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鉢盂 Ⅱ  正法眼蔵第七十一

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「先師天童古仏、大宋宝慶元年、住天童日(天童に住せし日)、上堂云、『記得、僧問百丈(記し得たり、僧百丈に問ふ、)『如何是奇特事(如何ならんか是れ奇特の事』。百丈云、『独座大雄峰』。『大衆不得動著、且教坐殺者漢。今日忽有人問浄上座、『如何是奇特事』。只向他道『有甚奇特』。畢竟如何、浄慈鉢盂、移過天童喫飯』(大衆、動著すること得ざれ、且く者漢を坐殺せしめん。今日忽ち人あって浄上座に問わん、『如何ならんか是れ奇特の事』と。ただ他に向かって道うべし。『甚の奇特かあらん』。畢竟如何、浄慈の鉢盂、天童に移過して喫飯す。)』。」

まあこう言う様な事が如浄禅師がおっしゃられてる、と言うものを引いております。かつて百丈禅師がですね、百丈禅師の処で、あるお坊さんが百丈禅師に、百丈懐海禅師ですね、百丈さんは馬祖道一禅師のお弟子さんになるんですかね、尋ねられた。世の中で一番尊い、素晴らしいって言う事は如何言う事でしょうか、と言う風に訳して良いでしょう、奇特の事。あの人は奇特な人だって言う風に使うかもしれません。そう言うの聞いた事ありませんか。ね。人には中々出来ない様な事って言う意味に使っているのかしら。エー。

ここ訳では滅多に無いって言うになってます。有難いって言う事でしょう。有る事が難しい。有難い、とか。有難いって言う言葉はそう言う事でしょう。絶対にほかに出て来ない様な在り方をいつも有難い、有難いって。もうその時限り、その時、後にも先にも絶対無い様な、そう言うものを有難いと言ってます。他では触れられない。そう言うものが奇特の事でしょう。

じゃ何時でもそうじゃないですか。エー。何時でもそうだと皆さんは有難くなくなちゃう。たまにだと有難いと思ってるけど。この何時でもそうだって言う内容が、一回こっきりなんですね。後にも先にも其処に戻って来ることさえも出来ないでしょう。戻って来た人いますか、ああ有難い処に。そんな事ないでしょう。それ位有難い事ですよ。

で、その有難い内容って言うのは、もっと違った表現をしたら、どう言う事になるかったら、素晴らしいと言う事でしょう。希少価値があると言う事でしょう。世の中で一つしか無い事ですよ。皆さんは、宝石でも価値のある宝石って、如何いう物が高く取り扱われてるかって言うと、希少価値があるやつでしょう。有難いって言うのは希少価値なんか遥かに超えるんですよ。

毎日、皆さん生きてる、こんな有難い事は無いですよ。後でどっかでやるなんて事はない。だから自分の命の尊さを知ると、人は変わるでしょう。で、命の尊さを知る一つの道筋としては、やっぱり病気をなさったりしてですね、明日まで命が持つかって言う様な事がなんとなく感じられたりする体験を持つとですね、人生観が変わるじゃない。本当は初めっから人は生まれたら必ず死ぬと言うのが分かってるんだけど、もう一回ですね、生きてる間そう言う命に対する向き会い方をしないと、殆どの人が命って言うものは、明日死ぬなんて思ってる人居ないんだよ。エー。それ位あの、ウカウカ生きてる。まあそう言うな事も出て来るでしょう。

百丈禅師はどう言う風に答えられたかと言ったら、「独坐大雄峰」大雄峰って言うのは、当時百丈禅師がおられた場所が大雄峰と言う名前が付いているお山でしょうね。そこにおられた。そこで、だからここで坐ってるって言う事でしょう。こうやって、こうやって坐ってる。別に坐ってるって言う事に特別重点を置かなくたって良いでしょう。今皆さんがそこに居るって言う事でしょう。それが皆さん一番尊い事なんでしょう、今。

何を置いてもですよ、誰も、今ここにこうやってるって事が、これが尊い事なんでしょう。これがもし無かったら、どうなるんですか。これは、今こうやってるって事は、これから何かして、生きるとか死ぬるとかって言う様な事を遙かに超えてる。一切の心配なしにちゃんとしてるって事でしょう。

だけどもその真相を知らない人は、ここに居ながら、明日はどうやって過ごそうか、心配だなあって、そう言うものの学び方しか知らない。自分の実物にこうやって目を向けて見ると、この今ここにこうやって居るって事が、とてつもない内容なんでしょう。自分の真実そのものに触れてる様子です。何億の人が居ようが、他の人よりも自分自身の、生きている自分自身の様子にこうやって居るって言う事が、自分としては一人一人これ以上大事な事は無いでしょう。「独座大雄峰」。

だからその後にあった、何だっけ、「大衆不得動著、」を出され、うろたえるな、って言ってる。「不得動著」。これから何かする様なものじゃ無いでしょう、今こうやってる事は。毎度申し上げてますけど。これから何かしなきゃ、何処かに不足、不満、不平、そう言うものが有るかと言ったら、今のこの自分の在り様ってのは、一切そう言うものが無しに、もう完璧にちゃんとしてるんじゃないですか。

でも考え方は違いますよ。考え方って言うのは、自分の真実を見ないんだもん。頭の中で描いてる事を尋ねるだけだもん。しかし自分の真実生きてる今の様子にこう触れると、どうする用も無い程ちゃんとしている。そんなに素晴らしい生き様を、今ここで展開してるじゃない。

「且教坐殺者漢。」だから自分の本当のそう言う真相に坐ってですね、お目にかかってごらんと言うのでしょう。自分の素晴らしさに気づかないなんて、一生生きていたって、これほど哀れな事はないでしょう。お釈迦様が自覚された、自覚をされたって事は、自分のこの素晴らしさに気づいたのでしょう。誰もそうなってるって言う事でしょう。今の自分自身にこうやって触れてみると、今の自分自身がどれ位素晴らしい生き様をしてるかって言う事でしょう。

こんな不思議なものが世の中に出て来たんだよねぇ。こんな不思議なものが、エー。両親になる人が居られて、その縁を借りて出て来たには違いないけども、じゃ両親になる方がですね、このものを作るのにどれだけ何をしたんでしょう。

受精が行われて受胎して、そこに生命が宿った。その後ですね、母胎の中で、何だろう、核分裂かな、色んな物がドンドンドンドン分裂して、人間らしい形に成って行くのでしょう。その間お母さんが何か手助けした事無いですね、自分のお腹の中で。やってる事は自分の生命を育んで、栄養を取っている事によって育って行く。

その育って行く中でですね、身体の中に、何だろう、地球二回り半位の長い血管張り巡らされる、人間の身体の中に。その道路を身体の中に張り巡らす仕事だって、誰もした訳じゃない。臓器が色々有る。五臓六腑とか、或いは手足とか皮肉骨髄とか、色んな分け方があるけど、この身体に。これらが育つのに、誰がどうしたんだろうねぇ。今でもそう言う風にして人は育って来る。人間だけじゃない。あらゆる物が大体そうです。植物にしても、他の動物にしても。

「且教坐殺者漢。」自分自身こう言う様子。眼が物を見る力を、誰が何時養ったか。パン!耳が付いて音がすると聞こえる様になってる。聞こえるとそれがどう言う音か分かる様になってる。そんなの誰が作ったの。誰も教えた訳じゃない、作った訳じゃない。それを本来の自己と言うのでしょう。そう言うものが坐って、自分自身の今の真相に触れてみると、はっきりするじゃないですか。皆こんなに素晴らしく出来てるじゃない。

だけど、誰かに学んでものが分かる様になったと思ってるでしょう。そんな事は無いですよ。パン!口の中に物が入ると味がする。誰かが教えた訳じゃないですよ、誰も。手足を動かすって、どうやって手足を動かす事が出来る様になったんでしょうねぇ。呼吸をする。食べた物を外に排泄する。もうありとあらゆる事、どれ挙げてみても素晴らしい出来栄えですねぇ。エー。

これを作ろうと思うと、お金ではちょっと間に合わない。一兆や十兆や、その位の額では出来ないよ、これだけ素晴らしいものは。そう言う素晴らしいものが自分だから、その自分を粗末にしちゃいけないんじゃないですか。で他の人と比べると、何か自分がつまらない様に思うって、そんな事はないですよ。

「且教坐殺者漢。」坐ってって言う事は、本当に自分自身の様子に親しく在って。眺める様な間柄ではない、尋ねる様な間柄ではない親しさに居るって言う事が、坐殺する様子です。本当に坐るって。実物そのままで居てみる。

観察をするって言う事は、自分を外に置いといて眺めるって言う事ですから、実物そのものに居ると言う事とは、遙かに違うでしょう。そっちの方が分かりやすいんだけども、観察した方が分かりやすいんだけど、観察は実物そのものの様子ではない。概念の上の話、ね。そう言う事も、勉強して行って知ってるとは思いますけども。

そこで、兎に角、今日たちまちに人に会って、如浄禅師、私に尋ねる人が居たら、どう言う風に答るかって、如何ならんか是奇特の事って尋ねる人が居たならば、私はその人に向かって答える。どう言う風に答えるか。「何の奇特かあらん。」特別な事なんか一つも無いよ。そうでしょう。特別な事は一つも無い。

特別な事は一つも無いけども、この眼で物を見るんだって、特別な事は無い。ずっーとこんな事やってんだけど、内容を見ると、今申し上げた様に、どうしてこうやったら、こうなるのか分からん。何時そう言う風になったのか。誰からも学ばないのに、誰でもこうやってやると、そう言う風になる力を持ってる。

そこに物があれば、その通り必ず見える。しかもそこに私流の見方なんか一切起こさない。それが皆さんの眼です。私はこう見える、あなたは違うでしょうって、そう言う風にならない。眼には私の見方って言うのは無い。ねぇ。何の奇特の事かあらんて言うけど、奇特の様子が無いって言う事が、それ位よーく見てみると飛び抜けた状況なんだね、一つ一つが。

耳だってそう、何時も申し上げてる。音がすれば確かに聞こえるんだけど、聞いただけで、それを取り除いた人は一人も居ない、聞いたものを。自分で処理して。止めた人は一人も居ない。止めないのに、聞いただけで何処にも残って無い。そう言う耳って働きをしてる。だのに、滓みたいにですね、聞いた物が引っかかる人沢山居る。エー。

いまだに、小さい時に、私は五歳の時に母に捨てられたって、この前もどっかでそう言う男性に会った。何か自分の中で引っかかってるものが有るって言ってる、おっしゃってた。だけどそれは、そう言う思いを自分の中で起こした時だけ、それが辛うじて感じられるだけ。ねぇ。そう言う思いを起こしてない時に、自分の中に、五歳の時に捨てられた、あの母はって、そう言うものは一切無しで生活してる。思ってる時だけ出て来るだけだから、思いが邪魔にならないでしょう。思ってない時もずーっと続くんだったら大変だけど。

思いって不思議なものですね、音と同じです。鳴ると聞こえる。聞こえてもそのまま何処に行ったのか分からん。思いも出て来るんだけど、何処へ行ったか、誰も手を付けない内に跡形も無い。なのに問題にする人は、鐘の音と同じ。ものを、聞いたもの、何時までもそこへ掴んで問題にしてるのと同じ様に、思いもそうです。それはやられるに決まってますよ。掴めばそこに残るじゃないですか。だけど自分の真相、自分の本当に生きてる様子にこう触れてみると、そう言う活動をしてる人は誰もいない。

それが私達を救うのでしょう。ああ本当に自分の思ってる事と違う。こう言う風になってるって言う事が、自分で分かる。それが分からない人は、考え方でどうしたらこの今、厄介になってる自分で問題にしてるものが取れるか、離れられるか、止まるかって、無理です、それ考え方でやったって。

そうじゃない。考え方でやるんじゃなくて、自分自身の真相に触れると、そう言う風な活動をしてないものが、このものの真相なんです。それが自覚の内容なの。何時だって自由にこうやって物を見る時に、皆さん知ってる通りじゃないですか。前に見た物は一つも出て来ないじゃないですか。これで良いじゃないですか。

だけども体験した、前に体験した、あの時に私を叩いたとか言う様なものが、今でもこうやって頭の中に出て来て、過ぎるんでしょう。それ思った時だけそう言う事が浮かぶのでしょう。で、浮かんだものの中に、叩いてる様子が今自分の身体の中に有るか。

私もお腹を切って手術した事があるけど、確かに思い起こせば痛かった様な気もする。二、三人でお腹を押さえて貰わないと、はぜちゃうんじゃないかと思う位痛かった様な感じもある、当時。だけども今思い出しても、身体の隅々何処を探しても痛みが生じない。ただそう言う事が有ったって言う事が思えるだけ。思いってそう言うものですよね。

ところがそう思えない人が居るんだよね。それは正体を自分でちゃーんと見破らないからでしょ。自覚しないからでしょ、本当にどうなってるか。人に用が、他人に用があるんじゃなくて、自分自身の事を自分自身で触れて、正体をちゃんと自分で見切ったら、そう言う事がはっきりして、あー何だって終わるじゃないですか。エー。それが救いじゃないですか。仏教ってそう言う教えじゃんか。

それで、まあ、何の奇特の事あらんって一応如浄禅師は、別にって言う位の事言ってるんだけども、別にって言うのは、この位の内容があるって言う事を言っときたいですね。間違えるとああ何だ、何でも無いのかって思われると困るから。

当たり前だって言う事がこれ位、平凡て言う事がこの位素晴らしい内容を持っているって言う事です。平凡だから良いのでしょう。ね。一般の人は平凡でない他人よりも、凄く飛び抜けて素晴らしいとかって言う様なものに成る事を望んでいるかも知らん。それ厄介ない事ですよ。誰にも気づかれない位平凡なのが一番。それ幸せなんですよ。靴を履いてたって、良い靴は履いてる事を知らない位じゃないですか。あれ平凡なんですよ。ねぇ。気にならないんだよ。良い物は一切。


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