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正法眼蔵を学ぶ

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三十七品菩提分法 八正道  正業道支 (六)

正業道支 (六)   2016.9.24 御提唱はここ迄

音声はこちら ↓
正業道支 六ー①
正業道支 六ー②
正業道支 六ー③
正業道支 六ー④


「はやく出家受戒して、諸仏諸祖の道を修習すべし。曠大劫の仏因ならん。みずや、維摩老もし出家せましかば、維摩より

もすぐれたる維摩比丘をみん」


維摩と言う人が居士として取り扱われておりますけども、在家のまま終わったので、道元禅師は、若しあの人が本当に出家を

してたら、もっと素晴らしい生き方が残ったんじゃないかって、こう言っております。


「今日はわづかに空生・舎利子、文殊・弥勒等をみる、いまだ半維摩をみず」

まあ有名なお話として紹介されているものの中に、維摩居士が病気をなさった時に、お見舞いに誰が行くかって言う時に、

皆しり込みをして、維摩と言う人が力があるので、しり込みして、其の時に文殊菩薩という方が選ばれて、しょうがなくってって

言うと怒られるかもしれない、誰も行かないわけにいかないから、文殊菩薩が代表して維摩の病床を見舞うって言う劇的な場面が

紹介されていますが、其の時に維摩は黙っておられたという、その時の維摩が黙ってる様子を「維摩の一黙雷の如し」

って言うんですね。雷のようだって。寄り付けなかったというんでしょう。お見舞いの言葉のひとつも言えずに、そこに文殊菩薩が

立ち往生したのでしょうかね。その位維摩は力があったという事を残してる。その位の維摩と言う人の話を道元禅師が

ここに出してきてるんだけども、それでも、もしこの人が本当に出家をして修業をなさったら、もっと、

もう少しましに成ったんじゃないかって、道元禅師は言うんですね。それ位出家と言うものが尊い内容を持ってると言う事を

言いたいって言う事ですね。そういうことがずーと続きます。


「いわんや三四五の維摩をみんや。もし三四五の維摩をみず、しらざれば、一維摩いまだみずしらず、保任せざるなり。

一維摩いまだ保任せざれば維摩仏をみず、維摩仏みざれば維摩文殊・維摩弥勒・維摩善現・維摩舎利子等、いまだあらざる

なり。いわんや維摩山河大地、維摩草木瓦礫、風雨水火、過去現在未来等あらんや。

維摩いまだこれらの光明功徳みえざることは、不出家のゆえなり」


出家しなかった所以だとここまで書いてあります。一度本当に何もかにもから手離れてみるって言う位、

出家って言うことはあるんじゃないですか。家だけじゃない、家を出づるだけじゃなくて、自分を縛っているいろんなものの見方や

考え方、ありとあらゆるものから、本当に全部外れてみるって言うことが、真の出家でしょう。


「当時唐朝・宋朝の禅師等、これらの宗旨に達せず、みだりに維摩を挙して作得是とおもひ、道得是といふ」

維摩のことを良く知らないと同時に、仏法の本当の在り様を知らないから、維摩のそういう態度をみて、あの人は立派な人だと、

やることもなすことも全て立派だ、という風にして賞賛をしてる禅師方がこの当時沢山おられた。


「これらのともがら、あわれむべし、言教をしらず、仏法にくらし」まあ一言でいうと、維摩のことを知らないと

いうよりも、自分自身が本当に救われるという事がどういうことか体験がないと言っていいのでしょう。

人の体験した事を聞いたり見たりしてああなる、こうなると言ってるのですね。自分自身が体験してそうなった事とは

全く違うでしょう。人の話でしょう、それは。自分が、人が救われた話を読んで、救われるってこうなるんだなって、

そういう風に理解して、それにそれで救われたって事になるわけじゃないでしょう。

で、ものを学ぶ時に、そういう事が理解できると、自分も同列になった様に思うんだね。思いがちだね。違うよね、全然。

誰かが食べた物の味わいを文章に書いてあるのを読んだ。ああ、何それはこんな味がするんだって。

それ食べた人かって言ったら、食べた人じゃないよ。人の話を聞いて想像しただけだよね。そういう勉強の仕方のなかに、

そういうものすごい開きがあるという事を、こうやって示してるんでしょう。皆さんがどっちを取るかってことですよ。

当然とるべき道は自らが自ら体験して納得する方が正解なんでしょう。それで初めてものの真意っていうものが判るんでしょう。

何でそっちの道を取らないか、いうことでしょう。

だから、「言教をしらず」言葉や教えっていうもの、本当の在り様を知らないと言われるのでしょう。

文字は月(事実)をさす指であると。指の指し示している実物に用があるのでしょう。

文言に書いてある教えっていうものは、そういう風にすべきだという事を書いてあるにもかかわらず、それをああそうかって、

それで終わっちゃって、其の文言を離れて実際に自分でやってみて、なるほど書いてあるとおりだったって処まで行かないって

言う事でしょう。それは文言を知らないってことでしょう、書いてあることを。折角読んでも意味がないということでしょう。

それでは。そう思いませんか。

「仏法にくらし」っていうんでしょ。仏法の話が書いてある。それを読むと、ああ仏法ってこういうことかって、

こだわりを離れるとかね、色々かいてあるじゃないですか。なるほどと本当にそうだなって、そうなったら楽になるなって、

皆書いてあるじゃない。それ読んでそういう風に理解して、それで楽になった人見ことがない。それは思うだけの話。

その辺ではつまらないでしょ。


「あるいは又あまりさえは、維摩と釈尊と、その道ひとしとおもひいへるおほし」

お釈迦様と維摩居士とその悟った心境の上において、なんら違いがないって言う風に受け取っておる人がおられる。

「これら又いまだ仏法をしらず、祖道をしらず、維摩をもしらず、はからざるなり」

一言いえばお釈迦さまって言うのは、誰かから学んだ人じゃないですね。維摩はお釈迦様の悟った内容をどこかで文言を見て、

そういう指南書があって、それに従って行をつんで、なるほどって至った人です。其れ位違いがあるよね。

一番最初にものを本当にこう見つけるってことはどれ位至難なことでしょうかね。


野山に行ってその雑草を食べて、これが薬草であるか、或いは毒薬であるかって言うようなことをはっきりさせるために、

トリカブトなんか食べちゃって、死んだ人いるんじゃないか。あれ、綺麗な花だからね。今頃行くと。

綺麗だから、私も長野に案内され、山荘に行った時に、回りに沢山咲いていたから、綺麗だなって思って取ってきたら

怒られました。すぐ手を洗ったほうが良いよって。毒ですって。そういう身近なことでもそうでしょう。

今はいろんな知識があって、殆ど過ちがなくて生きられる時代になってはいるけど、

それでもまだまだ私たちが知りえないものが一杯ある。


地球の中でもほじくると歴史が変わってくる。最近インカより古いものが発見されましたね。面白いですね。

現代でも、まだ知られなかった時代の歴史が地中の中から出てくる。埋まっちゃうのかね。どういう風にしてあんな深い処に

隠れてしまうのかしらないけど。土を埋めるとか埋めないとかって話も、今日本でもあるけど。

自分たちの前の文化を全部土の中に埋めて、新しい文化を上に創り上げて来たのが、大体の征服民族のあり方なんでしょかね。

だからその更に深い処に未知なものがあるんでしょうね。


「かれらいわく、『維摩黙然無言して諸菩薩にしめす、これ如来の無言為人にひとし』」さっき話した話です。

黙っているっていうやつはですね、測りしれない内容を持つんです。喋るとボロが出るけど、黙ってるやつはね。裁判でもそう。

黙秘権て言うのがあって、口を割らないっていうやつが一番厄介。どんなことをしても口を割らないって言うのが本当に厄介なもの

なんですね。守る、ひとつの術でもある。普通はだから、色々言われると喋らずにいられなくなるんでしょうね、人間て。

ある所迄喋らずに頑張っても、どうしても色んなことで苛められると、そのまま喋らずに居られなくなると言う。

不思議な動物ですね。あれで、大概最後は根を上げるのでしょう。自分の中に隠し持ってる物があると。何にもなきゃそのまま

いれるでしょう。まあそういうなこともありますけど、「黙然して声なし」そういうなことをされると、

しり込むのでしょうかね。「これおほきに仏法をしらず、学道の力量なしといふべし」

黙られるとどうしようもなくなってしまう。扱いに困るっていう。黙ってそこに居られると。

どうしていいか分らなくなるって言うことを見ると、こっちに力がないって言うのよく分るでしょう。

そんな不自由なもんじゃないでしょ。 


「如来の有言、すでに自餘とことなり、無言もまた諸類とひとしかるべからず」

喋るにしても黙ってるにしてもですね、力のあるものと無いものと同じ様に黙っていても違うでしょ。

黙っているから同じだと思ったらとんでも無い。皆東へ向かって歩いていくから同じかと思ったら、求めてるものが皆違うって言う様

なこともあるでしょう。内容をだからよく見てみると、よくこういうことがあるでしょう。


「しかあれば、如来の一黙と維摩一黙と」よく似ているけども、比べるっていう、対照にする価値があるかって

いうんですね。「相似の比論にすらおよぶべからず」これは道元禅師がいかに力があるかっていうことでしょう

ね、この文章を見ると。こういうことがこの維摩の一黙とか、お釈迦様の黙っている時の有り様を、道元禅師がみて、内容が、

維摩が黙っているのとお釈迦様が黙っているのとは比べ物にならんと言ってる。


じゃもうちょっと身近に一人一人自分のことで勉強してみてください。隣の人が黙ってるのと自分が黙ってるのと比べて、

どうするんですか。もっと言ったら、自分が黙ってる時に、他人が黙ってることが、自分の黙ってる中に本当にあるかしら。

それ難しかったら、こうやって物を眺める時に、自分がこうやって物を眺めている時に、隣の人も見てるかも知れないけども、

隣の人が見てる様子が自分がこうやって物を眺めてる時に、何処に出てくるんでしょうか。

これだけ大勢の人が一緒に物を見てるんだけど、ひとつも他の人の眺めてる様子が出て来ないっていうのは誰しもの真相でしょ、

在り様でしょう。それ位比べるものなんかないですよ、本当。もし比べるようなものの見え方がしたら、おかしいのよ、他の人と、他

の人はどんな風に見てるんだろうって。そんなもの一切用がない様に出来てる。それで良いでしょう。それが誰しもの真相です。

考え方は違いますよ。考え方は今申し上げる様に、自分がこうやって見てると、他の人はあれをどういう風に見てるんだろうって、

そういうことを想像するんですよ。本当にこうやってる時に、その通り見えてる事が、物を本当に味わう力なんでしょう。

まあそういう様なことをこうやって見ておきたいですね。


「言説はことなりとも黙然はひとしかるべしと憶想せるともがらの力量をさぐるには仏辺人とするにもおよばざるなり」

書いてあるじゃない、ね。「黙然はひとしかるべしと」勝手に想像するんだよね。「憶想するともがらの」


思うことと実際こうやって見えてることとは全然違いますよ。「かなしむべし、かれらいまだ声色の見聞なし」

皆さんだって本当に、物や音声、そういうもの見聞きすることがどういうことかって、「コンコンコンコンコン」(机を打つ)

こうやって音を聞く時にですね、隣の人がどういう風に聞こえるだろうとかって、そうやって憶想する、

そんなことはしないでしょうが。そんな聞き方をする人いないでしょ。でも日常の生活は常にそういう、

他人のありようが気になっている風な、似たようなものの取り扱いをして生活してるんでしょう。

所謂各自の見解、自分のものの見方や考え方をつけて見聞きするのでしょう。

物を本当に見聞きするって言うことは人間の考え方や見方を付けたら、物が正しく見聞きできないってことは百も承知でしょう。

そうじゃないですか。だって物には人間の見方ついてないんだよ。考え方。ただ事実がその通りあるだけ。

その事実にこう触れると、その事実の通りに分るように出来てる。考えるんじゃなくて、探るんじゃなくて。

でも学んできた知識を通さないと何かはっきりしないように思う人が多いじゃないですか。この音ポン!(机を打つ)を聞くのに、

他の音と比べて聞く人なんかいないじゃないですか。これを見るのに他のものと比べて見るってことは無いでしょうが、

本当にこれを見るのに。これだけに目を向けるのでしょう。そういうことを皆さん知ってるはずですよ。

それだのに、そういうことがわからないから、「かれらいまだ声色の見聞なし」声色を跳び越えるという様な

「光明あらんや」そういうはっきりしたものの在り様が無いじゃないか。こういっておられる。

「いわんや黙の黙を学すべしとだにもしらず、ありとだにもきかず」この音「ポン!」を聞くのに、

他の音一切持ってこないのですね。これを(扇子)見るのに他のもの一切借りる用が無いんですよ。これだけでこれが見える。

そんな当たり前のことでしょう。でもそういうことを「ありとだにもきかず」ありとだにも知らずでしょう。

だから常に何か比較対照する物を、学ぶ時に出しているのでしょう。それでごちゃごちゃするのでしょう。


「おほよそ諸類と諸類と、その動静なほことなり」一つとして同じものなんかないよね。

いちいち全部そのものがそのものを表すだけであって、オンリーワンっていう様な表現をするのでしょうかね。

「いかでか釈尊と諸類とおなじといひ、おなじからずと比論せん」

一生他人の生き方をこの身体は一切しません。他人のことを一切しません、他人のことはこの身体は。

本当に生涯この一人一人、各自の身体の様子だけです。徹底して底抜け。それだのに他人のことが気になってしょうがない。

それ位自分のことを見ないで他人のことばっかり気にして生きてるってことでしょう。

だからこのものの本当の良さが分らないのでしょう。


「これ仏祖の堂奥に参学せざるともがら、かくのごとくいふなり」

仏の堂奥に参学せざる人たちがそういうことを伝えるんですよ。仏祖堂奥の参学人はそういうことはやっぱり言わないでしょう。

ものの堂奥って言うと凄い奥の方で、誰もみたことが無い様に思うかも知れないけど、本当のものの在り様って話だけですよね。

誰しもが今生活してる、本当のものの在り様ってそういうことになってるんじゃないですか。

それは反論の余地がないと思うんですね。一日中見たって、他人の生活はしないんだものしょうがないじゃない。

他人のことどうこう言ってる自分の生活はあるんですよ。ね。他人のことをどうこう言ってる自分の生活はあるけど、

それも他人のことじゃなくて、自分がどうこういってるんであって、そういうところ丁寧にこう触れてみてほしいね。


兎に角、八正道支の中で、道元禅師が正業道支について本当に文言を沢山残しておられる。

これが私たちが生活しているど真ん中の話だからでしょう。これ抜きにして、仏法は無いでしょ。後のものは皆短いですよ。

全部殆ど短いさらさらと書いてある。

ここだけこんなに長々といろいろ書いてある。これは先ほど來話した様に、現代風に見てみると、修行道場のあり方って言うものが

凄く大切にされてきているのでしょう。お寺に生まれたからって、お寺で過ごしてても、修行道場に行った様にはならないですね。

本当に、自分のとこでもそう思う。自分の寺では育てられない、情けないけど。道場に出すと変わりますから。

それ位修行の道場て、やっぱり有難い場所です。そういうことで一応終わります。


(円通寺講話会に継続して御参加の方が、1月~6月の録音ディスクをお貸し下さいました。この場をかりてお礼申し上げます。
前後しますが、三十七品菩提分法の四念住から七覚支半ばまで、来春にかけてお届け出来ればと思います。)

次回円通寺講話会 2016.10.22(土)18:30~20:30
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  1. 2016/10/09(日) 19:42:25|
  2. 三十七品菩提分法・八正道・正業
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