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安居 Ⅳ  正法眼蔵七十二

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「さらに九十日の窟籠を跳脱すべからず。」九十日が九十日以上になったら、現金出納簿とか、経理をしてる経産省とか、私も経産省の近くに坐禅会行く所があって、あそこ通るんだけど、計算って言うものはそう言うものでしょう。間違いがあってはならないでしょう。たった一から十までの十の文字の組み合わせで、数字は展開されるから、小学校一年生位でもですね、間違える事は無い位、簡単な事ですね。見ていって。1か2か0か見間違えるなんて事は殆ど無い。数だって、こうやって一つずつ、こうやって指押して、それだのに専門の人でも間違える時は間違えるんだね、計算。何だろう、と言う風な事ですよ、これ。

「九十日窟籠」あるいは窟籠ですかね。「跳脱すべからず。」1は1、0は0、2は2ですから。間違いなく。誰もそう言う力を持ってるでしょう。だから丁寧に生きるって言う事は、帳簿の整理をする時には、その数字の処にこうやって目をちゃんと向けてないと、次の行の処をみてると無理じゃない。ねぇ。そう言う事がちらっと起こるんでしょう。或いはこっちのものが気になったり。何となく気になるから、見てるつもりでも、見落とす事が有るでしょう。そう言う事じゃないですか。生活の中で。

「この跳脱は、九十日の窟籠を手脚として、𨁝跳するのみなり。」その時その扱っているものを相手にして、本当にこうやって生活するって言う事でしょう。それが数字であろうが物であろうが仕事であろうが、お経を読む時であろうが、坐禅をする時であろうが食事をする時、大小便に行く時、洗面をする入浴をする洗濯をする掃除をする、もう様々の事があるけれども、どれもこれもその時そのやってる事を相手にして、其処で本当に問われるだけでしょう。跳び上がるって言う様な表現をしてます。

「『九十日為一夏』は、我箇裏の調度なりといへども、仏祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆゑに、」特別仏様や祖師方がそう言う事を始めたんじゃなくて昔からって言う事を言っておられますね。

「仏々祖々、嫡々正稟して今日にいたれり。」ずーっと受け継いで。易しい事を取り上げれば、これから先も、一から十まで、ゼロから九までと言った方が良いのかな。そう言う数字を用いてずっと行くのでしょう。それ以上の数字を、多分これから人類の中で発見する、或いは新しく作り出して何かやることは無いのかもしらんね。ゼロから九のこの十文字だけで成り立っちゃうんだもんねぇ。これが厄介なコンピューターなんかの世界のものにも使われるのでしょう。数字って組み合わせたらどの位まで行くか分からんもんねぇ。幾らでも出来るんだよねぇ。

海外に行ってもこのアラビア数字で書いてあると、凄く分かり易い。説明が要らないもん。91って書いて有る処を右に降りて行って下さい、とか道路の標識。そこ91見たら、みて降りりゃ、それで済むからねぇ。その他何番地の幾つとかって、番地が付けてあるでしょう。

郵便番号を付けたのもそう言う事でしょう。だからあれ、殆ど今、住所を漢字で書かなくても着くでしょう。だけど未だに丁寧に何々県とか何々市とかまで皆書いてるけども、一番下の小字だけで十分でしょう。小字と番号だけで。その位まで郵便番号でもう直ぐそこへ届く様になって来てるじゃんねぇ。だからちょっと古い方があの楷書じゃなくて、行書か草書か、ああ言う書き崩した様な文字で書いてあっても、現代の若い人が配達する時に、仕分けをするのにそれが役に立ってるじゃない。読めなくても数字が書いて有る処へ入れると、其処まで行くから。大変だったと思うよ。達筆な人が居てね、何が書いて有るが読めない。長く携わってる人はね、しょっちゅうそこへ来る手紙を見てるから、大体それ見ると読める様になってくるんだけどね。数字はそれ位凄い優れたものだね。

これ数字ばかりじゃないですよ。日々の様子って今に始まった事じゃないでしょう。日々の様子って昔からずーっと日々の様子があるじゃない。何処からか急に日々の、毎日の様子が始まったなんて言う風に伝わってる事はないでしょう。太陽が出て来るのを朝と言い、太陽が沈んで月が昇るのを夕方とか夜とかって言う風に、それも昔からずーっとそうだよね。兎に角色んなものを挙げてみたら分かる。その様にですね、特別なんか始まったわけじゃない。その中の一つとして、この安居九十日を一夏とするって言うのも同じ様にあると言う事ですね。

「しかあれば、夏安居にあふは諸仏諸祖にあふなり。」ここで仏様や祖師方の真実生きられた様子が今も目の当たりに伝えられている。これは説明よりも早い。最近感じる事だけども、若い人がもの凄い勢いで台頭して来る。どうしてだろう。先輩の立派な、其処でやっておられるものを目の当たりに見ると、若い子は説明要らない。イキナリそれを見て、そのまま自分のものとして体得していく。習得していく力を持ってますね。

それ位小さい時の能力とかって抜群なんでしょうね。十歳過ぎるとですね、人間の考え方がはびこるもんだから厄介になって来る。で、諸々の芸事は六歳までと言われている。初舞台。あの頃迄が人間の頭が柔らかい。十歳が大体人間の一生を決めると言われて、最近そう言うものが出てますね。脳の科学の方から。十歳の時の体験が大体人生を決める。だから、何だ、どうやって生きて行こうって行く様な事がですね、大学出てから何しようかって思う様じゃ、遅いと言う事でしょうね。

振り返れば、皆小さい時に何かしたいもの一杯有ったでしょう。ねぇ。だけど、それ誰が打ち壊したんですか。周りの人が打ち壊したんですか。結局周りの人が打ち壊したんじゃなくて、自分で、人の意見によって、自分が壊れて行ったんでしょう。小さい時に、一流の選手と出会って、私も将来この様に成りたいって思った人達が、もう本当に二十歳前位に皆そこら辺迄、そう言う仲間の中に育って来る、見てると吃驚するねえ。

私テニスを見てるの好きなもんだから、あの大坂さんなんかの、試合見てて、大坂さんも小さい時に、一流の選手がやってるの見て、私も同じコートに立ってって、言う思いが今日の姿にしたのでしょう。そうやって、未だ二十才そこそこでしょう。それで世界のああ言う処まで登ってる。

一流ってそうでしょう。時々思い出す様じゃ大体ものにはならん。悪いけど。そうでしょう。四六時中自分の脳裏から離れない、気になってるって言う位な感覚が、全て触れた時に自分の血肉にしていく様な受け取り方をしてるのでしょう、偉大な人は。見逃さないんだもんね、その時を。そう言う処がやっぱり違うだけないですか。それが長い年月になると、開いて来るって言う事じゃないですか。皆持ってますよ。その位の力は、多分。

小さい子によく話したんだけど。ずっと此処を掘ってご覧て。エー。普通の人は途中で止めるじゃない。ずーっと掘ってれば、人が見つけられない物が、必ず見つかるよね。ここをちょっと掘って止めて、また別な所をちょっと掘って止めて、こうやって生きてるんだよ、殆どの人は。で、どうしてそうなるかって言うと、儲からないとかね、まず出てくるじゃないですか。こんな事やってて明日どうなるって、そう言う風に思い始めたら、もうやれなくなる。どんな仕事でもだけど、国宝級になる人達見てごらん。殆ど一度は貧乏じゃないですか。誰も相手にしない位、よくあんな事を一日中やってられるなあって思う様な生活を殆どしてるよね。

大阪の池田に陽松庵って言うお寺にいって、坐禅会時々行くんだけど、この池田はねえ「満福ラーメン」の発祥の地よ、ってこの前言われて、そうか此処かって思いましたけど、ああ言うラーメンの朝ドラを見ていてもですね、出来上がってしまえば大した事もないって言う風に、何ともなく食べてるけど、ああ言うドラマを見て思う事は、こんなに大変なんだって言う事をつくづく感じる。一つの物を作り上げるのに。どっかそう言う処が違うんだね。

お釈迦様だってそうでしょう。あれだけ、当時色んな人が居るなかで、一人自分の志す道をずーっと歩まれた。顰蹙も買ったし、色々あるでしょう。「夏安居ひさしく作仏祖せるなり。」だからそう言う風にして、安居の生活を続ける事によって、諸仏方の本当に味わった境地、そう言うものを自分でも会得が出来る。

「『九十日為一夏』、その時量たとひ頂寧量なりといへども、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらざるなり。」一口で言えば、この一日の過ごし方が基本であって、この一日の中に学ぼうとする全てのものが、隠さずに在ると言う事でしょう。仏教の書物が八万四千とかって言う数に上げられてますけど、そう言う膨大な資料、内容だって煎じ詰めれば、一日生きてる自分自身の中の様子ですからね。その他に物があるんじゃない。皆そうですよ。各自、自分自身が生きてる今の様子の中に、残されてるそう言う大切なものって言われてるものが、真理として説かれてる様なもの、皆自分自身の今の様子の中にあるのでしょう。

「九十日は百千無量等の劫波を使得するゆゑに、無量劫波たとひ九十日にあひて見仏すとも、九十日かならずしも劫波にかかはれず。」色んな人がお悟りを開いた事が、沢山歴史の中にあるけど、自覚と言うものは、本当に自分自身の様子そのもので、他の人には用が無い。間違えると他の人の事を学ぶ様になるじゃないですか。安居は先程来申し上げてる、自分自身にずーっと親しく過ごす日月です。九十日。その中に仏祖方が本当に伝えられた真意って言うものが、皆一人一人の中にそう言うものがあるから、一人一人が自分の力で持って、後世の人の為に、その真理を文字に表して、或いは喋ったものを誰かが筆録して残して来た物が、こんなに年を経る毎に増えて行くのよねぇ。

初めの頃は少なかったじゃんね。そうでしょう、お釈迦様しか居なかった。そんな沢山はなかった。だけど今日までとなると、般若心経だって、あれを勉強しようと思うと、本屋に行くと、解説書が、般若心経がダーーっとある。あれを読むのは利口じゃない。絶対利口じゃない。こうやって安居と言われる自分自身の真相に親しく生活するって言う事が、般若心経に書いてある内容ですから。ねぇ、そう言う様な事がこう言う、出て来るのでしょう。

面白いね。劫波って言う様なこんな漢字が熟語があるのね。光の波ってあるじゃないですか。光波。それから音波って言う波がある。ねぇ。これが時間の波ですよね。面白いね、こんなものを道元禅師使っておられるんです。時々取り上げるんだけども、物がこうやって、今ここにこうやって在る様に見えるのは、表してみれば、光の粒ですよね。粒がこうずーっと在るだけで、その粒が物に当たると、吸収するものと反射するものが在る事によって、私達は色を見るんじゃないですか。色が違う物がこうやって在ると、彼処までは紙だとか、彼処からは木だとかって言う風に分かる様になってる訳だよね。

何が言いたいかって言えば、全部一つ一つの光の粒だと言うだけじゃない、本当は。光の粒が並び方が変わると、人の顔になったり、動物の物になったり、そこらに置いて有る物になった。花になったり、茶碗の様になったり、して、人には見えるって言うことじゃんね。で、驚いたのは、子供と話してたら、お父さん木の葉っぱは緑じゃないよ、言われました。私はずーっと小学校時代から、木の葉や草の色を緑だと思って学んで来た。あれは木の葉っぱに当たると緑の色を反射して受け取らないものを私達は見てるんで、本当に葉っぱの色は緑じゃないんだって。エーってそんな事を勉強しました。まあ、そうかも知れないなと思って。

音が聞こえるんだってそうでしょ。音波と言われる音の波の様な物があって、その波の長さが違う、それがどっかこの辺(耳を指す)に触れるとですね、長さが違う事によって、色んなリズム、音としての形を作る様になってるって言う事だけでしょう。時間て言うんだってそうでしょう。何が時間かって言ったら、こう言うものが(茶碗)動いて、こうやって握ったり放したり、こう言う事が皆時間でしょう。握った時間、放した時間って言ってるんだけど。こう言うものを抜きにして、計れない訳じゃない。

左を向いた時、右を向いた時、これが時間を表すものでしょう。この他に時間て本当はないじゃんね。だけど、頭の中に、そう言うものを離れて時間の軸だけがずーっと描かれる様になってる。本当の時って言うのを人は見失ってしまってるのかも知れない。必ず、時は物で表すんですよ。物抜きで時は表せない。

まあ劫波九十日必ずしも劫波にかかわれず。要するに長い時間を取り上げてるけど、九十日って言う時間を取り上げてるけど、本当は言いたい、今こうやってる事じゃないかって言う事じゃないですか。他に出会う事ないんだもん。ね、自分自身の真相に出会うの、必ず此処しか無いじゃない。他の時に自分の真相がどっかにあるって言うのないじゃない。必ず此処でこうやってる時に、自分の真相がある。

その中に眼には物が見えたり、耳に音声が聞こえたりしてる。坐ってる様子が自分そのものであったりする。それ全部必ず今此処でこの身体で体感する事でしょう。時間なんかここに(頭に)在るかもしれないけど、本当はそう言う事ではないでしょうね。そう言う様な事が「かかわれず、」って言う表現になるでしょう。で修行する時には必ず今を大事にする。これもう決定的な事でしょう。で、もう少し敢えて言えば、今って言うものの中には、本来自分の考え方や見解って言うものは差し挟まれない時間帯ですよ。触れた後に起こすのでしょう。だからいきなり触れた時に、嫌いだとか言う様なものは起きないでしょう。こんな物はって、そう言う事は絶対起きてない。

それ位誰でも仲良くどんなものでも仲良く生活が出来てるって事じゃないですか。そう言う事を、私達は自分の身体でやってるんだけど知らない。それで、そう言うものが何処かでどうかしたらとか、出来ないとかって思って探し始めた。そうじゃない。探すんじゃなくて、今自分自身の中に探そうとしてる大事なものが、皆此処で実現されてると言う事に気が付くべきじゃないですか。それが宝ものを手に入れた人の様子。自己の宝蔵おのずからひらけて受用如意ならん、て言う風に普勧坐禅儀にもあるでしょう。まあその位で置きたいと思います。ちょっとこの辺で、区切りが良いので。



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