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坐禅箴 Ⅳ

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坐禅しんⅣ正_01
坐禅しんⅣ正_02
坐禅しんⅣ正_03


でも人間の生活の中には、似た様な物を沢山成造している訳ですね。機械でも何でも。お皿でも。だから同じものが一杯あるってよく言うじゃない。あれはもうちょっとよく見て下さい。よく見るとですね、同じ物は何処にも無いのです。こうやって皿が二枚あってね。同じじゃん、てよく言うじゃないですか。ここに今あるってことは別だって言う事ですからね。そうでしょう。もう最初から。別の物だって言う事でしょ。こっちの皿こっちの皿。それだのに人間は、こうやって見た時に同じ物があるって。こんなになってる。これは単伝じゃない。こうやって伝えてるのは複伝ですね、ねぇ。

正しく伝えてない。正伝て言うのは、こうやってこう言う風に伝わるじゃん。必ず単伝で伝わってくるじゃん。それがそれ。それがそれに違いない。これとこれ、似てるって言う事はあるよね。似てるって言う事は別のものだって言う事を表現してるって言う事でしょう。ちゃんとだから言葉は正確に伝わってる筈なのに、人間が理解をする時、間違える。

でもあの皿を持って来てくれって言って、一枚だけって言わないからね。五人いるから五枚欲しいって言うと、ちゃんと五枚持って来る。同じものをお願いしますって、一応そうやって言葉は使うじゃん。同じものは無いんだけども。同じ様なものを五枚持って来るって言うことですね。ちょっと屁理屈みたいだけども、よく見てみると、違うね。まあ。そう言う事がありますね。

「すでに釈迦牟尼仏より直下」直下、じきげって言う。直下って言ってます。「直下に三十六代なり」これは薬山と言う方はお釈迦様から三十六代目の祖師であると言う事です。正しく仏法の内容、あるいは仏法の内容と言うよりは、自分自身の真相をはっきり明らめた人だと言う事ですね。

「薬山より向上をたずぬるに三十六代に釈迦牟尼仏あり」遡っていけば三十六代前にお釈迦様が居られるとこう言う事でしょう。下ってくれば三十六代目で自分が居るという事。上っても下ってもですね、代が変わる、その三十六代がですね、こっちから数えたら、三十七代になって、向こうから数えたら三十五代になるって言う様な事は無いと言う事ですね。

道を歩いてもそうでしょう。こっちから行くと坂が七つあるんだけどって言った時には、必ず下り坂って言うのも七つある。上り坂だと思ったやつは、こっちから行った時に見たもの。同じ道だから、それが其の儘下り坂になる。ね。そう言う様な事を、一杯こう実物の中でも行われてる。

「かくのごとく正伝せるに、思量箇不思量あり。」そう言う中に、この坐禅と言われるものが正しくその様に伝わって来てると、こう言う事です。だから人間の思量があるから、不思量とかって言う事だとか非思量がどう言う内容だとかって言う事も、思量があるから一応分かる。だけど一応思量で分かるんだけど、それは自分がこれ思量してる範囲で分かってるって言う事も分かってる。で思量を外れて、思量から、全くそう言うものが付かない状況がどう言う事であるかって言う事を今は学ばなければならないと、こう言う事です。

其処までやらないと、言葉はあっても、実物が無い。非思量の実物が無い。そうすると、自分の中でどうなるかって言うと、理解が出来ない。味わえない。それやるためには、必ず自分で、自分のこの身体を借りてやる以外に方法は無い。何億に人が居ようがしょうが無い。自分でやる以外に方法がない。それで修行と言うものは、人から勧められてやるものじゃないと言う事になるじゃない。宗教の根本はですね、だからコントロールされる様なもんじゃないですね。

瞑想や何かで陥りやすいのは、あの、ああ言うものの考え方に、終いにはコントロールされて、洗脳されて行くって言うのが、殆どの修行の欠点じゃない。最大の弱点じゃない。危ない。だから宗教は麻薬だとか言う様な事を言われるのは、そう言う事じゃない。
仏法においては、そう言う事一切起きない。強制されて、その様に見ろって、やって、その様に見える訳じゃないから。誰にも強制されない。その様に聞きなさいって言うけど、誰かの力を借りて、その様に聞くなんて事は無い。必ずその様にパン!聞ける様になってる。注意深くしてないと、そう言う事忘れちゃって分からなくなるという事は無いの、これ本質的に。すごいね。

他の勉強はそうじゃない。ちゃんと頭にそう言う事、置いといてやらないと、すぐに役に立たない。ねぇ。こんなのが「すでに思量箇不思量底あり。」で。

ここはね、次の所の一画はですね、さほどの事は書いてない。ざっと読んでいきますね。だけどもと言う事、「しかあるに」今話した様な事が本当にある。だけども最近はですね「近年」最近の人たちは、本当にものの分かりの悪い人が多くてねって、「杜撰おろかなる杜撰いはく」ですね。

どんな事を、じゃ最近の人達は言ってる、これ道元禅師が中国に渡ってる頃だから、1230年にならない位の頃です。その辺の時に、こんな事が大体言われている。「功夫坐禅、得胸襟無事終、便是平隠地也(功夫坐禅は、胸襟無事なることを得終りぬれば、便ち是れ平隠地なり。)」これで修行が終わったって。こう言う風になれば修行が終わったんだって言う風に伝えてる。

胸襟無事って、胸襟は分かりますよね。自分の心の中と言って良いでしょう。ね。その中に何事も無い様になれば、そうすれば、毎日生活してて、穏やかだからそれで良いって、その位の事しか言ってないって言うんです。

この「見解」自分の見方、理解の仕方ですね、「なほ小乗の学者におよばず、」仏教に大乗と小乗ありますが、小乗って言うのは自分だけ救われれば良いって思ってる様な、小さなものの考え方をするものを、小乗仏教と言います。大乗仏教って言うのは、自分が救われたら、その素晴らしさが自分で分かったら、全ての人に縁があれば、それを伝えて行こうと言う大きな願いを持った人達が、大乗仏教と言われてるね。

で、だからそう言う時に、「なほ小乗の学者におよばず、」自分の事だけよかれと思ってやってる人よりも、まだそれはつまらないものの見方や考え方・理解の仕方だと道元禅師が言っておられます。

「人天乗よりも劣なり。」一般のなんだろう、道徳律とか言う様なものも入るのでしょうね、人天乗。こうすればああなる、ああすればこうなるいって言う様な事があるから、それを守っていく様な事がありますが、そう言うものよりも詰まらないと言ってる。「劣なり。」「いかでか学仏法の漢といはん。」本当に仏法を学んでる人とはとうてい言い難い。

「現在大宋国に」そう言う「恁麼」です、その様な功夫している人が多い。「祖道の荒無かなしむべし。」折角素晴らしい正しい教えが今も伝わっているのに、何たる事だと言っておりますね。これが一段ですね。また似た様な人がいると言うので、挙げてあります。

「また一類の漢あり、」それどう言うことか、『坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり』坐禅は、今自分達が悩んだり苦しんだりしてるから、それがどうしたら良いかって言う時に使ってですね、それがはっきりすれば、後は要らないって言うんでしょうね。『かならずしも仏祖の行履にあらず。』それは悟りを開かれた仏様や祖師方の在り様とは違う。

『行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安穏(行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安穏なり。)』行くもまた禅、坐もまた禅、と読んでおりますが、何をしていてもって言う事でいいですかね。何をしていても禅の在り様だって言う風に捉えてる。そう言う風な考え方でものを見ているって言う事です、これね。

考え方でものを見ているのと、実際に本当にその時、その事しかない確かさと言うのは、全然違うって言う事でしょうね。研究するとか、ものを学ぶ人は、殆ど実物じゃなくて、そう言う学問的にものを見て、勉強している。それで結論も頭の中で出した結論で、そうなってるって、そうなりますって言や、それでなった様な気になってるじゃない。こう言う様な事を道元禅師は厳しくやっぱり見て、それは違うって言う事ですね。

「ただいまの功夫のみにかかわることなかれ。」ってこう言う人達はだから言うって言うんでしょう。もっと一杯やることがあるって言うんでしょうね。だけど修行って、やる事一杯無いですよ。今自分達がこうやってる時に、本当にどうなってるかって言う事だけがはっきりすれば、済む事じゃない。この一点だけ。カッチ(□の中にカ)一解とか一大事とか、色々な言い方しますけど、これが一番大きな問題じゃない。

もっと普通の話をすれば、今皆さん方がそれぞれ問題になってる事だけが解消、本当の意味で解消されれば、すっきりする訳でしょう。他の事はそのまま普段の通り生活してて良い訳でしょう。

「おほくこの見解なり。臨済の余流と称するともがら、」これは余所でこれを裏付ける様なものが残されておりますが、どうして「臨済の余流と称すともがら、おほくこの見解なり。」って言う事になるかって言うと、元を尋ねて行くとですね、圜悟克勤と言う人の後に大慧の宗杲と言う人が流れの中に出てきますが、その時に、きちっとした処までこの大慧の宗杲さんって方が修行が終わらない内に、圜悟禅師が亡くなってしまって、その後もですね、修行して本人がはっきりしたって、きちっと自分ではっきりしたっと言う処まで行かないまま、色んな事を後世に、文言と文章も作ったりして伝えたって事があるので、こう言う事になります。皆見解、仏法が皆見解になっちゃった。

それが今でも使い方が悪いと公案を、臨済の方達は公案と言うものをやりますが、あれを見てると、答えを如何いう風にして出して来るかって言うと皆考えでしょう。坐って、そこに何が書いてある、どう言う事を言おうとしてるかって、すーっと坐りながら、その文言を頭の中に浮かべて、遣り取りを頭に浮かべて、それ如何いう事だってずーっと坐禅中にそういう事、ずーっとやってる。或いはその他の時でも、その公案をずーっと頭に置いてないと、お師匠様の処であれはどうなった、あれは如何いう事か分かるかって言われた時に、答えられないので、一生懸命考える。全部見解なの。

(臨済の坐禅て言うのは、非思量では無いと?)恐らく。恐らく。(僕はそう思ってますけれど、違うと言う人もおりますので、尚確認です。)、ああ余り余分な事を言うとね、差し障ると言う事でしょう。要らん事でしょう、自分の修行するのに。まあそう言う事にしておおきましょう。

これは気をつけなきゃならないのは、自分がはっきりしてない時に、人がはっきりしてるとか、してないとかって言う様な事は、真に失礼な事でしょう。(はい。)これ立派人が、こうやって言う分には問題ない、ねぇ。分かってない人が分かった様な事を言うのは、それは絶対注意しなくちゃいけない。人の褌で相撲を取るって言う事があるから、こう言うのを書いてあるのを見ると、わが事に様にこれ使ってしまうとえらい事になる。(各宗派としては慎重にそのあたりやってますね。それ分かります。)ね。それで良いでしょう。

「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。」ここまでで終わっておきたいと思う。

初心晩学の要機って言う様な事が最初にあげてあるので、この事を示している当時の人達が、どう言う風に初心て言うものを見てるんだろう、晩学って言う言葉を使ったり、段々年数が重なって行くと言うことでしょう。お前今日はじめて来たじゃないか、あなたは何年もやってる、そう言う風なものの見方があるから、そう言う時にですね、じゃ初心て、そんなにつまらないものかって、一つは言ってる訳。

でこっち、何十年もやってるって言うけども、本当に今こうやってる事は、何十年もやってる事かって言ってる訳です。どちらも、今、生まれて初めて触れてる様子じゃないかと言うのが、ここで言いたい事ですね。だからあの、私の方が古いですとか、私の方が初めてですとかって、遠慮する必要が無い様になってる。威張る必要の無い様になってる。皆触れる処は初心です、生きてるって事、しょうがないじゃん。そう言う風になってる。今迄にやった事が無い事やるだけだもん、生きてるって事、全部。

(新しい日々、じゃなくて瞬時?)そう。新しいって事、言う事を仏教では大清浄って言う。大きい清浄。きれい。底抜けきれい、ね。古い物が何処にもない。それが大解脱って。全てのものから放ち解かれてる。(それを解脱って言うんですか)そうですよ。だってそうでしょう。内容としては言葉はだから難しいんだけども、事実を見てみると、何だ、って思う位簡単な事なのですよ。

そんな風に出来てるんだけど、ここの頭は、相変わらず古いもの一杯相手にして、有る様に思って生活してるから、この坐禅を本当にしてみないと、この事がはっきりしない。(先ほどの大解脱の他、もう一つは?)大清浄。清浄セイジョウって普通読む。仏教用語では清浄ショウジョウ。これが皆さん方の毎日過ごしてる様子なんです。

だから他の事持って来て見ないでしょう、これ見る時に。イキナリこれで済むじゃない。音を聞くんだって、何か持って来て聞かないんだもん。パン!いきなりパン!この音だけで、済、ちゃんと出来てる。皆、初めてでしょ。初心でしょ。そうやって過ごすと修行になる。この内容が非思量だから、初心て言うのは。手のつけ様がないじゃない。

未だかって自分の上で起こった事が無い事だから。自分の中にあるものを出して来るんじゃないからね。非思量って。古漬けみたいに。無いんだよ。この中に非思量って言うものが。あったものを出して来て触れる様な事じゃない。初心て言うものが非思量の正体。

音だって、パン!(打掌)何処からこう出してくるかって、どっかに有ったもの此処に引き出して来る訳じゃない。こうやってパン!音が出る様になってるだけだからね。これ位人間の考え方を離れてるものを、実際に体験して生きてる訳じゃん、本当は。だけども、何回も何回も言うけど、本当に人間て、こっから上で(頭)生きてるんだよ。考え方で生きてるだけって言っていい位つまらなくなってる。それを坐禅は、本当の自分の在り様そのものにこうやって居る。

自分自身のこの生き様ってものは、絶対に忘れようたって忘れられない、離れようたって離れられない様にできてるから、これだけで何時も初心で生活してるそれで十分。ということで。
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