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鉢盂 Ⅲ 正法眼蔵第七十一

音声はこちら ↓

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エーとどのつまり如何だって。「畢竟如何」如浄禅師は自らそうやって、おっしゃってる。「浄慈の鉢盂、天童に移過して喫飯す』。浄慈寺って言うお寺があって、そこに天童寺に来る前に如浄禅師は居られて、で、今は浄慈寺から天童寺に、この頃天童寺って言ってたかどうか知りませんが、天童山と言う山があって、そこに引っ越して来られた、って言う事ですね。移過して、移って来て、で相変わらずここでご飯を食べてるって言う事でしょう。

鉢盂、向こうで食べてた器をこっちへ持って来て、ここで食べてるって言う事でしょう。鉢盂って言うのは、先程幾つも色んな人の学び方が、こう挙げてあったから、身体と思う人もあれば、仏様の眼だと学ぶ人もあれば、光明と学ぶ人もあれば、器と学ぶ人もあれば、真実体と学ぶ人もあれば、涅槃妙心と言う風にして学ぶ人もあれば、仏祖の転処として、そう言う様子を学ぶ人もあるって言う様な事が挙げられて居る通りですね。

本当に言いたい事はですね、この身、この身心一つで私達は生涯過ごしているって事が言いたいだけです。何処へ行っても何時でも、この頂いてる身心一つの活動だけで生活してるって言う事です。それがここで表題になってる鉢盂なんです。こう言うものです。

この鉢盂は、眼耳鼻舌身意って言う六つの感覚器官が付いてる面白い鉢盂だから、外界に有る物が眼を通じてこの中に入って来ると言って良いか、見える。外界にある音声が、聞こえると言って良い。そう言う風にして、皆この中に、この鉢盂の中に皆入れて、それで生活してる訳ですよね。それを栄養素として生きてる、活動してる。一切この自分自身の身心の他で何かをした事がない。毎度そう言う事がずーっと説かれるのでしょう。色々なものを挙げて。

だけど超えがたい、人間に超えがたいものがある。それはこうやって居るとですね、どうしても自分の事だとは思えない。(笑) 自分の、自分の身心の様子だとは思わない。向こうに有る物を私が見てるとしか思えない位の人が殆どじゃないですか。何時からこれ、分ける様になったんですか。自分と自分以外のものに。こうやって、今、生活してる時に、見る前に皆、物が先に在るんですよ。エー。こうやって今、こうやって見る前に先に皆物が有るんですよ。在るでしょう見る前に。

それどう言う事かと言ったら、向こうとこっちと分けてないって事でしょう。見るって言うのは、向こうとこっちを分けるんでしょう。分かりますか。見るって言うのは、向こうにあって、こちらに自分が居て、向こうに物があって、そう言う風なものを見るって言うんでしょう。だけど見る前に先に在るんでしょう。在るって言う事は向こうとかこっちとか、はなから言わないのでしょう。それ全部自分の様子だからね、最初から。

こうやった時に、こうあるって事が、ねぇ。そう言う自分達の今の在り様に、こうやって一度触れてみないと。考え方を離れないと、それ分からない。これを(自分を指す)私を思ってる上から物を眺めてるから無理じゃん、どうしても。これは私って言って、これだけを区切って物を見てる上からものを考えたら、絶対無理。修行の一番皆さんに必要視されてるのは、そこじゃないですか。

自分自身の事だけど、自分自身と言うものを立てて物を見始めた処からしか物を見た事が無い。そうじゃなくて、本当の自分の今の様子にこうやって触れてみると、自分らしいものが一つも無しに生活してる実体がある。それがここでも祖殺、そせいと書いてありますが坐殺ですね。坐って殺すと書いてある。何を殺すかったら、自他の分別の心が死ぬると言う事でしょう。それが坐ってる時の在り様じゃないですか。そう言う事を、まあ重要視する訳です。

「奇特事はまさに奇特人のためにすべし。」その事を本当に知りたいと思っている人に向かって説かないとですね、いくら真実を説いてもですね、自分の求めてるものが全く違うものを求めてる人にはですね、話しても聞き入れる力が無い。それ普段の色んな仕事だってそうでしょう、お互いに向き合ってやる時に。今必要なものがあったら、その必要なものをその必要な人に示せば伝わるけど、そうでないと伝わらないじゃないですか。この通りですよね。

「奇特事はまさに奇特人のためにすべし。」だからものを学ぶ時に、自分のものを持ってここに学びに来ると、その自分の持ってるものが邪魔をしてですね、幾らここで皆さんに差し上げてもですね、入らない。只ここに居て聞いてれば、私の喋る通りに聞こえる。それが一番良い聞き方。

皆、そうやってると分からないと思うから、一生懸命考えながら聞くじゃない。考えながら聞くとですね、音がしててもその通り聞く力が無くなっちゃうんです。不思議ですね。物がそこにこうやって展開してても、その通りこうやって見る力がなくなる。理解しようと思って、考え方を一生懸命こうやって入れてやると。そう言うもんでしょう。体験があるでしょう。エー。良さそうなんだけど、そうなるんですよ。やると。無条件の時が一番良い。

「奇特事には奇特の調度をもちゐるべきなり。」その事を本当に伝えようと思ったら、その事を以て伝えるって言う事でしょう。生活しているのを見てごらんなさい。必ずその時にその事を以て、その時の事が伝わる様になってるじゃないですか。他の事を持って来て伝えた事無いじゃないですか、その時に、一切。だから何の奇時の事かあらん、て言う位平凡じゃないですか。ああやって戸が開いた時に、戸が開いた様子がそのまま伝わる様に出来てる訳でしょう。他のもの何も持って来ないでしょう。ねぇ。

「これすなはち奇特の時節なり。」何もしないんだけども、何もしないと、その時にその通りの事が、そのままそこにちゃーんと現れる様になってる、伝わる様になってる。こう言うのを奇特の事と言うのでしょう。奇特の時節と言うのでしょう。本当に滅多に無いんじゃなくて、本当に、本当にその時それ以外に無い程、奇特の事なんでしょう。奇特の時節なんでしょう。だけどそれ平凡な事でしょう。常にそう言う事で成り立ってるでしょう。

「しかあればすなはち、奇特事現成せるところ、奇特鉢盂なり。」特殊な事じゃない。奇特鉢盂って言ったら、そう言う事でしょう。本来のそのものの持ってる良さが、そこで発揮される訳でしょう。皆さんの本来の力が、何時でもそこで発揮されるのでしょう。ものに出会うと、そこで色々な諸現象に出会うと、こちらでどうもしないのに、その諸現象に出会うと、このものは見事に対応出来る力を持ってるじゃない。

対応が出来なくなるのは、一に自分の中で、ああじゃないかこうじゃないかって、考え方を弄ぶ様になると、たちまちこれが不自由になると言う事を体験してるでしょうが。他の人が誰も苦しめてないんだよ。不思議に。自分の考え方が自分の中で起きると、その自分の考え方で自分が不自由になって動けなくなってるんですよ。

あの人ああ言う事言ってるけど、こっちの人こう言ってるって、どっちだろうって、そうやって思い始めるともう自分でどうしようもない。すぐそう行き詰まる。道は十方に通ず、ですからね。あの、何処へでも行けるんですよ。一つや二つのものじゃないんだよ、進む道は。決められてる訳じゃない。どんなにでも何処へでも自由にこうやって行ける力持ってる。

「これをもて四天王をして護持せしめ、諸龍王をして擁護せしむる、仏道の玄軌なり。」まあここでは、そうやって四天王とか龍王とかって言う様なものを挙げてありますけども、何が真実を大事に守ってくれるか分からないね。一応そう言う架空のものを挙げてある、四天王とか龍王とか。誰が来ても、どんな人が出て来ても、この真実と言うものは打ち壊す事が出来ない。そう言うものでしょう。真実って。そう言うものが仏道の玄軌と言われる。奥深いものの道理って言うんだけど、奥深いって言うと、何か下の方をずっと見ていく様な気がするんだけど、目の当たりにそうでしょ、真実って言うのは。

事実はどんな事をしても歪める事は出来ない。だけど問題は、考え方の上だけで色んな事を言うから、それを取り上げて争い事が起きてる。そう言う事は平常行われてる訳じゃん。で、皆さんに力をつけて貰うためには、うわべの事だけでものを判断するんじゃなくて、本当の真相をちゃーんと触れて見極めてほしい。そう言う様なものが有る訳でしょう。

「このゆゑに仏祖に奉献し、仏祖より附囑せらる。」そう言う事があるから、眼のはっきりした人達を大事にして、そしてそう言う人達によってですね、この事が語り継がれて、それを皆さん方も頂いて実践して行くって言う事になるのでしょう。

次の段、「仏祖の堂奥に参学せざるともがらいはく、」って言う事は、ものの真相を本当に勉強した事のない人は、うわべだけでって、今話した様にうわべだけでものを取り扱ってるって言う様な事が、道元禅師が示しておられるでしょう。

例えばですよ、仏様方がかけている袈裟、私達もかけている袈裟、「仏袈裟は、絹なり、布なり、化絲のをりなせるところなりといふ。」要するに、この物の素材とか織り方とかそう言うものだけを取り上げてる。袈裟って何を指すかって言う事まで勉強していないと言う事でしょう。

だからこの上に付けてる袈裟を外すと、たちまち無くなってしまう。本当の袈裟って言うのは、剥がせる様なものではない。剥ぎ取れる様なものではないのが、袈裟の真意です。まあ袈裟功徳の巻もあるから、そう言う処をまた重ねて、もし勉強する事があったら、読んでみて頂いたら良い。

それと同様この食事の器ですね、「仏鉢盂は、石なり、瓦なり、鉄なりといふ。」それはどう言うもので出来てるかって言う事だけを見てると言う事です。木で出来てるお椀だとか、鉄で出来てるお椀だとかって言う様な事ですね。「かくのごとくいふは、未具参学眼のゆゑなり。」ものを本当に学ぶ力が無い人達だと言ってる。

私が此処へ来てしょっちゅう話してるんだけど、「こうやって見てごらん」て言うと、参学眼の無い人は、こうやって見た時に、何だろうって、何を言わんとしてるんだろうって、分からない。こうやってやるとこう言う風になるでしょ、こう言う風に見えるでしょって。
それが何だって言うんですよ。毎日そうやって物を見て生活してる訳でしょ。だから参学眼が無いとそれが何だか分からないから、そんな中でもの勉強が出来る訳がないと思ってる。

そうじゃない。よく見てみると、こうやって見た時に、説明をさせて貰ってる様にですね、皆さんの眼はこうやって否応なしに、前見てた物からこう離れて、今見てる物だけで、こうやって生活が出来る様になってるって言う事が参学眼のある人です。

だから悩んだ事無いでしょう、こうやって見てて。何かと比べて見ないでしょう。今見えてる様子だけでしょう、何時でも。それが眼の様子ですよ。だからどんな物がこうやって見えてもその通り見えるだけで、それで人が苦しむって事無しに生きてるじゃないですか。それが参学眼のある人です。

耳だってそうじゃん。参学眼が無いと、音がする様に聞こえる、音が止んだら聞こえなくなるってその程度じゃん。参学の力ある人は、もし本当にそうだったら、何で朝叱られた事が夜になっても自分で腹が立つかって言った時に、これはおかしいぞって思わない方が変じゃないですか。聞こえないんだもん。聞こえてないのに腹が立つ。

そう言う事を問題にしてるって事は、参学眼が無いでしょう。本当の耳の様子がどうなってるかって事を、毎日使って聞いてるんだけど、知らないじゃない。一応音がした時に聞こえ、音がしなくなると聞こえないって事分かってる筈なのに、それでも自分の生活の中では何の役にも立ってない。ねぇ。それが参学眼が無いと言うんですよ。他の事で勉強するんじゃないですよ。

「仏袈裟は仏袈裟なり、さらに絹・布の見あるべからず。絹布等の見は旧見なり。」固定概念、固定観念、下に訳してある。何処かで習い覚えた滓だって言う。本当に自分の眼で見てごらん、ね。「仏鉢盂は仏鉢盂なり、さらに石瓦というべからず、」鉄だとか木だとか言うべからず。

こう言うのは、よーく味わって見て欲しい。人間の考え方を通じて見ているものと、実物に触れている時の自分の様子とが違うと言う事を言いたいだけですよ。実物に触れてる時には、そう言う鉄だとか石だとか木だとか布だとか絹だとかって言う風に見え方は一切しないじゃないですか。その通り見えるだけじゃん。

だから優劣も無いじゃん。じゃ優劣が無いから違いが分からないのか、違いは分かります。良いじゃない。誰からも教えられなくても、違いは分かる。ごちゃごちゃに成った事がない。それがものに本当に学ぶ時の私達の在り方でしょう。自分の考え方を離れて物に触れるって言う事は、そう言う事でしょう。それを知らないと旧見を持ってる訳でしょう。昔学んだものの見方って言うものを持って、そう言うものを持って、そう言うものに向かって、ああ、ああ成ってるこう成ってるって言う風な見方をしてる。それとは違うんですね。

まあそこは一段そう言う事があって、「おほよそ仏鉢盂はこれ造作にあらず、消滅にあらず。」こう言う事がだから、言われるのでしょう。この仏鉢盂って言うのが邪魔になるかも知れません。ものを理解する時に邪魔になるかも知れません。ちょっとものを置き換えて話をすれば良く分かるでしょう。

今こうやっている様子って言うものは、本当に作った人、誰も居ないですよ、今のこの様子。そう思いませんか。今のこの在り様って、誰が何時作ったんですか。皆今のこの様子が在るんだけど、誰も作らないですよ。「造作にあらず、消滅にあらず。」もそうですよ。今の様子って言うのは、こうやっているとですね、ドンドンドンドン変わって行くでしょう、内容は。だけども、変わって行く時にですね、前の物が消えて新しい物が出て来たって言う風に変わらないんですよ。(手を出して、グーからパーになる迄手を広げて見せる。)

これを見てるのと同じです。こうやって見てると、ずーっとこうやって見えて行く時に、前の物が無くなって新しい物が出て来るって言う風には見えないじゃないですか。やってみたら分かるでしょう。こうなるだけでしょう。何時も今の様子が見えてるだけじゃん。どっかから出て来るって気配も無いじゃん。有った物が無くなって行く気配もって言うのも無いでしょう。それが皆さんの今生活してる様子ですよ。

「去来せず、」行ったり来たりしない。「得失なし。」ああさっきまで見えてた物が無くなっちゃたって、それは考え方の上ではある。考え方の上ではある。眼の様子の中では、さっきの物がなくなっちゃったって言う風に見えてない。今物が出て来たって言って、頂いたと言う様な、得たと言う様なものはない。得失らしいものは何も無しにこうやっている。これよく見てごらん。

「新旧にわたらず、」古いとか新しいとかって言わない。道元禅師って言うのは、どう言う風に本当に過ごしておられるかって、こう言うのを見ると、よーく分かるでしょう。何処で修行をしてるか、間違いなく今の自分自身の、一人一人自分自身の在り様の中に目を向けると、こう言う事がはっきりしてるじゃないですか。

「古今にかかわれず、」これが奇特の事でしょう。何の奇特の事かあらんて言う事でしょう。極、平凡だって言うでしょう。だけども説明して見ると、こう言う風になってるでしょう、それ。「仏祖の衣盂は、」お袈裟と応量器ですね、「たとひ雲水を採集して現成せしむとも、」って言うのは、修行寺でお坊さん達を集めて、このお袈裟を付けて応量器を取り扱って修行してるって言う事ですね。「雲水の籮籠にあらず。」籮籠は魚を捕まえたり獣を捕まえる網ですね。そう言うのを籮籠と言います。このお袈裟や食器ですね、そういう物を取り扱って、お坊さん達を閉じ込めておく様な物じゃない。

「たとへ草木を採集して、現成せしむとも、草木の籮籠にあらず。」これはどう言う事を言うかって言うと、お袈裟を作るのに、蚕や、あるいは木の芯を叩いて糸を紡ぎ出したりするって言う様な事ですね。それから草木がある、そう言う様なものをくり抜いて食器を造ると言う様な事です。そうやって物を作る。「現成せしむとも、草木の籮籠にあらず。」そう言う草や木、そう言う様な物に捕まってですね、身動きの出来ない様なものじゃない。

その内容は「その宗旨は、」その一番言い現わしたいもの、知って貰いたい処、「宗旨は、」「水は衆法を合成して水なり、」今何とかって言う探査機がどっかに下(お)りたとか下(お)りないとかって言うニュースがありますが。物は、物はですね、一つっきりでは存在し得ないですね。合成って言うんですけど。寄り集まってって言う事でしょう。適切な言葉は、縁起と言われる言葉です。ね。

片一方だけでは物事は絶対生じないんですね。もう既にここに居るって事が、全ての物と一緒になってこうなってる訳ですから。エー。何処へ行ったってそうでしょう。このものだけがって言う様な事は有った事一つも無いじゃないですか。必ずそこへ行った時に、そこに在る全ての物と一緒になって今の在り様が構成されるんでしょう。

その中から僅かでも、今の物を取り除いてってと言う事は無いほど、そう言う風にしてものが成り立つのでしょう。そこにあるゴミ一つだって取り除いて、そしたら今の様子ではなくなっちゃうんだから。それ位全てのものと一緒になって物事が現れる様になってる。水だってそうでしょう。雲だってそうでしょう。「水を合成して水なり。」って。その物を本当に集めて、その物の様子になるんでしょう。その物以外の物を集めても、その物には成らない。そう言う言い方をするのでしょう。

自分の様子って言うものを見てもそうでしょう。全部自分の様子なんだけど、眼耳鼻舌身意って。全ての様子を集めて、自分と言うものの今の様子があるのでしょう。身体全体の様子を、何一つとして取り除く、排除する物は無い。誰もそうでしょう。



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