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大修行 あとがき・内容紹介

正法眼蔵・大修行の巻きは 2018年2月から4月にかけて岡山県倉敷市玉島円通寺講話会で提唱されました。この巻きでは「百丈野狐」の故事が取り上げられています。

井上貫道老師が提唱の中で述べられています様に、道元禅師は百丈野狐話は達磨大師以後初めて聞かれる様になったと指摘され、近来の禅僧達とは異って、疑義を呈されています。貫道老師は、「道元禅師の様な指摘をした人は居ない」と述べられ、道元禅師の言葉を読み解かれ、その真意を明らかにして、本当の修行の在り方を示されます。この話は「各自自分自身のことですよ。」と、私達自身の在り方に学ぶ事を、一貫して説かれています。

この百丈野狐話の概要は、百丈禅師が百丈山に住職される以前にある老人がいて、過去に「不落因果」と答えた為に狐の身体に堕ち五百生過ごしたが、百丈禅師が「不昧因果」と答えたら元の人間に戻って救われた。更にその話の直後、裏山に狐の死骸があって、亡僧の事例に倣いこの狐の葬儀をした、と言うものです。弟子の黄檗禅師がこの話を聞いて疑を呈し、百丈禅師を掌で打つと言うとのやり取りもあります。

道元禅師は、以下の様に疑義を呈されています。

因果の道理から言って、「不落因果」で狐になり、「不昧因果」で人間に戻ることがあるか。
間違って答えたら狐になり、正しく答えてたら、人間にもどる事があるか。
救われる、悟る状況とはどう言う事か。
また従来の禅僧達の言い分「撥無因果」「競頭道」あるいは理会の仕方について、詳しく検証しておられます。
狐を亡僧の事例によって葬儀をすることについても疑問を呈されています。

井上貫道老師は、これら道元禅師の疑義を解明されるご文章を解読されて行かれます。

一部抜粋しますと、
道元禅師の「この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いまだかって落不落の論にあらず、」「『不落因果』もしあやまりならば、『不昧因果』もあやまりなるべし。」
「私達がものを悟るって言う時にですね、その文言を読んでその意味合いが解って悟るって言う事じゃないですよ。それは理解したって言うだけですよ。ああ因果に落ちないんだ、ああ因果を昧まさないんだって言う風に理解しただけであって、悟るって言う事はそう言う事によってじゃないですよね。」
「同じ言葉だけども、良いとか悪いとか、その言葉が正しいとか間違ってるとか、一概にそんな評価の出来るものじゃないよね。因果って言うものは。」

「老人道の『後五百生堕野狐身』は、作麼生是堕野狐身(作麼生ならんか是れ野狐に堕したる身)。」って言う話ですね。不落因果って言う答えをしたために自分が五百年ずーっと狐の身体になったと言う話なんですけど、それを道元禅師は、本当に人間がですよ、人間が何か尋ねてですね、間違った事を言ったら狐になったのを見たかって言ってるんだ。そんなに成ることないじゃんね。絶対になる事ないよね。」

「百丈禅師が野狐に堕すって如何いう事かって言う事を、此処で皆さんに問われ「かならず野狐身に堕すべからず。」誤って、不落因果って言うものを聞いた時に、自分の理解が誤ったとしてもですね、誤ったから狐に身体が変わるというものではない。しかし、この百丈野狐の話って言うものを、近来の禅僧達が説いてる疑いもせずに。こう言うものに対して、道元禅師の様な指摘をした人は殆んど聞いた事がない。」

老人の脱野狐身について、
「もし傍観の一転語すれば傍観脱野狐身すといはば、従来のあひだ、山河大地いく一転語となく、おほくの一転語しきりなるべし。」傍らに居る人がですね、声を掛けて、もしそれによって何かが起こるんだったら、手当たり次第そう言う風に変化してるのじゃないか、って言う様な言い方をされているのでしょう。

「しかあれども従来いまだ脱野孤身せず。」本当に一転語によって変わるって言うのは、言葉、言葉を発したから変わるんじゃなくて、その言葉によって、自分の従来の見解、そう言うものが本当に落ちてしまう。ただその響いてる様子だけにこうやって居るって言う体験をするから変わるのですね。」

「いまの百丈の一転語に脱野孤身す。」たまたま百丈禅師が不昧因果と言われた事によって、何故かコロッと従来のものが取れてしまった。そう言う処にこの方が触れたのでしょう。「これ疑殺古先なり。」いにしえの人のこの先輩達のね、言ってる事疑うと言う事が一切無くなる。ああ本当に自分が、自分の見解が取れるって言うとこんな風になるんだって言う事が、自分でもはっきりするじゃないですか。」

「山河大地いまだ一転語せずといはば、今百丈つひに開口のところなからん。」山や河や大地に私達が触れてもですね、従来の自分の考え方からすっかり離れる、そう言う時節があるでしょう。生爪をはがした痛さによって悟った人がいる。竹薮に石が飛んでいって音がした。その音によって悟った人がいる、桃の花の咲き匂う中に佇んでいて、その桃の花が散っていくのに触れて悟る人がいる、本当に山河大地、ありとあらゆるものが私達を救ってくれる一転語として活動してるんでしょう。何でそうなるか理由も何も無いよね。理由は後から、自分で自分を納得させる為にするのですが、それらを一切かりずに、コロッと変わるんですね。

「不思議なものだね。悟るって。自分の本心にこうやって触れる。こちらからその様になろうと思って、努力してやったら絶対に行き着く世界ではない、と言う事が言える事でしょう。何もしない世界って言うのは、人が自分で何もしないようにしようと思って作れる世界じゃないでしょう、ね。言葉はよく知ってるけど。何もしないって言う世界はですね、人が作るんじゃないですよね。少しでも作り事が自分の中にあったら、何もしない様子には絶対触れる事が出来ない」

「『不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身す』といふ。」
「不昧因果と言う事はですね、因果の道理がはっきりしている人だから、それだからそう言う狐の身体になった様なものから抜け出せるんだって言う風に理解してるって言うんでしょうね。これが二つ目の昔から、この大修行の話について伝えられて来ているものの理解の仕方です。道元禅師、これもおかしいよと言って、指摘してる訳ですね。ものの道理としてこう言う事を見とく必要があるんでしょう。
言葉を聞いて、その言葉の意味してるものが理解出来たから人が救われて行くって言う様な事ではない。その証拠に皆さん色んな日常の中だって、言葉を見たり読んだり聞いたりしてですね、その内容が、意味が分ったら楽になりますか。例えば、人は争わなければ穏やかに居れるって言う様な事を言われて、ああそうか、本当にそうだよなって言って、それが理解出来たら争わない様になるのかしら。実践(修行)の中に現成するのでしょう。理解の中に争いの無い世界が出現するのではありません。」

狐の葬儀の件について
「いま百丈の『依法火葬』すといふ、これあきらかならず。」文献には百丈がそうやって頼まれてですね、狐を火葬にふしたって、その火葬にふす時にお坊さんの事例に倣ってやったって言う様な事を書いてあるけど本当かな、どうかなって言ってるんですね。「これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、至菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。」お釈迦様の時代からずーっと見て来るにですね、そんないい加減な事は一つもやった事がないとおっしゃってる。だからそう言う事が書いてあるけども、これは間違いじゃないかって。

「たれか先百丈なることを証拠する。」それが昔の百丈禅師の亡骸だってって、何をもってそう言う事を言ってる。何処にそれをはっきりさせる証拠があるのか。ないじゃないかと言ってるんです。「いたづらに野狐精の変怪をまことなりとして、仏祖の法儀を驕慢すべからず。」これが道元禅師のこの取り上げた文献に対する見解ですが、こういうものが幾つか今でもあるでしょう。誰か立派な人が言ったから、そのままそれを間違っていても踏襲して行く。それでは駄目です。」

以上のように、貫道老師は提唱されています。仏法を学ぶことは、人の見解を持ってしては、あるいは人為的なには到達できない世界であり、思量分別を放れる事が第一の修行の要点である事を、示されています。最後の百丈禅師と黄檗禅師のやりとりまで、従来の禅僧の論を超えた斬新な展開で、全編を通じて、真実の修行の在り方を学ぶ事ができる提唱だと思います。







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