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虚空 Ⅴ

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もう一つ話題が上げてある。これも馬祖の処の話ですね。
「洪州西山亮座主、因参馬祖。祖問、『講什麼経』(洪州西山の亮座主、因に馬祖に参ず。祖問ふ、『什麼経をか講ずる』)」この亮と言う座主がですね、お話をなさっておったんでしょうね。『講ずる』ですから、講義をしておられた。お話をしておられた。そこへお師匠さんの馬祖がこう来られて、何を話してるんだって言う。そしたら、心経を取り扱っていると言う。何をもってか講ずる。心経を話すのに、どう言う風にして心経を話すのか。

それにたいして、『将心講』馬祖が追求されるのに、『心は工伎児の如く』。心意識とこう三つが取り上げられていますね。先ず心と意、『心は工伎児の如く、意は和伎者の如し。』次に六識とありますが、識はですね、『六識は伴侶たり。争でか経を講得することを解せん。』心意識って言う様な事がよく使われますけどね。

心は下にも注釈が有る様に、工伎児、どう言う風な事を上げてみたら分かるかって言ったら、眼で申し上げると、こうやって成ると言う事ですね。(周囲を見回す)「工伎児の如く。」巧みな俳優となってますけども。其処に置かれているものに触れると、その通り、どんどんどんどんこれが変化して行く。変化するって言うと、分かりにくいかも知れないけど、その通り、其処に置いて有るものに触れると、その通り見えると言う事でしょう。それがこの心の様子でしょう。

皆さんそれを眼の様子だと思ってるから。そうじゃない。眼はそう言う風に働くのが、心の在り様です、それが。心、心って他にあるんじゃないですよ。眼で言う時には、心の様子は見えると言う事です。耳の様子で、心の様子を見ようとすると、音がすると言う事です。下にも有るけども、六識の伴侶たりとある。必ず音がしたら聞こえる。聞こえたら必ず、それが理解出来る力が其処にあるって言う事が、六識の伴侶です。音がしただけじゃない。音がしたら必ず音がした事が分かる。ねぇ。

六根六境六識って言う風にして仏教では説くでしょう。人間に六つ感覚器官が備わっておって、それに対する相手としての六境、物があったり音が有ったり香りが有ったりする。それに触れると、味がするとか、物が何色をしてるとか、動いたとか動かないとか、そう言う風に必ず分かる力を持ってる。それが、六識でしょう。

この六根六境六識はですね、三六、十八界と言いますけども、これで人間の生きてる世界の全てが説かれている。これを逸脱するものは無い。これ以上の物は万法と言えども無い。諸法と言えども、この十八界をでる物は無い。これだけで人間は生活してる。それが仏教の説でしょう。説き方でしょう。だから仏道を学ぶ時に、必ず自己を学ぶのでしょう。ありとあらゆるものと言ったって、この各自自分の身心の上の様子以外無いじゃないですか。このものの上に、音だって、この身体で聞かない限りは音にならない。この身体で触れない限りは、物は見えないんですよ。この身体でやらないと味がしない。香りもしない。

だけど人間の考え方は、自分が居なくても世界は有るって思うんだもんね。思うのは勝手ですよね。だけど、その私が居なくてもこの世の中は残るって、よーく見てみると、何だ生きてる人がちゃんとそう言ってるじゃないかって言う事がよく分かるでしょう。死んでしまった人が言ってる訳じゃない。私が居なくなってもって言うのは生きてる人の上の話で、亡くなってない。自分が居なくなってる話じゃない。そう言う事がもの凄くはっきりしてるんだけど、自分でも居なくなった様な事を思ってる。

変だね、考え方って。それ位人を騙す。私が居なくなったって(死んでも)円通寺は残るに決まってるって、皆思ってるでしょう。エー。それは皆さんが今生きてる時の話ですよ。生きてる人が扱ってる上の話ですよ。自分が居なくなった時に、そう言う扱いした人何処にいますか。居ないじゃないですか。そう言うのもよーく見てみると面白い。

『いかでか経を講得することを解せん。』こんな風になってるけど、お前いったいどうだ、と言うのでしょう。それに対してこの座主が、『心既に講不得ならば、』講不得と言うのは、話をする用がないって言う事でしょう。話が出来ないんじゃないですよ。もう既にそうなってるならばって言う事でしょう。私が説明する前に、すでにそうなってるならば。『これ虚空講得すること莫き麼。』私が説明する前に既にそうなってるんだったら、虚空説くとか説かないと言って言う事要らないじゃないかって言う事でしょう。

馬祖が言われるのに、『却って是虚空講得せん』その通りだって言う事でしょう。実物が何時でもその真相を説いてるって事でしょう。だから皆さんどうもしないのに、こうやって何時でもその真相に出会える訳でしょう。もし虚空がですね、ある時は説きある時は説かなかったらですね、説いてない時に会ったらですね、虚空の様子が分からない。ところが四六時中、虚空は虚空の様子を説きっぱなしだから、皆さん方は知ろうと思ったら、何時でも出来る。どうもしなくても。

そう言う事が心経の内容なんでしょう。般若心経。心経の内容なんです。そう言う事が、自身の真相が説かれている般若心経なんでしょう。一応其処まで聞いて、この座主はですね、払袖して退くとあるから、長い袖は、無い袖は振れないけども、あれば払袖して、こうやって袖を振って、後ろ向きにスッとこうやって帰って行く事が出来る。払袖ってそう言う事でしょう。袖を払って行った。

その時にですね、『座主』って声かけられた。思わず知らず後ろを振り向いたのね。師首を廻らすとある。その時に、『生より死にいたるまで、只是這箇』何時でも只こう言う風にあるんだって。それを聞いて合点が行ったのでしょう。『省あり。』それは単なる頭で理解したんじゃない。自分自身そう言う時の様子で気がついた。それ以後この人は山に入ってですね、ついに生涯山から下りて来なかったと言うのでしょう。まあそう言う話が其処にちょっと上げてある。

タイミングが良いね、この馬祖さんね。これ、意表をつくんですね、もう話が終わって自分は成る程って、一応講師ですから、講釈師ですから、ものを話すのに、ああそう言う事かって、理解が行ったもんだから、よしって帰ったんでしょうね。その帰った時に、後ろ向きになった途端に声かけられた。はっと後ろ向いた。自分でどうしたかも知らないじゃない。何でそうなったか分からない。

普通だったら、私の名前呼んだから後ろ向いたと思ってるでしょう。エー。そう理解するのでしょう。そうじゃないでしょう。声に反応したのでしょう。それ心の様子です。心の様子です、皆さんの。どうしたんでもない。カアーって言ってカラスが鳴いた。聞いたのでも何でもなし。そう言う風になるんでしょう。ねぇ。そう言う処に、心の真相って、よーくこう受け取れる処がある筈。

「しかあればすなはち、仏祖はともに講経師なり。」悟りを開かれた人仏や祖師方ってのはその様に常に経を、真実を説き続けている人。「講経は必ず虚空なり。」経を説くと言う事は、必ず真実を説くと言う事でしょう。そうでなかったら、説く意味が無いじゃないですか。くだらない事を長々やったって。覚えてどうするんですか、そんなもん。「虚空にあらざれば一経をも講ずる事をえざるなり。」

皆さんの眼だってどの位虚空の様子を体現しているか、見て下さい。こんな小さな眼だけども、皆さんが虚空って思ってる大きな世界、何ともなく入れるんですよ。物理学者じゃ計算出来ない。こんな小さな目の中に、大宇宙をこうやってこうやって皆入れて生活出来る。エー。何億光年の光をこうやって見る力がある。千里向こうの山を見る力がある。凄いですね。こんな大きな働きをしてる。それで、どんなに見ても留まった事がない、この中に。これ底抜け大きい。もうあれだけ見たから、入らないって言う様な入れ物じゃない。

「虚空の辺際を得べからざるがごとく、」とあるでしょう。虚空って言うのは、ここからここ迄が虚空って言う様な広さの世界じゃないものを、虚空って言うんでしょう。だけど人間の描く虚空は有限ですよ、殆ど。虚空にならない。そう言う事も勉強した方が良いかもしれない。

「心経を講ずるにも、身経を講ずるにも、」身と心、身心一如と言いますけども、身体を離れて心の働きは無い。心の働きだけがあって、身体の無い人って、そんなのも無い。それが仏教の定義です。常識です。必ず身心て言うのは一緒に、或るいは大祖様が何かどっかに書いてたかもしれないけど、三祖大師假く呼んで心となし、龍樹假くなづけて身となす。龍樹は身の方を、身と言う字を以て現わし、三祖僧燦大師は心と言う字を以て、一切の物を表すと言う様な事が、歴史の中に、同じシン言う身体と心使ってますけども、どちらも真実を表す言葉として使っているので、二つある訳じゃないですね。これはご承知の通りでしょう「ともに虚空をもて講ずるなり。」

「虚空をもて思量現成不思量現成せり。」ものを考えるんだって、思う、或いは思いを離れると言う事でも、皆この今の事実を離れては無い。有師智、無師智、師匠さんについてそう言う事を知る、師匠無しにそう言う事が分かると言う事ですかね。どちらもあるのでしょう。生知、生まれながらにしてって言う様な事もあるでしょう。学んでから分かるって言う事もあるでしょう。だから本覚とか始覚って言う。始覚本覚って言う思想が、天台なんかでは問題になる訳でしょう。

「ともに虚空なり。」仏になる、祖師になる。悟りをどちらもひらく。自分自身の真相を本当に自覚する。それは矢っ張りこの真実の様子に触れて、諸法の実相と言われる虚空の様子に触れて初めて、その事が分かるのでしょう。

パン!(打掌)何処へ行くのでしょう。この音はパン!どこへ行ったのでしょう。聞こえたんだけども、何処へ行ったんでしょう。隠れる場所も無い。こう言う風に働いているのが、皆さん方の虚空の様子でしょう。大空の何とかって言うんでしょう。跡形も無い。消えた場所もん無い。しまった場所も無い。パン!そう言う大きな働きをしてる。後にも先にもその時限りで完璧に終わってる。一点の非の打ち所が無い程見事にその音、パン!その音、パン!手の付ける用が一つも無い程、その音に対してそうやってはっきりした生活をしてる、この様な事が問われるのでしょう。


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