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鉢盂 正法眼蔵第七十一

2019.2.23

音声はこちら ↓

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今日は415頁の鉢盂の巻き。少し拝読してから始めたいと思います。

「鉢盂。」「七仏向上より七仏に正伝し、七仏裏より七仏に正伝し、渾七仏より渾七仏に正伝し、七仏より二十八代正伝しきたり、第二十八代の祖師、菩提達磨高祖、みづから神丹国に入りて、二祖大祖正宗普覚大師に正伝し、六代つたはれて曹谿にいたる。東西都盧五十一代、すなはち正法眼蔵涅槃妙心なり、袈裟・鉢盂なり、ともに先仏は先仏の正法を保任せり。かくのごとくして仏々祖々正伝せり。」

正法眼蔵の中で、表題としてですね、こう言うものが取り上げられている。下にも脚注がありますが、まあ仮名はハウとふってあるのですが、そう読ませて貰いますが。ご飯を食べる時の食器。あそこに円通寺さん登って参りますと、本堂の脇に良寛禅師の立像が有りますが、こうしておられる(左手を掌を上にあげる)、ここ(左掌)に載っているのがこの鉢盂です。ハウ、何かハウって言うと英語みたい。

ほうう、一番大きなものを。あれ五組セット。まあ部品で言うと六つ入ってます。一番小さいのをテッパツと言ってですね、応量器をここに置く時に、器が底がこう丸くなってるんですから、ゴロゴロしない様に、一番小さなやつをここへ置いて、その上へ載せるとピタっとこう収まる様になっております。味噌汁のお椀なんか下に、少しこう椀の下に丸く彫った物が付いてるでしょ。ああ言う様なものが一つあります。あと五組でセットになってますね。

円通寺さんで朝お粥を頂く時は、四つかな。五つあるのかしら、一つ外してあるかも知れません。まあ大体五つ。そう言う物で応量器が出来ております。永平寺にお参りして宝物殿に行って拝見すると、道元禅師のお使いになってた鉄鉢と言う、木でなくて鉄で出来た応量器があります。かなり大きい。あれは托鉢をしたりする時に、あれに入れて貰って、あと煮炊きをする様に出来てるのかなと思いますけどね。出来る様に。まあそれはその位にしておきます。応量器。

それがですね、出家をする時に、尼師壇と言う、尼師壇と言うのは礼拝をする時に敷く引き物です。ここに畳んでありますが、こう言う物が礼拝をする時に使う敷物。それから、応量器をお袈裟と、これが三物みたいに、三つの物として、出家すると頂いております。一生使うものなんですね。一生涯使う。

で、もう一つ加えて言うと、そのお袈裟とそこに今読んだ処にありますけども、袈裟と鉢盂は正法を伝える時に、証として次の方にそれを授けた。悟りを開かれて、眼の開いた方と言う証明のために、その二つの物がですね、代々六代、中国の大鑑慧能禅師の処迄、曹渓に至るまでそう言う物が伝えられて来たと言う経緯があります。そう言うな事が最初にざっと述べてありますね。

鳩摩羅什、旧約をされた方ですが、その元に僧肇と言う方がおられますが、その方が般若心経などの訳に非常に貢献をされた方だと言う事で、近年の研究論文なんかをこう見てみると、あの方も正伝の仏法を伝えられた方と一応されているんですけれども、道元禅師も指摘をしておりますけど、お袈裟を伝えてないと言う事ですね。それでお袈裟が伝わっているのはこの曹渓六祖の系列の人だけが伝わっていると言う事ですが。その六祖はこの悟りを開いた方の証明として伝えて来た袈裟をですね、これを伝える事を止めた。

要するに、それまでは一師印承って言って、一人の師匠に一人の弟子だけが相続をするって言う事で、お悟りを開いた人が何人いてもですね、その中の代表者だけが受け取って来たんですね。それで六祖はですね、それを改められて、今後はそう言うものを伝えずに、何人かの人達が同等にこうやって法を伝えて来る様な形になっております。今も曹渓山にお袈裟は残されていると言う様な事を、曹渓山に行った方に聞いた事があります。私は中国に渡っていないので知らないですけれど。

最初の三行四行五行までのその正伝と言う事は、計算をすれば分かる様にですね、イコールで右と左が必ず一緒になると言う事でしょう。伝えると言う事は、伝える人と伝えられる人が必ず居ると言う事ですからね、伝えると言う事は。片一方だけでは成り立たない訳ですよね。ものが伝わるって事は。そうでしょう。

それが内容が同等で無かったら、伝えていく間に段々減って来ちゃったら、なんかしたら困るじゃんね。あるいは伝えている間に段々増えて来ても困るんですよ。そう言うものでしょう、正法って。正しいものって言うのはそう言うものです。

音を一つこうやってパン!(打掌)聞いて貰っても分かりますけども、二代三代あとになって、こうやってパン!音を聞くと、それ以上に音が、色んなものくっついて聞こえるって事は無い訳です。何時の時代でも。こうやったらパン!その通りに増減無く、増えも減りもしない。そう言う風に聞こえる様に出来てるから良いんでしょう。

物を見てもそうでしょう。昔の人はこうやって見たら、今の人が見たら色が違う様に見える様になると、困るんですよ、ね。まあそう言う事が正伝として、ここでは人の上の話として挙げてあります。その辺までで良いですかね。

「東西都盧五十一代、」これは道元禅師のお師匠様、如浄禅師様の代迄で、インド、中国併せてですね、東西って言うのはインド、中国、併せて都盧、全て併せて五十一代と言う事ですね。その様に正しいものが伝わって参りましたと言う事です。その時にそれを現わす物として、「袈裟・鉢盂なり、ともに先仏は先仏の正法を保任せり。」今申し上げた様な事です。

「かくのごとくして仏々祖々正伝せり。」これはお悟りを開いた人達の話として取り上げておりますけれども、誰しもの本来の在り様です。で、問題になるのは、私達はその事に気づいてないので、中々肯がえないって言う事がありので、それで、皆さん方に自分の事だから、それを自分ではっきりして欲しいって、それがお釈迦様の悟りを開かれた、所謂自覚をしたと言う内容になるでしょう。

自覚をするって言う事は、他所から何か貰う物は無い。自分自身の最初から様子そのものに気づくと言う事ですね。本来の自分の在り様に気づく。それが自覚の内容です。それは修行する時に非常に、基本的に大事な事でしょう。

今、信仰の殆どがですね、偶像と言ったら怒られるかも知れませんが、向こうに神仏、拝むものを立てて、そして私達はその前に額ずいて、向こうから何か教えを頂く様な形で、或いはそれを求めて行く様な形で修行するのが殆どでしょう。それ誰も疑わない位そう言う風に、今なってます。これが一番怖い事じゃないですか。教えを勧めるのに。間違ってるんじゃないですか、第一歩が。まあそう言う事を、ちょっと申し上げておきたい。

そこで次の処行きますよ。「しかあるに仏祖を参学する皮肉骨髄、拳頭眼睛、おのおの道取あり。」こう言う風な事が言われると言う事は、そうでしょう。お悟りを開かれた方々の内容が如何いう事かって言う事を学ぶのに、自分自身の皮肉骨髄、自分自身の眼の在り様とか、挙頭とありますけども、頭を挙げるにしても手を挙げるにしても何でも良いですけど、「おのおの道取あり、」一人一人自分自身の様子に学ぶ以外に無いのでしょう。どうあるかって言う事を学ぶ時に。

もっと丁寧に言えば、他人のやってる事は無い訳だからね。他所の人のやってる様子ってない訳でしょう。皆さん今生きてる、皆さん今それぞれ自分の事見てごらん。自分の様子見てごらん。他の人の何かをやってる事は無いでしょう。そう言うものに対して、何か疑いのある人? だってやるって言う事は、この自分の身心の活動だけでしょう。何をするにしたって。生きているって言う事はそうでしょう。そうじゃないですか。この身心の活動以外に自分の生きてる様子って無い訳でしょう。

ああやって、電話があそこで鳴ってるって、誰がそれやるんですか。必ずこの身心を借りてしか聞く事が出来ないのでしょう。この身心を借りないと、あそこで鳴ってる事が気が付かないのでしょう。隣に人が居るってこうやって見た時に、そうやって見ている事自体、本当に自分の身心の活動だけでしょう、やってる事が。

あの人はあの時あんな事言ってたって思う事だって、皆そうでしょう。あすこでああ言う事があったって思い出すんだって、皆この自分の身心の様子でしょう。一切他人事がない。で、それを相手に学んでいく訳でしょう。「おのおの道取あり。」

その中で、「いわゆる、あるいは鉢盂はこれ仏祖の身心なりと参学するあり、」ここで表題になってる鉢盂と言う応量器ですねぇ、それを取り上げておられます。で、この鉢盂って言うもの、ハウ鉢盂はですね、応量器って言うものをどう言う風に取り上げておられるか、扱っておられるかって言うので、色々な方々の言い分がずーっとそこに挙げてあります。

まず第一に「これは仏祖の身心なりと参学」する人が居る。

「仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩揭陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘絺羅(にゅうめつくちら)如来応量器(にょらいおうりょうき)我今得敷展(がこんとくふてん)願共一切衆(がんぐいっさいしゅ)等三輪空寂(とうさんりんくうじゃく)」と言う様な事を、応量器を挟んで、朝でも昼でも良いんですが、ご飯を食べる時に展鉢と言って、その器をテーブルの上に広げる時に、まず展鉢の偈と言うものが唱えられますが、そこにそう言う風に示されています。

「仏生迦毘羅(ぶっしょうかびら)成道摩揭陀(じょうどうまかだ)説法波羅奈(せっぽうはらな)入滅拘絺羅(にゅうめつくちら)」それを見てみると、ここに言われる様にですね、「仏祖の身心なりと参学する」と言われる所以がある。仏様が生まれて、仏生迦毘(カピラ)羅、仏様はカピラ城で生まれて、成道摩揭陀、お悟りを開かれたのは摩掲陀(まかだ)国、説法波羅奈(はらな)、説法は波羅奈と言う所で最初に説法された。入滅拘絺(くち)羅(ら)、亡くなられたのはクシナーラと言う風にして、これがお釈迦様の一代になる訳ですね。だから「仏祖の身心なりと参学する、」と言う様な事になるのでしょう。食べていないと死んじゃうんだね、きっとね。分かりやすく言うとそう言う事じゃないですか。

で、次にありますが。次は方はですね、「鉢盂はこれ仏祖の飯椀なりと参学する」仏様達が食事をする時の器だと。まだ色んなのが有りますよ。次のものは「仏祖の眼睛なりと参学する」眼の様子。どうして食事の器が眼になるのか。眼って別なものが有る訳じゃないですよ。器に向かうと、器にご飯が注がれたりおつゆが注がれたり、或いは食べていくと減ったり、色んな形が全部そこで行われてる。それ器の様子って言うんですね。本当は。

だけど器の様子って言うものが、そのまま自分の眼の様子を抜きにして器の様子は無いのですねぇ。まあ屁理屈を並べればそう言う事でしょう。分かりやすくするためにちょっと屁理屈を言えば、何で器が眼なんだって。器がどうしてお椀と言う様な形になるのか。どうして仏様の身心になるのか。色々な言い方がまだ出て来ますよ。

光明なり。「仏祖の光明なりと参学するあり。」光明って言うのは、その時の活動している様子がそのまま其処に現れている。従って、その時其処で活動していれば、その通りの事が現れている事が皆さんの眼の様子でしょう。それを光明と言います、ねぇ。

色んな物が光を発してるって言う事は、その通りにこう見えるって言う事です。 光りを発してないとですね、見えないですよ。ねぇ。吸収する物と反射する物が有って、それに依って光明と言われる働きになってる訳でしょう。全部吸収しちゃうとどうなるの? 真っ黒になるか、光は。ねぇ。反射する物があるから色んな色が、物が有る様にこうやって見えてる。そう言う様な事が光明の様子。一切の物は色によって形を表すのでしょう。無色透明では物は見えませんね。

或いは「鉢盂はこれ仏祖の真実体なりと参学するあり。」自分自身のこの生きてる様子そのものだって言う風に学ぶと言う。真実人体とかって言いますけど、真実の身体の様子です。それはご飯を食べたって、やってみれば分かりますが、その時に自分の身体と別にですね、向こうでご飯が云々って言う様な事はありません。正しくこの身体の様子なんですね。ご飯を食べるって言う事自体が。別に難しくはないでしょう。

「あるいは鉢盂はこれ仏祖の転身処なりと参学するあり、」物に従って、私達はその時その時、どうもしないのにドンドンドンドン変わって行く。ねぇ。ご飯の器を取ってご飯を食べる、味噌汁の器を取って味噌汁を頂く、たくわんを食べる。おかずがあってそれを食べる。そうするとですね、その物の様子に従って、コロコロコロコロ。只、味が変わるだけじゃないですよ、口の中の。身も心も全てが、その事に依って全部否応なしに変わって行くじゃないですか。

ところが、よく分からない人は、ただ舌の上に味がする、その味が変わってる位にしかものを見てないじゃないですか。そんな事ではないですよ。全部変わりますよ。ご飯を食べてる時に考える事と、味噌汁飲んでる時に考えてる事、同じ考える事だって皆それに依って変わるんですよ、否応なしに。変わるから良いのでしょう。変わらなかったら、自由が効きませんよ。

無罣礙って般若心経で言う。今、方丈さんともちょっと話してたんだけど、無罣礙、何処にも障害がなくて自由に活動ができる力を持ってる。「転処実によく幽なり」とかって言う言葉も有るでしょう。苦しくてしょうがないって、どんなに思ってても、赤ちゃんが其処でニコッと笑っただけでコロッと変わる力を、皆さんも知ってるでしょう。

腹が立ってしょうがないって言うのに、ねぇ、これでも食べてごらんって言って、口に入れるとその口に入れた甘さで、すっかり今まで腹が立ってる事を離れてしまって、ああ美味しかったとかって、それ位転処実にのどかな事が、本当はこの身心で行われてるんでしょう。そう言う大きな入れ物なんでしょう、これ。生涯この一つの入れ物だけで私たちは生きてい行くんですよ。これ入れ物ですからね。

どっかに皮臭袋って書いてあった。皮臭袋って言うのは、臭い物を入れる袋ですね。確かにこの中は臭い物が入ってるかもしれない。外に出さない間は、あまり匂わないもんだから、皆持って歩いてる。中にそう言うものを入れて歩いてるよね。糞とか尿とかって言うのでしょう。中に入ってる間はそう言われない。外へ出るとそう言う。そう言う物を入れて。まあ上手に入ってるもんだから、あまり匂わんで済むけど、入れ物ですよ。

この入れ物はもう少し勉強すると、次に有る様に、「あるいは仏祖の鉢盂の縁底なりと参学するあり。」縁と底と有りますが。無底鉢中とか言う様な事がありますが、この入れ物はですね、一応形が有って縁があったりしますけど、底抜けなんですね、大きさが。今日まで生きてきて、どれだけの物をこの中に入れたかしれないけども、何処にも溜めてない。だから歩く時に軽々しく歩けるでしょう。食べ物だけではない。六官を窓口にして。

あれ、今まで戴いたもの全部入れたのを、それ全部この中に入ってる様なんだったら、重くてしょうがないよ。どれだけ沢山の文言を聞いたか、どれだけ沢山の物を見てきたか、どれだけ沢山の事縁に触れてきたか。もう数える事が出来ない程の沢山のものを体験して来てるんだけど、見てごらん、すっからかんだよ。凄く良い入れ物です。

知らない人はそう言うものが皆自分の中に溜まってる様な生活をしてるから、たまらんでしょう。溜まってないのにたまらん、でしょう。変ですね、言葉って。溜まらないって言いながら、溜まらんって言うんです。溜まらんって言いながら苦しんでる。溜まった様な生活をしてる。ちょっと変だけど。皆さんは、どう言う風に自分のこの身心と言うものを勉強しているか。この食事の器の様に勉強しているのか。

まあ沢山挙げてくれましたが、「かくのごとくのともがらの参学の宗旨、おのおの道得の処分ありといへども、さらに向上の参学あり。」それぞれ味わいのある内容ではあるけれども、それで終りではない。まだまだ色々な味わいがあるよ、と言うのですね。それで、ご自分のお師匠様のお話をそこに引いておられます。


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