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安居 Ⅱ 正法眼蔵七十二

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「これ仏々祖々の頂𩕳面目なり。」こうやって先輩の仏祖方は過ごされた。「皮肉骨髄の親會しきたれり。」とあります様に、さっき申し上げた様に、本当に自分自身のこの様子に親しくおられると言う事ですね。すれ違いにコンとぶつかった。ねえ、そう言う時でも、親しく自分の皮肉骨髄にですね、居ると、当たっただけで居るのか、それとも当たった後に、そこを見て人を認めて、そしてムラムラっと迄行かない人、「何っ」て言う気持ちが自分の中で起こるかどうか。それは向こうの人が起こすんじゃないですよね。自分が起こすんですよ。

だけど知らない人は向こうの人がぶつかったから、って言う風に見てる。ぶつかっただけで起こる訳じゃないですよ。ぶつかった時にはぶつかった様子があるだけですよ。自分の皮肉骨髄に親しく居てみるとですね、ぶつかった時にはぶつかった様子だけがこの上に現れるだけであって、お前何やってんだ、俺にぶつかって来て、とかって言う様なものは一切無い筈。って言う様な事も、こうやって居るとよーく分かる。ああこんなに人と言うのはつまらない生き方をしてる。こう言うのを煩悩を起こすと言うでしょう。有りもしない事を思って煩わしくなるって言う事でしょう。向こうが起こすんじゃないですよ。それは皮肉骨髄に親しく居たら良く分かる。自分自身の。

耳だってそうでしょう。どんな酷い事を言葉を掛けられたって、耳はね、腹を立てた試が無い、怒った試が無いんですよ。どういう風に耳は聞こえるかって言うと、あの雨だれの音の様にですね、音がしてるだけ、ポチョ。音がしてない時には一切聞こえないもんです。人間の声もそうでしょう。喋ってる時だけ聞こえて、喋り終わると聞こえないものなんです。そう言う事がこの皮肉骨髄に親しく居ると分かる。これが仏道の修行なんです。日々の。時を空しく過ごさない。こうやってあるものの、安居の生活って言うものがなされる訳ですね。普通の人の生活と違うでしょう。

そこにも「仏祖の眼睛頂𩕳を拈来して、」とあります。仏祖の眼睛とかって言う、或いは頂𩕳と言う様なのは、身体の事です、いずれにしても、目や耳や鼻、そう言うものを指すんですけど、上に仏祖って付くとですね、皆さんとはちょっと違うと言う事です。何処が違うかって言うと、今申し上げてる様に、本来の人の在り様って言うものは、私がって言う様なものは付けてない。

今でもそうだけども、こうやって物に触れた時に、見て貰うと分かる様に、私が見てますって言う様な物は、そう言うものは一切付いた事が無い。何処を見たって、私がって言うものは付いて来ない。その通りの物、こう有るだけです。その通りの物、こうやって。付いて無いでしょ。これ、マイク見たって。私がって言う様なものは、これ見た時に付いて無いでしょ、マイクの様子だけが見えるんでしょ。それが仏祖の眼睛頂𩕳の様子です。

皆さん方はでも私がマイク見てるって、そう言う風に私を付けるでしょう。パン!(打掌される)私が聞きましたって付けるでしょう。私なんか絶対付かないよ、こうやってパン!ポンって言うだけですよ。それがどの位違うかわかりますか。私って言うものが付くのと付かない。私が付くと争いの元になるじゃないですか。俺はって言って自分の聞き方に変わるでしょう。これがパン!自分の聞き方は一切入りません。誰でもこの様になる。パン!パン!ね。その位穏やかな生活をしてる。

そう言うものを、「拈来」、だから使って、取り上げて、そして九十日の日を送ると言う事ですね。「九夏の日月とせり。」言ってみれば「安居一枚、」ですから、今の在り様で済むのでしょう。何十年生きようが本当に親しく見てみると、今の在り様だけです。それ一枚です。これ不思議な事に、この身体一つですから、この身体の有る所で生活する事以外には、人間は出来ない。そう言う風になってますね。

「すなはち仏々祖々と換作せるものなり。」それを、そう言う生き方をするのを、仏や祖師方の在り様と言う風に位置づけている。だから同じ様に生活してみると、そう言う仏や祖師方の様な味わいと言うか、そう言う生活をしてる事が自分と変わりがない、自分と変わりが無いと言うと偉そうだから、祖師方と変わりのない自分達の生活があるって言う事に気づかされるんです。ああ本当に立派な方々だと思ってたけど、自分もそれと変わらない生活を本当はしてるんだって言う事が自覚出来る、そして仲間入りが出来る、仏祖の。

そう言う人になるって言う事が、成仏をするって言う事でしょう、私達が。仏様になるって言うけど、成仏する。そう言う風な充実した幸せな生活を自分で勝ち得ると言う事が無かったら、仏道と言うものは価値がないでしょう。まあ一段その位ね。

「安居の頭尾、」頭から尻尾って言うので、丸々ですね。安居してる全ての様子です。それの内容は仏祖方の生活してる内容と全く変わらない生活をさせるって言う事が、安居の主眼です。道場を開いて。今でもこの曹洞宗では結制と言うものを一番大きな、大切なものとして取り上げてる。住職をすると、住職をしてる中で、出来たら一度は少なくとも結制を置きなさいと言ってる。

それは住職に成った人が一番中心になってですね、九十日間、今から此処のお寺を修行の道場にするから、来たい人は誰でもおいでって言って、外に向かって公表をすると、まあ、じゃああの人、あそこのお寺に住職したんだって、じゃあ行ってあそこの和尚さんの元で勉強してみたい、修行してみたいって言う人がですね、寄って来て、寄った方々と今度は人事をして色々な役割をそこに付けて、九十日一緒に過ごしましょうって言う様な事が行われる。

その九十日が終わると、曹洞宗では大和尚と言う、和尚から大和尚になる位を授けます。それはそれだけの人に教化をした実績を認めて、この人は立派な人だと言う事で、大和尚の称号を贈る訳ですが。現況は、三日か一週間か何か騒がしい事をして終わってしまって、一般の方は何をしたんだろうって言う位の内容の乏しいものになっております。

少なくとも丸一日位は、仏祖方が過ごされた様に、朝起きて、洗面から、起床ね、それから朝の坐禅とか朝のお勤めとかお掃除とか食事とか、一日の生活をきっちりお坊さん達と一緒に修行して頂く事が無いとですね、結制って言うのは本当に意味が無い。今でもだから九旬の安居って言うのは、行われているのは、もう限られた所になってしまいましたね。で、ま、それはその位にして置きますが。

「安居の頭尾、これ仏祖なり。」生きた仏法が安居の中には、今も脈々として伝わっております。だから皆さん方、もしそう言うものに触れてみたかったら、そう言う、まあ曹洞宗で言えば永平寺とか総持寺とかって言う代表的な修行道場が有りますから、そう言う所に一泊位してですね、一日和尚さん方の修行ぶりの中に身を置いてみると、何か感ずるものがあるかなと思います。

「この他さらに寸土なし、大地なし。」とありますから、本当に今此処で生活してる以外にないんですね。在家の人も出家の人も。その他には無い。だけど、その同じ今生活してる中に、仏祖の生活の仕方と、それより一般の生活の仕方では、先程から二、三挙げた様にですね、目で物を見、耳で音声を聞く様な事は、誰でも仏祖も私達も同じなんだけども、そう言うものに触れた時、仏祖の音声に触れてる様子と、我々の音声に触れてる様子では、余分なものを我々は付けてる。もう一度此処で確かめておきましょう。

もう付いて無いでしょう。あの水の音を聞いても。余分な物何も。きれいな音だとか爽やかな音だとか、一切そんな事付いて無い。あの通り音がするばかり。であれだけじゃつまらない、なんて言うそう言う思いもないものでしょ。何-んだって、そんな聞き方はしないでしょ。そんなものって、そう言う思い方で聞かないでしょう、仏祖方って。我々はひょっとすると、そう言う聞き方をするでしょう。何―んだ、ただ音がしてるだけじゃないか、それが何だって。そう言う風な生活をしたら、つまらなくなるんじゃないですか、一々。

そうやって時間を無駄に過ごしてるんでしょう。その中に真実が無いと思ってる。私達が求めている最高のものが其処には無いと思ってる。そう言う思いを暫く離れてみないと、そう言うものの見方をしてるのを離れてみないと、今触れてる真実の様子が分からないものじゃないですか。それが仏祖方が過ごしてる様子。

「夏安居の一橛、これ新にあらず旧にあらず、来にあらず去にあらず」要するに古い事はしてないって言う事でしょう。新しい事もしてない。で来るとか去るとかって言う事でも無いって言う事は、誰でもそうじゃない。今の様子ずーと生きてるって言う事じゃない。今の様子って言うものが、そう言うものじゃない。古いものでも無ければ、新しいものでもないじゃん。どっかから来るものでもなければ、どっかへ去るものでもないでしょ、今って言うものは。

だけども何処か一点を掴んで話をすれば、先程の様子は今の様子の中には無いって言う風にみるじゃないですか。で、今の様子を何処から来たのかって言って、どっかから来て今の様子になったって言う事は、皆さんの知ってる通り無いじゃないですか。でも不思議ですね。今と言う内容は。(笑)今の様子って何処かから来る所が無いですね。イキナリ今の様子ですからね。イキナリ今の様子でこうやって居るんだけど、その今の様子の内容を見ると、あれってさっきの様子と違うって言う位、今の様子は先程の様子に中に居ない。

で、去ってどっかに行ったかって言うと、ずーっと今の様子は途切れなくあるんだ。実に表現の仕方が上手いね。この通りでしょう。来るところも無ければ去るところも無いって言うのが今活動してる様子でしょう。古いものでもなければ、新しいものでもないって言うのが今の様子でしょう。でも人間の考え方と違いますよ。昨日から今日になったって言えば、今日は新しくなったって言うんでしょう、昨日からみると。それは人間の見方ですよ。事実は昨日から今日になったとか言う様な事は一度も無い。

皆さんの眼で実証してみれば分かる、こうやって実証してみる。(扇子を動かして)先程のが、今こうなったって言う風には成らない。先程のなんか無い。今見えてる様子だけがずーっと有るだけです。そうでしょう。今見えてる様子だけ、ずーっとあるじゃん。それを説明をすれば、こうやってやった時に、先程の様子は無いって言うでしょう。ね。さっき見てた様子は無いって言うんだけど、それ説明です。

自分の本当の在り様はこう言う風になる。前見てた物がドンドンなくなって新しい物に変わって行くって言う風な、そう言う風にはなってません。それは此処(頭)でやってる事です。前の物を何処かで此処を認めて、次に変わった物をこうやって見るから、変わった、変わったって言うんだけど、眼この物はですよ、こんな風に活動してる。こう言うものが仏祖方の様子じゃないですか。その様子は巳鼻様なりって、ねぇ。一々自分の真相でしょう。その通りに成りながら、何処にも捉まえ処が無い。捉まえて置けない。こうやってやると、(扇子を動かして)前の物留めて置けない、次の物見る時。自然に前の物が無くなって行く。

これで般若心経にある様に、「無罣礙」ってなるんです。一切障りが無い、滞りが無い、執着が無い、囚われる処が無い。問題にするものが残らない。で、これ皆さんの生活してる実態ですよ。これは親しく自分自身の皮肉骨髄にこう居ないと、自分様子がどうなってるかって言う事を見る事が出来ません。人ってここを見ないんだもん。こんな事やってる、パン!パン!パン!(打掌)その聞いた音が、本当にその時限りだからねぇ。どうもしないのに音がパン!何処行ったって言って、探したって無い。行った場所も隠れた場所も無い。それ位根こそぎすっきりしてる事を、皆さん毎日、時々刻々体験してるんだけども、誰もそう見てない。思ってないじゃない。

あいつあの時酷い事を言ったって言って、そう言う事を挙げてみりゃ良く分かるじゃない。音がしてない物を相手にしてるって事でしょう。頭の中だけで取り上げた問題でしょう、思い起こして。それで、それを思い起こした時、腹が立つって言うんでしょう。その時相手は居るかったら、居ないんですよ。自分の中で相手を立てて、あいつがあの時俺にこんな事言ったって言うのを此処(頭)の中で人を立てといて、この中(頭)でやって腹が立つんですよ。ここに居るならまだしもですよ、実物が。それほど自分の真相って言うもの、知らないで毎日生活してる。

「しかあれども、結夏のゆゑにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。」そう言う中にあって、幸いに今こうやって伝えられている安居のしきたりがあると言う事です。皆さん方は、そう言う片鱗に触れるって言う事でしょう。今日もその安居に中の片鱗に触れるって言う事でしょう。こう言うお寺に来るって言う事は。エー。「虚空塞破せり、」って言う事は、人間の見解を本当に離れてですね、真実の様子そのものにこうやって触れるって言う事じゃないですか。

何が真実を覆ってるかって言うと、人間のそう言うものの見方がですね。真実を本当に直に触れさせないのでしょう。直に触れてる様でも、そこに直ぐに自分の考え方や見方、見解が差し挟さまって、そう言うものを通して見て、それで、直に痒いところに手が届かないのでしょう。触れてるには違いないと思うほど確かにこうやって触れているんだけど、そこに向こうに物を見て、こちらに自分を見て、今触れてるって言う風な見方をしてる。本当に触れる時は、こっちとかって言うもの無くなるものですよ。

もし向こうとかこっちとか言う様なものがあったら、きちっと触れてないじゃないですか。触れたって言う、此処に一線がこう出来るじゃないですか。向こうのものとこっちのものが一つになりましたって言う一線が有る様なものは、本当に触れたとは言わないよ。本当に触れるとそう言う、此処で触れましたって言う様なものは、確実に消える。それが残ってるって言う事は、人間の見解が其処にあるって言う事でしょう。ああ、今向こうとこっちのものと一つになりましたって言うものの見方を持ってるでしょう。ねぇ。そう言う処が一番問題になるのでしょう。その僅かな処から、色んなものが問題が起きてくるのでしょう。

「あまれる十方あらず、」今この様子だけではないですか。まだ他に何かありますか、皆さん此処で今、生活してて。これは世界の今の状況の中の、僅か円通寺に居る時の今の様子だけだって言う風に、こう言う大きなものの中のこの位の処にいるって言う風に人間は考えるんじゃないですか。だけど自分の事よく見てみると、此処にいるこれで全部でしょう。違いますか。この他に何か有りますか、今生活してる事が、自分に。

考え方は違いますよ。家に帰ったら、外に出たら、ねぇ。他所の国とか家はとか、色んな事を考えるともう一杯色んな事が、今こうやってる事の他に有る様に思うじゃないですか。思う事と事実は違いますよ。事実は此処でこうやってたら、これで全部ですよ。ねえ。だからここに居る時は此処にいる様子を大事にして過ごすんですよ。此処にいる時に家の事を、ああだとかあの人がどうだとかって言う様な事を思い巡らしていると、此処に居て生活してる事は殆どないがしろになる訳でしょう。で、何処で修行するんですか。エー、修行する場所はないじゃない。ねぇ。まあそう言う様な事がずーっと出て来るでしょう。

ちょっと一時間たったから、手足を伸ばして貰います。

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