FC2ブログ

鉢盂 Ⅳ(終) 正法眼蔵第七十一

音声はこちら ↓

鉢盂_04_01
鉢盂_04_02
鉢盂_04_03
鉢盂_04_04
鉢盂_04_05


「鉢盂は但以衆法、合成鉢盂なり。但以鉢盂、合成鉢盂なり。但似渾身、合成鉢盂なり。但似虚空、合成鉢盂なり。但似鉢盂、合成鉢盂なり。」色々な言い方をしております、ねぇ。色んな言い方をしますけども、その時に出会った事によって、その時の様子が必ず在ると言う事じゃないですか。その事に出会った事に依って、その時の様子が出て来るのでしょう。その時に出会わない事で、その時の様子が出て来た事が無いじゃん。当たり前の話じゃん。

文章にするとこんな厄介な文章になるかもしれない。読んで見れば、そう言う事が書いてあるだけでしょう。「鉢盂は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる。」その時にその事しかないって言う事でしょう。その時にその事しか無い、他の事がそこへ差し挟む事が出来ない様になってるって言う事が、罣礙せらてるって言う事でしょう。

時間的にも場所的にもそうですよ。必ずその時にその所で行われるものは、他の物が一切そこに差し挟まれない様になってるでしょう。詳しく見てみたら、皆そうなってます。で、それがよく分かってみると、其の儘どうしなくても大丈夫だって事が、よく分かるでしょう。

染汚せらるって言うのもそうでしょう。赤い薔薇にこうやって触れたら、その物に、その物を見てますから、それ以外の色に成る訳がないじゃん。必ず赤い薔薇に触れたら赤い色に成るのでしょう。その赤い薔薇の色に邪魔をされて、他の薔薇がそこに有ってもですよ、隣に有っても邪魔されずに、赤い薔薇は赤いまま、その物に邪魔されて、他の色がそこに入って来ない様に見える様になってるじゃないですか。ま、そう言う様な事を、こんなに丁寧におっしゃっておられる。

「いま雲水の伝持せる鉢孟、」一緒に修行してるお坊さん達がそれぞれ持っている食器ですね、「すなはち四天王奉献の鉢盂なり。」人は生まれた時に、自分の食い扶持を、皆持って生まれて来ると言う様な言い方を、俗にするのでしょう。で、修行道場もお坊さん達が増えると、その数に従って大体食事が集まって来る。

一軒の家でもそうでしょう。人、口数、口数が増えれば、大体その口数が増えた分位は、食事が賄える様になってる。そう言う力を皆持ってる訳でしょう。働かないと駄目ですよ。ねぇ、皆それぞれ自分の本分の働きがあるから、自分の本分の働きをすると、そうやって食べられる。

赤ちゃんなんか何も働かないと思ってるけど、赤ちゃんが生まれると、周りに居る人がですね、色んな物を持って来るでしょう。徳があるのよ、ちゃんと。人に一つも施した事の無い様な人でもですよ、赤ちゃんが居て、そうすると、可愛らしい子がそこに居ると、つい今まで誰にも上げた事が無い人が、自分の持ち物の中から、何か子供にこうやって上げる、そう言う徳分もある。病気をして休んでる人が居ると、働いてないらしいんだけど、人に慈悲心を起こさせる力もある。色んな、本当に不思議な力を人間は持ってるね。

「鉢盂もし四天王奉献せざれば現前せず。」四天王が本当に厄介だね。こう言う文章をだすもんだから、凄く厄介になる。東西南北を守ってくれる仏様として四天王が置かれていますね。それは後に人間がそう言う位置づけをしたのでしょう。今の事実に対して。説明するのに、そう言う色んな言い分を付けて説明したのでしょう。頂いてる、この身心と言われるこの大きな器、それがそうやって全ての物に依って守られて来たのでしょう。

そうでなければ、この世に生まれてこうやって此処に現存する事が出来ない。その条件が整わないと、人間の形としてこの世に生まれ落ちないし、生存出来ないじゃん。そう言う様な事が、この四天王の奉献すると言われる様な言い分になるのでしょう。

「いま諸方に伝仏正法眼蔵の仏祖の正伝せる鉢盂、これ透脱古今底の鉢盂なり。」伝えられている、仏様の正法眼蔵の様子として伝えられている鉢盂。正法眼蔵って言う、真実と言う言葉に置き換えておいても、そう問題は無いと思います。俗っぽいって言われれば、それまでです。正法眼蔵って言うものを真実と置き換えてしまうと、あまりにも俗っぽいかも知れない。

何かそうやって特殊なものの様に言葉を使う事によって、私達もたぶらかされて来た事が沢山ある。言葉を知らないからねぇ。言葉の示してるものが、ちょっとニュアンスが違うと、違うものが有る様に思うじゃない。空だとか禪だとか真実だとか真如だとか仏性だとか、もう色んな言葉が沢山使われてるもんだから、色んなものが有る様に思ってるけど、ただ、パン!(机を竹篦で打つ)こうやって音がする時に、その通りの事があるって言うだけ話でしょうが。

世界中にどの位の言語があるか知れないけれど、言語は沢山あるけども、その一つ一つの言語の示す物は、一つ物を色んな言語で示してる。そうでないと言語が役に立たないじゃないですか。違った物を違った言語で示すんだったら、駄目ですよね。同じ一つの物を色んな言語で示してるだけであって、沢山言語が有るからって言って、物が一杯有る訳じゃないですよね。そのもの示す、そうやって示してるに違いない。

例えば、人について各自異なる名称が付けられていますが、どれもその人を示すものです。似た名前(同性同名)がある場合には、何時、何処で生まれたのかと言ったものを付けますと、誰のことかはっきりします。そう言う物が、「正法眼蔵の仏祖の正伝せる鉢盂」と言われる事でしょう。

古今を透脱するとは、古今東西と言っても良いでしょう。世界中と言っても良いでしょう。ありとあらゆるものを通じてと言っても良いでしょうが、そう言うものから皆、そう言う縛られている物からかけ離れる程確かな、今様子があるんじゃないですか。今の様子って何処から出て来るのでしょう。古今、古今、古今を問わないよ、今の様子って。今の様子って残った事がない。不思議だからね。不思議だね。そう言うの知ってるでしょう、皆さん。今の様子は絶対残らない。透脱。そう言う面白い働きをするものでしょう。「古今底の鉢盂なり。」

これ皆さん、自分の応量器ですね。自己なりとも参学するなりとあったでしょう。鉢盂は自己なりと参学するなり、って言うのも有ったでしょう。仏祖の身心なりと参学するって言う事ですね。本当にこう言う風に出来てるんでしょう。

「しかあれば、いまこの鉢盂は、鉄漢の旧見を覰破せり。」これ修行してる人達でしょう。私達の古いものの見方、どこかに既存の概念としてものを見てる様なもの、皆打ち破る力がある。それが幸せな世界を生み出すのでしょう。輝かしい日々を生み出すのでしょう。そうでないと何時までも前のものに囚われた、そう言うつまらない生活しかしない。そうすると生きてても楽しくない人生になるのでしょう。

現実でもそうだけども、私なんかこうやって何時も話すんだけど、生きてるって事、本当にねぇ、一度も体験したこと無い事しかやらないんだね。生きてるって事、その事だもんね。今こうやって横をこうやって向くにしたって、一度もいまだかってやった事が無い。今初めてやる。皆そうですよ。

そう言う事に自分が触れているのにも拘らず、この新鮮で採りたてで、胡瓜だったら、なんかもいで来たばっかりみたいな、素晴らしい美味しそうな物なのに、実物の方を相手にせずに、一週間位前に買って来た冷蔵庫に入れてある様な物を出して来て、とやかくやる様な生活してる訳でしょう。何でこんな古くなっちゃったとか。それは面白くないに決まってますよ、そんな生活したら。

「木橛の商量に拘牽せられず、」木で作った器だとかって言う様な話になるのでしょう。そう言う事を取り上げてる。商量って言うのは、物がそこに有った時に、値段をつける時にお互いですね、最初に、大根一本でもこいで来るとですね、値段が付いて無いから、作った人と買い手が居る場合に、そこでお互い話あって値段が作られるって言うのが、商量と言われる。それをお坊さん達の世界では問答をすると言っています。値踏みをする、ね。商量するってのはそう言う事です。

一般の物価だってそうでしょう。何か作った時、何でそれだけの値段が付けられるかって言う時には、皆商量するのでしょう、会社の中で。人件費が幾らだとか、材料費が幾らだとか、運搬費が幾らだとか、製作する時に、考えてそう言う物が要る人達が、どの位日にちが掛かってそう言う物が考案されたとか、要するに有形無形の物が皆、噛み合わされて、じゃこの位人件費も掛かったし、この位人が居て何年掛かってこれが出来たんだからって言うと、この位で売れば何とかなるかって言う様な事で出て来るのでしょう。

それをやらないと、今度は買い手の人達との間で、具合よくその値踏みしたものが折り合わないと、商品は売れなかったりするのでしょうね。まあそう言うのが商量と言ってる。そう言うものに縛られないとある。応量器だから、一人一人自分の、見るにしても聞くにしても食べるにしても働くにしてもそう、その人の持ってる力一杯にしか受けられない様になってる。それ以上だと溢れてしまう。

難しいよね。同じ給料を払って、仕事内容を見るとですね、じゃあ均等に仕事をしてるって言う事が言えるかって言うと。何処で均等性を保つかって言うと、八時間労働だったら、八時間そこに居てそれなりに、まあそうですね、八時間過ごしてくれれば、一応同じとして線を引くのでしょう。だけど厳密に言ったら、同じ八時間そこで働いていても、評価が違うって言うのが、今問われて居る訳でしょ。考え方が最近問われてる訳でしょ。難しいよね、そう言うのは。

だけども自分自身の事をこうやってよく見てみると、他人が自分よりも沢山ご飯を食べる時に、沢山食べていてもですね、用ないもんね。自分一杯で、お腹一杯になるんだったら、向こうの人が二杯食べてようが十杯食べてようが、羨ましいなんて事無いでしょう。何だろうね、そう言うのは。何処が違うんだろうね。遊んで居ても二十四時間、一生懸命やっても二十四時間超える事はないとか言う様なものもある。大丈夫でしょう。

だけど何処で人はイライラするのでしょう。人の事がやっぱり気になるんでしょうねぇ。良い仕事してる人達は、あまり他人のやってる事気にしないね。ひたすらに自分の事やっていますね。それで大体間に合ってますね。不思議。そうすると良い評価も大体ある。不思議に。良い評価される。それで良いのじゃないかなぁと思うんだけど。そう言う様な事が、商量に縛られないと言う様な事に当てはまるんじゃないかと思いますがね。

「瓦礫の声色を超越せり。」その瓦で出来てるとか、その色がどうだとか、コンコンと弾いてみるといい音がするとか言う様な事ですかね。値踏みをしてるのでしょう。器とかお袈裟の出来栄えとかって言う様なもの。そう言う世俗の判断、そう言うものを超えて居るって言うものがあるんじゃないですか。「石玉の活計を罣礙せざるなり。」石はつまらない方でしょうか。玉は素晴らしい方でしょう、ねぇ。優劣と言って良いでしょう。それぞれその物はその物の良さがあって、比べる事が、本来出来ないのでしょうねぇ。

もし比べる事があるとすれば、そこに条件と言うものを持ち込んだ時に初めて、その条件にどれだけ叶うかと言う事に拠って、暫く役に立つとか立たないとかって言う様な活計ですね、計り事がそこで行われる。それも条件が変われば、立ちどころに今決めたものが転換する位、何だろう決まり事は無い。「罣礙せざるなり。」と言われる所以でしょう。

昨日は良いって言っても、今日は駄目って言う位、極端に変わる訳でしょう。そうすると頭の固い人はついて行けない訳でしょう。エー。何で昨日は良いって言ったのに、今日は駄目だって言う風に、前のものを持ってますから。だけども眼はさっきまで赤い物を見てても、白い物を見た時に、こんなに苦も無くサラっと変わる力を持っていて、腹も立たない。エー。そう言うのが私達の本来の活動の様子の一端でしょう。こうやって学んでいくのでしょう、自分自身の様子に。何処が問題になってるか。

「碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承当しきたれり。」ものを本当に学ぶ時に、もう一度繰り返しておきますけども、人間の見解をつけずに実物そのものにこうやって触れてみるって言う事が要求されると言う事でしょう。それが人が、殆どの人が見ない世界じゃないですか。誰もが生活をしている中で使っているんだけけど、自分のそうやって自分の見解をつけずに触れている時の自分の在り様を、殆どそこに目向けた事がない。

人間の多分欠陥として、最大の欠陥じゃないですか。自分が今生きているにも拘らず、生きてる真相、本当に生きてる時の在り様ってどうなってるか、って言う事を触れた事が無い。皆考え方の上でものを見てる位の処しかやらない。と言う様な事の指摘が、そこに有る様に、「碌塼といふことなかれ、木橛といふことなかれ。かくのごとく承当しきたれり。」と言う事は、そう言う事を指すのでしょう。今本当に各自、自分自身のこうやって在り様に触れて貰いたい。

坐禅をするって言う事だってそうでしょう。今の自分自身の真相に触れるって言う事でしょう。そうすると、自分で学んで来た、考えていた、思っていた、そう言う様子と全く違う自分の活動してる様子がある、それが本来の人の在り様じゃないですか。何処で学んだって良いじゃない。自分自身の様子だから。

で今日は鉢盂と言う、応量器と言われる器、食器に、それを題材にして道元禅師、何でこんな事を取り上げたか知りませんけれども、ある日こんな事を話されたんでしょうねぇ。お坊さんたちの跡継ぎをする人を、一方では羅喉羅と言います。これは羅喉羅はお釈迦様のお子さんが羅悟羅と言われる人だったからですね。もう一方は応量器って言う表現をします。まあ隠語です。お坊さん跡を継ぐ人の事を、あの人は私の応量器だとか。そうやって受け継いでいく者としてですね、上げられます。不思議な入れ物ですね。これ一つだけを貰って、一生涯使う。

人が生まれて来た時に、この自分と言う、身心と言われる応量器を一つ頂いて、で、この応量器は生涯使う。普通使ってる食器は、そこへ行った時に色んな食器が有って使ってますけど、このものの食器としてのものは、この身心です。そう言う物が今日応量器と言う風にして、鉢盂(ハウ)って言う風なもので道元禅師が取り扱っておられると言う事ですね。まあ、割と、これ短い文章でございます。一回で終わりです。良かった。言う事にしましょう。


スポンサーサイト



コメント

非公開コメント