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虚空 Ⅱ

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「石鞏道の『汝還解捉得虚空(なんぢまた通身是手現眼なりやと問著すべし。』」言い換えると、それはって言う事でしょうね。身体全体が手の様だって言うんでしょう。手探りって言うんだけど、手の先にこうやって触れると感じるって言うのは、まさに手眼、手についてる眼なんですよ。こうやってやるとザラザラしてるのとすべすべしてるのとが、皆こうやってわかる。あたかも眼で物を見てる様に、こうやって手で触ると分かるって、そう言う事でしょうね、「通身是手眼」

一日の様子を見ると、この手がですね、千手観音の様に、千本以上の大きな働きをしてる訳でしょう。ねぇ。あれだけ色んな物にこう触るんだけど、触った物が何処にもない。だから次々触っても、何時でもその事がきちっと分かる。こうやって触ったら離れられないと、次の時困る。取るのに困る。そんな事はないねぇ。そう言う風に虚空を扱ってる訳でしょう。

「西堂曰、『解捉得』」捉かむ事がわかりました、どう言う事かって言う。「虚空一塊触而染汚なり。」下にも書いてある。一塊で切れ目の無い。虚空にこうやってお互い居たって、何処から何処までが自分の様子って言って、どっかに切れ目がある人居る?無いでしょう?え? 不思議ですね。「捉すれば即ち染汚なり」って言う事は、その物に触れると、必ずその物の通りにこう変化して行くって言う事じゃやない。

黄色い菊の花にこうやって触れると、赤いこっちの花の色に触れると、必ず染汚と言われる、その通りの色に染まる様になってるじゃない。黄色い物に触れても赤いままで居るなんて、そんな事はない。こんなに、何だろう、穏やかに、和やかに、無理をせずに、仲良く、一つも争わずに生活してるって言う事でしょう。それ皆さんの様子でしょう。

「染汚よりこのかた、虚空落地しきたれり。」そう言う自分の活動してる様子そのものにこうやって触れてみると、成る程って自分の考えてた事と違う。空が地面におっこって来たって言う所もある。虚空落地って。ねぇ。本当に自分の様子に触れて、自分の様子がどうなってるか胸落ちがすると言う事でしょう。はっきりすると言う事でしょう。良いじゃん。他の人の事じゃないもんだから、大騒ぎしなくても静かにそのままで。それで変わるんだもん、良いじゃない、自分で。

「石鞏道の『汝作麼生捉』喚作如々、早是変了也(喚んで如々と作すも、早く是変じ了りぬ)なり。」理解するよりも、ああそうだ本当にそうだって、一々理解するよりもこっちの事実の方がもっとスピーディで問題なくやれてるんでしょう。こうやって見ると分かるじゃん。ああ一々こうやって触れるとその通り成ってくなあって、そんな理解するよりも、もっと確かな事を、ちゃんと今やれてるじゃん。

「しかもかくのごとくなりといへども、」そう言う風になってるのに、って言っておりますがどうですか。「随変而如去也(変るに随がひて如にして去る也)なり。」本当にここの書いてある通りじゃないですか。エー。変わるに従いって。向こうの様子に触れる事によって、否応なしそう言う風になって行くのでしょう。これがもしそうならなかったら、その辺歩けませんよ。自動車なんか乗ってられませんよ。危なくて。必ずその通り、今の触れてる、自分の触れてる様子の通り変わって行くのでしょう。否応なし。それで安全性が保てるのでしょう。それ毎日実践してるんでしょう。

ここで、今自分の様子の中で、そう言う事がずーっと行われてる。こんな所に仏法の真髄が有ると思わないもんだから、見ないじゃない。で、修行するのに、まず仏道を学ぶって言う事は必ず自分を学ぶ事だって言う事は、鉄則なんですよ、ものを学ぶのに。他に用がない。

「西堂以手撮虚空(西堂、手を以て虚空を撮す)。」西堂と言う人は、虚空をどの様にして捉えるのかと言われた時に、こうやってやったのでしょう。ねぇ。その事が此処にまた取り上げられている。ただ虎の頭にのること会して、いまだ虎の尾っぽを捕まえる事を知らない。分かっているんだけど、分からないって言う事でしょう。エー。少しばかりどっか分かった様な気がするけど、本当には良くわからないって言う事でしょう。

兄弟子が言うのに、『汝不解捉虚空(汝虚空を捉せんことを解ぜず)』。兄弟子は弟弟子の西堂に対して、なんだちゃんと修行してるのかと思ったら、その程度かって言ってるのでしょう。道元禅師は、「たゞ不解捉のみにあらず虚空也未夢見在なり。」道元禅師は厳しい表現をしてますね。捉かむ事が出来ないだけじゃなくて、本当に虚空って言う事がどう言う事かも、全く分かってない。

「しかもかくのごとくなりといへども、年代深遠、不欲伊挙似(伊が為に挙似せんと欲わず)」。年代深遠、時が経ってると言う事でしょう。年代深遠。遠い昔の事。伊が為に取り挙げてどうこうしようとは思わない。「西堂曰、『師兄作麼生捉(師兄作麼生か捉する)』。」こうやって聞く力があるっていいですねぇ。おまえ虚空を捉む事しらんなあって言われた時に、ちゃんと兄弟子に、じゃあなたはどう言う風に虚空を捉むんですかって。聞いてみたいじゃない。そう言うもんでしょう。

だけど、聞くべき、聞かなきゃならない、聞くべき質問が出来ない人がいるじゃんね「。何しに来たんですか。」エー?って。「ちょっと待ってください、考えますからって。」質問を考えてする様な人もいますよ。「坐りに来たんですけど」って。「あ、そう坐りに来たの? じゃ坐ったら」って言って。本当は坐りに来たって言うんだけど、どう言う風にして坐るのか分からないから来てる筈なんだよね。そうじゃないですか。

この位の事は、大体絵を見たりなんかしてね、坐るってイメージはあるじゃないですか。だけど、こんな事、本当は何するんだろうって、知りたいんじゃないですか、本当は。坐りに来て何で聞かないんだろうね。偉いね、この兄弟弟子。こうやってお互いに研鑽して切磋琢磨してる。分かった? いやよく分かりません、それで終わっちゃう。よく分かりません、それで終わっちゃう人が多いのでしょう。。

お店に行って出された物あって、買いたい物ここに無いんだけどって言って、で、隣の店に行くのか、何か他に有りませんかって聞く力があるのか、或いは此処に無いんだったら、あなたどっかで紹介してくれるお店があるのか、色々聞く力はあるんだけど、それを駆使出来ないって言う。こちらに力が無いと言う事もあるし、本当に何をしてるんだろう、これは。何をしようとしてるんだろう、自分が今。ウロウロ色んな所に行くんだこれけど。

「(和尚也道取一半、莫全靠某好(和尚も也た一半を道取すべし。全く某好に靠ること莫かれ)」 これ道元禅師です。「和尚も也た一半を道取すべし。)、全く某好に靠ること莫かれ。」なり。

人に聞いてどうするのって、自分の事を。こうやって見てて、あなたどう言う風に見えますかって、人に聞いてどうするの。自分の今こうやって触れて見てる様子があるんじゃないのか、そっちの方が大事じゃないの。

あなたこれ飲んだらどんな味がするって聞いて、それ聞いた味が、こんな味がするあんな味がするって聞いて、要するにどう言う事かって言うとですね、幾ら聞いて理解しても、真味って言うものは、本当の味って言うのは味わえないじゃんね。本当の味を味わうんだったら、間違いなく、自分が今こうやって飲んでる事に拠るのでしょう。他の人が飲んでるの聞いたってしょうがないでしょう。そう思わない ?

そう言う事ですね、道元禅師がおっしゃってるの。その二人のやり取りの間に道元禅師が割り込んで来て、ご自分の意見を述べておられる。こうやってね。

『石鞏把西堂鼻孔拽(石鞏、西堂が鼻孔を把りて拽く)』。って言うんですかね。だからそこで兄弟子の石鞏は西堂の鼻を掴んで思い切って捻り上げた。不意打ちだからね。生半可な事だと、人間てね思いが吹っ切れないんだね。そう言うもんでしょう。

だから叩いてはいけないって、今言われるけども、人を救う時に一番身近なものとして、何やってんだって、ピャーっと叩かれると、ふっと思いを吹っ切れて我に返る。そう言う事があるじゃない。けど、ものを知ってる人が使わなければ、気狂い(言葉が悪いかもしれない)に刃物って言う様な使い方をする様にですね、危ないですよ。叩くって言う事は、間違いなく勧める様な事じゃないですよ、やたらに。この位じゃね、あんまりひっけしない。何やってんだって言われる。何やってんの。思わず自分の事を痛さで忘れる。そう言う処に、こう面白いところがある。

「しばらく西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり。」と言う事はそう言うことじゃない。捻られた痛さだけがあって、捻ってる石鞏って言う兄弟子の事、一切そこに出て来ない。一般的にはそうじゃなくて、相手が出て来ますよ。見ている自分もいます。相手が出て来る間は、叩いたとか叩かれたとかって言う事が問題になってます。必ず問題に。

本当にうまく叩いた時には、叩いた人なんか其処に出て来ない。皆さんが何処かに思いきってぶつかった時でも、痛いって言う時に、向こうの物が出て来る人なんかないじゃない。ぶつかった物が出て来るのではなくて、ゴツンでしょう。それは腹が立たない証拠じゃないですか。ぶつかった物が出て来ると腹が立つじゃないですか。そう言う風になってるんですよ。面白いね、これ。

これが「西堂の鼻孔に石鞏蔵身せり」って言う様な表現、道元禅師がおっしゃっておられる。「あるいは鼻孔を石鞏曳くの道現成あり。」鼻を引っ張ってるって言う事が、石鞏の様子でもあるのね。「しかもかくのごとくなりといへども、虚空一団、磕著築著なり。」不思議だね。向こうとこっちというのが消えるんだよね。

これ普通に科学的とか物理的とか、人間の機能的な話をすれば、物が見えるって言う事は、向こうに有る物と、こっちに居る人がですね、光の粒が人間の網膜に映って達した時に初めて、色が感知されて、色が感知される事によって、映像に変わって来る様な事が起こるって言う事でしょう。必ず一緒にならないと物が見えないし、聞こえないし、味がしないし、触ってるって言う事だって、一緒にならなければ触るって言う事にはならない。一緒になると向こうとこっちって言うものは必ず消える。

だけども頭の中は、向こうとこっちの物が一つになったって言う風に見てる。そう言う範囲でしかものを扱わないから、ここの真相まで届かないって言う事じゃんね。こう言う事が、さっきの巻で言うと、大慧の宗杲さんの智慧の範囲じゃない。祖師方の智慧の範囲って言うのは、これ一緒になった処の様子にいるじゃない。だから伺い知る事が出来ないじゃない。別々にいる境涯で、一つになった境涯がどうなるかって言う事は、無理じゃん。

考え方の籠の中にいる人がですね、外へ出た時にどうなるかって結論付けても、外に出る事は無理じゃないですか。出てみないと。どんなに考えたって、籠の中にいる範囲の考え方をしているって言う事じゃんね。だから修行本当にしないと役に立たないと言う様な事が、こう言う処に出て来るでしょう。磕著築著、手当たり次第ですかね。磕著築著。その辺で。ちょっと時間過ぎたけど、ここまで。

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