」道吾は立ち上がって僧堂に入っていった。南泉はその場から立ち去った。

道吾は後架に戻ってきて坐った。雲巌が訪ねた「師適来何ぞ和尚に祇対せざりし」道吾に、どうして先ほど南泉禅師と話し合わなかったのか。道吾は雲巌に、「あなたは本当に頭が切れますね」雲巌は其の言い分に取り合わず、その場を去って南泉禅師に問うた。「適来の因縁、どうして貴方に訊ねなかったのでしょうか」南泉禅師は「道吾は異類中の生活をしているんだよ」一緒に生活をしていてもですね、ひとつも他人の在り様の中に、一緒に生活をしていても交らずにですね、独立独歩ですね。きちんとして生活がでいてるというので異類中の行。めちゃくちゃな人の話してる真ただ中にいて、その話聞きながら、ひとつもそういうのに染まらないというに行ける力があるっていうことを異類中の行といいます。

このような話したら、雲巌が、「異類中行とはどの様なことでしょうか」南泉禅師「彼道吾が言っていたでしょう。切に忌む、道著することを」、道著すれば必ず、頭角を生ずるって、だから彼はそのことを本当に、そういう風なことにならないように実践している。それが異類中の行という、こうやって示したんですね。そんなようなことがこういう、ここにある通りのやり取りの原点です。
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