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坐禅箴 Ⅵ

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坐禅箴Ⅵ_02
坐禅箴Ⅵ_03



「羅籠打破すれば」羅籠打破って言うのは、そう言う人間を縛ってるものの考え方や思い、そう言うものを本当に取っ払ったらって言う事です。ねえ、鳥を捕まえる籠とか獣を確保する網とかって言う様な物が、羅籠と言われてる。そう言う物を全部取り払うと本当に自由になる。坐ってる様子がそのまま仏様になるって言う事でしょう。それ以外に無いじゃないですか。

こうやって今も説明している。こうやった時に(おりん棒をみせる)こうやったらこの通りになるのでしょう。当たり前の事だけども、こうやったら(横にする)こうなる。こうやったら(立てる)こうなる。だけど自分の考え方を中心にすると、こう言う風になったり、こう言う風になったりするのは嫌だって思いがあるとですね、こうやった時に気に入らないって言う風になるのでしょう。こうやった時、気に入らない。で、気に入る様になる事が修行が進んだり、終わった事だと思ってる。そうじゃないですよ。今そう言う思いを皆さん方の中で持ってるんだったら、嘘ですよ。

人間の眼だってそうでしょう。自分の気に入る様になんてなりません。必ず向こうの姿のまま、眼が触れるとその通りになるだけですよ。何時でも。眼ってそうですよ。一つも自分の見方を持ってない。我儘なものの見方は眼は一切持ってない。どんなものでもこうやってそのものに触れたら、必ずその通りに見える様になってる。こんなに優しい働きをしてる。

逆らった事一切ない。好き嫌いを一切起こさない。どんなものでもそこに有れば、その通りこうやって。自分は嫌いだと思っても、こうやってそう言う事を飛び越えて、必ずその通りになる。ねぇ。考え方を離れると、そう言う事よーく分かる。 「羅籠打破すれば、」そういうもの本当に打ち破って、全部手放れてみると、自分のそうやって生活してる様子が自分ではっきりする。

「正当恁麼時」って言うのは、今です。今そうやって自分の考え方や見解と言うものをすっかり離れた様子の時です。ものに対して好き嫌いを起こさずに、こうやって触れる。具体的にはそう言うものです。ね。自分の好き嫌いを通さずに、付けずにこうやってものに触れてる時に、皆さんどうなるでしょう。

人間関係でも会社に勤めて色んなお仕事について、転々と職を変わる人沢山聞く。どうしたら耐えられるかって、そこで人間関係。そこを辞めてもですね、次の所へ行っても同じ様に人間関係ですね、自分が変わらない限りはですね、場所が変わっても、これはクリヤー出来ない。

正当恁麼の時、好き嫌いを、そう言うものの見方を止めてみると初めて、人間のつきあいの中で融通が利くようになる。嫌な奴だなあと思って、そうやって向かったら、素直に聞ける訳がないじゃないですか。ねえ。それ向こうの責任じゃないですよ。こっちが自分の中であいつ嫌だなあと思ったのは、こっちの責任ですよ。こっちが自分の中で、向こうに相談もせずに、勝手に自分の中で思うんですからね。ねえ。

向こうに、「ゴメンあなたの事、嫌いだって今から思うからね」って言って、「じゃどうぞ」って言って、「嫌な奴だ」って、そうやってやってる、そんな事しないんだからね。誰にも相談しないで、自分の中で勝手に相手の事を、そうやって蔑んでみたりする思いを、ふっとこの中で起こして、その事が触れた時に、人間関係をうまく行かさない様にしてるんだからね。

だからこうやって、正当恁麼の時って言うものが大事でしょう。自分の好き嫌いとか余分なもの付けずにいる時の自分でしょう。自分の好き嫌いとか余分なもの付けずにいる時の自分の在り方にこうやって目を向けてみると、ああ成る程こう言う事を自分でやってるから、こんなつまらない生き方になるんだって言う事が分かる。

そうすると、「千古万古」だからずーっとですね、途切れなく何時の時代でも「ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。」どんな人とでも付き合う力が出て来るでしょう。そう言うもんでしょう。自分の中で、嫌だなあって思う心を持って、こう触れると、嫌なな人の中には親しくこう入って行く力が無くなるじゃないですか。それ自分の付けたものですよ、勝手に。

坐禅て言うのはそう言う風にして坐ってる時に、自分の素肌って言うか、余分なものを一切付けずに活動してる直の生活してる、その自分にこうやって親しく居てみるって言う事、そうすると、自分の本当の在り様が直に伝わって来るじゃないですか。伝わるなんて時間が要らない体験。

こうやって触れるとどういう風になってるって思うんじゃんないですよ。こうやってやると、こうやった時に、どう言う風になってるって思わなくても、こうやって触ったら、触ってる様子がいきなりちゃんとはっきりするのでしょう。考えなくてもこうやって触ったら、触った時の様子が自分の上にちゃんとあるからね。

人間は考えないと分からないと思ってるのね、殆ど。そんな事ないですよ。自分自身の今生活してる実物に、自分自身が触れたら、自分自身がどうあるかって言うのが、眺めなくても分かる。

こうやって抓った時にですね、眺めなくても否応なし、こうやっただけでこうやった事がどうなってるかはっきりしてます。やってみりゃわかる。エー。考えなくたって分かるでしょう。痛いとか痛くないとかって言う様な事を表現をしなくたって、この通りの事が出て来るんだもん。摘まんだ強さの通りの内容がその通りずれずに出て来るんだもん。

パン!こうやって、もうその通りの事、いきなりこの上に出て来る。如来、如去と言われる様に、出た来た様になるけど、何処にも出て来た場所も時間も見届けられる様なものの無い活動です。坐禅てそうやって自分の考え方を使わずに、生身のものにこう親しく居る時間です。そうすると、次にもある「進歩退歩、したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。」一々その事によって。

皆さんはつまらない事だって思う様な事でもですね、さっきもちょっと有ったけども、人が歩いてて転んだ。そう言う現象が起きた時に、あまり転ぶって喜ぶ人は居ない。だけども、ロボットを作っている人達はですね、人が歩いてる時に転んだって言う事があるとですね、その転ぶ事って言う事の中で、どうやったら人間の様に歩くロボットが出来るかって言う事を学ぶんですねぇ。この転ぶ中に、転ばないって言う事が隠されてます。不思議なもんですねぇ。

病気はしたくないっていうけども、病気をした時に、病気をした中に、病気はどう言う事が起こるかって言う事が、この病気をしたらどういう事が起こるかって言う事が、皆その中に示されてる。それ位捨てるものは一切ない。本当にここに有る様に、「したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。」って言う様な事ですかね。

人間の考え方から言えば、怪我をしない方が良い。怪我をした時に、何で怪我しちゃったんだろう、怪我しない方が良いとか色々思うんだけど、皆その事が人を救うう大事な事なんですね。腹が痛い時に、みんなさんよく分かるけど、腹が痛くなかったら、どうするんですか。腹が痛くない方が良いでしょう。腹が痛い時、腹が痛くない方が良いって皆思ってるけど、腹が痛い時腹が痛いから、ありがたい事に病気が分かるのでしょう。気づかしてくれるのでしょう。

だけど人間の考え方はそうじゃないからね。痛い時に痛くない様にしたいって、そういう風に考えるんです。修行もそう考えてる、さっきの様に。ねえ。坐って、もう少しこうなったら良いってものを他に持ってるじゃないですか。そうでない。そっちへ進む様な事はしない。そのままの状況の中で、居てみないと本当に良さが分からない。

苦しい時に苦しくない方が良いに決まってる。だけども苦しい時に苦しみの中に居てみると、それがどう言う事か良く分かる。よく分かると、その苦しみの中で人は救われるんだね。不思議だね。他のものを持って来なくても、それで救われる。

悪い事はしない方が良いけども、悪い事をした時に、悪い事をした様になるから、それをちゃんと自分でこうやって見ると、悪い事をするって言う事こうなるって言う事がわかるとですね、悪い事しなくなるんです。悪い事をしても、それが悪いと思わないから、悪い事止めないだけだからね。

だから収監されて独房の様な中に入って、酷い事した人達は自分をみつめ直す事をさせられるでしょう。で、反省文とか何か色々書くでしょう。その自分がやった事に対して気づく迄は出さないじゃないですか。気づかない間は、自分がやった事がどう言う事か気づかない間は、反省にならない。

他のもの持って来なくても良い様に、皆出来てる、そのもので。そう言う様なものが、進むとか退くとかって書いてある、進歩退歩とかありますが。どれを取り上げても、そのもので人は十分勉強が出来る。修行が出来る。で、知らない人は、自分の今体験してる事が嫌だから、他の気に入ったもの持ってきて、それで何かしようと思うから、全部現実から逃避するじゃないですか。そんなの救われる訳がないじゃん。現実を逃避したら。

修行の大事なのは、そういう風に必ず自分自身の今の、隠しようのない自分自身の在り様、そのものに学ぶって言う事ですね。参ずる、学ぶ。学ぶって言う事は、直に自分自身そのもので居れるって言う事です。毎日こうやって生活してるんだけど、自分自身がどう言う風に生活してるかって事に本当に人は疎いよ。

ものを食べたってそうでしょう。口に入れればその入れたものの味が間違いなくする筈なのに、どんな味がしてますかって聞いても、良く分からん。そんな風にはなってない、この機能、器官、舌って言うのは。口に入れたらそのものの味がですね、誰でもはっきりする様に出来てる。生まれた初めて口に入れたものでも、食べてですね、それでも味がちゃんとする。

生まれて初めてこうやって出された物をでも、見えない事はない。皆はっきりしてる。そう言うものですよ。不思議でしょう。生まれて初めてで、体験が無いから良く分からないと思うでしょう。

だからその前に、「初心いずれのところにかおく。」って言う様な事を、この前の処に、終りの方の文章だったんだけども、ものを始めるのに、一度もやった事の無い処からしか始められないじゃないですか。エー。私、初めてだからって尻込む人が居るけど、ものを最初に学ぶって言う事は、誰だって一度もやった事のない処から始まるんだよね。だから尻込みする用がないじゃないですか、初めてって言って。そう言うもんじゃないですか。

初めてこうやって見せられて、(おりんを見せる)、ちゃんと見えるんだもん良いじゃない。初めて聞いて、チーン!ちゃんと聞こえるんだもん、良いじゃないですか。本当は分からない事なんか何も無いよ。

坐禅も初めてって言うけど、何十年もやってる人って、今日坐るのは初めてですからね。そう言うもんですよ。何十年も坐って来たたって、今日坐る坐禅は初めてですよ。皆初めてですよ。おれは何十年も坐ってるからって、そんな坐禅は無い。そんな偉そうな顔する坐禅なんか絶対しない、出来ない。初めて一緒に今、坐るんです。そう言うものですよ。

まあこれで、この辺迄。四時だからあと三十分位、質疑、何でも聞いてみたい事や言いたい事があったら、どうぞ。


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