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安居 Ⅲ 正法眼蔵七十二

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良いですか。

「解夏にゆゑにさる、」とあります。九十日に修行期間が終わるのを解夏と言います。それ九十日を解くと言う意味ですね。そうすると、その道場から皆、離れて行くんですね。その前、有ったか。「結夏にゆゑにきたる、」今から修行を始めるよって言ってフレを出すから、そこで集まって来る。で、それが終わるとそこから離れて行く。年二回九十日の夏と冬の安居の制度があるから、百八十日は修行の期間で、あとの百八十日は遊行の期間、ですね。

次の安居までの間何をするかって言うと、一つは其処を離れない人も居ますけど、離れる人は他所に師匠を求めて行きます。その為に色んな所をこうやって、それらしい自分で行ってみたい人の所へ尋ねてですね、今で言えば面接みたいなもんかしら、会社の。そして気に入った所に願書を出して、そこで九十日置いて欲しいって言う事で許可が頂ければ、其処で過ごす様になるでしょう。そう言う為に、安居から安居の間の期間があります。

それでさらに期間の間に、托鉢したりなんかして、次の九十日の生活がですね、最低限の生活が出来る位の蓄えをします。浄財を頂いたりして蓄えをしたり、衣服等をね、用意して、そう言うものがこの解夏のお寺を去った後の様子です。「迊地を裂破す、のこれる寸土あらず。」迊地を裂破すると言うのは、巡るとありますから、地を巡るとありますから、行きたい所へ何処へでも行くと言う事でしょう。ねぇ。

さっきはあまれる、これ対句になってるね。上手に。文章だから、あまれるのこれるって。夏を結ぶ、結夏と解夏、これ皆対句になってますね。これは文章の上手な道元禅師の表現と言うことでしょう。あまれるって言うのと、のこれるのって、別に意味合いはそう違やしない。ねぇ。一杯、どっちも一杯一杯って言う事でしょう。邪魔なものが無いって言う事でしょう。

「このゆゑに結夏の公案現成する、きたるに相似なり。」「解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。」これらも皆対句になっておりますね。九十日の安居の制度の中で、そこに留まれば、その一日一日その時その時の様子が、皆そこで実物としてそこで展開されていますから、公案現成と言います。抜き差しならない程確かな自分自身の生活してる事実が、そこで一々展開されてる。後で取り上げると言う事はないですね、事実と言うものは。今展開している事実、後でそれを味わうって言う様な事は出来ません。ね。

何回もやりますが、こうやって、パン!(打掌)音だって、後でこの音を聞くって言う、どんな利口な人でも無理です。その時しか、その時ににしか聞けません。だけど人間は、パン!こうやって触れてるんだけど、この時に聞いてる筈なのに、そっちよりもですね、今ああ言う音がしたって言って、そう言う取り上げ方をして生活する動物ですね。実物を相手にしないんだね。

不思議だね。パン!今こうやって、これが皆さんが聞いた時の実物の様子です。だけどこの後に今の音はって取り上げるんです。これは音を聞いてる時の事じゃないですよ。音はしてませんから。もう。ここで(頭)さっきあんな音がしたとか言う風に取り上げて、それでいかにも本当に相手にして勉強してる様思ってる。それが仏祖方と違うと言う事ですよ。凡夫と言われる所以です。愚かって言う事です。音がしてない時に、音を聞こうとするって言うのは愚かです。無理だ、聞こえる訳がない。ねぇ。その様に公案現成する。

「きたるに相似なり。」向こうから音がして来る様にパン!って言う様な表現でもあるでしょうね。物がこうやって触れると見えるって言うのは、物がこっちに来る様に、何か頂けた様に思えるって言う様な言い方でしょう。「相似なり。」似てる。

夏が終わってするとですね、「籮籠打破する、」いわゆる魚や獣を捕獲する様な網とか籠、そう言う一つのお寺を中心にしてその地域の中から出ずに其処で九十日居ますから、それを打ち破って外に行くって言う事ですね。籮籠を打破する。それは丁度ここから外に出て行く様な事に似ている。

外に出て行くって言うんだけども、これも何時も申し上げる事だけど、外に出て行くって言うけど、自分自身の在り様にこうやって親しく居るとですね、何処にも行かないのですね、人間は。何時もこのものと一緒に居て、このものから離れるなんて事無いですね。それを何処にも行かないと言います。だけども周りの状況を見ると、私も掛川から岡山まで来たって言う事で、ね、あちらからこちらに来た様に、そう言う感覚が無い訳じゃない、って言う様な事でしょう。だけどよく見ると、ずーっと自分と一緒にここまで来てるって、何処へも行った気配はない。その自分のずーっと居る様子の中に色んな展開があると言う事でしょう。皆さんもそうでしょう。

「かくのごとくなれども、親會の面々」てあります。親しく自分にいる時の在り様です。「結解を罣礙するのみなり。」そこに居る時はそこに居る。そっから出る時にはそっから出た様になる。罣礙って言うのはもう一つの意味合いはですね、その事によって他の事が邪魔をされてそこに入る余地がないって言うのは罣礙って使います。

ここに茶碗と本をこうやって出した時に、本を見てる時に茶碗はここにこう入って来ない。ね。本と茶碗をこうやって見せて、本を見てごらんと言うと茶碗はここ入って来ないんです。本だけが見える様になってる。これに邪魔をされて他の物が目の中に入らない様になってる。こう言うのを罣礙って言います。茶碗の方を見てごらんって言うと、今まで本をみてたんだけど、本がここについて来て、こういう風にはならない様になってる。茶碗によって他の物が一切そこに入って来ない様に、物に触れた時に、どんなものでもそう言う風に見てるでしょう。

だから見た時に、こうやって(身体を傾ける)こうやってやらないと、それ良く見えないって言う様な事はないでしょう。いきなりその通り、どれでもその通り見える。その様な同じ罣礙でもそう言う使い方をする。邪魔になるって言うと悪い意味が多いじゃないですか。

だけどこう言う処に使う罣礙は邪魔になるんじゃなくて、そのものによって他のものが一切そこに入って来ない程確かな生活をしてる、言う事ですね。結んだり解いたりする事、「罣礙するのみなり。」その事によってその事があるばかりなり。今の様子だってそうでしょう。今の様子があると、先ほどの様子が、皆今の様子によって覆われて、先程の様子は顔を出す事が出来ない、絶対に。今の様子の中に、先ほどの様子がチラッとでも顔を出したら、今の様子とは言えない。今の生活の中に、昨日の事がチラッとでも出てきたら、今日の生活にはならない。もう百パーセント今日の様子だけですもんね。

「万里無寸草なり。」良いでしょう。何処まで行っても万里無寸草、小さな草と書いてありますが、そう言うものがないと言う事は本当に今の様子だけで、出来栄えがそうなっている。他のものが顔を出す余地が無い。これが誰でもの生活してる実相ですよ、本当の過ごし方ですよ。だっていつも、これも申し上げてる。何かして今のこの様子と作るなんて事は無い。今こうしてる事、どうかしてこうやって作って、こう言う風になったって事は一度もないじゃないですか。何かしないと、今のこの様子、不完全って言う事はないじゃないですか。

あるのは人間の思いの中で、何かを中心にして考えてると、思いの中で不完全だと思ったりするだけの話でしょう。実物の方はそう言う事一切無いじゃないですか。だから本当に修行する時に、実物の方で勉強しないと、はっきりしないじゃない。考え方を相手にしていると分からない。考え方は滅茶苦茶な事を思うんだもん。物凄い酷い事をだって思うでしょう。自分で思おうと思わないのに一杯出て来るでしょう。何でこんな事が出て来るかって思う位、不思議な働きをする位、色んな思いが出て来る訳でしょう。それを相手にしてたら、滅茶苦茶になるよ。事実は一々こんな確かです。

これに対して先ず代表的なものは、自分で好き嫌いを起こして、こうやって見る癖がある。そっからもう問題が起きるに決まってます。自分の好き嫌いで見たら。好き嫌いを見る前に、ちゃーんとこうやって生活してる。これが安居な生活でしょう。お寺に居ると本当に幸せだって、この前も他所のお寺で、十四、十五、十六、十七、三泊四日、十四、五人で攝心をした。忙しい日常生活をしてる方々が時間を作って、三泊四日お寺に泊まり込んで一緒に生活をする。それは至極の世界ですね。

「吾れに九十日の飯銭を還しきたれ。」もし無駄な事があるとしたら、此処で過ごした九十日、元へ戻してみろって言ってるのでしょう。エー。食べた物、かかった費用、日月、そんな無理に決まってます。だから無理な事はしなくて良いです。それよりもちゃんと出来る事をやる。出来る事をやるって事は、一日一日をちゃんと過ごすって言う事でしょう。一日一日をちゃんと過ごす事の一番重要なヒントは、自分の考え方を中心にして過ごさないと言う事でしょう。そう言う時間を過ごしてみるって言う事でしょう。

普段はだって自分の考え方を中心にして生活してるんですよ。全て。こうなりたい、ああしたいって言う思いを掲げて、それを達成する様に生きてる訳でしょう。考え方止めると、何時でもちゃんとした生活が保証されてるって言う事があるじゃないですか。これからどうしたら良いかじゃなくて、今既にこうなってるんだもん。何処も手を付ける用が無い程、今こうやってこの通りちゃんとしてるじゃん。どっか何かしないと問題ありますか。

生活してる方は問題ないでしょう。考え方の上の事が問題になるんでしょう。で、考え方では此処で暫く使わずにいてみて、考え方を使わなくてもこうやって今生活してる事は厳然として不動でしょう。失われる事が無い程確かな生き方を、今ここにしてるでしょう。考え方を止めたら、何かが欠落して困る様な事は起こってないって言う事を知るべきじゃないですか。エー、まあそう言う様な事がざっとあるでしょう。

で、次の処行きますが、黄龍の死心和尚云く、「山僧行脚すること三十餘年、九十日を以て一夏と為す。一日を増すことまた不得なり、一日を減ずることもまた不得なり。」難しいことは何も書いてないですね。皆さん算数得意ですから、九十日って言ったらですね、それよりも一日増えたら九十一日になるし、それよりも一日減ったら、八十九日になるから、そう言う事はないと言う事です。九十日って言うのは、一日もそれよりも多くもなければ、一日減ると言う事もない。言う事を言っておられます。

これどう言う事ですか。こうやって蛍光灯に向かったら、必ず増えもしなければ減りもしないでしょう。蛍光灯そのものがこうやって見えるでしょう。そう言う事でしょう。それが九十日増減のないと言う事でしょう。パン!こうやって音を聞いたら、パン!それに付けたり削ったりするもの一切無いって言う事が、九十日に増減のないと言う事でしょう。

こうやって握ったら、必ず握った様になってる。放したら必ず離した様になるって言う事でしょう。平たく言えば。そう言う事が九十日に増減が無いと言うことでしょう。ねえ。難しい言葉じゃないでしょう、言ってる事は。そうやってこの黄龍の死心禅師は行脚する事三十年あまり、あまりは三十年より多いと言う事です。四年だからね。三十数年と言う事でしょう。

私も修行道場に置いて貰う時間が長かったから、通算で、三十年位は居ますね。十四才から十八才「迄、最初、それから少し大きくなって本山に五年置いて貰って、それから地方の道場に二十四年置いて貰って、そうするとやはり三十年位になるな。後は名古屋に一年位か。通算で三十年位でしょう。安居した事になる。あまり長く安居してると、呆けるって言われますけど。

「しかあれば、三十四年の行脚眼、わずかに見徹するところ、」とどのつまり三十年余り修行してきたって言うけど、道元禅師がですね、「わずかに見徹するところ、」見極めれば、どう言う事かって言って、「九十日を一夏となす安居のみなり。」三十年もやって来たって言うけれど、その一回一回は必ず、九十日を一区切りとしてやって来た、それだけじゃないかって。

それをもっと先程の様に話をすれば、ほんとに煎じ詰めれば、今のこうやってる事じゃないですか。少し広げれば丸一日の様子がある。もう少し広げれば一ヶ月の様子がある。もう少し広げれば一年の様子がある。それが三十年余りって言う事でしょう。日々の様子が九十日。そう言うものが、色々な区切り方があるけども、本当に煎じ詰めれば、今此処で皆さん生活してるだけだから、何時でもそうじゃないですか。今此処で自分の在り方が問われるだけじゃないですか。今触れてる時に、その触れた時に自分がどう在るかが、自分を本当に決定づけるのでしょう。だって他で出来ないんで、しょうがないね。

考え方は後でって思うじゃない。後でなんて時間は無いよ。必ずやってると今やってる事しかない。何処見たって、今自分でやってる事しかない、何処で触れて見ても。後でやったって事はない。あの時言われた事を、今此処でやってるって思うだけの話であって、やってる事は今必ず此処でやってる事だけです。だからそれで何時も終わっても問題ないでしょう。もうちょっと長生きすれば良いって言われるかもしらんけど、何時何処で終わっても、完璧に其処で終われます。

この前話してた事ですが、未完成交響曲って言うものが残ってる。未完成って言うんだけど、あれでちゃんと歴史に残る立派な音楽として成り立っている。今でもあれを弾く人が居る。奏でる人が。決して未完成じゃない。ねえ。音楽の専門家から言うと、一小節どうのこうのって、これだけのもので一つの音楽になると言う作り方があるから、それが途中で終わったと言う事でしょう。そうすると未完成て言わせたんだろうけど、あれで完成ですよ。何も欠ける処はない。ああ言うのも人間の考え方だからね。未完成だとつまらないと思ってる。そんな事はない。何処で終わってもその人の人生は完結です。

「たとひ『増一日』せんとすとも九十日かへりきたりて競頭参すべし。たとひ『減一日』せんとすといふとも、九十日かへりきたりて競頭参するものなり。」そりゃ今話してる様な事じゃん。ねぇ。どんなに人間が色々考えてみても、こうやっている様子以外に無いのでしょう。

悩むってなんですかねぇ。人が苦しむ、悩むって何でしょう。今こうやってる事の他に、何かを求めるのでしょう。そうじゃないですか、悩む、苦しむって。こうやって今の状況の中に居れないんでしょう、人が。中々そのまま、許して。

ものを諦めるって事は、物事の真相を本当にどうなってるかって言う事を明確にするから、ああそれ以上自分の考え方で手を出してもどうにもならん、て言う事まではっきりする。そう言うのをものを諦めるって言うじゃんね。それ以上はやらないじゃない。人は必ず死ぬ。死んだ人をどんなに色んな事をやっても生き返らす事は出来ない。

子供を亡くしたお母さんが我を忘れる位狂乱になって街をさまよって、そう言う話が仏典の中に引かれてるでしょう。で、釈迦と言う方は、色んな家を訪ねてごらん、誰も一人も死んだ人を出さない様な家は何処にも無い、って言う様な事を言った。その方は話を聞いて歩いてみると、どこの家でも必ず人は死ぬ、言う様な事がはっきりした。それで、自分の中でも、ああこうなるんだって、早いか遅いかは別だけどこうなるんだ、言う様な事で、自分でけりをつけられた、話が残ってます。中々けりがつけにくいね、考え方の上だと。

だけど実際に有った事は、取り替える事が出来ないって言う事が、ものを諦める時の在り様でしょう。だけども人間の思いは、そう在りたくないって言う思いが強いから、元の様になれたらって、それをずーっと思うから、酷い事に会うとですね、それが何時までも気になる。そう言う習性を持ってる。で、それを救うのには、自分でその事がはっきりする以外にないじゃないですか。人が、幾らそうやって教えたって。信じられないんだもん、人の言う事では。

だけども自分で見届けたらはっきりする。人にとやかく言われたんじゃなくて、自分で見届けたら、成る程ってなる。それは肯がえるじゃない。自覚するって言うのは、そう言う事に用があるでしょう。人から仏様の教えって言うのはこう言うものだって無理強いをされてですね、教え込まれて、信じなさいとか言う様な世界じゃあない。自分の事だから自分で本当にこう自分の様子にこうやって触れてみると、どうなってる、人に尋ねなくてもはっきりする。はっきりした結果が自分を楽にするのでしょう。そう言うものが釈迦の切り開いたものでしょう。




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