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虚空 I  正法眼蔵 第七十

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虚空 Ⅰ_06


少し読みます。

「這裏是什麼処在のゆゑに、道現成して仏祖ならしむ。仏祖の道現成、おのれづから嫡々するゆゑに、皮肉骨髄の渾身せる、掛虚空なり。虚空は二十空等の群にあらず。おほよそ、空たゞ二十空のみならんや、八万四千空あり、およびそこばくあるべし。」

括弧の中読んで行きますよ。

「撫州石鞏慧蔵禅師、問西堂智蔵禅師、『汝還解捉得虚空』(撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問ふ、『汝還虚空を捉得せんことを解する麼』)」。
西堂曰、『解捉得(捉得せんことを解す。)』
師曰、『汝作麼生捉(汝作麼生か捉する)』。
西堂以手撮虚空(西堂、手を以て虚空を撮す)。
師曰、『汝不解捉虚空(汝虚空を捉せんことを解ぜず)』。
西堂曰、『師兄作麼生捉(師兄作麼生か捉する)』。
師把西堂鼻孔拽『師、西堂が鼻孔を把りて拽く』。
西堂作忍痛声曰、『太殺人、拽人鼻孔直得脱去』(西堂、忍痛の声を作して曰く、『太殺人、人の鼻孔を拽いて直得脱去す』。
師曰、『直得恁地捉始得(直に恁地に捉することを得て始得ならん)』。」

「石鞏道の『汝還解捉得虚空』なんぢまた通身是手現眼なりやと問著すべし。」


まあその辺まで読んで。最初の所に、この道元禅師が虚空についての一番言いたい処を纏めてあると言っていいでしょう。だから其処だけが読み取れれば、もう済む。大体。正法眼蔵の書き方って言うものは、初め方に一番大事な事が書いてある、のが、道元禅師の手法かね。

書き方あるいはお話をする時もそう、なんだと思うんだけど、一番最初に大事な事を話してある。そして、後にそれを説明、補って行く様に、ずーっと色んな例題を引いたりしておられる、ですね。これ非常に親切だと思います。

中にはですね、何時になったら本当の事がしゃべられるんだろうかって言って、何時行っても届かない人がいます。そう言う人には会った事ないですか。一番聞きたい事を最初に伝えてくれるって、こんな有り難い事はないでしょうね。それでもう後帰ったっていいよ。そうでないと、ぐずぐずしてると間に合わないもん。九十五巻全部読んでから、本当の事なんて。読み終わらないうちに、命終わっちゃう。

そこでですね、最初の方に書いてあるんだけど、「這裏是什麼処在のゆゑに、」這裏って言うのは、今でしょう。皆さん方の今、こうやってる此処の様子って言って良いでしょう。こうなってるよって言ってます。今こうなってるよって。「這裏是什麼処在」今こうなってるよ、言ってます。どうなってるでしょう。エー、今こうなってるよって。それが私達の勉強する事でなんでしょう。これからどうなるこうなるって言う事じゃ間に合わない。今こうなってるって言う事の中にある、ああなるほどって言う事がはっきりすると、いきなりそれで終わるのでしょう。

こっちへ向いて居てくれると良いんだけど。こっちへ向いてくれる?こっち向いて、良いですか。こっち向いてないとわかりませんよ。(紙を見せる)ね。「這裏是什麼処在」のゆえに、こうなるでしょう、皆さん。でもそれが何だ、と思うでしょう。こうやったら(紙を提示)それが何だと思うでしょう。それが皆さんが今生きてる時の様子ですからね。それ向こうで何かやってるよって、何回もさっきからも話てるけど、こうやってやると、向こうで何かやってるって、どうしてそう言う風になるんだろう。

ここはそう言う風には書いてない。「這裏是什麼処在のゆゑに、」これ、こう言う風になる。だから「道現成して仏祖ならしむ。」必ずそれ以外の様子にはならない。それ以外の様子になる人いるかしら。こうやって。道現成と言う事はそう言う事でしょう。その通りに必ずいつでもなるんだよ。ズレた試しがない。ズレた試しがないと言う事は、説明したらどう言う事になるんですか。不平不満が無いと言う事でしょう。不平不満があると言う事は、こうやってる時、何かズレたものがどっかに有るからでしょう。それが気にいらないって言わせてるんでしょう。

だけどもこうやってる時(紙を見せる)この通りに、でしょう。どうしたんでもないけど、そうやったら、その通りこうなるでしょう。どこの職場にいてどんなものと触れ合ったって、必ずその言う風になって生活してるじゃん。うまく行かないなんて言う事はない。皆さんが気に入るとか入らないとか思う前に。エーそんな面白く出来てますよ。それが何だとかどうだとか言う前に、みんなそう言う風にきちっと済んでる。

そう言うものを道現成と言う。で、その事がその事を通してはっきりするから、仏祖と言うものが出てくる訳じゃん。自分で本当に満足した人が育つじゃん。そう言う事がずーっと「仏祖の道現成おのれずから」、どうもしないのに正しく伝わっていると言う事が、「嫡々するゆゑに」って言うんでしょう。自分の様子を見てると、本当にそう言う事がずーっと途切れずに何時でも行われてる。この身体、皮肉骨髄全体挙げて、渾身、渾身、この身体、身心と言われる。この身体の働き以外のものは本当に無いのだから、しょうがないよね。

虚空にかかる、こうやって。渾身これ、口。虚空にかかる。こうやって。虚空にかかるって言うのはどう言う事かったら、置き場所がないって言う事でしょうかね。大空に何かを吊るそうと思ってもですね、物干し竿の様なものがない。掛けるものも無いねぇ。そう言う事じゃない。何処にかけるって言うんじゃなくて、必ずこうやって今の様子しかない。

で、もう一つ虚空って言う、二十空とか有りますが、八万四千空とかありますけど、空って言うのは、その時にそう言う活動をしながら、本当に無くなる場所も無いんだね。活動したものが。姿を消す場所が無い。

良いですか。指、見てて下さい。こうやってやった時に、姿を消す場所が無いじゃないですか。先程のここの、今此処にありますけど、こうやって姿を消した場所がないじゃないですか、ねぇ。音だってこうやってパン!(打掌)音がしたんだけど、音が消えた場所がない。こんな風にして活動してるものを、暫く空と言ってるジャーン。Empty じゃないですよ。実際に活動してる事が皆そうなってるジャーン。

色んな思いが出てくるんだってそうでしょう。思った時だけあるだけでしょう。前に出た思いを取り払って次の思いを起こすなんて人は誰も居ないよ。で、何処へ行ったのか知らないじゃん。何時消えたのかも知らない。それ位引っかかりが無く、自由に縛られずに、苦しめられずに生活してる。そう言う実態が空と言われる。響きじゃん。

そうすると、八万四千どころじゃないじゃない。数えたら、数でそうやって挙げるんでしょうけど、「そこばくあるべし」って、数えきれない。手当たり次第そうだね、皆。それで終わりじゃない。虚空の巻はこれで終わり。覚える事じゃないよ、だから。ただ。聞いて、ああなるほどそう言う事なんだって、覚える事じゃない。自分自身の本当の様子がそうなってるって言う事を、自分で自覚して使える人になる。自覚をするのに、何処かから学んで持ってくる用がない。全部そう言う出来栄えで活動してますから。

それで修行が必要なだけじゃない。そこにものが、本物が有るんだけど、信じられないの、ね。その信じられない事が情けないだけじゃない。なんで信じられないかって言うと、人が立つからですよ。自分と言うものが立つから、ものとどうしても別々になる。一緒に成った時に信用する用がないじゃん。

お茶飲んでる時に、お茶本当に飲んでるかなんて、信ずる用がないじゃん。ねぇ。飲んでる時、こうやって本当に飲んでるかしら、信ずる用がない。皆一緒になってる時、信ずる用がないじゃん。不信感なんか何処にも無い。疑う余地が無い。そう言う事が修行の上で決着をつける訳でしょう。だからたまには抓ってみなさいって言うじゃん。まあそれで大体終わりなんですよ。虚空の巻き。

で此処で改めて教材を一つ提供しておられる。石鞏禅師と西堂の智堂禅師との二人の間で交わされた問答、話ですね。やりとりが挙げられています。ざっと今読んだんだけど、あなたは虚空と言うものを捉んだ事が、「捉得」ですね、捉むって言う事が出来るのかって。「解すや。」下、脚注に書いてある通りですね。そうしたら西堂曰く「はい」って言ってですね、「捉得せんことを解す。」捉む事が出来ますって、虚空を捉むことが出来る。

「じゃ、あなたどう言う風に捉むんだ」って、言葉だけじゃ捉むと言う事が出来てるのか出来てないのか分からないから、捉んで見せろって言うんでしょう。そしたらこうやって捉んだ。虚空を捉むってこんな事をした。そしたら、「汝捉得せんことを解せず」お前虚空を捉む事を知らないなぁって。虚空捉めてないな。だから兄弟子の石鞏禅師さんにね、西堂が「師兄作麼生」あなただったらどうやるんですかって。「師、西堂の鼻孔をとりて拽く」鼻をつまんで引っ張ったと言うことですね。

その時に鼻を引っ張られた西堂が忍痛の声をなして、痛いって言うんでしょうかね。「太殺人」何するんだって言う様な言葉で良いのでしょう。「人の鼻孔を拽いて直に得たり脱去することを。」って言うんですね。自分が今まで虚空を捉むって考えてた事と、本当の虚空の捉まえ方はこんなにも違うかって、吃驚したのでしょう。

「直に恁地に即する事を得て、初めて得てん。」この様にして本当に虚空を捉む、この様にすると本当に虚空が捉めるんだって言って、兄弟子が西堂にいっておられる。虚空って言うと何か大空の様に思うから、こんな所こう捉むんでしょうねぇ。(手を広げて、両手で空間を挟んで見せる)

最初に申し上げた様に、一々が本当に虚空としてあるじゃない。活動してる様子見てください。こんなにはっきり間違いなく、今見てる様子があるにも関わらず、こんなになる。いつ何処で変わるんだろう。こう言うものから何時何処で変わるんだろう。変えた気配が自分に何にも無い、自分で。だけど前の物がすっかり無くなっている事だけは確かだよね。

それで、こう言う風に見えるしかないもん、こう(別の物示す)は見えないもんね。こうやって勉強するんだよね、修行は。自分自身の今の在り様。考え方は、前に見たものこっちに(頭)やって、何時までも残してるでしょ、と言うより、考えが浮かんだ時だけそうした事が思えている、生活の中で。それが皆さん方が生活の中で困ってる事を引き起こしてるんでしょ。

人間て愚かだね。今日の生活をしてるのに、昨日有った事を思い起こして、ああでもないこうでもないって。それもっと言ったらですね、こうやってお茶を飲んでる時にですね、あそこで食べたラーメンはとかって、昨日のケーキはって、言ってる様なもんですよ。じゃお茶飲ましたって意味も何もないじゃないですか。お茶を飲んで味わう力がないじゃん。皆さんの生活、そう言う事をしてるんですよ。ひどい事を言ったら。だから充実感がない訳じゃん、生活してて。

それで、どっかにもっと自分を満足させるものが有るんじゃないかって、又そこで輪をかけてそうやって思うから、今やってる事から全くすり抜けてしまって。一番大事なもの全部捨てといて生きてるって事でしょう。どころがこうやって、自分の眼でこうやって生活してると、実態にこうやって触れて、こんな面白い生活してるんだよ。難しいって事一切言わせないんだもん。どんなに複雑そうなものが、そこに有っても何ともない。

子供じゃ分からないって大人が思うけども、そんな事はない。どうして三歳位の子供でも、大人よりも優れた働きをするかって言う事は、そう言う風に出来てるからです。子供にゃ難しいって、自分の能力がそうさせてるだけじゃん。自分で出来ないもんだから、子供にゃそんな事無理って思わせてるだけ。子供は皆が思うよりももっと凄い事してる。

初めて見るものだって、何の苦も無くこうやって平気で見て分かるもん、いいね。自分の中には何も体験した知識が無いですよ、初めての方は。だのにいきなり触れてちゃんと分かるんですね。

明日何処どこの誰々が来るって、私会った事ないよって言って、ドキドキするとかって、変じゃない。皆そうやって一生懸命頑張ってるでしょ、明日の為に。要らない事でしょう。楽でしょう。暇になるでしょう。ああしたら、こうしたら、こう言われたらああしたらって、そんな事、寝るまで考える必要がないじゃない。失敗したらと。でもそう言う風にするのが対応の仕方だと教えられて、一生懸命やってるじゃん。何だろうね。どっか本当に違うんじゃないかしら。

勉強って、ただそうやって今の自分のある様子そのものにこうやって学ぶ以外にない。ちゃーんと聞いてるとですね、今まで親子で喧嘩してた方がですね、変わって来る。不思議だね。要するに、自分の、聞く時に余分なものそこへ付けてるから、変になってるだけじゃん。

これ、世の中の、今の、現代社会の中で、これは急務でしょう。必要な事でしょう。人の中傷して来る文言や或いはこう言う物(スマホ)を通して入ってくる言語、そう言うものを皆さん方見たり聞いたりしてるんで、これがどうしようもなくて、かなりのパーセンテージ人が死んで行ってるしゃんね。何でそうなるんだろう。教えないんだろう、そう言う事、ね。こう言う真実を。

虚空って凄いですよ。自分で手打ち払ってって言うか、問題にしない様にするなんて言う必要が何もないんだもん。本当に何処にも留まらない自由なこんな素晴らしい活動してるじゃない。全身心、何処を見たって。だってその事を自分で知らないもんだから、考え方の上で取り扱ってるから、皆やられるじゃないね。少なからず今からそうやって過ごしてほしい。そうすると、今年は災害の多い日本だったけど、良いお正月が迎えられるかなと思う。

苦しむってなんだろうね。さっき来て、奥さんとも話てたんだけど、結婚したての頃の話がちょっとあって、肥えを担いだ話やら、病院に行くのに、行く時に朝晩しかバスは無い。お寺の山に登るのに、待っていてもバスが来ないから、二、三十分急な山を歩いて登った。まあ大変だったと言う様な一面もあるんだけど、皆今振り返ってほのぼのとした話になってる。不思議ですね。

事実って言うものは、そうやって本当は人を苦しめてないよね。何にも。事実で何か苦しんだって事、皆さんありますか。挙げてみて下さい。もし有るんなら。苦しむのは事実じゃないですよ。間違いなく。それをああでもないこうでもないって思ってる、その思いが自分をたまらなくするんですよ。その思いをなんとかしないと救われない様な気がするんじゃない。

そっちを手を付けて修行するんじゃないんですよ。思いを自分の気に入る様にするって言う事が修行ではない。それ間違えると、必ずそっちをやる。だってそれが自分を苦しめてると思うから、そう言う事が思えなくなったりしたら、忘れられたら良いなって思ってるじゃない。そうじゃない。

実際の生活に触れてみると、そう言う生活してないんだもん。忘れる用がないじゃん。何時でも今の様子があるだけじゃん。だけど今の様子があるだけなのに、思う事でも思いが出た時にその思いがあるだけなのに、今の様子でないものを思い起こしちゃ、それを問題にして、今の様子を見ない。今の様子に触れない。その事の方が大問題。ねぇ。虚空、虚空ですよ。そうやって本当に虚空を相手にして生きて行く訳でしょ。今の事実を相手にして。

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