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虚空 Ⅳ

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「石鞏・西堂よりのち、五家の宗匠と称ずる参学おほしといへども」まあこの馬祖の時代から後に、そう言う曹洞、臨済、法眼、潙仰、雲門、五家ですね、そう言う流れを分けて、宗称する人達が出て来た。五人代表的な人を、自分達の党首として上げて、その下に学んでるって言う風にして、沢山党首を分けるとですね、曹洞宗で言えばですね、永平寺と総持寺があるから、曹洞宗では二人禅師が出れる事になる。これ永平寺だけだと曹洞宗で一人しか禅師にはなれない。そうすると寂しがる人居るね、きっと。二つあるとポストが二つある。一つになると、半分だから凄い寂しがる。

五つ、禅宗の中に五つ仏祖が出た訳でしょう。仏祖が出た訳でしょう。そうするとその党首になる訳でしょう、五人。で、五家七宗になれば、臨済の中にまた二つの流れが出て来る訳で、七つに分かれる。そんな風にして、日本の中でも色んな人の流れを上げてですね、誰々の流れ、誰々の流れって言う様な事を上げてですね、その人の下で付いて学んでって言う風に思ってる。

それは本当にものを学ぶのにですね、愚図ですねぇ。何を、そう言うのを学んでるかったら、一人一人の癖みたいなものを学んでるだけですよね。本当に学びたいのは癖じゃないんだよ、その一人一人の。仏法を学ぶって言う事でしょう。仏法には偏見はない。あの人がこの人がって言うものの見方は一切ついて無い。だから仏法を学ぶ。

ところが五家とかって言う様なものを学ぶ様になると、皆、家風って言って、違いがあるじゃない、色々な。その違いを喜ぶじゃない。だから曹洞宗、臨済宗ってどっか違いが無いと困るんだよね、学者は研究するのに。一緒だったら学説成り立たないわけ。で、しょうが無いから一生懸命どっか違いを見つけて、その違いを見つけると発表して、その発表が出来るとなんか優秀だって言ってこう何か言われるのでしょう。そんな物を我々はまた学ぶんだね、知らないと。仏法を学ばなきゃだめじゃないのかね。そう言うな事でしょう。これもね。

「虚空を見聞測度せるまれなり。」本当の事を学ばないって言う事でしょう。「石鞏・西堂より前後に、弄虚空を擬する」弄ぶ、そう言う人達が一杯居たけけれども、手を付けるって言う事はした人は本当に少ない。

三日位前にも、私もお正月が終わる前にって言って、二人でお見えになった方がいて、話を二時間位した。その時に、曹洞宗で只管打坐って言うんだけど、只管打坐って余分な事を考えずに只坐るんですよね、って言う話をその方がしたもんだから、それは只管打坐じゃないんじゃない、って言った。只管打坐ってそう言う事じゃない。坐る、坐る事です。ここで、ああじゃないこうじゃないって喋る事じゃない。只管打坐はこう言う事だ、ああ言う事だ
って喋る事はどんなに喋ったって、只管打坐じゃない。

そう言う事でしょう。だけど言わないと、それで勉強したと思ってる。理解ですよ、それ只の。そう言う風に理解してるだけであって、なーんにもやってない。だから、「修せざるにはあらわれず」って。実際に実践しなかったら、只管打坐ってのはそこに出て来ない。実物が出て来なかったら、実物の味わいなんか絶対にする事は出来ない。どんなに考えたって。だから皆さん実践するのでしょう。ねぇ。

だからこう言う人達は「著手せるすくなし。」って、そう言う事を言うんでしょう。ね。考え方の上で、あーじゃないこーじゃないってそう言うのを弄んでるだけであって、本当の事に一つも手を付けない。まあ「すくなし。」と一応道元禅師が「すくなし。」と遠慮しておられる。こう言うところが道元禅師様の優しい心遣いかもしれません。

「石鞏は虚空をとれり、」その嗣法の弟子として、石鞏って言うのはやっぱりしっかりしておられる。この頃まだ西堂の智蔵さんは、その処が少しまだ不徹底なんでしょうね。「覰見せず。」虚空って言うものがどういうものであるかって事を、本当に見届けておられない。

「大仏まさに石鞏に為道すべし、」道元禅師が、じゃあ石鞏様に私がもう少し申し上げてみたい事があるって言うのですね。石鞏の為に言うという、「為道、」どう言う事を、「いわゆるそのかみ、西堂の鼻孔をとる、」石鞏が西堂様の鼻を掴んで捻った。それが虚空を捉むと言う事ならば、自らも「みづから石鞏の鼻孔をとるべし。」お前も西堂の鼻をこうやってって言う事でしょうかね。「みづから石鞏の鼻孔をとるべし。」「指頭をもて指頭を取ることを会取すべし。」自分でこうやって触れてみるとそう言う事がよくわかる。他人の事じゃないと言う事が。

隣の人の鼻でなくてもいい、身体でいいから、こうやって触ってごらんなさい。お互いにこうやって隣の人触ってごらん。やってごらん、触ってごらん。どうなってるか分かりますか、やってみて。自分の様子だけしか出て来ないもんね。違う?自分の、今指で触ってる様子だけが出て来る。やってごらん。

ところが人間はどう言う風にその時に思ってるか、って言う事です。私が隣の人に触ってると思ってる。だけど、思ってる事と、実際にこうやってやった時に違うじゃないですか。向こうの人の様子は出て来ないんですよ、触った時。必ず、自分の指の今触ってる様子だけです。そう言う風に理解をするのでしょう。会得する、「会取すべし。」

実際にやってみれば分かる事です。やらないから分からない。皆さん本当にああそうだって、頭で考えてるから、頭で理解する、やらなくて。やってごらん。やると頭で理解してる事と違うから。違いますよ。でもやらなくても大体分かるもんだから、やらないって言う。大体分かるって言う事とはっきり分かるって言う事とは、全く違うんだよ。疑いが残らないんです。それが修行になるんです。

「しかあれども、石鞏いささかの捉虚空の威儀をしれり。」先ほど来話をして来た石鞏と言う人は、西堂の鼻をこうやって捻り上げた。そう言う力がある。虚空を捉むと言う事はこう言う風にして捉むんだって。傍から見てる人は、それは西堂の鼻を捻っただけじゃないかって、やっぱりそう言う風に見るのでしょうね。

そりゃこうやって隣の人を触らないから。触らない人はそうですよ。触ってみると、石鞏が西堂の鼻を捻ったんじゃなくて、本当に自分の様子なの、どっちも。西堂も石鞏に鼻を捻られてるって言う様な様子は、何処にも出て来ない。自分の忍痛、痛さが身体を忘れる位痛さが其処にあるだけ。そう言う風な事が虚空を捉まえた時の威儀です。姿、形、在り様。

「たとひ捉虚空の好手なりとも、」それはそれでまことに素晴らしいと言うのでしょう。だけども道元禅師ご自身がですね、それは素晴らしいけどもと言って言葉を継いでいるのは、「虚空の内外を参学すべし。虚空を殺活を参学すべし。虚空の軽重をしるべし。」まあこんな様な事を道元禅師がおっしゃるんですね。本当にどうなってるかと言う事を知れと言うんです。それは、それを知るのには、その時の様子に親しくいなかったら、分からん。その時を外れては。後で、あの時の事を思い出して、どうのこうのと言う様な事では、こんな事は届かないんですよ。こう言う勉強は。

参学すべしって書いてあるけど、参学は必ずその時にやる。お茶一杯飲んだってそうでしょう。飲んでる時でなきゃ、味なんか分かりっこないじゃないですか。飲み終わってから。それは想像するだけだもん、思い起こして。鳥がサーっとこうやって飛んで行った。見てる時に、後で、そんな無理じゃないですか。飛んでないんだもん。参学ってそうやってやるじゃん。修行は必ず即今でしょう。今を除いて修行する時間帯は無い。何時も今の処で生きてるから良いじゃない。探さなくたって。他所の処で生活した事が無いんだもん。他所の時間帯で。必ず今の様子だけで、こうやって生活してるじゃん、何時でも。

それだのに今の様子って言うものに対して、こんなに人は疎い。今の様子を殆ど放棄してる。全く相手にしてないと言っていいほど、自分自身の今の在り様。それだからこんなに長い間色々やってても、良く分からない訳じゃん。道元禅師も恐らく若い頃はそうだったんじゃない。そう言う勉強の仕方をしてた。

「仏々祖々の功夫辧道、発心修証、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし。」一々がだから、ね、今の様子に、本当にこうやって参ずる事が、一々が虚空の真相、ものの本当の在り様を学ぶ在り方じゃないかって、念を押しておられるでしょう。だから教材はなんでも良い。教材は良いじゃん。今のどの様な事でも、それが教材になる。必ずその事によってはっきりする様になってる。

「先師 天童古仏 曰」此処にですね、岐阜県におられた大智禅師が書かれた「渾身是口掛虚空」此処はそう言う風になってます。ここ(講本)は「渾身似口」、是が似と言う字に一字なってる処が違うだけですね。まあ、たまたまそう言う物が、丁度此処に掲げて有るんで。「渾身是口掛虚空」って言う最初の句だけを、道元禅師がそこに上げておられます。(円通寺書院に掲げられている額))

「あきらかにしりぬ、虚空の渾身は虚空にかゝれり。」これは風鈴の詩と言う風になってますが、単に風鈴を軒に掛けて、吊り下がってっている風鈴を詠ったのではなくて、我々の在り様を、如浄禅師が述べられたと言う事ですね。

この身体を見て貰うと分かる様に、この身体はですね、風鈴の様にですね、身体の中に五臓六腑はあるのは確かに、肉も骨も色々あるけども。だけども物が見えるって言う事は、自分の中から出ることはない。音が聞こえるって言っても、音が自分の中から出て来る事はない。味もそう。全てのものはこの中(自己の身心)から出て来るものは無い。触れると、触れると丁度風鈴がですね、中に吊り下がっているものが当たると音が出る様に、私達もそうなってるよね。物に触れると、そう言う物がその通り触れた様になってます。

この中(自己の身心)から出て来ないですね。音であっても。コンコン(机を打つ)この中から出て来ないですよ。音に触れると、その音がちゃんとね、そう言う風に鳴ってる。渾身口に似て虚空にかかる。何処にこの身体が置いてあるか分からん。黒漆の崑崙夜裏に走る、って言う様な句もあるでしょ。真っ暗闇の中に、真っ黒な漆の玉が転がっている、言う様な表現もある。要するに区別が出来ない。そう言う風に存在しているんです、我々は。虚空に掛かる。

そして「問わず東西南北の風」ですから、風鈴がこうぶら下がって、中に振子がこうやって風が吹くとそれによって、東西南北何処から吹いて来ても、その風に当たり位置が違ったりして音がでる。「一等他の為に般若を談ずる。」般若を談ずるって言う事は、その通りの事を皆さんにちゃーんと聞かせるじゃないですか。

これ(自分を指す)だってそうですよ。毎日そうですよ。何処へ行ったって、行った処で縁に触れると、どんなにでもこれが活動しているじゃないですか。その活動の仕方を見ると、般若と言われる様にですね、最高の対応が出来てる。猫に触れた時と赤ちゃんに触れた時、老人に触れた時、もうありとあらゆるものに触れた時に、全てそのものに触れた通り、これは否応なしに変化する様に出来てる。一切自分の我儘を言わない。これ般若の様子でしょう。

それだのに、自分の事だのにそうなってる事を一つも知らない。どうかしたらそう言う事が出来るんじゃないかと思ってる。そうじゃない。やれてますよ、皆。その証拠にどんな物がそこに有っても、必ずその触れた通りに見えるじゃないですか。自分勝手に見るって事はないじゃないですか、必ず向こうの通りに見えるじゃないですか。それでウンともスンとも言わない。良いとも悪いとも。何にもなしにその通り触れてはっきりしてる。サラッとしてこだわりも何にも無い。

「問わず東西南北の風、一等他の為に般若を談ず。」その後がなお良いのは、音がちゃんと記してあるって言う事です。本音と言うんですね。本音。本当に音に触れて見ると。音がどうあるかってのが良く分かる。チリチリチリチリ。て言うのが此処で上げてる風鈴の頌ですが。まあその位にして。言いたい事は、そうやって虚空と言う事を、如浄禅師がこう言う詩の中でも使っておられるから、それを引き合いに出して、皆さん方がどう言う風に勉強してるかって事、参考になるでしょう。




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