FC2ブログ

坐禅箴 Ⅲ

2018.12.2 (六月の分と一部重複します)

音声はこちら ↓

坐禅しんⅢ正_01
坐禅しんⅢ正_02
坐禅しんⅢ正_03
坐禅しんⅢ正_04



この資料、「坐禅箴」の資料の一枚目の終わりの五行目位からですかね。その繋ぎまで読んで話をします。

「大師云、『非思量』。」これは何だろう、思量、不思量、非思量って、こう三つ位単語が並ぶんだけど、思量は勿論、実物では無いのですね。例えば、こうやってパン!(打掌される)あ、音がしたって言う風に扱ってるのが思量ですね。で、不思量って言うのは少なくとも、パン!あ、成る程、音と考えてる事が違う、って言って、この音の方にこうやって居る位が、不思量ですね。で、この本当に音だけをどういう風にして頂くことが出来るかったら、それはもう最終的に、これパン!に拠るしかない。

この音を聞くにしても、この音を知るにしても。思量に一切用がない。実物そのものですから。不思量にして現れる。人がどうこうする前にパン!だから、聞くとか聞いたとか聞こえたとかではない。パン!こう言うものがここで非思量と言われるね。

生活の中で基本に成っているのは、必ず事実ですよ。実物でしょう。実物は人間の思量の及ぶ範囲じゃない。それだのに人間は思慮分別を持ってそれを知りたがる。それで実物に触れている様でも、何だろう、コーティングがしてあると言ったら分かるかね。あの透明、無色のコーティングがしてあるので、実物の様に見えるし実物を間違いなく扱ってると思ってます。(質問:思ってる?)思ってる、殆ど。

ところが実物には、そう言う人間の思慮分別が加わってない時が、その実物の本当の在り様なんですね。だから、この非思量って言う事が役に立つ。修行するのに、必ずこの事で時を過ごして行く訳。

もうちょっと具体的にものをこう見てみると、簡潔に言ったらですね、時節因縁と言う様な事を使いますが、時節って言うのは時です。時って言うのは皆さんが一番よく使ってるのは、今と言う表現です。今って言うものはですね、掴まえ処が無い様なんだけども、今から離れて生きてる人は一人もいない。何時でも。だけども、その何時でも今の様子に居る今の内容はどう言う風になってるかって言うと、先ほどのものは一切ない。

滝の水が流れてる様子を見てもですね、滝がずーっと流れて、水が流れてるって言う風に見てるけども、その水の流れてる内容はって言うと、何処にも先ほどの水が流れてるって言う事は。永遠に無い。必ず今の流れてる水の様子だけなんですね。それ先から、上から落ちて来るって言うんだけど、必ず本当に今の流れてる水の様子だけなんです。それでも人間は物の見方があるから、ずーっと何時も同じ様に滝が流れてるって言って、そう言う風に固定概念で物を見てる。実物の内容は何処にも固定されるものは、一切無い。掴まえるものさえない。

そう言う風にして、今って言うものは展開されてる。その時節って言うものは、そう言うものを時節と言います。時と言います。これが人間の本質です。(路面電車の音)ゴトゴトゴトゴト、ゴトゴトゴトゴトって、これ時です。音がしている時です。何処に触れるかって言うと、ゴトゴトゴトって、必ず今の音に触れるしかないんです。否応なしに。そうやって皆さん毎日生活してるんですよ。

それだのに色んな事が気になるのじゃないですか、ねぇ。それは思量の世界の方で扱ってる話でしょ、考え方の。事実の方に学ぶと、見事にそう言う事が解決されて生きてるじゃない。あれがこれが気になってるって言うけど。本当の生き方をするんだったら、この事実に根ざしていなければ、生きてる意味が無いじゃないですか。

机上の空論て言うけども、頭の中で、ああだとかこうだ、ああだったとかこうだったとかって言う事で人生が済むなら、寝床の中へ入って一日寝て考えてりゃ良い事じゃん。ご飯も、ああお昼時だなあ、食べたらあんなに成るこんなに成るって言って、作らなくても済むじゃん。ねぇ。食べた様な事思ってりゃいいじゃんねぇ。味がした様な事、思ってればいいじゃんねぇ。ご飯が終わった様な事、考えてればいいじゃんね。そんなの人生じゃないもんね。

皆、実物を本当にそこで実践してやってるじゃん。それは因縁と言われる様に、一応このもの(自分を指す)一応ね、一人一人これだけのものがあるから、このもの(自己=身心)とこれ以外のものが、必ず一緒になって動くのを因縁と言います。時節因縁。それは各自、此処で、今、触れる以外に無い。この身心と言われる各自の持ってる身心と、そこで、この身心のある所で、今こうやって、これが触れてる証拠でしょう。こうやって。

そうすると、因縁だから、こう言う物(物を見せる)に触れると、触れた様になるし、こう言う物に(別の物を見せる)触れると、触れた様になるし、こうやって触れた物の様に、これが因縁によってきちっと、もうずれずに行くって言う事が、仏法と言われる法則です。人間がどんな事をしても犯す事の出来ないほど、はっきりしてる。ねぇ、簡単でしょう。

こういう物(紙を示す)を見せたら、こういう風に見えるし、こういうもの見せたらこう言う風に見える様になってるじゃん。絶対ずれないじゃん。気をつけてなければって要らん事じゃん。気を付けてなくてもこうやってりゃ必ずそうなる。それ位我儘な事が一つも無しにスムーズに生活してるって事が仏法の様子です。法です。ルール。

パン!ここで音がしたのと、パン!(別の場所を打つ)ここで音がしたの聞き分けなくても、皆さんが聞き分けなくても間違える事はない。ここで音がしたのと、ここで音がしたのが、ちゃんと違う様に聞こえるのが良いじゃない。パン!パン!そう言うものが皆、事実はそうやって人間の思慮分別の外です。

思慮分別に非ずって言うんだけど、思慮分別を超えている。超越してるって言う事です。それが非思量と言われる実物です。修行するのには、だから必ず実物でやる。じゃ自分の実物って何かったら、今、ここでこうやってる事以外にない。

何処行ったって、これ何時も話するんだけど、人間て何処に行ったって、このもの(自己の身心)抜きに生活しないんだよ。相手にしてるの、これだけ。(自分を示す)これが色んな所へ行くと、必ずその行った場所と一緒に成りながら、これが活動する。

その活動の中に、眼があるから、そこへ行くとそこの景色が、その通り見える様になってる。耳があるからそこで音がしてるのがその通り聞こえる様になってる。で香りがすると、そこで香りが嗅げる様になってる。それ全てこの身体でやってるものばかりです。生涯。生涯、一人一人この自分自身のこの身心の活動してる様子だけです。

それも丁寧に見ると、今、今そこで、この身心のある所で、今活動してる以外の事は一切無い。昨日の事を思い出すんだって、ここで今やる。明日の事を考えるんだって、今此処でやる。それ位何処にも行かない。

さっきもちょっと面白い話があったから取り上げてみるんだけども、人間の中でですね、あれもこれもって色んな事が浮かばって、もう大変て、言う人が例え居たらね、よく見てみると、自分の中でどう言う事が行われてるかって言うと、あれもこれも一杯って言う、そう言う思いがただ出ただけなんです。あれもこれもって一杯あるんじゃないんですよ。

あれもこれもって、言葉だってそうでしょ。あれもこれも一杯ある訳じゃない。あれもって言うと、あれもって言う事が其処に言葉として出てくるだけであって、これを人間はすぐ、瞬時のうちに、こんな風に(一杯の仕草)思うんだよ。そうやって使って来た。
昨日あそこであの人にって思い出すと、昨日あそこであの人にって言う様な事を、本当はただ言葉の上でも、昨日って言う言葉が

ふっと浮かんで、あそこでって言う言葉がふっと浮かんで、あの人がってここで(頭)で浮かんでるだけですよ。何も無いんだよ。思いって、それだけ。実物、非思量って。思いの内容はそう言う風に出来てる。

だからどんな事が出て来ても、そのままほっといて大丈夫なの。扱う用がない。それを処理する用がない。しかもですね、思った時だけしかその思いは無いから、思ってない時は何処探したって無いんだよ。で、もっと丁寧に見てみると、出てきた思いがずーっと止まずに、ずーっとあるって言う人なんか聞いた言がない。無理なんだよ。次の思いが出る時には、間違いなく前の事が消えちゃってる。

もの見るんだってそうでしょう。さっき見てたものが、次見る時にくっついて来ない様になってる。音を聞くんだって、さっき聞いた音が次ぎ聞く時について来ない様になってる。皆そう言う風に活動してる実物は。だけど人間は何処で思い間違いをするかって言うと、そんな事言ったってって、思うからね。思うと思った時に、さっきああ言う音したじゃない、さっきああ言う事があったじゃないって。

それはその時に、そう言う思いが自分の中でふっと浮かぶんだから、そうすると、その思いに騙されて、残ってるって言う風に思うんだよ。その時に。やってる事はその時そう言う思いが出ただけ。だから知らないと、この思いを、どうしたら静かになるとか、出ない様になるとか、邪魔にならない様に早く片付けるにどうしたら良いとか、そう言う事を又人間は思うんだよ。で何処まで行っても、思量の中から出ない。これでは修行にならないでしょう。本物がどうなってるかって事に触れないんだもん、これでは。本物に触れる為には、考え方でない、実物にこう触れると、いきなり成る程ってなるじゃん。

ゴトゴトゴトゴト(電車の音)ゴトゴトゴトゴト考える用がないじゃん。あれとこれが違うって、パン!あっち、今音がしたのと、パン!こっちの音がしてるの違うって、考えてやっと分かるのかしら。そんな頓馬な人は居ないんだよ。皆もっと素晴らしい出来栄えなの。自分の事だから、そう言う事がはっきりすると、楽になるでしょう。力も付くでしょう。安心もするでしょう。そう言う事が仏道の在り様です。だから皆さんと一緒に勉強する訳じゃん、自分の事を、本当に。

そこでですね、続き、「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、」そりゃ修行するのに、今申し上げた様に、実物そのものに拠らなければ、実物そのものがどうなってるかって言う事、はっきりする訳がないから、ねえ。間違いなくその事を知りたかったら、その事に用があるのでしょう。そう言う事ですね。必ず、「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」そこまでがそう言う事じゃない。

ところが人間は何か事があるとですね、その事が気になり始めるとですね、その気になった思いを相手にして真実を探す癖があるじゃない。それじゃ駄目なんだよ。もう一度色んな事思う事じゃなくて、真実がどうなってるかって言う時、真実に目を向けないと駄目なんです。そうすると、ものがはっきりする。

料理作って味わった時に、どうも味がとかって色々問題になった時に、もうその作った料理はほっといてですね、その思ってる事だけを相手にしてですね、どうするんですか。そんな事はないのでしょ。そのちゃんともう一回こうやって味見してみるんでしょう。そうすると、どうなってるかがはっきりするのでしょう、これが事実だから。で、自分の考え方や思いが付いている色んな見方してたもの止めて、ただ素直にその頂いたものの味がしてるだけで、こうやってやる様にすると、ものがどんな味がしてるかがはっきりするじゃん。

それ人間の言葉だってそうでしょう。今聞いたけども、何だかよく分からないって言うんだけども、よく分からないって言う時には、必ず自分の中で聞いたものに対して、ふっと思いが起きるんですねぇ。その思いを相手にすると、分からないって言う風になってる。だけど、もう一回テープなんかとってあれば、聞き直してみると、あれそんな風に喋ってたんだって思う位、自分がちゃんと聞いたと思う事と、本当に喋ってる内容が違うじゃん。

だから皆さんが普段人と話をする時に、自分の思いを入れずに、ひたすら相手の喋っている通りに、こうやって居てみるって言う事が修行になる。そうすると、それを段々やると、そうやって生活してると腹を立てる対象がないんだよ、聞いてる時に。頭にくるって言う事がない。頭にくるって言う時は、必ず聞いたものを自分で分別、判断したものが付いた時にやられるだけ。振り返って、皆さん自分の事だから、振り返って見て下さい。どう言う事が行われたか。

言葉に問題があったって言う事はないでしょう。頭に来たって言う位、頭に来るんでしょう。言葉に来るんじゃないんです。言った言葉に問題がある訳ないじゃん。ねえ。あいつあんな事したって。やった事に用があるんじゃなくて、それを認めた自分の捉え方が気になってしょうがないのでしょう、ね。そう言うものです。

だから必ず、この修行をする時には、「不思量底を思量するには、」考えてないって言うと、考え方を離れるってどう言う事だって言う風に勉強する時には、この非思量を用いる。考え方の付いてない、考え方の一つも付いてない事実に学ぶと言う事じゃん。事実には、何回も申し上げるけど、人間の考え方は一つも付いたものが無い。だからどんなものが其処にあっても、邪魔にはならないじゃん。邪魔にするのは人間の見方だから。

見解は誰か他人が起こした事が問題になるのではない。必ず自分の中に起こしたものが自分で気になるだけです。それに対して。そうすると、蹴飛ばしたりなんかする様になる。

「非思量にたれあり、たれ我を保任す。」この事実って言うものはどう言う風になってるかって言う事でしょう。「非思量にたれあり、」これ自分の様子に間違いないんでしょう、非思量って。他の人の様子じゃないでしょう。こうやって生活して、考え方をつけていない在り様って。皆誰しもが、自分自身のの在り様として、根底にそう言うもので生活してるんでしょう。

先ほど来申し上げた様に、生涯、生涯ですよ、人間はこの自分だと思ってるこの身心の、これ一つで、このものの活動だけなんですよ、最初から。だからこう言う風なもの読んだ時に、「非思量にたれあり、たれ我を保任す。」って言う風になってるのは、それ位何処にも行かないほどちゃんとしてるって言う事じゃないですか。この非思量が、自分の上に。どっかへ尋ねて行かなきゃならない、探して来なきゃ得られない様なものじゃない、最初から。

そりゃ生れ落ちた頃から、ずーっとそう言う生活をして来て、そう言う生活の時には、自分で認識をして知るって言う事がまだ育ってないから、この通り非思量のまま、ずーっと生活して来た。で、生活の方はそのままずーっと生活してるんだけど、その上に認識作用が起きて来たもんだから、その内容をちらっと見て、ああ、ああなってるって見る様になった。そこから事実から離れる様になっただけです。

事実と言うものは、ああ成ってるって言う風に眺める必要の無いものです。自分の事実だから。そうやって坐る時も自分の真相そのものに、こうやって、自分の真実の様子そのものに、こうやって親しく居るって言う事が、坐禅をしてる時の様子です。坐禅するってそう言う事を坐ってしてます。不知最も親切とも示されています。親しいと言う事は、自他の区別が無いのです。

「兀々地たとひ我なりとも、」って、これいいでしょう。間違いなく坐ってる事は自分の様子に違いないって言う事で良いでしょう。「思量のみにあらず、」だから皆さんが考える事が中心だと思ってるけど、「思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。」本当に坐る時、ただ坐ってる様子がそのままあるだけだって言ってます。それが坐ってると言う事です。本当に。坐ってる時に坐ってる様子が本当にあるって言う事が、坐るって言う事でしょう。それ以外の事やってたら、それは坐ってる事じゃない事やってる訳でしょう。

あの電車もああやって、音でも、電車の音を本当に聞くんだったら、あの電車の音がしてるだけの音がしてるのが、正しく聞いてる時の事でしょう。それ以外の事を交えて聞くって言う事は、電車の音をそのものを聞くと言う事にならないでしょう。ね。じゃどうしたらそのものだけが聞こえるかって言って、こうやってると、何もしないと、そのものだけがちゃんとその通り聞こえる様になってる。他の音でもそうでしょう。一々皆、その音に他の音を交えない。音も他の音と混同しない様に出来てます。そう言う事です。

「兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。」言われてみれば、そう言う風に、その時にまじりっけもなく、何も無くその音がその通り聞こえてるって事は一応理解できるんだけども、理解は出来るんだけど、本当に音を聞いてる時に、音を対象物として捉えると言う事はないのでしょう、と言うのですよね。「兀々地たとひ兀々地なりとも、いかでか兀々地を思量せん。」そのものがそのものを見るって言う事は無い。そのものがそのものを聞くと言う事も出来ない。ね。

いいですか。音を出しますが、パン!(扇子で畳を打つ)この音が、この音がですね、パン!この音がこの音を聞くと言う事は無いでしょう。(音がですか。)音自体が、このしてる音自体が、自分でって言っていいかな。音が音を聞くって言う事は無いでしょう。そう言う事。

坐ってる時、だから自分の坐ってる事があるには違いないんだけども、本当に坐るって言う事は、今こうやって坐ってる、ああ、ちゃんとそうなってるって、それは坐ってるんじゃない。考えてる。自分が坐ってる様子を此処に置いといて、外に自分を置いて、自分を自分で観察してる様な坐り方をしてるって言う事じゃん。本当は変じゃないですか。変ですよ。

お茶一杯飲んでても、其処には人は顔を出さないよ。(おいしいなって言うのは何ですか。)それは飲んだ物に対する自分の見解。そんなもの付いて、入ってこないもん。美味しいなんて、そんな風にはならない。自分の目は自分に付いてるんだけども、目が自分の目を見るって言う事は無いとかって言う、そう言う表現でやれば分かりやすいかもしれない。

一番親しく居るって言う時には、そのものと一緒になってるから、一緒になっている時には、眺める物がおのずから無くなる。眺める物が無いんだけども、疑うって事は無い。これ本当に自分が見てるだろうかって、疑う必要無いでしょう。

写真撮る人がいるんだけどね、写真撮る人が、大概こうやってカメラを向けて撮ってる場合はですね、どの写真を焼増してみてもですね、自分が写ってない。ね。でもこうやって並べたら、あ、僕が取った写真だってすぐわかる。居ないんだよ。私は。居ないんだけど、写真見たら、間違いなく私が撮った写真だってわかる。他の人の撮ったのじゃないって事が分かる。不思議だね。自分が見えなくても。
だってこうやって物見てて、これ私が間違いなく見てるって言わなくたって良い様になってる訳でしょ。信じなければって用ないでしょ。そう言う事です、ね。「兀々地いかでか兀々地を思量せん。」本当に坐ってる時には、内容はそう言う風になってる。信じる必要がない。それを眺めて、点検してどうなってるって言う様な事じゃなくて、今、活動してるそのままでいる。それが全部自分の内容だから、最初から。

「兀々地仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。」これ位人間の考えで取り扱ってる範囲と桁違いだって言う事だね。仏量だから、お悟りを開くと、そう言う事が分かるんじゃないかとか思ってる人がいるけど、お悟りを開いて分かる程度の量じゃない。法量と言う、仏法の真実の様子はそうなってるって言う様な事が、一応理解出来るんだけども、遥かにそう言う人間が、真実はこうなってる、ああなってる言う様な思い慮ってる内容を超えています。

こういう事がずーっと書いてある。会量、会量は、一応理解が出きた、はっきりしたと言う様な事があるけども、そのはっきりした事だって、もうこれで終わりって言う様な内容で生きてる訳じゃない。一日中、眼だってそうでしょう。どの位物をこう見てるか分からん位、生活してますよ。こんな事が書かれてる。

「薬山かくのごとく単伝すること」って言うのは、この主人公の薬山弘道大師と言う方がですね、坐禅についてお話、示されている内容です。坐禅て言うものはこう言う事だって、示されてる。『兀々地思量什麼』『思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)』またそれに対して、『不思量底如何思量』と問われたから、『非思量』と答えられた。こう言う風な内容の事をここで「薬山かくのごとく単伝すること」と言う事ですね。それを詳しくさっき、昨日触れてみた内容。

エー単伝て言うのはですね。こう言う風な事を言います。パン!そのものがそのものを伝える。パン!そのものがそのものを伝える。皆そう言う風になってます。他所のものが、このものの様子を伝えるって言う事はない。どんなものでも。必ず、そのものがそのものを伝える様になってる。それ単伝と言います。だから間違いが起きない。絶対に間違いが起きない。そのものがそのものを伝える。他のものを持ってきてそのものを伝えるって言う事はない。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント